第7話 天外という老人

 蛇妖の長の頭部の両端で妖しく輝く満月の様な金色の瞳の中に、銀狼の姿が映っていた。向けられた視線に込められた力は、物理的な圧力さえ伴って銀狼の体を絡め取っている。

 苦いものを隠さず、銀狼はかつて一度だけ対峙した事のある蛇妖の長の名を口にした。


紅牙こうが……」


 名を呼ばれた事に応じてか、ぴったりと閉ざされていた蛇妖の口がゆるゆると開かれた。蛇の形をした闇に亀裂が走り、遮られていた赤い光が零れ出しかのようであった。

 蛇妖の勇ましい名の由来は開かれた口の中にあった。名は体を表すかの如く、弧を描いて長く伸びた牙は、白ではなく紅色に染まっていたのだ。また牙は四本のみならずびっしりと二列になって生え揃っている。

 四本の長い牙の他は、小さな牙が数え切れぬほど生え揃い、二列に並んでいる。一噛みでどんな生き物も屑肉に変えてしまう無数の牙もまた、肌から零れたばかりの血の色に輝いていた。

 一千年ばかりの間、食い殺してきた獲物の血によって濡れていた為に紅色に染まったのだという話だ。


「久しいな、銀色の。前に貴様と会ったのは何時の事であったか」


 耳元に雷が落ちたかと錯覚するほどの声量であった。しかも、女の声だ。人間で言えば、年の頃四十前後。血を吸って咲いた大輪の牡丹を連想する妖艶な響きに、すでに万年以上を生き、並みならぬ知性と同族ならざるものでも平伏する事を強いる威厳を伴っている。

 確かな理性を感じさせる金色の瞳であったが、この雌の蛇妖が内に秘める凶暴性、他の生命に対する悪意の深さは大蛇をはるかに上回っている事を、銀狼は知っていた。

 銀狼が身を強張らせている事を見抜いた紅牙が小さく笑う。銀狼への悪意がまるで感じられぬ笑い声であったが、だからこそ銀狼は警戒の意識を高めた。悪意の念を完璧に隠し通せる狡猾さの表れでしかない。


「そう固くなるな、銀色の。貴様の同類を食ったばかりでな。腹は空いておらぬのよ」


「嘘も大概にしろ。貴様らの腹が満ちる事が無いのは、私とて知っている」


「狼共が食われた事に怒りはしないのか?」


「ここの連中とは姿が似ていると言うだけの事。同胞と思った事はない」


「つれない事を言うのう。狼共の群れを率いる雌、貴様に執心している様子ぞ。確かに貴様と番になれば、生まれてくる子は、このわしでも想像がつかぬ大妖となるであろうよ。成長すればこの森を制する初めての者となるやもしれぬ。貴様と子を成す事に拘るのも、それが理由であろうな」


「身に纏うものが毛と鱗の違いはあれども雌と雌。心は分かるとでも言うつもりか」


「くはは、言う様になったな、銀色の。貴様がそのような口を利くとは、変われば変わるもの。その背に負うた人の子の所為かな」


「人の子の肉が貴様らにとって美味な事は承知している。しかし、我が背の子に怪我の一つでも負わせれば、いや、悪意の一つでも向けてみろ。私は貴様らが全て息絶えるまでこの牙と爪を振るう事を止めぬ。蛇の一族がこの森から絶える時であると肝に命じるがいい」


 冬の厳しい冷たさに凍りついた湖面の様に静かな銀狼の声に、紅牙の出現に凍りついた空気が、今一度凍り付く。

 銀狼との会話を楽しむ余裕を持っていた紅牙もまた、見下ろしていた筈の銀狼の姿が一回りも二回りも大きく見えていた。

 際限なく膨れ上がる銀狼の妖気と、蓋を開けた溶鉱炉の様な熱気を孕む気迫が、銀狼の姿を大きく見せているのだ。

 銀狼を敵にする覚悟を固めるまで、決して触れてはならぬ存在が、ちっぽけな人間の子である事を紅牙は察する。それは銀狼にとって唯一の弱点であると同時に、こちらの首を落とされかねぬ諸刃の剣でもあるのだ。

