第6話 蛇

「なあ、銀色の」


 雨の降った翌日の事、風呂敷に包んだ乾飯を土産に持ってきた凛が、銀狼に唐突に話しかけた。昨日の雨でたっぷりと水気を含んだ地面を踏みながら、洗濯物を干しているひなを木陰で見ていた銀狼が、何だ、と隣に立っている凛に顔を向ける。


「お前がいればまずひなの身に危険が降りかかる事はないよな。大抵の妖魔よりお前の方が強いし」


「そうだな。数で来られても大丈夫だろう」


「とはいえ、だ。お前がいつも一緒にいられるとは限らないのも事実だろ?」


「なるべくそうしないようにはするつもりだが、そう言う事もあるだろうな」


 凛の言わんとしている事がいまいち分からず、銀狼は左耳だけぺたんと前に倒している。癖だろう。


「一応、自分で身を守れるようになにか教えてやったらどうだ。掟があるから山の民の武器は渡せないけど、刀や弓の扱い位ならあたしが教えてあげる事も出来るし」


「一理あるか」


 凛の言葉の正しさを考え、銀狼なりに神妙な顔で頷く。


「ところで凛よ」


「なんだよ」


 ぽりぽりと音を立てて、自分で持ってきた乾飯を食べている凛が、眉根を寄せて銀狼に聞き返す。


「なんでお前、こうしょっちゅうここに来るんだ? 鍛冶衆のお前に暇はなかろう

に。後、その乾飯、土産で持ってきたのなら自分で食べるな」


「……お前が心変わりしてひなを食ってしまわないか気になるんだよ。そんな事になってみろ。寝覚めが悪いったらありゃしない」


「そう言うものなのか? ひなはお前の血縁でも群れの仲間でもあるまいに」


「人間の中にはそういう奴もいるんだと覚えておけ」


「ああ、そういえば昔聞いた事があるぞ。お前のようなのをお人好しというのだな」


「勝手に言っていろ。あたしは戻るぞ」


 ふん、と荒い鼻息を一つ吐いて立ち上がり、ずかずかと歩き去ってゆく凛の背を、銀狼は不思議そうな目で見ていた。凛がどうしてあのような反応を示したのか、さっぱり理解できずにいた。

 だが、凛がひなの事を気に掛けていると言う事はなんとなく分かったから、その背中に声をかけた。


「凛、ひなの事を心配してくれてありがとう」


 凛は返事をしなかったが、代わりに右手を上げてひらひらと振った。以前であったなら、こんなぶっきらぼうな返事の一つさえ寄越さぬまま去っただろう。銀狼との間にひなの存在が介在する事で、凛の銀狼に対する態度も変化が見られ始めていた。

 凛の姿が濃い緑の彼方に消えてから、銀狼は空を見上げる。どこまでも続く青い空は、魂がそのまま吸い込まれていきそうな錯覚を覚える位に雄大で心を震わせるものがあった。   

 銀狼はそのまましばらく空を見上げていたが、なにか決意を決めたらしく、よしとひとつ頷くや、軽い足取りで近づいてひなに声をかけた。


「ひな」


「はい?」


 御用は何でしょう、という意味を含めた返事と共に小首を傾げるひなの仕草が愛らしく、銀狼は無意識に口の端を吊り上げた。ひなと暮らし始めてから微笑む回数がずっと増えた事を、銀狼は自覚していただろうか。


「ちょっと遠出しようか」


「はい」


 銀狼の言う事には疑問を持たぬひなは、唐突な銀狼の提案にも、満面の笑みを浮かべて頷いた。


「ひなの足だと歩いて数日はかかる場所だ。私の背に乗りなさい」


「はい」


 と答えるひなの声は楽しげだ。朝と夜にひなが梳るのと、時折銀狼自身が舌を使って毛繕いをする以外には、特に手入れをしていない白銀の毛並みは、不思議と埃や泥で汚れる事もなく、ひなの差し入れた指からさらさらと零れる滑らかな手触りを維持している、

 今も時折布団代わりにさせてもらっている銀狼の毛並みに触れる事が、ひなの楽しみの一つであった。特に銀狼の背に跨って山を走り回る時は、まるで疾風の如く駆ける銀狼の速さに、自分もまた風になった様な心持ちになり、爽快な気分になる。


 銀狼がどこへ行こうと考えているのかは知らぬが、その背に跨って出かけられるという事だけで、ひなは心を弾ませていた。

 自分の背にひなの重みが加わったのを確認してから、銀狼はゆっくりと歩きだし、直に疾走へと変わる。凛との勝負を終えてからの小屋の生活ではほとんど遠くに出歩く事はなかったが、今回向かう場所は遠方になる。

