第3話 共に暮らす

「……うぅ、ん……」

 

 泣き始めてから、半刻ほど経った時、泣き疲れて眠ってしまったのか、すぅ、すぅ、とかすかなひなの寝息が聞こえ始めた。張り詰めていた緊張の糸が、予想もしなかった切られ方をしてしまったせいもあるだろう。

 頬をしとどに濡らし、冷たい床に横倒れの姿勢で倒れ込み、かすかな寝息を零すひなのあどけない顔を、銀狼はずっと見続けていた。


「眠ったか、哀れな子だ。村に戻っても居場所はなく、身寄りもない故にこうして生贄に出されるとは」


 山に吹く風は、穏やかな日差しの降り注ぐ春から夏の熱気を帯び始めているが、夜の山は冷える。ひなの体が冷えぬようにと、銀狼はひなの小さな体を包む様にその傍らへと歩いてから伏せた。


「ん……」


 ふわりと触れて来た銀色の狼の毛並みがくすぐったかったのか、ひなはむず痒そうな声を出した。紅葉の様に小さな手が毛並みを弱々しく握る。こんなにも弱々しくちっぽけな人間の子を憐れむ気持ちが、銀狼の胸の中で大きくなっていった。

 頬を照らす朝陽に促されて、ひなは水の底からゆっくりと浮き上がるように、意識を目覚めさせつつあった。まだ心が夢の国の中に半ば残っていたが、とても柔らかくふんわりとした何かに、自分が包まれている事をなんとなく理解する。

 一昨日の夜、村長に与えられた村で一番上等な夜具が、固い岩か何かのように感じられるほど、心地の良い感触だ。

 もっとこの暖かで柔らかい何かに包まれていたくて、ひなはむずがる赤子の様に、ぐりぐりと顔を押し付ける。すると、そよそよと鼻をくすぐる細い何かがあって、くしゅん、とひなは堪え切れずに可愛らしいくしゃみをし、それでぱっちりと目を覚ました。

 村長の家で世話になっていた頃から、鶏よりも早く起きて家事をする暮らしをしていたから朝は早いのだが、昨晩はあまりの心労と寝心地が極めて良い寝床で眠ってしまったので、目覚めるのが遅くなっていたらしい。

 時刻は差し込む朝陽の傾き具合でそれとなく分かる。

 ひなの開いた瞳に、すぐ目の前で自分の肢に顎を乗せて瞼を閉じている昨夜の狼の顔が見えた。

 思わず喉から漏れかかった悲鳴をぐっと飲み込んで、ひなは今、自分がどのような状態にあるのかを悟る。

 昨夜、胸の内でとぐろを巻いていた黒々とした感情を吐露してから、泣き疲れた自分はそのまま眠ってしまい、どういうわけか、大狼を滅ぼしたと言う狼を枕と布団代わりにしていたらしい。

 規則正しく動く銀狼の腹に上半身を預けて、ふわふわと豊かな毛並みの長い尻尾が、自分のお腹の上に乗っていた。かけ布団の代わりだろうか。

 信じられぬくらいの寝心地の良さの正体は、この不思議な狼の体だったらしい。

 そのまま体の中で爆発してしまいそうな、それこそ早鐘の様に脈打つ心臓が、口から飛び出てきそうな気がして、思わずひなは両手で口を押さえた。

 何が何だか分からない。自分は、昨日大狼様への生贄としてここに運ばれてきて置き去りにされ、この美しい銀色の毛並みを持った狼が出てきて、言葉を喋って、そして、そして、ひなが食べられなければならない大狼が既に居ないと告げて来たのだ。

 どっと堰を切った様に頭の中で無数の疑問符が乱れ舞うが、それも銀狼がうっすらと瞼を開けた時に終わった。

 満月が青い光の衣を纏っていたらきっとこんな風なのだろうと、詩人なら思う様な瞳が、昨夜と同じ穏やかな眼差しでひなを見つめている。

 そのまま体の奥の奥まで、心の底まで見通されているような気がして、ひなはその瞳に魂が吸い込まれてしまうと思った。だが恐怖はない。この綺麗な瞳の中に囚われてしまっても、これまでの人生と比べれば、ずっと幸福な事の様に思える。