 人質という手段は、この森の倫理では何ら意味を成さぬ行為であったが、銀狼に対する限りにおいては、悪手とも好手ともなりうるようだ、と紅牙は心中で呟く。

紅牙が初めて音を立てた。しゅう、とかすかに息を吐いたのである。薄氷の上を歩くような緊張に満ちていた場が、かすかに緩んだ。紅牙の放っていた恫喝の妖気が徐々に薄らいでゆく。訝しんだ銀狼が口を開いた。背後で固まっている大蛇の事など既に意識から外れている。


「何を考えている」


「さて、な。貴様がどうしてこの森へ来たのか、理由は何かと考えただけよ。た

だ、安心するがいい。貴様と雌雄を決するのは、今ではない」


「……」


 蛇妖以外の多数の妖気が驚くべき速さで接近して来ている。銀狼だけでなく紅牙も気付いているだろう。だが、それだけでこの蛇妖が背を向けるとは考えられず、銀狼の背の毛はいまだ逆立ったままだ。


「次に会う時には、貴様の肉を食いたいものだ」


 無防備に背を向け紅牙が地を這って遠ざかってゆく。銀狼の爪によって血塗れになった大蛇を、一度も振り返らなかった。おそらく紅牙にとって子か孫であろうが、同族に対してもこのような冷淡な対応をするのが、この森では当たり前なのである。

 呆気なく感じられる去り方をいまひとつ信じられず、銀狼は紅牙の姿が見えなくなっても、しばらく臨戦態勢を解かずにいた。

 銀狼の警戒の度合いを表す逆立った毛がようやく元に戻り始めたのは、背後で固まっていた大蛇が、大きな地響きを立てて横倒れになってからであった。

 一族の中では高位に位置する大蛇でさえ、緊張に身を凍らせねばならぬ存在である紅牙が姿を見せなかったら、とっくに倒れていた所だろう。銀狼によって生命を死へと追い込まれかけた事よりも、長の出現による異様な緊張がそれを大蛇に許さずにいたのだ。

 途方もない重量が音を立てて崩れる振動と衝撃に、銀狼の背のひながびくりと肩を震わせた。そろりと紙縒りのように細く息を吐いた銀狼は、すぐさま移動を再開した。

 蛇の一族が遠ざかるのとは逆に、接近してくる気配はもうすぐそこまで迫っている、移動速度からすれば、鳥か狼の一族であろう。紅牙との対峙で多大な緊張を強いられた銀狼としては、どちらとも出会いたくはなかった。である以上、銀狼の判断は早かった。

 銀狼と紅牙が対峙した場を去って、そう時を置かずして接近していた多数の妖気の主たちが姿を見せた。銀狼が予測した妖魔達の内の一方、狼の一族である。銀狼と比べれば尋常な体躯の狼共だ。

 ただ、それは一族の中でも年若いもので、絶えず流血と破壊と死が溢れているこの森で長い時を生きたものは、狼の範疇に収まらぬ巨躯へと成長している。

 多くの狼は灰色の毛を持ち、毛の先端に行くにつれて白みを帯びて行く。所々に斑点のように黒い毛や赤い毛、白い毛が生えているものもいたが、同じ血を分けあった同族である事は一目で分かる程度に似通った顔立ちをしている。

 その中でもひときわ大きな体の雌狼が姿を見せた。すでに息絶えた大蛇の周囲を固めていた他の狼達が、自分達の長の為に左右に退いて道を開ける。

 四肢の付け根に茶色の毛が生えた灰色の装いの狼であった。銀狼に勝るとも劣らぬ威容で、三角形の耳は細長く、先端に行くにつれて夜の空のように黒くなる。毛皮と同じ灰色の瞳は、体中の血を垂れ流して息絶えた大蛇の姿を、愉快そうに見つめている。

 雌ながらに長を務める狗遠(くおん)だ。

 頑健な筈の大蛇の鱗が幾百枚も切り裂かれているのをじっくりと眺め、また切り裂かれた箇所に鼻を近づけて、そこに残る狼の臭いに口の端を吊り上げた。彼女の良く知る臭いだ。

 大蛇の無惨な姿に反し、周囲に銀狼の残り香はあれども血の臭いはない。つまりは、銀狼が一方的に大蛇を屠ったと言う事。自分の見る目の確かさが証明され、狗遠は喉の奥で機嫌よく唸り声を上げた。