 太陽が東から昇ってまださほど時間は経っていないが、場合によっては帰りの時刻は夕暮れか夜の事になるかもしれない。


 夜遅くになる様であったら、活動が活発になる妖魔もいる事を考慮に入れて行動しなければなるまい。背のひなの事は気になるが、ちと急いだ方がよさそうだと、銀狼は地を駆ける四つの肢にさらに力を込めた。

 全力で地を駆け、岩を蹴る銀狼の速さは一歩ごとに増して行き、彼の通った後には物体の高速移動で弾かれた大気が渦を巻いている。

 空を飛ぶ鳥達でも到底追いつけそうにない速さで走る銀狼であったが、その目には傍らを駆け抜けた幹の木目や草に紛れて鳴き声を上げている虫の姿、自らが起こした旋風によって散っている葉の一枚一枚が詳細に判別できた。


 手加減せずに銀狼が走れば到底ひなの腕の力と握力だけで背中にしがみつく事は叶わなかったろうが、この時、銀狼の体から発せられる不可視の妖気が膜のような形状を取り、ひなの体を打つ筈の風から守っていた。

 ひなの事を守ろうという銀狼の意識が自然と生じさせた保護手段であった。

 以前凛と一戦交えた森の場所とは別方向に向けて走る銀狼が、背中にしがみついているひなに声をかけた。妖気の保護膜の効用で、互いの言葉ははっきりと聞き取れる。


「この山は大体四角形に近い並びで聳えていて、その内側に広大な森林と平原が続いている」


「はい」


 唐突に山の地形について語り始めた銀狼に、とりあえずひなは大きく声を張り上げて返事をした。


「私達が住んでいる小屋が山の外縁部に建っていて、私達がこれから向かうのは山の内側に広がっている森林の部分だ。そこのほぼ中央部に山が一つと麓に広大な湖がある」


「湖?」


「ああ。見渡す限り水、水、水だ。初めて目にした時は驚いたよ。ひなもきっと驚くぞ。その湖に、色々と物知りな男が住んでいる。その男に会ってひなにいろいろと教えてもらうのが目的だ」


「また、山の民の人ですか?」


「いや、確か仙道とかいうらしい。骨の形がはっきりと見える癖に、やけに肌艶の良いじじいだよ」


 じじい、と口にした時の銀狼の調子が、初めて耳にする位に、嫌そうな響きを含んでいたから、ひなは不思議そうに聞き返した。


「仙道、仙人様ですか」


「自称だ。仙道というものがどういう人間なのか、一応聞いた事はあるが、まったく当てはまらん。酒を飲み、猪やら猫やら、わけのわからん肉を食っていたからな」


「えっと、じゃあその人に私は何を教わればよいのですか?」


「うむ。凛と話をしていて思ったのだが、ひなも一応身を守る術を持っていた方が良いだろう。仙道と言うからには術の一つ二つは使えるだろうから、それを習えば役に立つと思う。ま、それ以外にも文字の読み書きやこの世の事なども習うと良い。色々と見聞が広がりもしよう」


「でも教えてくれるのでしょうか?」


「けったいで面倒な性格をしているが、悪い人間ではないよ。多分。なにか条件が付けられるかもしれんが、暇を持て余しているようだし、大丈夫だろう」


 仙道、と言われてもいまひとつ、ひなにはピンと来るものが無かった。指を組んで印を切り、意識を集中する事によって空を飛ぶ、自在に天候を操る、霞を食べるだけで永劫の寿命を持つ、などの噂話を聞いた事がある程度だ。

 随分前の事になるが、まだ村が飢えに襲われる事もなかった頃に、国々を巡回している旅の一座や商人が見せてくれた仙人の絵は、鶴みたいに痩せ細った老人が、地に着く位に長い白髭を生やして杖を突いている姿だったが、これから銀狼が会わせようとする人物も、そういう人なのかと少し期待した。


 見渡す限り緑の海とでも形容すべき樹海を越えると、山は灰色の岩肌を剥き出しにし、ところどころにわずかな草花や低木がささやかに彩りを加える程度になる。傾斜もぐっときつくなり、獣道さえ見えなくなってくる。

 獣道はまさしく獣が何度も通る事によってできた道だ。それが無いと言う事は、獣さえ足を踏み入れぬ場所と言う事である。

 岩か土と言うよりも鉄なのではないかと錯覚するほど硬い地面の感触を、銀狼は肉球を通して感じていた。

 来た道を振り返ればうねる波の様な緑が斜面を覆い尽くし山裾にまで広がっている。あの中にはその性、邪悪凶暴なりし妖魔も含め数え切れぬほど生命の息吹が満ちているが、銀狼が辿り着いた場所まで来ると、途端に感じ取られる生命の数が激減する。


