第4話 おやすみ

 ひなに背を向け銀狼は気楽に散歩をする調子で、歩を進めて行く。

 ぷらん、と垂れていた尻尾が機嫌良さ気に左右に揺れていた。

 山の民がふっかけて来た喧嘩を買うのは、何度目になるだろうか。全て自分が勝利してきたが、回数を重ねる度に相手の手が込んで来ていて、ここ最近は気の抜けない勝負が続いている。


「確か、前はここで鉈が降って来たのだったか」


 銀狼の独白と同時に木漏れ日の中に細長い影が紛れ、それらはまっすぐ銀狼目掛けて降り注いできた。

 木漏れ日を反射せぬように黒い塗料で塗りつぶした矢だ。数十本に及ぶそれらを、銀狼は見もせずに右に軽く飛んで躱す。

 勝負は、銀狼があの門柱の様な巨木の先に進んだ時から始まっている。


「風を切る音が前よりも小さくなっている。新しい工夫が凝らしてあると見える」


 相手の成長を感じ取り、喜ぶ余裕があるようだ。羽毛のように柔らかな動きで土を踏んだ銀狼が新たな脅威に気づき、最初に地に触れた左後肢一本の筋肉のバネを使って着地点の真上へと忙しなく飛び上がった。

 銀狼の左後肢が触れた地面の下から竹の槍衾が現れ、一瞬前まで銀狼が居た空間を貫いた。斜めに断たれた竹の断面は、鋭く尖っている。

 断面に塗布した秘薬の効果で鋼鉄の槍と等しい殺傷力を帯びている。これに貫かれていたら、通常の狼と比べ数倍に相当する巨躯と頑健さを合わせ持った銀狼の肉体といえども、無傷では済まなかっただろう。

 空中に飛びあがった状態で、銀狼は次に何が来るかを考えた。数度にわたるこれまでの勝負で相手が用意してきた仕掛けの数々を思い出し、次に何を持って自分を狩りに来るのかを予測する。

 二つの罠はどこに自分が避けても飛び上がるように仕向けたものだろう。となれば全方向からの飛び道具辺りが妥当な所か。

 かすかに風を切る音を、銀狼の耳は聞き逃さなかった。首筋の辺りと、左脇腹、それに右前脚の付け根の辺りに、氷を当てられた様な感覚がする。

そこに迫る危険を妖魔としての直感が感知しているのだろう。

 青い双眸が三方向から迫る矢を捉えた。いずれも人が直接射ったものではあるまい。矢から感じられる殺意の薄さに、銀狼はこの矢もまた回避されることを前提としたものであろうと、判断を下した。

 勝負の回数を重ねる度に周到になってゆく仕掛けを、今はまださほど脅威とは感じていないが、笑っていられなくなるのもそう遠くない日の事のように思える。

 空中で足場にするものが無い状態で、銀狼はその巨躯を大きく捩じった。尋常な生物にはありえない筋肉の柔軟さが、一頭の狼を小さな竜巻の様に回転させる。

 刀剣の刃を弾く銀色の毛皮に回転力が加わった時、突き刺さる筈の矢は触れる端から枯れ枝の様に呆気なく折られて地に落ちた。

 回転を止め、鈍く陽光を刎ねかえしている竹槍の内の一本の断面を、誤って刺さらぬように注意して踏み、その反動を利用してひょう、と宙空を飛ぶ。

 疾風の勢いで飛びながら、流れて行く周囲の視界の中に不自然なものが無いか、銀狼は注意深く視線を凝らす。

 山で生まれ、山に育てられ、山の中で死ぬのが山の民だ。自分を狙うものは、山の民の中でも特に技量に優れ、山を愛し、また同じように山に愛されている者。

 山のあらゆる気が混ざり合って生じた妖魔の目や耳、直感さえ騙す事が出来てもおかしくはない。

 すん、と音を鳴らした鼻は、周囲の臭いの中に違和感を嗅ぎとる事は出来なかった。ひなの日に焼けた肌と髪の臭いがかすかにする。

 湿った土の臭い。草の臭い。咲き乱れている花の臭い。木陰に潜んでいる虫達の鳴き声と臭い。降り注ぐ陽光のぬくもり。

 勝負の場となっているこの森は銀狼の行動範囲故、獣や他の妖魔の臭いはないから、嗅覚を頼りにするのには悪い条件ではない。

 それでもなお、山の民の臭いを感じ取れぬ事に、わずかに銀狼は目を細めた。

土を踏む音一つ立てずに地面に着地した銀狼は四肢を広げて頭を下げ、どんな僅かな音や臭いも逃さぬよう集中する。

 三角形の耳はピンと直立し、同じ狼型の妖魔と比較しても非凡な走力、跳躍力を秘めた四肢は前後左右あらゆる方向に瞬時に移動できるよう、適度な緊張を帯びている。

 歩いている時よりもいくらか四肢を広げていても、銀狼の肩高はひなよりも高い。体重も、妖魔である彼に存在するとしたならだが、ひなの十倍どころではないだろう。

 それほどの巨躯を誇る狼が、明らかに戦闘の意思を目に見えぬ陽炎の如く纏って目の前に現れたなら、どんなに豪胆な者でも、途端に腰を抜かして呆けてしまう。

 銀狼が全方向に向けて照射した敵意にも、山の民は反応しなかった。代わりに銀狼の敵意に触れた昆虫たちがことごとく気絶し、木々や花の気配も薄れる。意識とはいえぬ植物の意識さえ混迷させる妖気を伴う銀狼の敵意であった。