 しかし気になるのは、どういうわけなのか、大蛇と銀狼の匂いの中に人間の――しかも、幼い女子の――匂いが混じっている事だ。

 ごく稀に森に迷い込む人間の血肉は、他の妖魔や獣達のそれよりも美味で、一族の者達のみならず、妖魔であるならこぞって食べようとする。

 もっとも、山の内側に足を踏み入れる事が死を意味すると悟り、人間が滅多に姿を見せなくなってから随分と経っている。

 時折、山の者達が秘薬の材料となる植物や鉱物を採りに姿を見せる程度だ。銀狼が食う為に攫ってきたのだろうか?

 いや、そもそも銀狼がこの森に姿を見せることそれ自体が珍しい。自分がしつこく子種が欲しいと追い回した事と、他の妖魔達の存在を嫌って山の向こう側で暮らしているはず。

 まさか、自分の願いを叶える為に出向いてきたわけでもあるまい。であるなら、この場から去る必要が無い。

 銀色のは一体何を考えているのか、と狗遠が思案していると、異母弟の飢刃丸が声をかけてきた。

 陰鬱な光を瞳に宿した赤毛の狼だ。

 左の耳が半ばから消失しているのは、初めて銀狼と出会った時に挑みかかり、返り討ちにあった名残である。傷口を侵した銀狼の妖気の影響で、一向に治る気配がない。

 それでも、狗音とほぼ同じ巨大な体を持ち、速力、跳躍力、持久力をはじめ身体能力と戦闘能力は一族の中でも狗遠に次ぐ。

 この異母弟が時折胡乱な目で自分を見ている事を、狗遠は知っていたが、あえて放っておいた。銀狼の血を一族に入れる事に真っ先に反対したのも、飢刃丸だ。


「姉者、皆が待っているぞ」


 こちらの気が滅入る様な暗い声である。暗闇の中に生まれ落ちて光を一切知らずに育っても、もう少しましな声が出せるだろうに。


「ん、そうか。好きにするよう伝えろ」


「おう」


 長の許しが出るのをまだかまだか、と待っていた狼達が一斉に動いた。長く大地に伸びている大蛇の死骸に一斉に牙を突き立てて、その肉を毟ってゆく。動きに支障が出ぬ程度に腹に収め、残りは口に咥えて巣で待つ一族の者達の下へと運ぶためだ。

 腹に子を宿した雌や半人前にもならぬ子供らを守っている者達の分だ。大蛇ほどの巨大な蛇妖なら当面食いつなぐ事が出来よう。

 銀狼は一切の食物を必要としない妖魔だから、大蛇の死肉に口をつけた様子はない。そこも狗遠が気に入っている所だ。一族に迎え入れたとしても、働き手は増えても食いぶちが増えるわけではないのである。

 銀狼なら十頭分位の働きはしてくれるだろうし、産まれてくる子供もおそらくは、途方もなく強力な妖魔となるに違いない。狗遠にとって、銀狼以外の雄と子を成す事など到底考えられない事だった。

 次々と肉を毟られて小さくなってゆく大蛇の死骸を見つめていた狗遠は、上空に小さな黒い点が姿を見せ始めた事に気づき、緩く弧を描く尾をピンと伸ばした。狗遠に続いて何頭かの狼達が低い唸り声を上げ、仲間達に警戒を促す。

 蛇妖の襲撃を受けて、七頭の仲間を失った彼女らがここへ戻ってきたのは、こちらを散々にてこずらせた大蛇の苦痛の悲鳴が聞こえてきた事が大きい。復讐の念に燃える同胞達を宥めすかして、一時撤退し体勢を立て直し、反撃を試みる為に戻ってきたのだ。

