第5話 とある雨の日

 小屋の外に新たに生じた気配に気づき、自分の肢の上に頭を乗せていた銀狼が、ぱちりと瞼を開いて青い瞳を戸の方へと向ける。

 小さく三角形の耳が動いて、近づいてくる物音に反応する。峻嶮なこの山には珍しい馬の蹄の音である。数は一頭。連れている人間も一人だから、凛だろう。差し込む陽射しの傾き具合から、まだ夕刻というには早い。

 凛の交渉能力ないしは物資調達能力を、銀狼が侮っていたようである。銀狼の予想よりも早い到来は、煉鉄衆の集落でも貴重な馬の使用が許されたためだろう。ひなを起こさぬよう慎重に体を起して、銀狼は小屋の外に出た。


「思ったよりも早かったな」


「銀色の」


 こちらを振り向いた凛の方へ、銀狼はなんら警戒している様子もなく歩いてゆく。その無防備とも取れる様子に、かえって凛の方が、少しは緊張感を持たんかと言いたくなった。

 銀狼からすれば、嗅覚や聴覚などの五感や第六感が危機を感知していないからこそ、これほど無防備なのだと言うだろう。

 仮に、今、凛が殺意を露わにして腰の山刀を抜いて斬り掛かってきても、逆にその首を噛み千切る事は簡単に出来る。過信ではなく、自身の能力と凛の身体能力を正確に把握しているからこその判断なのだ。

 互いの身体能力を別にしても、山の民の民族的な傾向と凛個人の性格からして、一度交わした約束を反故にする様な事はしないと、銀狼が信じていたためでもある。

 凛が手綱を握っている馬を見て、銀狼がほお、と呟いた。


「米俵に、この臭いは豆味噌と塩かな。鉄の臭いもするし、木の臭いもする。ずいぶん大荷物だな」


 凛が連れてきた馬は栗色の毛をもった年若い雌馬であった。最初は銀狼の姿と臭いに驚いた様子を見せたが、凛に首筋を撫でられて宥められた事と銀狼が敵意を向けず、威嚇する様な真似もしなかったおかげで、暴れる様な事はなかった。

 雌馬の背には籐籠や米俵をはじめとした荷物が荒縄で可能な限り括られていた。よくもまあ、これほど集められたものだと、銀狼はしきりに感心して頷いている。


「ここで暮らしていけるようになるまで、これ位はいるだろうと思っただけだ。それにずいぶん腹を空かせている様子だったからな。銀色の、お前、何時からひなを?」


「昨夜だ。送り出される時にたらふく食べさせてもらえたようだが、水を飲んだきりなにも食っておらん。今は歩き疲れて眠っている」


「下手なものを食ったら腹を壊すしな。火打ち石も持ってきてやったから、ちゃんと火を通して食わせろよ。というかお前、人が食べても大丈夫なものとそうでないものの区別はつくのか?」


「君らが採っているものと同じものだけを選んだから大丈夫だとは思うのだが」


「なんだか不安だな。荷物を運びがてらあたしが見てやるよ」


「助かる」


 馬から下ろした荷を小屋に運び込み始めてからしばらくするとその物音か凛の気配で、ひなが目を覚ました。

 桶に入れて塩漬けにした川魚や山菜、米俵ばかりでなく、包丁や柄杓、小袖や布団と次々と運び込まれてくる品に、目を覚ましたばかりのひなは夢の中にいるのだろうかと、まだ重い瞼をこすってみる。


「お、起きたか」


 眼を覚ましたひなの黒瞳を、銀狼の青い瞳が覗きこんだ。青い霧の世界に紛れこんだ様に映る自分の姿を、ひなは不思議そうに見つめた。


「あ、あの、私」


「もう荷物は運び終わったから、気にしなくていいぞ」


「銀色の、床に上がるなら肢の裏くらいは拭け。お前はあたしらと違っていわば裸足だろうが」


「それもそうか」


 ひなはいつの間にか凛が姿を見せ、がらんとしていた小屋の中に物が随分と増えている事に気づく。自分がついうたた寝をしている間に全て運び終えていたようだ。


「おい、ひな」


 凛がひなの隣に腰かけた。両手に盆を持っている。銀狼はひなを挟んで凛の反対側に腹這いになって、頭を組んだ肢の上に乗せ、ひなと凛の様子を伺った。ピンと立った耳の先端がちろちろと動き、二人の会話を聞きもらすまいとしている。