 森林に比べれば生きにくい環境である事は確かだが、息を潜めている生命の数が少ないのは、この荒涼とした風景ばかりが理由ではない。四角形に広がる山を内側へ向かって下った先に広がる内部の森林や平原には、外部の森林に住む妖魔よりも凶暴な種が多く棲息する。

 外の森で生きている妖魔は、自分達を凌駕する闇の生命を恐れ、山の内部へ足を向ける事はなく、内の森で生きる妖魔達は熾烈な勢力争いに追われ、外に目を向ける余裕を持たない。内と外とでの棲み分けの境界が、この荒んだ光景の広がる山頂部付近であった。

 銀狼にとっても山を越えて内部へと進む事にあまり気乗りはしなかったが、それでも肢を動かす事は止めなかった。止めたのは刃を思わせる切り立った山頂部に立った時である。


「うわぁ」


 背中にしがみついているひなの、惜しみない感嘆の声が聞こえた。確かにそこからの眺めは驚嘆に値するものであった。

 背後には目に痛いほど鮮やかな緑の光景が広がり、前方に目を向ければ同じように緑の世界が広がるが、彼方まで広がる緑の世界の中央に針のように鋭く伸びる山があり、その麓には空の青を映す鏡の様に美しく、そして広大な湖が広がっている。


 湖のあまりの広さにひなは目を大きく開いて、湖の端から端までを見回した。ひなは海と言うものを見た事が無かったが、もし知っていたら、海と間違えてしまったかもしれない。それほどまでに圧倒的な光景であった。

 外縁部にあたる山の頂上から見下ろしてかろうじて視界に収まるほどの巨大な湖といい、自然のものとは思えぬ極端に縦に細長い針のような山といい、目の前の光景が形を成す時、途方もなく巨大な力を持った意思の介入があったに違いないと思わずにはいられぬ光景であった。


「銀狼様、あの山ってどれくらい高いのでしょう。お空に届いていそうですよ。山の外からも見えましたけど、不思議な形ですよね」


 ひなが指さす先を見れば、頂上の見えぬ針山の上方に空を漂う白雲にぶつかる。


「そうだな。流石に私もあの山の頂上までは登った事はないかな。ひな、この先の森はかなり危険だ。決して私の体を離さぬようにしていなさい。極力争いにならぬようにはするが……」


「そんなに危ないのですか?」


「この先の連中は血の気が多い。比較的安全な道筋を選ぶが、以前来た時は一日で七、八度は襲われた。ひなの臭いに惹かれてもっと来るかもしれん」


「……」


 銀狼は自分の話の所為でひなが怯えると言う事に考えが及ばなかったのか、自分の体を抱きしめるひなの手が震えている事に気づいたのは、言い終えた後であった。

 ひなの状態に気づき、しまったと思いきり顔を顰めた時には遅かった。三角形の耳が少しばかり前倒しになる。申し訳なさを覚えた時の表現らしい。


「すまん。要らぬ話をして怖がらせてしまった」


「あ、いえ。銀狼様が一緒なら、大丈夫ですよね」


「ああ。それは安心してもらっていいよ。それにあのじいさんの住居の近くは妖魔除けの結界が張り巡らされているからそこまでの辛抱だ」


「でも妖魔除けだと銀狼様も近づけないんじゃあ」


「前に会った時に私だけ通しくれるよう都合をつけてくれたから、問題ない」


 そう言って銀狼は再び歩を進め始めた。山を下り始めた頃は妖気の保護膜が程良く心地よい風を通していたが、ある程度下ると途端にそれが変わる。

 妖魔の住む地といえどもそれ以外の多くの生命が住む故に陰と陽、正と負、生と死の循環が淀みを浄化し、清澄さを保つ。しかし、牢獄のような山の内側の森に吹く風には、その清澄さが無い。一言で言えば濁っている。他の生命を毒し、腐らせ、犯す悪意を持った瘴気が目に見えぬ毒素となって大気に充満しているのだ。


 妖魔が呼吸するように排出する妖気とも異なる、己以外の存在に対する根源的な本能ともいえる悪意。殺意、敵意、憎悪、破壊衝動、それらすべてが混ざり合い互いの毒性を相乗的に増加している。悪と呼ぶべきものが何かと問われれば、答えはこの森に渦巻く禍々しいモノに他ならぬ。