 いざ舞い戻ってみれば蛇妖族の姿は息絶えた大蛇を除いて既になく、思わぬ収穫に仲間達は喜びの声を上げたが、大蛇の死肉にありつこうとする者は彼らばかりではなかった。


「姉者」


「分かっている。鳥共か。蛇がこの場を去っていてよかった」


「どうする?」


「どうせ私達の食べ残しを漁るだけだ。気にするな。空を飛ばれていては相手をするのも面倒。さっさとこの場を去るぞ」


「しかし」


「今日はやけに食い下がるな、飢刃丸」


「……すまぬ」


「なに、お前も群れの事を考えての事だろう。怒ってはいない」


 揶揄する様に笑う異母姉を飢刃丸はじっと見つめていた。血を分けた姉弟でありながら、そこに肉親の情はわずかも存在していないようであった。



 きつく瞼を閉じていたひなに、やや疲れた調子の銀狼の声が掛けられたのは、銀狼が疾走を再開してしばらく後の事だった。恐る恐る目を開いたひなは、銀狼に勧められるままに、背から降りた。

 森の中の広場だ。細い灌木の上に腰を下ろし、ひなは大きく息を吐いてからまた吸った。銀狼の妖気による保護があったとはいえ、紅牙級の妖魔の妖気を浴びて、鉛の様な疲労が全身に溜まっている。

 やや青白く変わったひなの顔色を見て、銀狼は森に来る判断をした事は過ちだったかと後悔した。

 銀狼は、紅牙の妖気によって氷の様に冷たくなっているひなの頬に鼻先を寄せた。思いやりの込められた仕草とくすぐったい感触に、ひなが小さく笑う。


「すぐに妖魔除けの結界の範囲に入る。そこまでいけば安心だ。もう少し、頑張れるな?」


「はい。あの、銀狼様は大丈夫ですか? すごく疲れているように見えます」


「確かに疲れた。最初の蛇はともかくな、二匹目の蛇はこの森でも特に厄介な相手だったんだよ。もう二度と会いたくない。アイツと対峙するのはもう嫌だ」


「銀狼様でも苦手な相手っているのですね」


 なんとなく感心しているらしいひなに、銀狼は苦笑した。どうもひなの中で、自分は苦手な事や弱点の無い完璧な存在の様に思われているらしい。

 ひなにとって、銀狼は辛く苦しく惨めな生活を一変させた極めて大きな存在である。銀狼の方は自分が、ひなにとってそれほどまで大きな存在だと言う自覚がないようだ。

 くいと顔を上げて、銀狼が先を促した。ひなは背から降りたまま歩きだす。それでも右手はずっと銀狼の脇腹の毛を握っている。闇に閉ざされた道の中を、迷子にならないように親の手を強く握る子供のようだ。

 ふと、ひなが顔を上げた。ざっという枝葉の揺れる音と、自分にかかった影に気づいたのだ。


「なんでしょう、お猿さんかしら?」


 不思議そうに木々を見上げていたひなは、銀狼の鼻先に押されて木陰に押し込まれた。


「ぎ、銀狼様?」


「喋るな。息も小さく」


 ひなはこくこくと頷く。銀狼の声に混じる危険な響きに気づいたからだ。腹這いになった銀狼の傍らにしゃがみ込み、枝から枝へと飛び移る影達が通り過ぎるのを待つ。

 さらに幾枚かの新緑の葉が舞散り、動く猿の影はなくなった。

 ひなはおそるおそる銀狼の横顔を見る。白銀の獣の横顔から警戒の色は抜けていたが、新たに訝しげな表情を浮かべていた。


「血の臭いがする。怪我をしているようだが、年がら年中殺し合っているから不思議ではないが、随分数が多いな。大敗したという事か……」


「いつも傷つけ合っているのですか?」


「いつもだ。だから私の性には合わなかった。しかし、猿共、相当な数の仲間を殺されたようだな。これは森の勢力図が変わるかな」


「……銀狼様」


「ああ、済まない。さ、行こうか」


 とてとてと、六つの足音がしばらく草を踏む音が続いた。小鳥の囀りや木々の揺れる音は耳に心地よい音色を奏でている。鼻の粘膜を狂わせる猛烈な臭気も、周囲には立ち込めてはおらず、澄んだ空気だけが存在している。

 ひなは、暮らし始めた山の中とどこに違いがあるか、確かめるようにきょろきょろと周囲を観察している。銀狼はさほど興味がないようで、進む方向にだけ視線を向けている。


「背の高い木ばっかりですね。生き物も全部大きいのですか?」


「全部とは言わないが、大抵大きいな。山菜や果実の類もやたら巨大だし、外にはない独特のものも多い。獣も外側の森のより二回りは大きいのばかりだ。私もこちらから外へと移り住んだしね」