 青い瞳の中から見る世界は、世界が青い光で照らされているように見えるのだろうか。


「良く、眠れたか?」


 銀狼の台詞だ。年の離れた妹の面倒をよく見る兄の様な声の優しさに、ひなは思わず恐縮してしまう。


「は、はい。申し訳ありません、なんというかお布団代わりにしてしまって」


「構わぬよ。私の方からした事だ。さて、ひなと言ったな」


「は、はい」


 頭を起こした狼の体から飛び退くようにしてひなは離れ、正座して銀色の狼と向かいあう。

 道化じみたひなの動きに、知らず狼の口は狼なりに笑みとわかる形に吊り上がり、く、と喉の奥で短く小さな笑いが零れた。狼の笑みというものを、ひなは初めて目にした。


「山の外で長い事日照りが続き、田畑に作物が実らず、飢饉に見舞われていると山の民や妖が噂しているのを私も耳にした事がある。それを大狼めの祟りかなにかだと思ったようだが、それは誤りだ。昨今の日照りは純粋に天候の問題だ。何者かの意思が働いたが為ではない」


「昨日のお話通り、私が生贄として捧げられた事は、意味が無いのですね……」


「覚悟を決めて来た君には酷だったな。どうする? 昨日も言ったが、村に戻るのなら私が麓まで送ろう。ここら一帯は私の縄張りの様なものだから、君にとって危険な妖魔や獣はまずいないが、万が一と言う事もある」


「それはできません。大狼様が居なくても、村の人達にとって私が大狼様への生贄である事には変わりがありません。その、私がいくら大狼様はもう滅んでいると言っても聞いてはくれないでしょうし、私が……食べられる事で村が救われるのだと信じています。だから、雨が降らない限り、私が村に戻っても居場所なんかありません」


 この少女の過ごしてきた環境が劣悪、とまでいかぬかもしれぬが恵まれぬものである事は、人間の暮らしに疎い狼にも察する事は出来た。

 年に似合わぬ聡明さを言葉の端々に匂わせるこの少女にとって、自分の置かれた環境が理解できるだけにさぞや辛い日々を送っていたのは間違いない。

 ひなの言うとおり、このまま村に帰しても、危惧している通り温かい歓迎などある筈もないだろう。

 かといって村以外にこの少女に居場所もあるまいし、なまじ妖魔ながらに人が良い――もとい狼が良いだけに銀色の狼は頭を悩ませていた。

 ひなの事情など考えず山から追い出すか、食ってしまうか出来れば苦労はないのだが、この銀色の狼はそうすることが出来ないらしく、繊細な銀色の毛に包まれた眉間に皺を刻んでいた。

 床の一点を見つめる様に顔を伏せて、暗い雰囲気を小さな体から滲ませ始めたひなを、どうしたものかと、喉の奥をぐるぐると鳴らして考えていたが、不意に、顔の向きを変えて、小屋の壁を透かして何かを睨むように眼を細める。

 様子の変わった銀狼に気づき、ひなが不思議そうに顔を上げる。


「あの、どうかなさいました?」


「この小屋に人間達が近づいて来ている。昨夜、君を送ってきた村の者達だな。臭いと足音が同じだ。君が食べられたかどうか確かめに来たのだな。どうしたものかな、生きている事が分かれば、どうなるか、君自身理解しているのだろう」


「……大狼様に代わって、私を食べてはもらえないでしょうか?」


 わずかに間を置いて出されたひなの提案に、左右の耳をぴんと立てて銀色の狼はひなの顔をまじまじと見つめた。驚きの表現らしい。


「私に大狼の振りをしろと?」


「勝手で失礼な事を言っているとは分かっています。それでも、私にはそれしかないのです。村に戻る事が出来ない以上、もうこの世に私の居場所はないから」


 自分に居場所はないと悟っているひなの言葉を聞き、銀色の狼は逡巡してから問うた。


「ならば、君の命は今より私のものということになるな。本当にそれで良いのか? 後で悔やむ事になるかもしれんぞ。自ら命を捨てるのは罪深い行いだと、耳にした事もある」


「はい。構い、ません」

 