「は、はい。なんですか、凛さん」


「怖がらなくていいって。取って食ったりしないよ。とりあえず飯を食べたら、ひなが食べても大丈夫なものを教えてやる。銀色のはそういうのを知らないからな。何度も教えるのは手間だから一度で覚えろよ」


「え、あ、はい。ありがとうございます」


「よし、じゃ、食事だな。といっても簡単なものだけだけど。ほら」


 どん、とやや乱暴にひなの前に置かれたのは盆の上の木椀や木皿に盛られた焼き魚と皮を剥いた枇杷、くるみ、玄米飯、味噌玉などだ。凛は同じように自分の目の前に置いた食事に手を伸ばして、次々口の中に入れて咀嚼している。

 乱暴な手つきで豪快に木皿と木椀の中身を平らげていた凛は、箸を持ったまま動かさずにいるひなに気づく。なにやら困ったような顔をしている。

 ひなが初めて山の民に接触したのが凛であるように、凛からしても、山の外の者と直に会ったのは、ひなが初めてで、なにか用意した食事に問題があったのかと心中で首を捻る。

 山の民と外の連中とで生活様式が大きく異なる事くらいは分かるが、だからといって口に運ぶものまでそう大きな違いはないと思ったのだが。


「何か変なものがあった?」


「いえ、その銀狼様の分は……」


「あいつはなにか食べたりはしないよ。妖魔の中には、たまに天地の気を血肉に変

える事で飲み食いをしない奴がいる。銀色のもその類だ」


「そうなのですか?」


 知らなかった、と顔に書いて意思表示をするひなに銀狼が顔を向けた。


「朝方、ひなが聞いてきた時に答えただろう。食事の心配はいらないよ」


「……多分、私と銀狼様で食事がいるかいらないかの意味が違ったみたいですね」


 ひなからすれば、銀狼に食事の心配が必要ないと聞いたのは、銀狼が山生まれの山育ちであり、ここまで大きく育っているのだから、狩りをして獲物を獲る事には何の問題もないだろうと思ったからだ。

 一方で銀狼は、本当に食べる必要が無いという意味で、食事の心配はいらないと答えを返したのだ。これでは互いの言葉の本当の意味が伝わる筈もない。


「お互いの事が分からないと、色々とすれ違いが起きそうですね」


「はは、ひなの言う通りだな。ま、おいおい話をしていけばいいさ。今は食べなさい」


「はい。いただきます」


 ようやく食事に手を伸ばしたひなの姿を見て、銀狼と凛は安堵した。


「おお、そういえば凛よ。これからは私の事を銀狼と呼んでくれないか」


「……見たままの名前だな。芸がない。今までどう呼ばれても気にしなかったお前が、なんでまた急にそんな事を言うんだ? ひなに付けてもらった名前なのか?」


「仮のものだ。ひなには、これから付けてもらう。そしたら、ちゃんと教えるから、本当の名前で呼んでくれな」


「人間の子供に名前を貰う妖魔か。世の中には人間と妖魔の婚姻なんて例もあるから、そういう事があってもおかしくはないけどな。まあ、せいぜいいい名前を付けてもらえ」


「ひななら、きっといい名前を付けてくれるさ」


 確信した調子の銀狼と凛の視線を浴びせられて、ひなは箸を咥えた姿勢で固まった。ちょっと緊張したらしい。


「見られていては食べられないか、すまんな」


 銀狼は苦笑してひなから視線を外し、組んだ肢の上に顎を乗せて目を閉じた。

ひなが一通り食べ終えた頃には、すでに陽は大きく傾いており、夜の山道はさしもの凛といえども危険とあって、すぐに馬を連れて小屋を発つ事になった。

 木々を照らし出す陽光があっという間に紅色に近くなり、緑に輝いていた森が赤黒く変わって見え始める。すると山が持つ生命力の豊かさの証明のように見えた木々は、山で死んだあらゆる生物達の血を吸って成長したかの如く瞳に映り、途端に恐怖をかきたてる存在へと変わった。