「銀狼様の故郷みたいなものですか」


「あんまり故郷とは思いたくないな。良い思い出が全くない。周りは腹を空かした

凶暴な妖魔ばかりだったし、変な雌の狼には追いかけ回されたし」


「必ずしも良い思い出がある場所が、故郷というわけではないと思いますよ」


「ひなは時々大人びるなあ」


 不幸な境遇であったひなの言葉だけに、相応の説得力があったから、銀狼はう~むと唸りつつ、感心した口調だ。

 別に褒められたわけではないだろうが、銀狼の言葉にひなははにかんだ笑いを見せる。一匹と一人はどちらとも抜けた所というか変わった所があり、うまい具合にそれらが噛み合って、お互いの仲を良好なものしているようだ。

 妖魔の存在を排除する結界内に足を踏み入れるとの同時に、かすかに銀狼の体に、上から押さえつけられるような重圧を感じた。銀狼には効果を及ぼさぬように調整された筈だが、それでも若干の影響は残っているようだ。

 手を抜いたな、と銀狼は苛立ちを噛み殺した。

 あるいは嫌がらせの可能性も捨てきれない。自称仙人の老人は、なんとも人を食った性格をしていて、会話すると言う事自体の経験に乏しい銀狼は、会う度に言いくるめられて損をしてきた。その為に、銀狼は苦手な相手として認識している。

 その相手にひなの事を任せるというのは、躊躇いを覚えないでもなかったが、正直なところ、ここまで苦労と危険を重ねてきた以上、何の収穫も無しに帰るのは癪だ。

 狭縊な道を一人と一匹は仲良く歩いて行き、ほどなくしてあの海と見間違えそうなくらいに巨大な湖が目の前に広がる。水底まで見通せる透き通った湖の美しさは、言葉に表し難いものであった。

 燃え盛る太陽や自然ならざる形の針山、湖を囲む木々の緑を湖面が鏡の様に映して輝かせ、この世のものと思えぬ絶景の相を成している。

 感動のあまりに言葉の出ないひなの様子に、銀狼は連れてきて良かったな、と先程までの後悔の念はどこかへと放り捨てていた。頭の造りが単純な狼である。


「おぉ~~~」


「大きいだろう?」


「おっきいです。凄いです! こんなに大きいのに、海じゃないんですよね」


「そうだよ。といっても、私は海を見た事が無いから分からないけれどね」


「うわぁ、こんなに大きい湖があるなら山が潤っているのも当たり前かもしれないですね」


「かもしれないな。さ、ついておいで」


「あ、はい」


 銀狼の全身から緊張の気配が去っているのを感じたから、ひなの方も落ち着いていて、気軽に散歩に来たような雰囲気である。流石に結界外部の妖魔の咆哮や唸り声は聞こえてくるが、そればかりはどうしようもない。

 大人しく銀狼の後に付いてくるかと思われたひなであったが、引いては押し寄せる波に心惹かれたようで、ちょっと足を止めて手早く素足になるや、ちゃぷちゃぷと波を掻きわける音を立てて、湖に足を入れて遊び始めた。

 銀狼は草履を脱いで水と戯れはじめたひなの様子に、注意するとか先を急かす声をかける前に、目元を柔和なものにした。愛娘を見守る慈父の眼差しそのものである。危うく銀狼は今回湖を目指した理由を忘れかけたほどだ。

 ひなは水遊びが楽しくなってきたようで、きゃっきゃっ、と笑い声が弾みだしている銀狼はこの上ないくらい和やかな気持ちにどっぷり沈みこんだが、首を振ってかろうじて意思を取り戻した。

 ひなにとって銀狼が大きく世界を変えた存在であるのと同じかそれ以上に、銀狼にとってひなの存在は、極めて重要なものとなり、行動の優先順位の第一に置かれつつあるようだ。

 銀狼は自分自身の面倒を見る必要がほとんどない為か、手の掛かる――言ってしまえば、守らなければ生きていけないような弱者である――ひなの事を、自分よりも上の優先順位に置ける余裕があるのも、大きな理由だろう