(前は私の敵意に反応して居所が知れた。それを一か月そこらで克服したのか。大したものだな)


 特に目的のある生ではないが、むざむざ殺されるつもりなど毛頭ないし、ましてや今の自分には、面倒を見ると決めた少女もいる。相手もますます手強さを増しているが、今回は、こちらもいつもとは違うのだ。

 銀狼は、ゆっくりと息を吐き、同じ時間で吐いた息を吸った。

 浅く長く吸っていた息に、少しずつ自然ならざる臭いが混じり始めた。土をまぶした縄、幹の中に隠した鉄の刃、しならせた枝に繋いだ短槍、わずかに人の臭いが付着した木々、巧妙に隠された足跡に残っている草履などの臭い。

 直立していた三角形の耳が、かすかに震えた。風を抉るような音と共に銀狼の背後から黒い蛇を思わせる影が迫っていた。

 太さは普通の品と変わらぬが、その長さたるや木々に紛れて判別できぬほどに長い黒縄であった。ここの山の民が使う特異な武器の一つ、剛破縄(ごうはじょう)だ。

 髪の様に細く長く加工した鉄を、小さな鉄片と共に編み込み、扱いに長けたものが振るえば巨岩も容易く砕き、巨木の幹も霞の様に抉り取る殺傷力を帯びる。

 生きた蛇のようにくねくねと幻惑する動きで銀狼を背後から襲う剛破縄の動きは、人の手に操られているとは到底思えぬものであった。

 水中を泳ぐ海蛇を思わせるその動きに虚をつかれ、打たれれば血肉は弾けて簡単に骨が露出する。

 一端を握る操り主の掌や指の動き、圧力で変幻自在に機動を変えるこの武器は、決して紙一重で避けてはならぬ危険な武器だ。

 銀狼は右前肢を支点に体を旋回して躱すが、剛破縄は蛇が鎌首をもたげるが如く、速度を維持したまま向きを変えて銀狼の脇腹を目掛けて飛んだ。

 剛破縄の表面に不規則に突き出ている鉄片一つでさえ、触れるわけには行かない。鞭そのものに打たれれば、肉は爆ぜて骨は砕ける。

鞭から飛び出ている小さな鉄片が触れれば、鋼鉄に等しい硬度を持つ銀狼の毛皮といえども容易く切り裂かれるだろう。

 避け損ねて動きを鈍らせれば、その隙に剛破縄が銀狼の周囲でとぐろを巻き、三つ数える前に狼の挽肉が出来上がるのは間違いない。

 勝負を始めた当初は、銀狼の毛皮や骨を目当てにしていたのか、ある程度形が残る程度に殺傷力を抑えた罠や武具を使ってきたが、ここ最近はそんな事に頓着せず殺傷のみを目的とした罠ばかりになっている。

 幾度も敗北を重ねてきたために、相手も引くに引けぬ所まで追い詰められているのかもしれない。

 自分の左脇腹を目掛けて迫りくる剛破縄を、銀狼は無造作に左前肢を振るって打ち落した。

 鉄砲玉も弾く鉄板を腐った木の板の様に貫いて砕く剛破縄は、鏡の様に研ぎ澄まされた断面を晒して先端が斬り飛ばされていた。

 白銀一色の毛に包まれた銀狼の足から延びるやや湾曲した爪の所業である。

 斬り飛ばされた先端があらぬ方向に飛び、大の大人でも一抱えもある木の幹にぶち当たって、その木を半ばからへし折った。

 先端を失って動きの乱れた剛破縄に触れぬよう気を配りながら、銀狼はぐっと姿勢を低くして駆けた。肢が地面にめり込み、凝縮された力の凄まじさを証明する。

 周囲の木々を揺らす爆音が生じ、銀狼の肢が蹴った地面が悪い冗談のように弾け飛ぶ。風さえ引き裂く速度を得た銀狼は、瞬時に後方に流れて行く周囲の光景には目もくれず、剛破縄を辿って操り主の下へと駆ける。

 途中、方向を転換する為に蹴った木の幹や地面が次々と弾け飛び、遅れて仕掛けられていた罠が発動するが、仕掛けた主が想定していた速度をはるかに上回る銀狼の動きを捉える事は出来ず、無駄に終わった。

 何もない空間を貫き、無駄に終わる罠の数々を、銀狼に悉く敗れてきた少女は臍を噛んで見守っていた。

 銀狼に勝負を挑み続けているのは、先月、十六になったばかりの山の民の少女であった。熊皮の袖無し上衣を着こみ、腰に大小の革袋に山刀や矢筒を提げている。

山の厳しい暮らしが、瑞々しく若さのもたらす活力に満ちた体から余分な肉をそぎ落としている。

 頼りなくさえ見える華奢な体ではあったが、必然的に鍛え抜かれた肉体と適度な脂肪で構成された肉体は、外見の細さを裏切る強靭さとしなやかさを秘めている。

 猫科の動物を思わせるやや吊り上がった大粒の瞳は茶の色を帯び、首筋に掛かる程度に切り揃えられた髪は夜の闇を写し取った様に深い黒で、ろくに櫛を通していないのかややぼさぼさである。それを茶色の布を巻いてまとめていた。

