恋とはどんなものかしら

マルヤ六世

恋とはどんなものかしら

 小型バスは山道をゆっくりと走っていた。「博愛観光」と記されたそのスリムな車体はくねくねと曲がるカーブを順調にこなし、温泉街に向かって進んでいくらしい。満員の車内ではぴったり同じ数の男女が十二名づつ。彼らは軽食をつまみながら談笑し、親睦を深めている。

 このバス内にいる二十四名の乗客。彼らの目的は等しく、バスが進む先の旅館にある。

 その中に一人、周囲の誰とも話さずに窓の外を眺める男がいた。鈴原怜司。彼だけは近所のコンビニに行くような気軽な服装で、表情も浮かない様子だ。それもそのはずで、他の乗客にある期待が彼にはまったくなかった。隣に座る女性が居心地悪そうに話しかけるのも無視して、男はぼんやりと今に至る経緯を思い返していた。


 鈴原が同僚の岡田に頼まれたのは、応募してしまったバスツアーに彼の代わりに出ることだった。キャンセル料が妙に高く、払うくらいなら代役を立てる方が賢いし、焼き肉くらいなら奢るからと強引に押し切られたのだ。要するにそのキャンセル料とやらは、面倒くさがりの鈴原を説得して焼き肉を食わせてやることの方が楽に思える金額なのだろう。

 岡田が応募したのは、鈴原でも名前を聞いたことがある三ツ星高級旅館の格安宿泊プランだと言う。各部屋に露天風呂が完備され、美食ガイドにも乗るような有名料亭で修業したシェフの食事が三食ついてくる。それで一泊三千円というのだから、誰でも飛びつきたくなるうまい話だ。

 そして、当然ながらそんなうまい話は存在しないものである。旅館にはバスツアーの最中に恋人同士になった乗客だけが宿泊でき、その他の乗客はそのまま駅までトンボ帰りという条件があるツアーだ。おまけに法外なキャンセル料を取ることに、署名までしなければならない。

 クリスマス前の話題作りといったところだろうか。あの旅館に泊まれるならいくらでもその場しのぎのカップルになる人間はいるはずで、実際、岡田には妻がいた。その妻がクリスマスディナーをせがんだ結果、こうして鈴原が代役を務めることになったのだから、世の中本当にうまい話はないものだ。

 鈴原はというと、そこまでして一冬の恋人を作るようなつもりはなかった。キャンセル料を取られないために参加し、そのまま何事もなく駅に戻され、年内に焼き肉を奢ってもらう。それだけでも休日の元は取れる──はずだった。金髪のバスガイドが、たどたどしく趣旨を説明するまでは。


「それではあ、そろそろこのラブイブバスツアーについてご説明いたしますねえ。みなさん、ドキドキウォッチは付けて頂けましたですか? はあい、車内の全員がつけてくださっていることを確認しておりまあす。そちらで心拍数と脳波をはかってるです。お相手が決まりましたら、ドキドキさせてポイントをデポジットしてくださいです」

 鈴原は右腕を見る。手首に巻き付いたそれは自分も普段利用している、所謂スマートウォッチと大差はないように見えた。ディスプレイには時間と日付、心拍数が表示されている。62──それが現在の彼の“ドキドキポイント”とやらのようだ。

「たくさんドキドキすればするほどポイントはデポジットしていくです。貯まったポイントは意中の相手をドキドキさせることができる素敵なアイテムと交換ができますですよ。ドキドキウォッチではあ、最新の技術で気持ちがぴったりホットに重なったお相手が確認できまあす。そうすると、なんと二人のウォッチがハートマークを表示してカップル成立。“あがり”になります!」

 まるで体験型ゲームの説明だ。鈴原は白い無機質なそれを再び見る。ドキドキすることと恋愛とに直接的なつながりがあるとは思えないが、面白おかしく可視化するためには必要なのだろう。