 小屋の外で身軽になった馬の手綱を握る凛を見送ろうと、外に出たひなが、森の変貌に怯えて、傍らに立つ銀狼の腹の辺りの特に柔らかい毛を強く握りしめた。

 敏感にひなの感情の変化を察した銀狼は、ひなが怯えている事は分かるが、どうすればそれを慰める事が出来るかまでは良く分からず、以前目撃した狼の親子がじゃれ合っていた姿を思い出して真似てみる。鼻先をひなの右手に寄せて、少しだけその手の甲を舐めた。


「私が傍にいる。心細い時、寂しい時に。だがひなよ、憶えておきなさい。山とは与えるばかりではない。どれだけ豊かに見え、糧を求めて争い奪い合う必要が無いと思えても、それは別の命を糧にした豊さだ。無償で与えられてなどいない。故に、山を恐れる心を忘れるな。常に敬い、感謝し、恐怖する心を持つ事だ。そうすれば、山で生きる事が許される」


「……はい」


 銀狼の言わんとしている所を、漠然とではあるが察し、ひなは夜の闇に覆われた時の姿を見せ始めた山を、大粒の瞳で見つめていた。凛が、そんなひなと銀狼に少し呆れた様子で、こう言った。


「銀色……じゃなくて銀狼。お前の話だがな、途中からあたしら山の民が小さい頃から耳にたこができる位言われている事に変わっていたぞ。誰から聞いた?」


「ばれたか。前に助けた山の民の子供に教えてもらったのだ」


 銀狼は少し決まりが悪そうに種を明かした。

 その銀狼の様子が可笑しかったのか、ひなが口元を隠しながら、鈴を転がしたように耳に心地よい声で控え目に笑った。それを見て、銀狼も穏やかな笑みを浮かべる。

 初めて目にするひなの笑みが銀狼にはとても眩しく映り、この笑顔が見られるなら、先程の決まりの悪さなど何でもなかった。銀狼にはそのひなの笑顔がこの世の何物よりも大切なものに思えた。



 砕いた鏡の破片が流れているかのように、川は太陽の光を反射している。天から降り注ぐ黄金の光の中で、小柄な少女の影は揺らめく蝋燭の炎に映し出される影絵の如く、動きまわっていた。

 沢爺のいる川で洗濯に勤しむひなである。

 じゃぶじゃぶ、と水面が泡を吹きながら揺れる。太陽がようやくまんまるい全貌を露わにしたばかりの早朝。川の水は多少冷たいという程度だ。

 ひなの隣では、銀狼が少し前屈みになって、じっと川の流れを見つめている、正確には、ゆるやかな流れに身を任せている川魚を、だ。一瞬、銀狼の目が細まって、普段は制御していない妖気を、針の様に形作り川の中の魚めがけて放射する。

元々は力量差を弁えず襲い掛かってくる鬱陶しい小物の妖魔や、獣を追っ払う為に覚えたものである。こうして狩猟の為に使うのは初めてだ。狙いは正確だったようで、妖気の針を受けた川魚が九尾ほど腹を上に向けて浮き上がってくる。

 よし、と一声漏らして、銀狼は浮き上がってきた川魚を口で挟み、足元に置いておいた魚籠に放り込んで行く。丁寧とは言い難い動作だったが、川魚が目を覚ます様な事はなかった。