 山の豊潤な生命力が小さな体一杯に詰まっている事が、一目で分かる少女だ。

 名を、凛、と言う。

 集落の薬師の婆に特別に調合してもらった臭い消しの粉薬を全身にまぶして銀狼の嗅覚を欺き、銀狼の聴覚が捉えられぬくらい小さな吐息を、梢がざわめく音や遠く聞こえてくる鳥の鳴き声に紛れさせて隠していた。

 凛が銀狼にたびたび勝負を挑むのは、ひとえに自らの山の民としての誇りに由来する。凛は集落でも最も鍛冶に長けた家の娘であった。

 たびたび村を襲う山の妖魔を、一族に伝わる特殊な武器を駆使して撃退し、集落の始まりから今に至るまで守り抜いてきたという自負がある。

 銀狼がひなに語った様に、かつて山の民の間で、度々集落の外に出た者達が大狼の餌食となったことを重く見た長老衆の決定により、選りすぐった精鋭達が大狼退治に赴いた時、出くわした銀狼によってその誇りに一筋の深い傷を刻まれる事になってしまった。

 なぜ自分が狙われるのか皆目見当もつかず反撃せずに回避に徹していた銀狼に向けて、幾度となく振るわれた必殺の武器達は、なんら成果を上げられずその必殺の威力は一度も発揮される事はなかった。

 同道していた祈祷師の爺が、自分達が狙っている妖魔が大狼ではない事に気づき、またその性根が邪悪ならざるものであると説得した為に、それ以上無益な戦いは続けられなかったが、自分達が誇りに思っていた武具とそれを操る技が通じなかったという事実は、大なり小なり、退治に赴いた者達の胸に衝撃を残していた。

 特にこの時、山の妖魔の中でもその凶暴性、妖気の強さから特に危険視されていた大狼退治とあって、精鋭達に貸し与えられた武具は特別に吟味されたものだった。

 それが通じなかったという事実は、凛をはじめ、集落の鍛冶衆達に屈辱と敗北感を与える結果につながってしまった。

 退治から集落へと戻ってきた精鋭達の報告から、すでに大狼が滅び、新たに姿を見せた狼の妖魔も、危険視する様な存在ではないと判断した長老衆は、これ以上の銀狼への手出しを禁じたが、これに異を唱えたのが凛、その父母をはじめとした鍛冶衆達であった。

 自分達の存在意義ともいえる武具が通じぬままとあっては、先祖や集落の者達にも面目が立たぬ、なんとしても今一度機会を与えて欲しいと願い出たのである。

厳しいという言葉だけでは到底語りきれぬ暮らしを強要される山では、余分な事に割く人手や物はなく、必死の懇願は最初すげなく長老衆に却下された。

 だが、何度断られようとも地に額を擦りつけて連日連夜願い出る凛の姿に、心動かされた集落の者達の陳情もあって、最終的に長老衆は凛の銀狼への挑戦を許した。

 とはいえ無条件で許したわけではない。

 先に銀狼が凛との勝負に提示した条件をひなに述べたように、いきなり凛に問答無用で銀狼へ戦いを挑ませる事は、凛を支持した者達にも躊躇われた。

 というのも、凛が再戦の許しを得るまでの間に、山の恵みの採取に出歩いていた女子供や、妖魔との戦いで負傷し集落に戻る余力を失った若者たちを銀狼が救った事が何度となくあったためだ。

 大狼の代わりに現れた銀色の狼がひどく人間に友好的で、見返りを求める事もない態度に対し、集落の者達は少なからず好意や感謝の念を抱いてもいた。

 また山の民は巨岩や巨木に対する信仰を持つ傾向がある。雄大で豊かな恵みをもたらす存在であると同時に、命を奪う厳しさを見せる自然を恐れ敬い、感謝の念を忘れぬ彼らにとって、邪気が無く友好的な態度を見せる銀狼は、天地の様々な気が混じって生ずる妖魔とはいえ、いやだからこそ山の豊さや優しさ、美しさが集まって生まれた存在なのではないかと思わせ、畏怖こそすれ排除すべき存在とは思い難かったのである。

 ただ鍛冶衆達の思いも同じ山に生きる者として十分に分かるが故に、銀狼との再戦を是とする事は、判断を下す長老衆にしても難しいものであった。

 長老衆の屋敷に呼び出された凛が、銀狼との戦いの許可を得て血気に逸るのを宥め、まず銀狼に対して敬意をもって接し、自らの挑戦を宣言し、銀狼が承諾するまで挑んではならぬと、厳しく言い聞かせた。

 銀狼が凛との勝負を承諾するまでの間、凛の傍には長老衆からの通達を破らぬよう見張る監視の者達が付けられ、数日にわたる追跡行の果てに、ようやく銀狼と話をする事が出来た。

 そこに至るまでに払った多大な苦労と、勝負が始まってから今日に至るまで敗北を重ねてきた恥辱の思いと未熟な己への怒りが、凛の目に暗い炎を灯している。

 何十世代にもわたって連綿と伝えられ、改良を重ねてきた自分達の武具が無力なものではないと証明し、鍛冶衆としての誇りと面子を保つためにも、なんとしても凛は勝たねばならなかった。