「ひな、遊ぶのはまた今度にしなさい」


 ようやく、銀狼はひなに声をかけた。もっとひなが楽しそうにしている姿を見たいという思いに打ち勝つのには、大変な労力が必要だった。


「すみません、つい」


「もっと時間のあるときにしような」


「また遊びに来られるでしょうか?」


「ああ、今の暮らしに慣れれば、もっと余裕も出るだろうしね。それに、ひなは畑仕事ばかりで可哀そうだなと思っていた。たまには遊ばせてあげたいと常々思っていたのだ」


「可哀そうだなんてそんな、銀狼様も手伝ってくさっているじゃないですか。畑仕事だって村にいた時よりもずっと楽なんですから」


「それならいいが、私に遠慮する必要はないのだから、なにか困っている事があったらどんどん言うんだよ。私には君の面倒を見ると決めた責任もあるし、ひなに何か頼られたりする事やお願いされるのが私にとっては、どういうわけでか嬉しいのだ」


「ふふ、ありがとうございます」


 腰帯に挟んでいた手拭いで手早く濡れた足を拭いて、ひなは草履を履き直した。再び歩き出してすぐ、銀狼が目的のものを見つけて顔を上げる。

 水辺に接する木々に隠れる様にして、小さな小屋が姿を覗かせている。遠目に見ても壁に隙間が多く、天井も同じような調子なら雨漏りはさぞ盛大だろう。


「ぼろぼろだろう?」


「ぼろぼろです。こんな所に人が?」


「妖魔だらけの森で生きる様な変人だ。あまりひなの常識で考えない方がいいぞ」


 足音一つ立てず小屋の前まで銀狼が歩き、右の前肢をもち上げてどんどんと、戸を荒っぽく叩いた。返事があるに決まっていると確信している様子だ。しばらく戸を叩く音が続いた。

 しつこいくらいに戸を叩いていると、銀狼の背の辺りがちりちりとした。直感の告げる危険信号だ。これが、これまでそれなりに危険な目に遭遇してきた銀狼が、いまも五体満足で過ごせてきた大きな理由であった。

 咄嗟に身を屈めた銀狼の額を、無色の衝撃が軽くかすめて、数本の毛が千切れる。珍しく銀狼の喉から威嚇の唸り声が出た。戸の向こうから相手が姿を見せなくても、そのまま小屋の中に突入しそうな勢いだ。

 突然の事態に呆気に囚われていたひなは、ぽんと肩に手を置かれて、小さく悲鳴を上げた。ひなの悲鳴に雷光の速度で振り返る銀狼の目に、しなびた野菜か枯れ果てた木を連想させる老人の姿が映る。

 皺で出来ている様なしわくちゃの顔に、糸の様に細い両目と、こんもりと盛り上がった鷲鼻、口元は胸元まで伸ばされた真白い髭に覆われている。百歳どころか二百歳、三百歳にさえ見える。その癖、皺ばかりの皮膚には、老人斑や染みは一つもなく、蝋を縫ったみたいにつやつやと光輝いている。

 紫紺地の着物を赤色の帯で結んでおり、背筋は鋼でも通しているようにぴしりと伸びている。銀狼が会おうとしていた自称仙道の老人その人である。

 銀狼の知覚網に感知されず、ひなの背後まで接近していた事に、銀狼の眉間と鼻先に皺が寄った。つい先程まで――いや、今も老人の気配は小屋の中に感じられる。ということは小屋の中に気配を残しつつ、自分自身の気配は消して接近したのだろう。

 気配察知に関しては、内外の妖魔を合わせても屈指の精度を誇る銀狼の感覚を騙し切った事を意識しているのか、老人はにたにたと笑っている。ひなは困惑した表情で、噛み合わせた牙を剥く銀狼と、背後に何の前触れもなく姿を見せた老人の顔を交互に見つめている。


「そんなにしつこく戸を叩かんでも聞こえておるわいな。にしても、お前よう、どうして童なんぞ連れておる。しかもこんなに愛らしい娘っ子をよ」


 見た目を裏切る精気に満ちた声だった。一語一語に力が込められている。声だけで判断したら働き盛りの巨漢を思い描くだろう。ただ、仙人と言う割には声の中にそれらしい威厳や、品位、知性の響きは含まれていない。