 釣果はヒスイヤマメにウンモマス、シウンアユがそれぞれ三尾ずつ。どれも焼いてよし、煮てよし、刺身でよし、の美味な魚だ。

 普通に釣ろうとしたら、どれも半日かけて一尾釣れるかどうか、という珍しさと警戒心の強い魚だ。ただ、今回の場合釣り人は銀狼で、川に生きる妖魔の沢爺という協力者がいた。沢爺が岩陰に隠れていた川魚達を上手くおびき出してくれたおかげで、簡単に済んだ。

 ちゃぷ、と小さな水音を立てて沢爺の小さな顔が水面に浮かぶ。


「ありがとう、沢爺。お陰で簡単に済んだ」


「なあに、お前さんに頼まれ事をされるのは珍しいからね~え。最近続けて頼まれちゃいるけど。でも本当に、お嬢ちゃんの面倒を見ているんだねえ」


「私はこれまで嘘を吐いた事はないよ。これからもね」


「ふぇふぇふぇ、お前さんくらいだねえ。そう言う妖魔は。礼儀ってもんを知っているのも、お前さんくらいさ。わしがあんたを好きな理由だよ」


「ふむ。好かれて嫌な気持ちはせんね。沢爺も性格がいいからな」


「ふぇっふぇっふぇ、さ、お嬢ちゃんが待っとるよ、お行き」


「む、待たせては行かん。ではな、沢爺」


「あいよぅ」


 魚籠を口に咥えて小走りでひなの方へと向かう銀狼を、沢爺は孫娘とその恋人を見守る様な、優しい祖父の眼差しで見送った。

 ひなの草履を履いた小さな足が、ぱたぱたと忙しなく足音を立てて動いた。朝から気持良くからりと晴れ上がった青空だったのに、昼を過ぎたあたりから雲行きが怪しくなり、雨が降るかな、とひなが思った時にはもう真っ黒い雲が空を覆い尽くして、堰を切ったような勢いで雨が降り出した。川から戻ってすぐの事だ。

 はるか天空の高みから、途方もなく背の高い巨人が絹糸を何千万本も垂らしているみたいに、雨雲と地上が糸でつながっている様な豪雨に見舞われて、ひなは慌てて干していた洗濯物を回収しなければならなかった。

 野ざらしだったら、そのまま全身を叩き伏せられて気を失ってしまいそうな豪雨である。雨粒を受ける地面はたちまちの内に抉れて凹凸を刻み、茶色い煙が噴き出しているかのようだ。


「銀狼様、そちらは終わりましたか?」


「しまい終えたぞ」


 小屋の裏手で薪を割っていた銀狼である。もちろん狼であるからしてその四肢の先の形状の問題から、鉈や斧などを振るう事は出来ないので、自前の爪を使って薪を切り裂いている。

 薪を割ると言っても、近くに生えている木に銀狼が適当に体当たりをしたり、ずらりと口の中に並ぶ牙で折って、それをこれまた乱暴に前肢を使って叩き割ったものを、ひなが使いやすいように大きさと形を整えた程度のものだ。

 通常の狼の数倍にもなろうかという銀狼の巨躯は、雨雲に陽光が遮られてなおおのずから輝きを放つかの如く美しい白銀の毛並みを誇っている。

 巨大さを別とすれば、イヌ族としては理想形と呼んで差し支えのない均整のとれた四肢、長くふさふさとした毛に包まれた尾と全身、獲物の皮と肉を切り裂き、骨を砕く牙はいずれも刀剣さながらに研ぎ澄まされている。

 圧倒的な暴力と大自然が育んだ生命の美の結晶とでも言うべきその威容の中で、穏やかな陽射しの下、波一つない湖を思わせる深く静かな青の双眸だけが趣を異にしていた。

 存在それ自体が大自然の生み出した一個の芸術と呼ぶべき美しさ、凛々しさ、猛々しさを兼ね備えている。

 両手で洗濯物を抱えたひなが小屋の中に入ったのを確認してから、先に小屋に入っていた銀狼がめくっていた鹿皮を垂らした。小屋の中に流れ込む泥水を見るに、早めに戸を用意してはめ込んだ方がいいかもしれない。