「ここからはより詳しい説明でえす。最初に言っておきますが、ツアーをおりることはできません。気の合う二人組を必ずメイキングしてくださあい。それだけがルールでます。あなた方は恋をしなければなりません。恋をすることはあ、大人になることなのです。大人になるということはあ……子供を生むか、施設から引き取るかして育てる、ということなんです。人間は親になるために、そのために大人になるんですよお。生きる意味に背いてはだめなのです。正しいサイクルを作るために必要なことでえす。みんなで手をつないで、誰にも差別されないハッピーな輪っかをつくりましょう」

 そういうことか、と鈴原はつぶやきそうになった。岡田のしたり顔が見えてくるようだった。こういう趣向のゲームだったなら、今から動き出すには遅いように思える。知っていれば隣の女性と会話をしていたかもしれないのに、とすら少しだけ思った。

 ただ、どうあっても傍観を決め込む準備だけは出来ていた。車内のどよめきを見るに、鈴原と同様に騙されて参加した人間も多いようだ。道理で乗り込む際に運転手の男が憐憫のような目をして「ご武運を」などと言ったわけだ。

「旅館につくまでにい、みなさんはハートマークの二人組になっていてくださいねえ。年齢も性別も国籍も、恋の間ではすべてが関係ありませえん。ですが多様化を認めるということは、ルールの範疇で認めるということ。ハートマークが出なかった方は、哀しいですが……責任能力ゼロとして処分させていただきまあす! ご安心くださあい。もちろん今までに生き残った方々もいらっしゃいましたあ」

 処分。妙に無機質な響きだ。男たちはバスガイドの言葉を小馬鹿にして自分の精神の強さを誇示し、女はというと怖がるふりをしてもう目当ての男にすり寄っている。まったく図太いものだと溜め息をつく鈴原が隣の席を見れば、その女性はこんなゲームの説明を本気で信じているのか、血相を変えて落ち着かない様子だった。


 赤い上下のスーツに身を包んだ、小柄の美しいバスガイドが右側に掌を差し向ける。

「右手をごらんくださあい」

 誘導されるように窓の外を見れば「博愛観光ご一行様」の横断幕が無造作に木々にかけられている。いってらっしゃい、と他人事の言葉が添えられたそれは所々が黒く変色していた。誰かが大声をあげる。悲鳴が連鎖する。

 鈴原も、木々に結びつけられた壊れた人形のようなものを見た。赤茶色や黒っぽい肌の不気味な人形は、至る所に損壊の形跡が見られる。ご丁寧に骸骨のオブジェや、錆びた包丁などが落ちているのも不気味と言えば不気味だ。しかしバスは走行中だ。窓越しでは、じっくりと観察することはできない。

 けれど鈴原にはそれで十分だった。今のオブジェが偽物か本物かよりも、言葉選びや催しの演出の仕方だけで十分、不快だった。性別も国籍も関係ないという割には男女が半々用意され、バスガイド以外は日本人しか乗っていない。年齢もだいたい同世代で、周囲の反応を見るに事前説明はされていないらしい。

 たかがゲームとは言え、恋愛の強制なんて馬鹿げている。なにより、そんなペアに親になれとは笑いも出てこない。自分たちだけではなく、その子供の人権すらどうでもいい、そう言っているように聞こえる。ゲームの主催者がネットで炎上していないことが不思議なくらいだった。

 それは鈴原にとって、おそらく誰にとっても十分軽蔑に値するもので、とてもではないが付き合い切れなかった。雰囲気をぶち壊してしまうことに躊躇はない。彼はバスを停めてもらうよう、手をあげようとした。

 その前に、隣の女性が駆けだした。

「私、そんな恐ろしいことできません。彼氏もいるんです、下ろしてください」

 バスガイドに詰め寄った女性を応援するように車内が急激に騒がしくなる。怒号が飛び交い、何人かの男が──力に訴えるつもりなのだろう──通路に出ようと身を捩らせたところで、バスガイドがしずかな声で言い放った。