 ひなは眼を瞑り、巨大な狼の牙が自分の命を奪う瞬間を待とうとした。だが、銀狼が立ち上がった気配がしたと思ったら、ひなの方ではなく戸の方へ気配が遠ざかってゆく。

 どうしたのかと思って、瞼を開くと、ちょうど銀色の塊が荒々しく戸へと衝突する所だった。鼓膜を打つ破砕音と共に戸が木っ端微塵になって吹き飛ぶ。

 一夜限りであったが話をして、銀色の狼はとても落ち着きがあり、穏やかな気性と感じていただけに、突然の銀狼の行動にひなの理解が追い付かない。

 そのまま小屋の外へと飛び出た狼は、朝陽を浴びて燃えているかの様に、銀の毛並みを輝かせた姿で威風堂々と立ち、小屋の内側から現われた巨大な狼の姿に硬直する村人達を睨みつけていた。

 これが伝説の大狼なのかと、その場で恐怖のあまり立ち尽くす村人達へ、狼は周囲の木々を震わせる、低く抑えられた威圧的な声で語りはじめる。

 木々の間を巡る間に反響したのか、目の前に立つ銀色の狼が喋っているのに、右から左から、前から後ろから、上から下からも聞こえてくるようで、村人達は今起こっている事が現実のものなのかさえ分からなくなっている。

 さて、と銀の狼は心中で呟く。なるべく無慈悲で凶暴な伝説の妖魔らしく、恐ろしげに話さなければなるまい。やったことのない事をするのは、ひどく面倒に感じられた。

 す、と小さく浅く、そして短く息を吸う。


「村人よ、我は大狼。貴様らよりの捧げもの、しかと食らった。娘の芳しき肌、甘い香りのする髪、湯気を立てる臓物、若い命に溢れた血潮、すべて我の胃の腑の中よ。約定どおり、我がかけし呪いを解く。今日より七日の後、雨は降り、貴様らの乾き果てた喉や肌、そして田畑を潤すであろう」


 大狼と思いこんだ相手からの、望み通りの言葉を聞き、大狼への恐怖を押しのけた喜びが、村人達の顔に浮かんだ。

 誰の顔にも、ひなの死を悲しむ様子は見られない。これが、村にとってのひなの価値なのかと思うと、銀狼はいたたまれぬ思いを禁じえない。

 銀狼は、おお、と声を上げて顔を見つめあって喜びを共有する村人達へはっきりとした殺意さえ感じていた。

 ぐおう、と体のすべての細胞が恐怖で縮こまる様な叫びが、銀狼の喉から迸り、喜びに浸っていた村人達を一瞬で、恐怖ばかりが詰まった奈落の底へと叩き落とした。


「用が済んだのならば、一刻も早くこの場より去れ。貴様らの顔なぞ見たくもない。去らねば貴様らすべて、我の腹の中で昨夜の娘と再会させてくれるぞっ!」


 村人達へとの慈悲の一片も、容赦もない言葉に、蜘蛛の子を散らす様にして村人達は背を向けて駆け出す。一瞬でもこの場に留まっていたら、恐ろしい狼の牙によって食い殺されると心底から恐怖したのだ。

 あまりの恐怖に小便を漏らし、泣きながら走り去る村人達の背中を忌々しげに見つめ、銀狼は背後へと首を巡らした。

 ひなが村人達への恫喝の為に粉砕した戸から小さな顔を覗かせて、銀狼の青い眼と黒い瞳とが見つめ合う。

 少なくない恐怖と疑惑、不安がひなの瞳の中で、嵐の夜の水面の様に激しく揺れている。それを見て取り銀狼はつとめて優しく声を出した。


「と、いうわけだ。悪いが、これでもう君は村には帰れん。その命、私の好きにさせてもらうぞ。その代り、君の面倒は可能な限り私が見る。とりあえずは食べないから安心しなさい」


「でも、私は貴方様に食べられる位しかできる事はありません! お洗濯もお掃除も、貴方様には必要ではないでしょう?」


「まあそうなのだがね。こうも長く誰かと話をしたのは君が初めてでな。当面は、私の話し相手にでもなってもらおう。正直な所、私は君に情が移ってしまっている。見殺しにするのはどうにも無理だよ。それから先の話は、その時になってからすればよい」