 洗濯物と言っても自前の毛皮一張羅の銀狼に洗濯物などあるわけもなく、ひな一人の分だけだ。当然量も少ない。

 屋根を叩く雨音の激しさに、ひなが驚いた様に天井を見上げる。囲炉裏から立ち上る煙を長年浴びて、煤ですっかり黒ずんだ天井は幸い雨漏りする様子はない。銀狼が口に咥えて差し出してくれた手拭いを使って、ひなは少し濡れた髪や浅黄色の小袖を拭く。

 食生活が改善された事と精神的に余裕のある環境に変わったことからか、骨の形が分かる位にやつれていた頬は幾分ふくらみを取り戻し、見る者に枯れ木を思わせていた全身の雰囲気も、萌芽したばかりの新芽の様に溌剌とした、本来ひなが持っていた陽性の活力が輝き始めている。

 銀狼と出会う前のひなしか知らぬ者であったなら、別人と間違えてしまうほどの変わり様であった。

 生贄として小屋を訪れた時のひなの姿を知る銀狼は、時折その時の姿を思い出しては、元気になった今の姿と比べて小さな喜びを覚える。

 小屋の中に渡した紐に改めて洗濯物を干し直しているひなの姿が、面倒を見てみようと決めた過去の自分の判断が、間違っていなかったと告げてくれているようだからだ。

 うむうむと頷いている銀狼の様子を、ひなは不思議そうに見ていたが、銀狼がなんとなく嬉しそうなので、ま、いいかと深く考えない事にした。数日を共に過ごすうちに、銀狼が基本的に深く物事を考えない楽天的な気質の主である事は十分に理解している。

 火打ち石を使って囲炉裏の枯草に火を点けていたひなが、ふと顔を上げて外の雨を瞳に映して、なにげなく呟いた。銀狼の耳でも拾い損ねてしまいそうな小さな呟きであった。


「雨、降りましたね」


 銀狼が村人に告げた雨の降る日が、今日だった事を雨が降るまで忘れていた口調だ。銀狼の方も、ひなの呟きで思い出したようで、ああ、そういえば、といった調子で答えた。


「今日が七日目だからな」


「たくさん降っていますね」


 ひなの声音がわずかに沈んでいるように聞こえて、銀狼が訝しげに眉根を寄せながら言葉の接ぎ穂を探したが、上手い言葉は見つからなかった。


「……正直、私の予測が当たって安堵している」


「村の皆、この雨で助かりますよね」


「天の恵みだ。今日一杯は降るし、これからは天候も安定するだろう」


「そうだといいな」


 ざあざあと絶えず耳を打つ無数の雨音が、ひなの声をかき消さぬ事が、銀狼には不思議であった。ひなにとってこの雨が複雑な意味を持つとまで考えが至らず、暢気に元気になったひなの姿を喜んでいた自分に、銀狼は多少の苛立ちを覚えていた。

 この雨がもっと早く降っていたなら、ひなは恐ろしい山の妖魔に捧げられる事もなく同じ人間達の中で暮らす事が出来たのだ。近隣の村々にとって待望の雨が降ると言う事が、ひなの心を乱さぬ筈がない。

 銀狼は初見のものでもはっきりと分かる位に、不機嫌そうな雰囲気を醸し出し始めた。自己への嫌悪の為である。

 銀狼の機嫌を直す為ではあるまいが、ひなは明るい笑みを浮かべて話しかけた。

 笑顔を向けられた銀狼が不思議そうな顔をするほど、その笑みは明るく、そして幸せそうであった。見た者の心まで暖かな気持ちで満たされる、そんな笑みである。


「良かったです。この雨で村の皆が助かったら、私も生贄に選ばれた甲斐がありました」


「私が降らせた雨ではないから、なんとも言えんよ」


 ひなの言い様が面白くないようで、銀狼の口ぶりからは不機嫌そうな響きが強い。根が素直というよりは、感情の表現を抑えると言う事や勿体をつけるのを知らぬのである。

 他者に対して多少の嘘を吐く事や本音を隠す事は、集団生活において人間関係を円滑なものにする為に、時に必要なものであるが、集団生活どころか他者と暮らす経験など、ひなと暮らすまでまるで無かった銀狼である。思った事を口にしないという行動が、その思考回路の中から基本的に欠落しているのだ。