 並の人間が半日も留まっていたならば無色の瘴気に蝕まれて意識は朦朧と霞み、体は氷雪の吹き荒ぶ厳冬の荒野を彷徨っているかの様に凍え、同時に体が松明と変わったかのような高熱も襲い掛かってくるだろう。そうして見る間に衰弱し、森に潜む妖魔達に毛の一本、血の一滴残らず貪られる。


 風がその瘴気を外に運ばぬのは、山の外の世界にこの瘴気が流れた時、失われる命を憐れんだ大いなるものの慈悲に違いない。

 ひなが瘴気の引き起こす様々な症状に見舞われるのを免れているのは、やはりというべきか、銀狼自身が展開しているひなを守る為の妖気によるものだ。

 ひなに対する敵意を一片たりとも抱かぬ銀狼の妖気は、冷たく澄みきった朝の大気にも似た清々しさで、ひなの体を蝕もうとする森の瘴気を防いでいた。

 山の外側の斜面を駆けあがっていた時と変わらぬ速さで山肌を駆けおり、一見するとなんら異常の見当たらぬ森の中へと足を踏み入れる。


 大地に大きく根を張り、大振りの枝を広げている樹齢数十年、数百年を経ている無数の樹木。微風に揺られて清楚な美しさを振りまく花達。

 山の外側の森も、むせかえる様な濃い緑の臭いがしたが、こちら側は吸い込んだ肺の中が木々の葉の色に変わりそうな密度の臭いであった。空中に差し出して指を広げた掌を握れば、そのまま緑の色に変わりそうだ。

 木漏れ日一つ通さぬほど大振りの枝が折り重なる木々の下を、銀狼はやや速度を緩めつつ駆けた。緑の臭いの中に、濃密な血の臭いを嗅ぎ取ったのは森に入る直前であった。


 ひながその臭いに気付いた様子はないが、臭いの他にも注意深く周囲の様子を観察すると木々の幹には獣の爪痕があちこちに刻まれているが、その大きさはたとえば熊のものであったなら、通常の個体の三、四倍に相当する。

 ひなの腕ほどもある木の根が絡まり合って出来た瘤や緑の絨毯には、時折生乾きの血や乾いた血がべっとりと付着していた。

 足を踏み入れる数時間前まで、生死を賭した戦いが繰り広げられていたのだろう。ひなの肌や銀狼の毛並みの上に珠を結びそうなまでに濃密な血の臭いのみならず、断末魔の悲鳴の残滓までが、銀狼の耳には聞こえてくる。


 目を凝らせば、こちらに向けて血涙を流しながら牙を剥く夥しい数の妖魔達の怨霊が、銀狼の青い瞳に映る。

 怨霊のいずれもが、殺された恨み、殺せなかった無念、尽き止まぬ殺戮衝動、満たせぬ飢えにも似た怨念で構成された凶相であった。

 人間ばかりか虫も鳥も獣も魚も、こんな目をした者には殺されたくないと心の底から思うだろう。


 ただ死ぬのではない、自ら死を懇願するような凄惨無惨な責め苦を与えられるに違いないと、一目で分かるからだ。

 ひなを連れて来た事は間違ったかもしれないな、と銀狼は、一度は下した判断にはやくも自信を失いつつあった。ひなをかくも危険な場所に連れ込んだ事を、浅慮と罵られても、銀狼は否定しなかっただろう。


 付近に危険な気配を持った存在が感じられない内に、距離を稼ぐべきだ。銀狼はやや緩めた速度を維持しつつ駆ける。移動速度を優先すれば若干だが気配を察知するのが鈍るから、最大速度では走らない。

 雰囲気の変化を感じ取ったひなも、銀狼の背と言う事で安心しきっていた顔に、わずかに不安の影を帯びて口数をめっきり減らしている。

 争いの名残か、透き通った流れの中に赤いものが一筋二筋と混じっている渓流を飛び越えた時、銀狼は鼻が潰れる様な強い臭気に、顔を顰めた。


 あっという間に後方に流れて行く風景の中に、時折原形を留めていない肉塊や挽肉が転がっている。目を離せばたちまちの内にそこらの木陰から小さな妖魔が現れて、肉片ひとつ残さず平らげるだろう。

 木々の放つ臭いやむせかえる様な血の臭いを押し退けて、色が付いていないのが不思議なくらいに濃い臭いが漂い出している。銀狼が近づいているのか、その臭いの主が近づいて来ているのか……。