 これまで命を失う事も厭わずに挑み続け、同じ数だけ敗北した凛に対し、銀狼は何も要求してこなかった。そのこともまた凛の胸にどろどろと粘っこく燃えている怒りの炎に、薪をくべてきた。

 生きる為に命を奪い、生死のやり取りを交わすが故に山の獣や妖魔達と、自分達人間が同じ世界で生きる生命であると考える山の民の凛にとって、命を賭す自分の思いを――当人にそのような意図はあるまいが――まるで気に留めぬ銀狼の態度は許し難い。

 敗北し、命を奪われずに済んだ弱者の立場である自分が、その事に不平を言う資格がない事は凛自身理解していた。だから、小さな胸の中に渦巻く鬱屈とした感情は消して口にはせず、憑かれた様に連日鍛冶場に籠って鉄を打ち続けた。


(銀色の、お前はあたしに情けをかけた。あたしはそれを仇で返す。恩知らずと好きなだけ罵ればいい。けれど、そうさせたのはお前だ。命を賭けたあたしに対するお前の態度は、お前自身気付いていないかもしれないが、見下し対等とみていないものだった。

 あたしに向けられた目には何の興味も関心もなかった。それがどれほどあたしにとって屈辱であった事か。逆恨みかもしれないが、お前の首を取るまであたしの怒りは収まらない)


 気取られぬように、感情を極力抑制する凛の瞳には、白銀に輝く美しい狼の姿が映っていた。

 凛は手に握っていた剛破縄を、音を立てぬようにそっと落とし、左の小指に巻いてある糸をいつでも引けるように意識する。

 目にも止まらぬ速さで駆けていた銀狼は、凛が手放した事でだらりと剛破縄が地面に垂れ落ちたのをすぐさま察知し、一本の大木の幹に対して昆虫の用に張り付く姿勢で肢をふんばって次の手を警戒した。

 この時、すでに銀狼は凛が息を潜めている場所まで目と鼻の先という位置に接近していたが、耳も鼻も凛の存在を察知できずにいた。

 これほど自分の耳と鼻が役に立たないと思ったのは、銀狼にとって初めての経験であった。

 希代の刀鍛冶が世に送り出す最後の一振りとして、持てる技術の粋を凝らした名刀に匹敵する切れ味を持つ足の爪は、しっかりと幹に刺さり銀狼の体を支えている。

 全方向に神経を巡らす銀狼の耳が、ざあ、と枝葉が大きく揺れる音を捉える。銀狼が巻き起こした風のせいではない。となれば凛の起こしたものだろう。なにか仕掛けて来るかもしれないし、あるいは何も仕掛けて来ないのかもしれない。

 山の狩りは数日をかけて行われることもしばしばある。これまでの勝負で最も時間がかかった時で、丸三日時を要した事があった。

 凛が今回の勝負を短期決戦と見るか長期戦とみているかで、打ってくる手も変わってくるだろう。長期戦ならば罠があると見せかけて何もせずに、心理的な圧力をかける事も多い筈だ。


「とはいえ、ひなを待たせるのも可哀そうだし、時をかけるつもりはないぞ。煉鉄衆の凛よ」


 踏ん張っていた姿勢から体重など無いような柔らかな動きで地面に降り立った銀狼は、焦っている様子もなく、はらはらと絨毯の様に舞い散る木の葉に目を光らせていた。さて、これは罠か否か。

 木の葉に意識を集中していると見えた銀狼は、しかし、その姿を凝視していた凛が予測しなかった動きを示した。

 目線を前方に縫い止められたように留めたままの姿勢で後方へと跳躍し、先程まで踏ん張っていた巨木へ向けて空中で向きを変えて思い切り体当たりをかましたのである。

 銀狼の体当たりを受けた巨木は見るも無残に砕け散り、破片が四方に散逸する中から人影を一つ排出した。小柄なその影は凛に他ならない。どうして分かったと、顔に書いている凛と目を合わせ、銀狼が答えを開示した。


「私が着地した時、呼吸が乱れたぞ。返ってきた振動も、木のそれではなかった。それまでは見事に心臓の音や呼吸を隠していたが、失敗を犯したな」


「っ」


 唇を噛む間も惜しんで凛は腰の革袋に手を突っ込み、掌に収まる程度の小さな円盤を取り出し、流れる動作で銀狼へと投じる。

 幻刃盤と名付けられた円盤の縁は触れるだけで人間の腕の一本は簡単に落とす切れ味を持ち、また平らに見える円盤の表面にはわずかな凹凸があり、操る者の技量次第では方向を問わず、速度もまた変幻自在に動き獲物を切り裂いて見せる。

 凛の技量は、銀狼との戦いを許されるだけの事はあった。右の幻刃盤は大きく弧を描いて銀狼へと襲いかかり、左の幻刃盤は下に沈んだかと思えば上に浮きあがって定まらぬ変則的な軌道で襲いかかる。

 瞳に映した幻刃盤の姿が、瞬いても消えぬ事に気づき、銀狼がわずかに緊張の度合いを強くする。降り注ぐ陽光が微細な凹凸によって反射され、目に映した者の網膜に瞬いても消えぬ幻を焼きつけるのだ。