 人間だったら眉根を寄せて頬を膨らましている様な、子供っぽい不機嫌さを表す銀狼の様子が可笑しくて、ひなは悪いかな、と思いつつころころと笑った。

 ひなが笑えばそれだけで喜びを覚える単純な所のある銀狼であったが、てっきりひなは自分の境遇を悲嘆し、自嘲して笑ったのだと思っていたのに、浮かべているのは心からのものと分かる笑みであったから、きょとんとした瞳でひなの顔を見つめた。


「どうしてそんな風に笑えるのだ?」


「だって、この雨がもっと早く降っていたら銀狼様に会えませんでした。私が生贄に選ばれる事もなかったでしょう」


「そうだな」


 ここまでは銀狼にも分かった。というよりも単なる事実なので、それ位の事を理解する知性は銀狼にはある。


「そうしたら、私はこうして銀狼様と暮らす事も出来ませんでした。雨が降ったのが今日で良かったです」


「言葉は悪いが、村から追放されたのにか?」


「はい、私、銀狼様に会えて良かったと思っています。銀狼様は私を大事にしてくださいますし、まだ七日だけですけど、私、こんなに穏やかな気持ちで暮らす事が出来たのは父と母が死んでしまって以来の事でした。だから、生贄に選ばれたのが私で良かったと、今では思っています」


 銀狼と一緒に暮らす中、朝起きるのが遅いと、細い腕が振り上げた杖で何度も何度も叩かれる事はない。

 水桶を運んでいる時に足を引っかけられ、無様に転がされてにやにやと汚いものを見る目を向けられる事もない。

 掃除をしている時に、雑巾の絞り汁を頭からかけられ、汚水で濡れ鼠になった体を蹴り飛ばされ、唾を吐かれ謂れのない罵詈雑言に塗れる事もない。

一日の食事が釜の底にこびり付いた焦げ飯だけで、爪を立てて口に運び、あまりの苦みに吐きだしそうになるのを必死に堪え、飲み込んだ事など一度もない。

 ちょっとした事で、指や膝に擦り傷、切り傷を作った時には、心配する優しい声が掛けられる。

 慣れぬ山の暮らしの中で不安に心細くなった時には、必ず傍らに大きく優しいぬくもりが居てくれる。

 夜、床に就く時、冷えぬか、という声と共に柔らかく暖かな毛並みが自分を包み、悪夢に魘される事もなく安心して眠る事が出来る。

 朝、目覚めた時、暖かな光を湛えた青い双眸がこちらをまっすぐに見つめて、おはよう、と言ってくれる。

 この暮らしが幸せではないなどと、ひなは露ほども考えてはいなかった。


「うむ、いや、あー、そう、か。うん、ひなが良いと言うのなら私から言う事はないが」


 もごもごと口を動かして、何を言えばよいのか分からぬらしい銀狼であったが、長く床に伸びていた尾が、ぱたぱたと音を立てて板張りの床の上を左右に揺れている。隠そうとしても隠しきれぬ銀狼の喜びの表現だ。

 照れ臭そうにしている銀狼の姿に、ひなは、またころころと笑う。図体の大きさはともかく、精神的な年齢という面では、さほど銀狼とひなの間に差が無いようである。むしろ過酷な環境で育ち、他者と接する機会の多かったひなの方が大人びてさえいる。

 これ以上、この話題を続けるのがなんとなく躊躇われて、銀狼は外の雨に目を向けた。

 雨はいつ止むとも知れず降り続けている。

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