 銀狼の様な毛皮を持った獣の臭いではない。ましてや人間の匂ではあるはずがない。どこかでそいつの吐き出す、しゅうしゅう、という吐息の音も聞こえてきた。

生臭いその吐息と、そいつ自身の体から放つ体臭が混ざり合って、一層強烈な臭気を醸し出しているのだろう。

 嗅いだ途端に嘔吐しなかった自分を、銀狼は褒めてやりたい気になった。銀狼の妖気による保護が無かったら、ひななどとっくに気を失っていたに違いない。


 本来、銀狼がこの道を選んだのは、ここら一帯を縄張りにしている妖魔とは顔見知りと言えなくもない仲で、先を進むために強行突破しなくても、なんとか話し合いで事を収められると踏んだからだ。

 しかし、この臭いを放つ種の妖魔がいた事は予想外であった。一通り、この内側に存在する妖魔達とも顔を突き合わせた事はあるが、どうにも好きになれぬ相手ばかりなのである。おまけに強い。

 おそらく配下の中の一匹であろうが、それでも銀狼の妖気に触れてくる相手の気配から察するに、多少の苦戦は免れない。周囲の気配察知の精度を上げる為に足を止めて視線を巡らす銀狼に、巨大な影が重なった。影だけでも途方もない重量が圧し掛かってくるように大きな影であった。


 その影の巨大さを認めるよりも早く、影は移動している銀狼目掛けて正確な狙いで押し潰そうと圧し掛かってきた。明確な殺意を持った行為である事は明らかであった。

 十分な余裕を持って右に飛び退いた銀狼の視界を、鈍く艶光る無数の鱗が横切ってゆく。その異常な大きさを別にすれば、間違いなく蛇の胴だ。蛇の胴は地面に触れず、太い弧を描いて水の流れのように止まる事なくそのまま流れて行く。数百枚、数千枚の鱗は水流の水面の様に輝いている。


 ただし銀狼が目にしているものを見て、それを蛇だとすぐに信じられるかどうか。胴の形を見る限りはおかしな所のない蛇のものであったが、あまりにも大きすぎたのである。

 胴の幅は大人が両手を広げた位はあり、頭から尾の先までの長さは森の木々の影に隠れ、見通す事が出来ない。

 ぶわ、と生暖かい息が銀狼の顔を叩いて、背の辺りの毛をかすかに逆立たせた。胴の流れていった先から幾本かの枝をへし折りながら、巨大な蛇の頭が姿を現し、歩みを止めた銀狼をはるかな高みから見下ろした。


 角の丸い四角形の蛇の頭部は、胴の馬鹿げた大きさに相応しく巨大であった。牛や馬どころか銀狼さえも簡単に丸飲みに出来るだろう。

 木々の枝を伝い上から狙った完全な筈の奇襲を避けられた事に苛立ったのか、あるいは銀狼の身のこなしの軽やかさをわずかに警戒してか、大蛇は襲い来る様子は見えなかった。

 滾る様な陽光が降りしきる時刻であったが、夜闇の中で燃えている松明の様に赤々と輝きながら浮かんでいる二つの球は、大蛇の目だ。

 目玉一つとっても、ひなの頭ぐらいはある大きさだ。


 目のみならず、蛇体から滲みだす粘度の高い液体に塗れたその体から、目に見えぬ妖気が炎のように噴き出している。しかし、噴き出す炎は熱を全く帯びておらず触れたものが氷柱に変わる様な冷気を孕んでいた。

 人間と共通する感情の色が全く窺えぬ大蛇の目が、銀狼とその背のひなを縫い止める様に見つめてくる。肌を刺す様な視線は、心臓を見えない針で刺し貫かれる様な錯覚を強制的に与えてきた。


「ひな、目を瞑れ。あの視線は目を合わせた相手の体を縛る」


「はい」


 いつになく緊張を孕んで硬い銀狼の言葉に、ひなは否応もなく頷いて応える。目を瞑って歯を食い縛り、銀狼の体により強くしがみついた。

 自分の中の常識外の存在を前に、ひなの精神は度を超えた恐怖に麻痺していたが、同時に自分には誰よりも頼りになる存在が傍にいる事を思い出し、ただ銀狼を信じ、言葉の通りに従った。


 そうすることで、巨大な蛇の口に銀狼ごと飲み込まれ、長い体の中でゆっくりと溶かされながら食われる自分の姿を、長く想像しないで済んだのは幸いと言えるだろう。

 大蛇は、自分の目に見つめられてもなんら動じぬ目の前の狼に、小さな驚きを覚えていた。


 大蛇は卵の殻を破って生まれてから既に七百年を閲し、同族の中でも比較的老齢と言ってよく、またその生命の歴史に相応しく戦いの経験も豊富だった。

 これまで多くの敵対関係にある妖魔や退魔の力を持った人間達を食い殺してきたが、自分の目に見つめられて何の反応も見せなかった者は、数えるほどしかいなかった。

 そして、数えるほどしかいなかった者達は、ひとつの例外もなく強敵であった。その中には運よくこちらが生き残れた、と言う他ない死闘も記憶の中に含まれている。その時の記憶が思い起こされ、大蛇に慎重な行動をとらせた。