「でも、でも……」


「自分の命を私に捧げると言ったのは偽りか?」


「それは、嘘を言ったつもりはありません。でも私は私を食べて頂こうと」


「でも、はもう止めなさい。それに言ったではないか、本当は食べられたくはない、本当はすごく怖いと。なら、自分を食べて欲しいなどと二度と口にするな。少なくとも、私は君を食べるつもりはないし、これからもそのつもりだ。だから、君は生きて良いのだ。まあ、私の様な人語を解す珍妙な畜生と一緒というのは、不幸な事かもしれんがね」


「そんな事ありません。貴方様は、村の人達よりもずっと優しくしてくださって、とても、嬉しかったです」

 小さな手を握り、首と一緒に横に振って、銀狼の言葉を精一杯否定するひなの様子に、銀狼はその狼面に穏やかな微笑を浮かべる。土を踏む音もなく銀狼がひなの傍まで歩み寄った。


「早速だが、場所を移すぞ。ここより君が住みやすい場所がある」


「でも、ここが貴方様のお住まいなのではないのですか? 私の為にわざわざ移られなくても」


「なになに、その程度気にするな。雨露を凌ぐ時に使っていた程度だ。さして愛着があるわけでもないからね。では行こう、少し遠いから私の背に乗りなさい。振り落とされないようしっかり掴まっているように」


「え、あ、ははい」

 

 ひなは、ぺた、と目の前で腹這いになり、背中に乗るよう顎を動かして促す銀狼に驚いたが、拒否する訳にも行かず、おっかなびっくり銀狼のさらさらと手の中で滑る毛を掴み、うんしょ、と一声零して背中に跨る。

 がっしりと両足で銀狼の背中を挟みこみ、やや前屈みになって毛を握り込んだ。ひなが背に移った事を確認してから、銀狼が、よし、と小さく呟いてゆっくりと立ち上がる。

 ぐん、と高くなる目線と、ふらふらと左右に揺れる体を必死に立て直そうと、ひなも懸命に銀狼の背中を挟みこむ両足と手に力を込める。


「大丈夫か?」


「はい、平気です。あの……」


「なんだね?」


「そういえば、まだお名前を伺っていなかったのですが」


「ああ、そうだな。今までは、銀色の、とかお前、と呼ばれてきたな。名前か、考えた事もなかったが、大狼にちなんで当面は銀狼とでもしておこうか。なんなら、君が名付け親になってくれても構わぬよ」


「そんな、私なんかがお名前を決めるなんて、恐れ多い事です」


「そうかね? よほど変なものでなければ喜んで使わせてもらいたいと思っていた

のだが」


「じゃ、じゃあ考えておきます」


「良き名を頼むぞ、ひな」


「あ、はい!」


 初めて銀狼に、ひな、と名前で呼ばれた事に気づき、ひなは喜びに笑顔を浮かべていた。こうまで優しく名前で呼ばれた事はここ何年も無かった事だった。

 ゆっくりと銀狼が一歩を踏み出し、背のひなが戸惑いながらも、きちんと背にしがみついているのを確認し、また一歩一歩と歩みを重ねる。

 背中にしがみついたひなには、ほとんど衝撃は伝わってこない。よほど柔軟な筋肉と間接を持っているのだろう。


「少し速くするぞ」


「はい」


 ぎゅっとひなの体が自分の背に押し付けられるのを確認して、銀狼は歩行から走行へと移って小屋の裏手に広がる道の無い森林の中へと飛び込む。

 一歩踏み込んだだけでも、ひなの手よりも太い木の根がうねくり絡み合い、くるぶしまで伸びた雑草や花々が絨毯の様に地面を埋め尽くしている。

 走るだけでなく時には岩を蹴って大きく飛んだり跳ねたりする銀狼の背で、次々と後方へと流れて行く緑の世界を、ひなは信じられない思いで見ていた。

 振り落とされるのでは、という恐怖はない。銀狼が時折ひなを気遣っている様子が背中にしがみついていても分かったし、なによりここ数年黄土色の乾ききった大地しか見ていない目には、鮮やかな緑の世界は極めて新鮮なものとして映り、ひなの関心はもっぱらそちらにあった。