 不規則に変化する動きのみならず、狙った相手の視覚も幻惑する為に、幻刃盤と名付けられたのだろう。

 優雅に飛んでいる燕さえ落とす速さの幻刃盤に対し、銀狼は上下運動をしながら迫る幻刃盤の上面を右前肢で思い切り叩いて砕いた。

 幻刃盤が脆いのではなく、鉄と銅を一族にのみ伝わる比率で混ぜ、特殊な製法で鍛え上げた幻刃盤を砕く銀狼の膂力が異常なのだ。

 銀狼の瞳の中には幻刃盤の偽りの映像が焼き付いて消えず、幻刃盤が風を切る音とわずかに付着している凛の臭いを頼りに肢をふるったが、それが功を奏した、と内心では安堵した。

 銀狼は安堵の息を吐く暇もなく、刹那の差で襲い来る幻刃盤に嗅覚と聴覚を集中する。風を切る音が近い――ここだ、と銀狼は大口を開く。

 空中に弧を描いていた幻刃盤はがき、と硬質の音と共に銀狼の牙の間に噛み止められていた。のみならず、銀狼は首を勢い良く捩じった勢いを利用して、凛目掛けて噛み止めた幻刃盤を投げ返す。

 扱った経験のない銀狼が投じた幻刃盤は何の工夫もなくただまっすぐに、凛へと襲いかかり、とっさに凛が抜いた山刀がかろうじて幻刃盤をはたき落した。

 幻刃盤を弾いた山刀を通して伝わった衝撃が、凛の腕を痺れさせていた。姿勢を崩したまま着地した凛に、銀狼が銀色の雪崩の様に襲いかかる。凛が崩した体勢を立て直して迎え撃つのは、不可能な速さであった。

 巨大な白銀の獣が自分の視界を覆い尽くすのを、凛は防ぐ事ができなかった。山刀を握る右手は銀狼の右前肢に押さえつけられ、胸元に左前肢が乗せられている。

 凛がどのような動きを見せるよりも早く、その左前肢から延びた爪が凛の喉を裂くか、そのまま胸を骨ごと押し潰す方が早い。ましてや腕の痺れはまだ残っている。

 敗北した凛に対して侮蔑も勝利の余韻も優越感もなく、ただなんの感情も込めず静かに見下ろす銀狼の姿に、凛は一瞬忘我する。初めてその姿を見た時も、同じように銀狼の姿に心奪われ呼吸をする事さえ忘れた。

 銀狼の、狼としてはあまりに規格外の巨体の迫力もさることながら、何よりも見る者の目を引きつけるのはその美しさである。

彼方の稜線を燃え上がらせる曙光、中天に燃え盛る太陽、世界に黄昏時を告げる夕陽、静かに夜の世界を見守りながら照らし出す月光を浴びる時、銀狼の持つ白銀の毛並みは、あたかも燃え盛っているかの如く輝きを放ち、美しさという言葉の真の意味を見る者に教える。

 その姿に脆弱さなど欠片もある筈がなく、誰も踏みしめていない処女雪の白色を写し取った毛並と、夜の闇の中でも眩いまでに輝く青い瞳はどこか高貴さすら漂わせている。

 銀狼の姿を見た長老が、この世で最も美しい獣と、糸のように細い眼から滝の涙を流しながら呟いた時、その場に居た誰もが心から同意した。その中に凛もいたのだ。

 集落の中には他の妖魔とは一線を画す威厳と美を誇る銀狼に対し、崇拝の念を抱いている者さえいる。凛もその気持ちは分からなくもない。自身の心の中に、銀狼に対する憧憬めいたものがある事は、苦々しくはあるが自覚している。

 最初に銀狼に対し戦いを行う事を求めた理由に、鍛冶衆としての誇りと意地が根底に流れていた事は確かだ。だが、それ以外にも自分の心を奪った獣と存在の全てを賭けた戦いを挑む事で、対等でありたいと言う欲求があった事もまた事実であった。

 であるのに、万感の思いを秘めて持てる知識と技術の限りを尽くして挑み敗れた時、銀狼の牙にかかり、その血肉へと変わるのだと諦感と倒錯的な喜びに胸震わせていた凛に与えられたのは、無関心の瞳であった。

 恐怖と敗北感と喜びと期待とに震える声で、食え、と短く告げると銀狼は凛を抑えていた肢をどけ、無言のままくるりと背を向けて、何もされなかった事に驚きと失望と悲しみを覚える凛を振り返る事もなく、山の何処かへと消え去っていった。

 それが繰り返される度に、凛の誇りは恥辱に塗れ、敗北に膝を屈する。打ちひしがれた心はその度に憤怒を糧にして立ち上がってきた。今日も、またそうなるのかと凛は、心のどこかで囁く諦めた自分の声を聞いた。


「事を重ねる度に恐ろしく腕を上げるな、お前は。だが、今日も私の勝ちだ」


「っ、あたしを殺せ……。またお前の命を狙うのだぞ、なのになぜ、貴様はあたしになにもしない?」


 思わず口汚く罵りそうになるのをぐっとこらえ、凛は低く押し殺した声で、いつも銀狼に問いかけている事を口にした。今まで通りならばこのまま銀狼は何も言わずに肢をどけて凛に背を向け、森の彼方へと姿を消す。