 茶色を主に、所々赤い斑点模様のある鱗を持った大蛇は、凄まじい異臭を放つ吐息と共に、先端が二股に分かれた舌をちろちろと出しては引っ込め、引っ込めては出す事を繰り返しながら、ゆっくりと銀狼の周囲を回り始めた。

 それに合わせ、常に視線を交差させるように銀狼もその場で回りはじめる。このまま十重二十重に銀狼を囲い込み、長大な体を使って一気に締め上げて骨ごと押し潰すか、あるいは隙を見て一飲みにする機会を狙っているのか。


 ぐるりと、大蛇が一周し終えて最初に銀狼と対峙した位置に戻った。銀狼は牙を剥くでもなく、ただまっすぐに大蛇へと顔を向けている。

 大蛇に対し一片の恐れを抱く事もなく、威風堂々と佇むその姿に、大蛇の驚きと困惑は少しずつ大きくなっていた。


 躊躇する大蛇の理性の壁に、食いたいという欲望が大きく穴を穿ちはじめる。それは大蛇にとって初めてといっていい強烈な欲望であった。以前、共食いをするまで飢えた事もあったが、その時の、親兄弟の肉でさえかまわぬという欲望をさえ凌ぐ。

 本能的な危機感と数多の戦いの記憶の後押しを受けて、理性は自分からは戦いを仕掛けるなと強く訴えていたが、幾度かの葛藤の果てに大蛇が選んだのは欲望であった。


 理性を蔑にする選択を選んだのは、大蛇の美的感覚をしてなお美しいと感嘆せずにはおれぬ銀狼の姿の所為であったかもしれない。

 銀狼と等しい巨躯を持つ狼の妖魔とまみえた事もある。あるいは同じような銀色の毛並みを持った狼を食らった事もある。

 それらは時に手強い敵であり、時に美味な獲物であったが、そのどれにも美しいと感じた事はなかった。絶えず襲い来る飢餓を紛らわし、殺戮の歓喜を一時得る事は出来たが、そこまでだった。


 それ以外の何かを感じた事も求めた事もない。

 しかし、今、凛烈と立つ狼はどうだ。大蛇はその狼の姿に感じたものを表す言葉や感性を持たず、また美しいという概念も縁遠いものであったが、それでも大蛇が感じたものを表すなら、美しいという言葉が最も相応しい。

 背に負った人間の幼子が、目の前の狼の美しさを唯一損なってはいたが、食らう分には申し分ない。人間の子の肉は格別柔らかく暖かく、その体の中に流れる血潮は殊の外身になる。

 人間の子の味と美しい狼が腹の中でゆっくりと溶け、自分の血肉に変わる妄想に、大蛇は大きな愉悦を覚え、閉じた口から白濁した唾液をだらだらと零しはじめる。


 一方で銀狼は、大蛇の葛藤と緊張など知った事ではなく、どうこの場を切り抜けるかを思案していた。

 ひなが生贄と捧げられる前まで、気ままに山を歩き回る暮らしをしていた銀狼である。何も考えずその日その時の気分のままに生きてきた為に、何かを考えると言う経験がとにかく無い。


 他の妖魔に襲われる事があっても、煩わしければ逃げればいいし、いざとなれば多少痛めつけて追い払えばそれですむ。食事に関しても何も口にせずとも問題の無い身の上とあって、銀狼は日々を生きるのに悩んだ事がなかった。

 ろくすっぽ回転させる事の無かった頭を回転させて、銀狼は考える。

 背を向けてこの場から逃げ出しても、目の前の大蛇の同族がそこらにいくらでもいるだろう。

 逆に逃げ出さずに戦いを挑んで、目の前の大蛇を屠ったとしても、闘争の気配と新たな血の臭いに気づいた別の蛇が、仇討ちとばかりに姿を見せるに違いない。


 背中にしがみつかせたひなが居なければ、他に蛇が姿を見せても逃げ切る事は十分にできるのだが、ひなを置き去りにする事は真っ先に考えの中から捨てている。

 可能な限り早く大蛇を葬り、その仲間達が姿を見せる前に森を駆け抜けるのが得策だろうか。それとも今日は諦めて引き返すべきだろうか。

 万が一にもひなの身に危険が及んだ時の事を考えて、自称仙人のじいさんに会わせようと思ったが、四六時中自分がひなの傍らに張り付いていれば問題はないし……。

 うだうだと思考の迷路に銀狼が入り込んだ隙を狙って、大蛇が動いた。風に悲鳴を上げさせながら、岩戸のように閉じていた大口が開かれて、真っ赤な口内が晒し出された。口の中の赤色に、炎よりも血の色を銀狼は連想した。