 髪をなびかせ頬を撫でて行く風の心地よさに、目を細めながら、ひなが銀狼に声をかけた。


「あの、銀狼様!」


 風切り音のする中で聞こえるか少し心配で大声を出したが、銀狼は左耳をピクリと動かして


「なんだ」


 と聞き返してくる。


「雨のことなんですけど、七日後に本当に、降るのですか? あの、そうじゃないと」


「ああ、あれは本当だ。昨晩、ひなが寝ている内に天候を読んでおいた。西の方から湿った風の臭いがしたからな。ずれても半日程度だろう」


「後、七日ですか」


「嫌な話を聞かせてしまったか?」


 後七日待てば、ひなが生贄として差し出される事はなかったと告げたのだ。銀狼の声が心配そうな響きを持っていたのも仕方ないだろう。これ以上、背の少女が傷つくのは避けたいと思っていた。

 ひなは、遠慮がちに言った。


「少しだけ」


 ひながその言葉を選んだのは村に居場所が無い事を悟りきった諦観と絶望からだろうか。

 銀狼の言葉に少し拗ねたような調子だったから、銀狼は安堵してわずかに微笑した。もっとも狼面である事と、位置の関係からひなには分からなかったけれど。

 とん、と銀狼の足が苔むして黒く変わった岩を蹴り、小川を飛び越える。はじめて感じる浮遊感と、足元を流れる銀色の流れ、髪を靡かせる心地よい風に、ひなは自分がしがみついているのが、狼の姿をした恐ろしい妖魔である事も忘れて、村のしがらみから解き放たれた解放感で胸をいっぱいにしていた。着地の瞬間も、わずかもひなに衝撃が伝わる事はなく、銀狼も着地と同時に再び疾走へと移る。


 銀狼は牛馬よりも大きな巨体ながら、猿の様な身軽さで巨木の間をすり抜けて駆ける。山に生まれて育った猪や鹿でも、舌を出して荒い息を吐きだすような険しい道を軽々と越えると、一層濃い緑の臭いがする森の中に広場が見えてくる。

 黒ずんで見えるほど、幾重にも折り重なった木々の枝が円形にぽっかりと開き、大狼の生贄用の小屋よりもいくぶん大きい小屋がそこに建っていた。

 疾走から緩やかな歩みへと変え、銀狼が背のひなに語りかけた。飛んだり跳ねたりと忙しい道行だったが、ひなは眼を回している様子はない。


「ここだ。昔、樵の老人が使っていた小屋だったらしい。あっちの小屋よりもここの方がまだ暮らしやすいだろう。近くに川や泉もあるし、人間の食べられる茸や山菜もあるはずだからな」


 足を止めて腹這いになった銀狼の背から降りたひなが、広場のちょうど真ん中に立っている小屋へと足を向けた。樵が残していった小屋は無人となってからまださほど時間が経っていないようで、傍から見た分にはしっかりとした造りに見える。

 鹿の皮を垂らしているだけの戸をくぐり、中を見回すと、多少埃っぽい空気がしたが、大きな水甕、竈、囲炉裏、鍋などが残っていて、確かに生贄用の小屋よりもこちらの方がひなには暮らしやすいに違いない。

 ひなに続いて銀狼も小屋の中に足を踏み入れた。銀狼が小屋の中に入るのは初めての事だったので興味深げに周囲を見回して、これからひなが暮らすのに何が必要かと思案を巡らす。


「さて、当面の問題はひなの食べ物になるかな」


「銀狼様に食べ物の心配は……いらないのでしょうか?」


「まあね。夜は冷えるから寝具が無いとひなには辛いな。いつまでも私の体が布団代わりでは不憫だ」


 銀狼様の御身体で眠るのは、とっても気持ちいいんだけどな、とひなは思ったが、流石に失礼かと思って口にはしなかった。


「よし、ここは一つ。山の民に頼むとするか」


 山の民、というのは読んで字の如く山に住まう人々の事だ。猟師や樵でも足を踏み入れないような山の奥深くに居を構え、独自の文化や風習を持つ。

 狼や猪、熊といった動物はもちろん、多様な妖魔が蠢く山で暮らす彼らは、厳しい掟と強固な団結力で結ばれている。その為、必然的に排他的になり、ほとんど山の外で暮らす者との接点はなく、ひなもその姿を見た事はない。