「恋人がいるのにこんなツアーに参加するって、恐ろしくないですかあ?」

 理解しあってそういう交際をしているやつらだっているだろう、とは鈴原も反論しなかった。女性の発言も、鈴原に頼んだ同僚の岡田も恐らくそうではない。そのことに関してはバスガイドの言葉は初めて共感できた。ただ、だからと言って糾弾していいかというと、それに対して怒っていいのは相手だけだろう、とも思う。

「私、そんな恐ろしいことできませえん」

 バスガイドが金髪のポニーテールを揺らして、意趣返しとばかりに、にたりと笑う。彼女が掲げるドキドキウォッチに「Disposal」──廃棄と表示される。甲高いモーター音。ぶつ、という鈍い音。鉄さびの、コイルが焼けるような匂い。エンジンそのもののような、匂い。


 瞬間、ガイドに詰め寄っていた女性は通路の真ん中に倒れていた。ノースリーブから覗く腕から肩にかけて、赤い血管が浮き出たような“しるし”ができている。身体は倒れたまま、釣りあげたばかりの魚のように痙攣していた。わ、と周囲の座席の人間が後ろの席、鈴原の付近まで逃げ込んできた。もみくちゃになる車内で一人、勇敢な男が前方に向かって近づいていった。

「やめ、」

 声が出ない。出さないといけない。鈴原にはわかっているが、出ない。誰かが「バトロワみたいだね」とのんきに言った。「死んだのかな」「あの人医者?」「じゃあ任せておこう」「やだあ、こわい」とざわめいた。本当のことを言うと、鈴原も知らないふりで黙っていたかった。しかし鈴原はここで声を荒げることを選んだ。緊張で指がかたまり、拳を握りながら、大声をあげる。

「やめろ──!」

 視線が鈴原に集まる。男も振り返り、立ち止まる。倒れた女性はしばらくの間びぐびぐと鈍く震えていたが、やがて動かなくなった。まるで鈴原が見殺しにしろと命令したように、周囲の目には映った。それを、彼も感じていた。

「あ、……感電、してた……から、触ったら……危ない、から」

 声を絞り出す鈴原に怪訝な視線が降り注ぐ。

「でも、さっきならまだ助けられたかもしれない」

 と、誰かが口にする。

「だから……っ、だから。感電してる最中はダメなんだよ、多分、この時計が、ダメ、で……ほら、AEDとかも、そうだろ……!」

 今度は、鈴原から乗客が離れていく。乗客全員が磁石の逆側を手にしているみたいに、つっぱねられる。彼はそれ以上の言い訳をやめ、隣の席が空白になった座席で、一人しずかに上体を丸めた。

 驚愕に目を見開いた肉塊を一つ生み出して、ようやくバスの中が静まり返った。乗客たちが口を噤むと、バスガイドは満足そうに微笑んで、先ほど女に掴みかかれられた部分の、スーツの皺を伸ばした。その光景は、彼女の今までの言葉が真実だったことを如実に表していた。

 そうして、鈴原怜司は深呼吸を一つした。ドキドキウォッチを操作する。自身の心拍数は110まで上がっている。やはりポイントが付与されていた。



 バス内の雰囲気は一変した。既に意気投合していた乗客たちは何人かづつの塊になって、なんとかいい雰囲気を作ろうと互いに励まし合っている。そのグループでリーダーのような振る舞いをしている人間たちは状況をきちんと理解していたのだ。既にパートナーがいる人間にとっては、この観光バスは魔女狩りのような場所になり果てた。そして男性にとって、現在このゲームは不利だった。

 まず、女性が一人失われた状況で何人かの賢い女性は自分が選ぶ側に立ったのだと認識した。彼女らを中心に女性のグループが生まれたことで、美人か、気が強いかどうかでその中でも優劣がつく。見事女王として君臨した女は、取り巻きと、そこにへつらう男たちを手に入れる。それをうまく使い、ゲームを有利に動かそうと画策し始めた。