 先端が分かれた舌と鋭く尖った牙をぬらぬらと輝かせているのは、満足した事のない欲望が流させる唾液と、時に同族さえ含めてすべての生命に対し向けられる殺意を源とする毒液である。

 瞬く間もなく視界を埋め尽くす大蛇の口腔を左に躱した銀狼は、擦れ違い様に大蛇の胴に爪を振るった。大蛇の身を覆う鱗と柔軟性に富んだ大蛇の肉質が、多くの妖魔の牙や爪を無力化してきたが、銀狼の爪は数少ない例外となった。


 駆け抜ける銀狼にわずかに遅れて、切り裂かれた大蛇の体から真っ赤な血潮が噴水のように噴き出して、大蛇の右側の木々を赤に染める。大蛇の血を浴びた木々は、もう二度と新たな緑の葉を芽吹かせる事はあるまい。

 激しい痛みと急速に流出する血液の喪失感に身悶えた大蛇が、体をくねらせて暴れ、その体に触れた木々が幾本も砕かれてゆく。樹齢百年は下らぬ見事な木の数々が、四方へと暴れ狂う大蛇の尾の前では、か細い小枝に過ぎなかった。

 耳を塞ぎたくなる破砕音が幾重にも重なる中を、銀狼は地を蹴り、時には身を伏せて忙しなく動き回った。美しい銀毛をまとめて何十本も引き千切ってゆくような強風が、乱れ狂う大蛇の体に秘められた破壊力を表している。


 見る間に森の木々を根こそぎ破壊し尽す大蛇と、嵐に揉まれる木の葉のように小さな銀狼とでは、軍配は時をおかずして大蛇に上がるかと思われた。

 しかし、銀狼は焦る事もなく冷たい瞳で大蛇を見つめ、躱すばかりでなく隙を見つけてはさらに爪を振るい、大蛇の体に新たな爪痕を何度も何度も刻んでゆく。幾重にも重ねて切り裂かれた蛇の肉は、見るも無残に崩れだしている。

 大蛇の身を守る鱗は銀狼の爪に対し、薄紙程度の抵抗を残すのみで、茶色の表面を大蛇自身の血で赤く染めている。

 鞭のように振り下ろされた大蛇の尾を躱して一気に懐に飛び込んだ銀狼は、比較的柔らかな大蛇の腹へと右前肢の爪を突き立てて、瞬時の停滞もなく爪を振り抜く。


 新たな痛みに大蛇が咆哮を上げ、周囲の木々を震わせた。咄嗟に銀狼は展開している保護膜の強度を上げる。自分はともかく悪意をたっぷりと込められた大蛇の咆哮は、まともに聞いたらひなが発狂してしまう。

 大蛇の咆哮が雷鳴の如く轟き、遠い場所でいくつかの気配が乱れた。大蛇と敵する妖魔や動物が、咆哮を受けて気を失ったか、悪ければそのまま死んだのだろう。さらに大蛇の同族が咆哮に気づいてこちらに向かって来ているのを、銀狼ははっきりと感じ取った。


 一つ舌打ちをして、銀狼は大蛇の息の根を一刻も早く止めねばならぬと腹を括った。その決意が乗り移ったのか、銀狼の真珠色の爪がぎらりと鈍く輝いた。

 幾度も大蛇を切り裂いたと言うのに、爪はわずかも欠けておらずまた大蛇の血の一滴さえも付着していない。銀狼の振るう爪があまりに速い為に、大蛇の肉に潜り込んだ爪に、大量の血液が付着するよりも早く、肉を切り裂いて抜けるからだ。

 背中のひなが言いつけを守って強く自分の体にしがみついている事を確認し、銀狼は撓めた四肢の筋肉に妖気を流しこんで細胞を活性化させ、大蛇との戦闘開始から最も速い動きで大蛇の鼻面に踊り掛かった。


 大蛇の目に銀色の風としか映らなかった銀狼は、両前肢を交差させて振るう。風さえも切り裂いた十の爪に、鼻の頭を削り取られた大蛇は溢れ出る自分自身の血に塗れ、狂ったように暴れはじめた。銀狼は一切の躊躇なく、不規則に暴れる大蛇の体にまとわりつく白銀の靄の如く襲い続ける。