「山の民にお知り合いがいるのですか?」


「ん、まあ、一応知り合いだな。ここからまた少し移動せねばならんが、歩きながら話すとしよう。それとも休むか?」


「あ、私なら大丈夫です。そういえば、ここら辺は危険ではないのですか?」


 ひなは持っていた鍋を置いて銀狼の傍に寄った。周囲を警戒するようにして視線を巡らすひなを安心させるために、銀狼は穏やかな調子で話しはじめる。


「山の獣や妖魔ならさほど気にせずともよいさ。樵が休むために建てた小屋だからね、安全には気を配ってある。それに私の気配が残っているから、避ける事はあっても近づいては来ない。それでも、私の眼の届くところにいた方がいいとは思うがね。そういう意味では、まあ、妖魔よりもこれから行く先の方が危ないと言えば危ないな。帰りに川で水を汲んで行こう。桶を一つ持って行きなさい」


「は、はい。あの、山の民の事は話でしか聞いた事が無いのですけれど、どんな人たちなのですか。妖魔よりも危ないって、どういう……」


「私も詳しく知っているわけではないが、妖哭山をはじめ、この国の山ごとに住む人間の集まりというのは知っているな?」


 こくん、とひなは小さな首を縦に振る。小屋を出て、森の中へと通じる道なき道を、銀狼が先導して分け入ってゆく。


「山で採れる鉄や金銀、銅に鉛、錫などの扱いに長けていて、時折山を下りては百姓と毛皮や農具を、米や味噌と交換している。この国の始まりから山に生きるよう、神に定められたとも言われる、山の事を最も知っている人間達だな。鍛冶の技術に優れているだけでなく山の民にのみ伝わる不思議な技術で様々な道具を拵えて、戦がある度に雇われていたりもする連中だよ。集落毎に特色があるものらしいが、ここの山に住むのは煉鉄衆という集まりで、特に鉄武具の製造に長けている。滅多に山の外に出ないからひなが知らないのも当たり前だ」

 

 話しながらの道行は、銀狼が足を止めたことで一時、中止となった。ひなが見上げても視界に収まりきらないくらい大きい巨木が門柱の様に聳えている。

 ここが、銀狼と山の民にとって何か意味のある場所なのだろう。巨木の門柱の先に人影はない。


「以前に、私を大狼と間違えた山の民と諍いがあった。その時の誤解はもう解いたし、私も手を出さなかったから、あちらに禍根もないはずだったのだが……」


「ここが、なにか関係があるのですか?」


「一人だけ、私と争った時の事を納得していないものがいてな、しつこく私を狙っているのだよ。とはいえ、私には特に戦う理由はなかったし、かといって毎日追いかけられてはたまったものではないから、いくつか条件をつけて勝負する事を承諾した。戦ってもいいが、それは最短でも月に一度、場所もこの林付近に限る、とな。

 山の民の者が勝てば、私の毛皮や牙、爪、骨、血肉を好きにしていい。その代り、私が勝てば、私の言う事を一つ聞く、というのが条件だ。それで今日がその月に一度の日だ。そいつにひなの為の食料などを用意させよう。危ないから、ここで待っていなさい。すぐに終わらせてくる」


「あ、あの」


 心細げな、それこそ風に紛れて消えてしまいそうなひなの声に、銀狼は首を捻って振り返り穏やかな光を青い瞳に浮かべて、枯れ枝を思わせる痩せこけた少女に声をかける。


「相手を殺したりはしないから、安心しなさい」


「いえ、その、お怪我をしないように気をつけてください」 


 心配そうに声をかけてくるひなに対して瞼をぱちぱち開いたり閉じたりしたかと思えば、銀狼の両耳がはたはたと交互に音を立てて動いた。


「ふむ、ふむ。そうか、相手を心配しているのではなくて、私を心配してくれていたのか。誰かに心配されたのは、これが初めてだが、いやはや、悪くないものだな。ひな、君は私が知らなかった事を教えてくれたぞ」


 照れていたらしい。この世に生じてから、ひな以上に他者との交流を持ったことがないせいで、自分が他者になにがしかの感情を向けられるという経験が極めて乏しいためだろう。

 そんな銀狼の姿に、ひなは可愛らしい所のある方、と当初の恐怖はどこへやら、そんなことを考えていた。

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