 しかし、凛は今回に限って銀狼がいつもとは違う事情で勝負に挑んでいた事を知らなかった。だから、銀狼が肢をどけても去らずにその場に留まっているのに、端正だが野性味を伴う眉を顰める。

 銀狼は、まだ幻刃盤の影が消えぬのか、瞼を開いては閉じ手を数度繰り返してから言った。


「今日はこれまでの貸しを払ってもらいたい事情がある」


「なに?」


 勝負の条件通りに銀狼が要求を告げてきたことに対し、凛は喜びの様な物を感じていた。ようやく生命と誇りを賭けて挑んだ自分が、この妖魔と対等かそれに近い立場に立てるのかと、心のどこかで考えた為だろう。

 とはいえ、銀狼の要求次第では自身の生命がこの場で果てるかもしれぬと言う事に思い至り、凛は心中に芽生えかけた恐怖を何度も重ねた覚悟で潰さねばならなかった。


「あたしを食うのか? それとも村の誰かを望むのか? 食べるのならあたしにしてくれ」


「そんな事はせんさ。私はまだ牙を人の血で汚した事はないし、これから汚すつもりもないのでね。ただ、急に色々とものが入用になったのだ。説明するから、着いて来い」


 言うが早いかくるりと背を向けてさっさと歩きだす銀狼の後ろを、凛は慌てて追わなければならなかった。


「あ、罠があったら言ってくれ。いちいち確認しながら進むのは面倒だから」


「……分かった」


 前から思っていたが、妙に慣れ慣れなしい奴だな、と凛は愚痴を零しつつ黙って銀狼の後に続く。

 銀狼の意図が分からず警戒を怠る事の無い凛ではあったが、今回の様に勝負の後で銀狼に用があると言われたのは初めての事なので、何を言われるのか、何をさせられるのか、抑えきれぬ興味はあった。もともと好奇心が旺盛な性格と言うのもある。

 いくつか残っていた罠を、凛の指示で避けながら進んだ銀狼は、例の対になっている巨木の所で待っていたひなが見えると、やや小走りになって近づいた。どことなく、はぐれてしまった大好きな飼い主を見つけた飼い犬の様にも見える。

 同じように銀狼の姿を見つけたひなが、心細げに曇らせていた表情を、たちまち明るいものに変える。


「銀狼様」


「お待たせ。少し時間がかかってしまったかな。ひな、あれが山の民の凛だ」


「あ、あの、初めまして、ひなと申します」


 ちょこんと小さな頭を下げて挨拶してきたひなを、凛は訝しげな眼で見ていた。銀狼と、山の者ではないと一目で分かる少女との組み合わせを、どう判断すればよいか見当がつかなかったからだ。


「なぜ、外の者がお前と共に居るのだ。銀色の?」


「山の民と同じ勘違いをされたのが事の始まりでな」


 銀狼はどこか愉快そうな口ぶりで、ぶすっとした表情を浮かべている凛に対し、ひなが大狼に捧げられた生贄であり、大狼と間違えられた自分が、事情あって面倒を見る事にしたのだと告げた。


「ふうん。大狼が滅びた事を外の者達は知らんのか。で、あたしに何をしろと言うのだ。言っておくが、山の民は外の者は滅多な事が無い限りは受け入れないから、集落で引き取って養う事は出来ないぞ。それに、生まれた時から山で育っていないとここで生きる事は難しい。まあ多少は同情しないでもないが」


 口調は厳しくあったが、幾分ひなに対する同情と、受け入れる事を拒絶する申し訳なさが含まれている事を、凛の言葉の中から銀狼は聞きとった。

 人の心の機微に疎い銀狼からしてこうなのだから、人の顔色を伺う事や向けられた好悪の感情を敏感に感じ取るひなには、よりはっきりと分かる。ひながはじめて目にした山の民の少女は、結構情け深く、嘘がつけない性分らしい。


「そこまで求めてはおらんさ。ただこれまでの貸しの分をまとめて払ってもらうためにも、米とか布団とか、人間がここで暮らすのに必要そうなものを調達してもらいたい。私だと大狼の真似をして近隣の村から脅し取るか、盗むくらいしかできん。それ位なら長老衆も許すだろう」


「……」


 変わらず気楽な調子の銀狼を睨みつけていた視線を外して、凛はひなの方へと目を向けた。銀狼がいつもと違う対応をしてきた根本的な理由である少女からは、困惑や申し訳なさ、遠慮があからさまに見て取れる。

 まだ短い人生の多くの場面で、自分の意思を数多く抑えてきたのだろう。自分の為に誰かが何かをしてくれると言う事が、久しくなかったに違いない。


「分かった。話は通しておく。次の勝負の時までの間に都合をつけておこう。で、どこに運び込めばいい。ここか?」


「いや、この先に樵が使っていた小屋があるだろう。あそこで生活してゆくつもりだから、そこに運び込んでくれ。頼りにしているぞ」


 銀狼の言葉に、凛はなんとも言い難い、本人も良く分からん、といった顔をした。誇りと生命を賭けて挑み、ついに食われるのかと心のどこかでひどく緊張していたというのに、銀狼のいつもと変わらぬ態度を見ているとそんな自分が馬鹿らしくもあり、ひどく情けなく思えてくる。