 銀狼に取って今日ほど何かの命を奪う事に躊躇しなかったのは、大狼と牙を交わした時以来であった。銀狼が爪を振るった数が増すごとに、血の雨に降られたようにその体を朱に染める大蛇の動きが、徐々に鈍くなりはじめる。


 大量の血液の喪失と傷口から入り込む銀狼の殺意をたっぷりと含んだ妖気により、根源的な生命力が失われているのだ。妖魔と妖魔の戦いにおいて、相手に対する殺意・憎悪の強さは勝敗を決する大きな要因となる。

 相手に与えた傷から流れ込む負の思念が、どちらの心身をより早く蝕むか。この戦いの場合、銀狼に対してわずかな傷一つ与えられず、一方的に傷を負わされる大蛇は明らかに戦意を鈍らせていた。

 大蛇の凶悪な姿に萎縮する事無く、大蛇の暴力に屈するどころか逆にその爪牙の猛威を振るう銀狼が、大蛇には理解できない存在となりつつあった。


 大蛇はかろうじて大地に倒れ伏すのを堪え、流れこんだ血で赤く濡らした双眸で銀狼を見つめる。睨み殺す様な激しさはなかった。本能的に銀狼を相手に勝ちの目が万に一つもないと悟っていたからかもしれない。

 だが野の獣は、その体から生命の滴が最後の一滴を失うまで死に抗う。手負いの獣が見せる力は侮れぬものと、暢気に生きてきた銀狼も知っていたから、気息奄々の大蛇を前にしても四肢に巡らせた力を緩ませる事はなかった。

 大蛇が吐く血混じりの息は激しさを増すばかり。脳天に爪を振るい、一気に頭蓋を割って止めを刺す――銀狼の必殺の意が乗り、両前肢の爪から陽炎の様な妖気が立ち昇る。この世に断てぬものが無いまでに、銀狼の爪は鋭さと切れ味を増してゆく。

 かすかに銀狼が身を沈みこませた。


 その時、ざあ、と枝葉を揺らして風が吹き、重心を落とした銀狼の体が一瞬ではあるが凍りついた。

 第一歩を踏もうとした銀狼がかすかに体の姿勢を乱す。血に塗れた目の前の大蛇が放つ妖気をはるかに上回る新たな妖気に、全身を強く打たれたからだ。

目の前の大蛇の妖気と比べて最低でも倍する強さであった。一部だけが逆立っていた銀狼の背の毛が、一気に逆立つ。

 銀狼の背中に顔を埋めていたひなが、顔に当たる毛並みの感触が変わった事に気づき、事態が悪化した事を悟って、しがみつく腕により一層力を込めた。それでも銀狼に対する信頼が揺らぐ事はなかった。


 新たな敵の出現に対し、もっとも大きな反応を見せたのは銀狼ではなく、生と死の境界線へと追い込まれた大蛇の方であった。開いていた口を閉じて銀狼の背後を見つめていた。

 蛇の妖魔が放つ強烈な臭気はなかった。ずるずると重たい体で地面を這う独特の音もなかった。人間の子供位なら簡単に転がす猛烈な勢いの吐息の、しゅう、という音もなかった。

 音と臭いを完全に消す事の出来る相手が、わざと妖気を放ったのは、銀狼に対する恫喝に違いない。死に瀕した大蛇を救う為だろうか。間違っても銀狼から大蛇を横取りして食べる為ではなかろう。


 しかし恐怖に動きを止める大蛇の姿からは、あながち食べる為と言うのも間違った考えではないかもしれない。大蛇の流した大量の血液が、飢えた森の妖魔達を引きつけている事は間違いないのだ。

 銀狼は意を固めて背後を振り返り、大きく溜息を吐いた。青い瞳が映したのは大蛇に倍する巨躯を誇る蛇の妖魔であった。銀狼の記憶に間違いがなければ、山の内側の森に棲息する蛇妖の長だ。同時に内外の山を見ても五指に入る極めて強力な妖魔である。


 銀狼が想定した事態の中でも最悪に近い。大蛇には通じた爪が、はたしてこの蛇妖の長には通じるかどうか。

 降りかかった陽光をそのまま飲み込んでしまう様な、深い闇色の鱗を持った蛇である。木々をはるかに越えて弧を描き、こちらを見下ろす蛇の体に陽光は確かに当たっているが、蛇妖の長の周囲にだけ夜の帳が下りているかの様に見える。身を装う鱗の黒が、あまりに深く、暗く、冷たい為であった。

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