「お前に紹介しようと思ったからだ」


 銀狼は憮然としていた。老人に出し抜かれた形である事に、不満らしい。負けず嫌いな性格というよりは、思考形態に子供っぽい所が残っているのだろう。


「食べる為では無い、か。お前さん、人間と違って獣らしく嘘はつかんからな。そこは信用してしんぜる。感謝せい」


「……とりあえず、ひなから離れろ。話はそれからだ」


「ひなというのか。名前も見た目も可愛いもんじゃて。わしは天外。この森に住む仙人崩れの爺じゃ」


「えっと、は、初めまして」


 如何にも好々爺然とした天外の笑みに、ひなは悪い人ではなさそうだと、本能的に感じた。それから、ちょこんと頭を下げる。

 その様子を、天外は長い髭をしごきながら笑みを浮かべて見守っていた。あるのかないのか分からないくらいに細い糸目に、どんな感情が宿っているのか、銀狼にも分からなかった。初孫を見る祖父の慈しみであるならば、なんの問題もないのだが……。


「で、なんでわしに紹介する必要がある? お前、外ん所に塒を決めたんだろうが。わざわざこの森に入る危険を冒してまで、なんでこのお嬢ちゃんをわしに会わせようなんぞと考えた」


「ひなの身は私が全力を尽くして守るつもりだが、万が一、という事もある。だから、ひなにも自分で自分の身を守れるように、手ほどきをして欲しいのだ」


「はあん、そこまでは頭が回ったわけか。わしに教えられる事と言ったら仙道の術と世の中の事ぞ。どれもこれも時間が必要だ。一朝一夕では身につかんぞ」


「無理に急がせるつもりはない。が、可能な限り早く教えろ」


「かかか、よくも上からそんな事を言えたもの。お前、性格が悪くなったな。まあ、暇つぶしにはなる。二人とも、お上がり、白湯くらいは出してやろうほどに」


 そう言うや、戸を開いて小屋の中に姿を消す天外の後を、ひなと銀狼が追って、闇に塗り潰されて中の様子が一切窺えない内部に入る。ふっと、意識が遠のくような酩酊感に、ひなが目を瞬くと、広がっていたのは小屋の外見からは想像もつかない光景だった。


「え、あ、あれ? ここ、さっきの小屋ですよね……」


「天外は無常館とか言っていたな」

「はあ」


 気の抜けたひなの返事は、無常館の高い天井の彼方へと吸い込まれた。一人と一匹が立っていたのは、果てしなく続く板張りの廊下の上であった。

 どこから差し込むとも分からぬ光に照らし出される床と壁には、小さな傷一つ、染み一つなく、まるで鏡のように磨き抜かれている。

 ひなの右手側にはどこまでも障子が続いており、張り替えたばかりの紙と糊の匂いがぷんと香ってくるようだ。背後を振り返ると銀狼と一緒に跨いだ小屋の戸があり、確かに自分達が足を踏み入れたのが、あのみすぼらしい小屋であると証明している。

 一歩足を踏み込んだ先に広がった別世界に、ひなは戸惑いを隠せない様子だ。傍らの銀狼は、すでに何度か経験しているようで、落ち着いている。

 とはいえ、先程天外の接近を察知できなかった不手際を気にしていて、全方向に対して警戒の意識を発している。たんぽぽの綿毛ひとつが風に乗って近づいて来ても、即座に探知するだろう。

 銀狼が歩きだしたので、ひなも草履を急いで脱いでその後に続くが、興味はすっかりこの不可思議な小屋の内部に移っていた。

 ひなが首をほとんど直角に曲げても見通せないほどに天井は高く、そのまま天まで通じているのではあるまいか。

 いつのまにか天外の姿は消え、前方の銀狼が確かな足取りで進んで行く廊下も、濃密な霧に閉ざされているように白く霞んで、果てが見えない。

 不安に駆られて背後を振り返ると、先程までは確かに存在していた小屋の入口が消失し、前方同様に白い光の中に紛れて何も見えなくなっている。

 ここでまた振り返ったら、銀狼の姿さえ消えている様な気がして、ひなは振り返る事が出来ず、その場にしゃがみ込みたい衝動を、必死に堪えた。

 ひなの不安を敏感に察知した銀狼が、動かしていた足を止めて振り返り、足が石に変わった様に動けずにいるひなの傍らへと歩み寄る。


「ひな、しっかり私の体を掴んでいなさい」


 こくん、とひなは可愛らしく小さく頷いて、これまでそうしてきたように、銀狼の柔らかな体毛を掴んだ。体毛を握るひなの手に込められた力の強さは、ひなの不安よりも銀狼への信頼を表していた。