 だというのに、この憎たらしい狼に初めて頼む、と言われてみると、断る事はどうにも躊躇われて、勝負の事を抜きにしても引き受けてもいいのではないかと言う気になってしまい、凛は首を捻った。

 女たらしならぬ人たらしとでも言うべき魅力の様なものが、銀狼には備わっているのかもしれない。


「これから戻って用意してくる。夕刻には届けられるだろうから、小屋に戻って待っていろ」


「よろしく」


「えと、よろしくお願いします」


 銀狼の傍らで可愛らしく頭を下げるひなの姿に微笑ましいものを感じつつ、凛は先程の銀狼との勝負で使った道具の始末をする為に、一度来た道へと戻ってゆく。 その姿が、幾重にも折り重なっている木々の合間に消えてから、銀狼が傍らのひなに話しかけた。


「待っている間、退屈ではなかったか」


「大丈夫です。私、山の民の人、初めて見ました」


「もっと人間離れした姿をしているとでも思っていたのかい?」


「んと、少しだけ。私達と変わらないのですね」


「見た目はそうかもしれんが、山の民とそうでない者とでは生き方や考え方がだいぶ違うだろうがね。さて、近くの川に寄って水を汲んでから小屋に戻ろう。ついておいで」


「は、はい」


 銀狼に誘われた先には、確かに言う通りに清らかな水が豊かに流れる川があった。苗場村では見られなくなって久しい水の流れに、ひなの目が丸く見開かれる。山の外と中でこれほど環境が異なっている事が、不思議でならない。


「川魚もたくさんいるし、そのうち罠でもつくって仕掛けておくといいかもしれんな」


「ほんとにたくさん居ますね。でもどうしてこんなに山の中は豊かなのでしょう?村からそんなに遠くないし、天気だって変わらないですよね?」


 川岸にしゃがみ込んで、透き通った流れの中で泳いでいる魚の姿に、ひなが明るい笑みを浮かべる。


「そればかりは私にも謎だな。知っていそうな奴に心当たりはあるがね。そうだ、ここにも一匹、気の良いのがいるんだ。話を通しておこう。沢爺、いるだろう。出て来てくれないか」


 銀狼の声に応じて、川の水面がぶくぶくと泡立つと、そこからひなの両手くらいの大きさの沢蟹が顔をのぞかせてきた。


「ひゃっ」


 ひなが驚きの声を上げたのは、その大きさもさることながら、口のあたりから真白いひげが生えている事だった。人間の老爺のものと変わらぬ髭であった。水面にひょっこりと顔を出した年経た沢蟹は、驚いているひなの足元まで近づいてきた。


「おお~う、狼の、今日は、なんぞ用でもあるのかね……。おや、人間の子供など連れておるとは、どうしたね?」


 しわがれた老人の声が、忙しなく動く沢蟹の口元から聞こえてきて、ひなはまた驚く。妖魔の中には高い知性を持ち人語を解する者もいると、今は亡き父に聞かされていたが、こう、立て続けに遭遇するとそれでも驚く。


「うむ。実は、この娘、ひなというのだが、しばらく私が面倒を見る事になってね。森の中にある小屋を住まいとするのだが、この川が一番近い水場だから、これからも水汲みに来るだろう。なるべく私もひなと一緒に来るつもりだが、もしひなが一人で来た時に川に落ちるような危ない目に遭ったら、助けてやってくれないか」


「ああ、それ位なら構わんよ~う。お前さんには前に、乱暴な奴を追い払ってもらったからなぁ。しかしよう、人間の子の面倒を見るのなら山の民を頼るべきなのではないかい。人の事は人に任せるのが一番と、賢いお前さんなら分かろうものによ。あの、なんといったか、凛か。あの娘に頼めば何とかなるのではないかい」


「いや、彼女は山の民の掟に縛られている。あそこは同じ山の民以外の者を滅多な事では受け入れはしない。凛に頼んでも無理な事だ」


「そうかい。まあ、お前さんは随分と変わりものだからねえ。人間の子の一人や二人面倒を見ると言いだしてもおかしくはないさね。ひなちゃんや、ここらは狼の縄張りだからね。人を襲う様なやつぁ、そうそう姿を見せはしないが、気をつけな。あ、後ここで魚を獲るのは構わんが、わしの仲間は勘弁してくれなあ」


「はい、分かりました。沢爺様」


「ええ返事じゃて。用はそれだけか? ならわしは戻るでな。ではの、ひなちゃん、狼の」


 そう言って、川底を歩いて戻ってゆく沢爺を見送ってから、ひなは持ってきた桶に水を汲んだ。


「銀狼様はお知り合いがたくさんいるのですね」


「いや、そうでもないよ。知り合いと呼べるものは、数える位だな。あまり遠出はしないし、山から下りた事もない。私にとっての世界はこの山ですべてだ」


「だったら私もです。村で生まれてから外に出た事がなかったから、村しか知りません。でも銀狼様に会えて、知っている世界が少し広がりました」


「ん、私もだな」


「お揃いですね」


「そうだな」


 どことなくひなが嬉しそうだったから、銀狼もつられるように嬉しくなった。共に過ごした時間はまだ短いが、この一人と一匹の間ではそれなりに精神的な交流が行われているのだろう。