 黒く光る板張りの廊下をひたすらに歩いた。全く同じ光景が延々と続き、時間の感覚は早々に麻痺したが、相当な距離を歩いた事は分かる。だのに、不思議と疲れはなく、ひなはこのままいくらでも、それこそ死ぬまで歩き続ける事が出来る様な気がしていた。

 廊下は必ずしも平坦ではなかった。わずかにそれと察する程度の傾斜のついた下り坂や登り坂を歩き、曲がり角を何度も何度も曲がりもした。その全てを同じ歩調で進み、あの小さな小屋の中とは思えぬ距離を進んでいると、ようやく銀狼が足を止めた。

 苛立っている様子はないから、この終わりの見えぬ彷徨が、天外の嫌がらせや悪戯ではないと分かっているのだろう。


「ここだな」


 と銀狼が左を向いて言うので、ひなもそちらに目をやれば、先程までは何もなかった壁に、いつの間にか戸があるではないか。瞬きをした間にか、それとも視線を外している間に、唐突に戸が形作られたとでもいうのだろうか。

 これも仙術と言うものなのかしら、とひなは特に気にしない事にした。


「入ってよいぞ。客を招いても恥ずかしくない程度に片付け終えた所よ」


 戸の奥から聞こえてきた天外の声に従って、銀狼が前肢を使って戸を開いた。器用なものだ。廊下同様にどこにも光源の見当たらぬ部屋だが、それでも光に満ち溢れ、視界は十分に確保されている。

 広い部屋だった。二十人が大の字になって寝転んでも互いの手足がぶつかる様な事はないだろう。広さはともかく、部屋の内装の珍妙さにひなの首が大きく捻られた。用途の分からない器具ばかりである。

 天外が座っている肘掛け付きの座椅子はともかくとして、天外の目の前に置かれている硝子張りの机や、棚の上に置かれている横長の長方形の箱、丸い円盤の様なものが嵌め込まれた箱、見た事もない材質の箪笥らしいものからなにから、見るもの全てが珍しい。

 板張りの床の上には何かの毛皮らしい絨毯が敷かれていて、ひなと銀狼の為の座布団が置かれている。銀狼はさっさとその座布団の上に座った。ひなは少しだけ躊躇を見せてから銀狼の右隣に座る。

 白湯くらいは出す、という言葉通りに一人と一匹の前には湯気を昇らせる湯のみが置かれている。天外の横には底の方が太い円筒形の物体が置かれていて、それから湯を注いだらしい。


「で、ひな嬢ちゃんにいきなり仙道の術を教えればいいのか? めんどくせえぞ。世界の理を悟って世俗の辛苦から解放されるなんてえ名目の為に、いろんな事を我慢させられるからな。あれが食べてえ、飲みてえ、あの人と恋仲になりてえ、綺麗なべべが着てえだの、いろんなものを我慢させられる。学んだ知識や技術、真理も他の人間に漏らしてはならんし、破れば厳罰に処される。半ば不老不死にはなるが、その永遠の生命を楽しむ手段が極めて乏しい。灰色の人生になりかねんぞ」


「仙道の教えや理念など要らないから術だけ教えろ」


 要点だけを述べる銀狼に、天外は面白げに顔を顰めた。


「くく、んなことしたら仙界の掟を破る事になるな。まあ、とっくに破門されておるわしだ。たいして気にはならんがなあ」


「対価を求めると言うのなら、出来得る限りのものを支払うぞ」


「ふーん。じゃあ、お前さんの肝を食わせろ。天地陰陽の気が集まって生まれたお前の肝を食えば、わしの神通力は天井知らずに高まるわな」


「ふむ。ひなの為になるのなら、別に構わん」


 なにげなく言われた言葉を理解したひなの顔が、凝然と固まるのに時間は要らなかった。

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