 銀狼はともかくとして、ひなは目を覚ましてからなにも口にしていなかったので、川の水を少し飲んで喉の渇きを癒した。水をいっぱいに汲んだ桶は、ひなにはやや荷が重い様だったので、銀狼が咥えて運ぶ事にした。

 凛が一度集落に戻ってから銀狼の要求を達成して小屋に姿を見せるのは、どんなに早くても陽がとっぷりと暮れてからだろうから、小屋に戻ったら山菜や茸でも取ってこようかと銀狼は考えていた。太陽は中天にかかっている。

 人間の子供がどの程度一日の間動き回れるものなのかさっぱり分からなかった銀狼は、頻繁にひなの様子を見て、今日はどこまで動き回って大丈夫なものか注意しなければならなかったし、そもそもひなは飢饉に見舞われた村の子だ。満足に食べる事も出来ていなかったろうから体だって弱っているはずで、何か食べさせないといけないと頭では分かっている。


「はあ、ようやく着きましたね」


 ふう、と息を吐くひなの額や首筋には珠の汗が浮かび、小さな体の中に多くの疲労が詰め込まれている事が見て取れた。

 ひなは右手に持っていた荷物を、近くでとってきた葉の上に置いた。川で水を汲むついでに銀狼が獲った川魚二匹だ。草で編んだ紐で尾の辺りを縛ってある。


「包丁はないから、私の爪で捌くか」


 にゅ、と銀色の毛の塊の中から真珠色の爪を出した銀狼が、川魚の腹の辺りに爪の先を宛がった所で動きを止めた。


「ひな」


「はい、なんでしょう?」


 動きを止めた銀狼に対して、どうしたのかしら? と思っていたひなは、こちらを振り向いた銀狼に、小首を傾げて聞き返した。


「魚の捌き方は分かるか? 私はやった事がないから分からない」


 それはそうだろうな、とひなも思う。狼がわざわざ魚の内臓やら骨やらを分けて食べる様な事はすまい。

 というか、銀狼に魚を捌いて食べると言う発想があった事が、ひなには意外だった。そのまま生で食べるつもりなのだろうな、とばかりひなは思っていたのだ。


「ああ、はい。どうしましょうか、私が指示を出せば良いでしょうか。でも、魚を焼くなら火を起こせるようにもしておかないとですから、木の枝や薪を用意しなきゃ。それに水もまだほんの少ししかないですし、また汲みにいかないと」


「そうか。とはいえ、すぐにまた出歩くのは辛そうだ。少し休もう。疲れていようし、腹も空いているだろう。木の実か茸でも採ってくる。近くにいるから、この小屋で待っていなさい。なにかあったら大声で呼ぶんだぞ。三つ数える前に戻ってくる」


「はい」


「なんなら少し眠っておくといい。今日は朝から動き回ってばかりいたしな」


 そう言って、銀狼は小屋を後にした。本物の銀を加工して一本一本植えたのではと思わせる眩い輝きを放つ毛並みが、鹿皮の戸をくぐっていくのを見送ってから、ひなはこてんと仰向けに寝転んだ。冷たい床が体の熱を吸ってゆくのが心地よい。

 恐ろしい伝説と共に語られる妖魔の生贄になる筈が、どんな運命の気まぐれか、こうして狼の妖魔に面倒を見てもらう事になり、これまで一度も足を踏み入れたことのない山の奥深くで共に生活してゆくことになった銀狼は、もう記憶の彼方にしかいない両親と同じくらいにひなの事を優しく扱ってくれていて、村での惨めな生活を思い返すと、このまま銀狼と暮らして行ければいいと、早くもひなは思い始めている。

 村に比べてはるかに命を失いかねない危険が多い筈の山も、これまでは銀狼が傍に居てくれたことで危険な目に遭う様な事はなかったから、銀狼と共に暮らす事への恐怖と言うものはまだ薄く、そも、命を捨てる覚悟を、食われて来いと優しく冷たく言われた時から固めている。

一度は死を受け入れたひなにとって、自分を取り巻く環境が一晩で激しく変化し、死地へ赴いた筈なのに、待遇が百八十度変わって優しく扱われている事が、まだ心のどこかで現実感に乏しい。

 むしろ、戻ってきた銀狼が心変わりをして、自分を食べる方が当然の事の様な気もしている。


「銀狼様が変わっているのかなあ、それとも狼は皆、ああなのかなぁ……」


 朝から歩き通しで疲労をたっぷりと貯め込んでいた体は、瞬く間にひなの意識をまどろみの中へと招きいれた。すぅすぅ、と小さな寝息が聞こえだしたのは、ひなが寝ころんでからすぐの事であった。

 思ったよりも早くひなでも食べられそうな茸や果実を集めて小屋に戻った銀狼は、心地よさそうに眠っているひなを見つけて眦を下げた。枇杷や茸を置き、ひなの傍らにしゃがみ込んで、昨夜そうしたようにひなの小さな体を包み込むようにする。


「おやすみ、ひな」


 優しく囁き、銀狼は鼻先をひなのこけた頬に寄せた。

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