 男の方も、ナンパがうまそうな男を中心にグループが出来上がる。さながら学校などでよくある、クラスの美男美女を中心とした勝ち組のカースト図だ。女王と王子の交渉を見つめる乗客たちは、その二人がくっついた後に取り巻き同士でつながり合おうと互いを見定めている。自分と一緒になるとどれだけのメリットがあるか、そういうことを順番に発表し合っている。リーダーよりも目立たないように、けれど虎視眈々と。


「ごめん、そこ、いいかな」

 鈴原がウォッチの画面をスライドさせて表示を眺めていると、王子の男が声をかけてきた。指で鈴原の座席を示す。

「人殺しはどこか別のところへ行けって?」

「いや、違うよ。画面を操作しているとわかるけど、ポイントで交換できるアイテムが各座席の下に入っているらしいんだ。交換すると、座席番号がわかるよ」

「ああ、そうなんだ。わかった」

 鈴原が席を立ち上がると、男はその座面にドキドキウォッチをタッチする。電子音が鳴ってゆったりと座面が持ちがあると、水色の小箱が現れた。

「なにそれ?」

「ティファニーの指輪」

「へえ。あげるんだ。女子は喜びそうだな。一抜けか?」

「そう簡単にいくといいんだけどね。それより、さっきのって本当? 感電中は触っちゃいけないとかって」

「多分、コナンか金田一でそんなこと言ってたと思う」

「そうなんだ。気を付けないとね。何かあったらまた聞きにきていいかな」

「いいけど、ドキドキウォッチの景品に医療漫画か探偵漫画があればそっちを交換するのを勧めるね」

「ありがとう。お互い、恋人ができるといいね」

 男は愛想よく鈴原に笑いかけると去っていく。気を付けないと、という割には王子は最初の女が感電した際に助けに入ってない。自分が助言して命を拾った男もまた、鈴原に助け船は出さなかった。ただ、この二人からは多少の信頼は得ているはずだ。それがどこかで還元されることを祈って、鈴原はできるだけフランクに接した。

 この後どういう展開になるか、鈴原にはだいたいの流れが掴めていた。まず、この山道では電波が繋がらないため通報はできない。それを見越した上でバスがここを走っていることは明確だった。仲間になろうと誘う男グループの一つに無言で苦笑を浮かべて断ると、鈴原は画面をスライドする作業に没頭する。ティファニーの指輪は16ページ目にあった。



 わずかに開いた窓から硫黄の匂いが漂ってくる。結局最後の500ページまで鈴原が確認する頃には、バスは温泉街にだいぶ近づいてしまったらしい。このスライドがかなり面倒で、やみくもにページを捲ることはできない。後ろのページに行けばいいものがあるとは限らず、300ページから10ページの間、交換アイテムに文房具が並んでいた時などは、鈴原も一度心が折れそうになった。

 そんな風にページ送りに鈴原が没頭している間に、車内はというと混乱を極めていた。100ページ以降にちらほらと存在していた交換対象にある武器。その中で拳銃を手にした気弱そうな男が、車内の実権を握りだしたのだ。

 自分の心拍数がそのままポイントになるならば、もっと簡単にポイントが手に入れられた。呼吸を止めてみる、自傷してみる、いくつか方法があった。実際にそれらを試しても鈴原にポイントは付与されなかった。けれど、鈴原が大声をあげた時には付与された。

 つまり、自分の行動によって他人の心拍数が上がると付与されるのがドキドキポイントなのだ。それがわかると後は簡単だ。今視界に映る男のように、脅迫によってポイントを集めればいい。最初から、このゲームは対立を生み出すことを前提としている。平和的にプレゼントのやり取りをすることよりも、ポイントを貯めて相手を奪い合うことが推奨されているシステムなのだ。

 鈴原はポイントを使用していくつかの座席の解放権を入手し、息をひそめて付近の座席だけを周ることにした。座席の下以外にも背もたれの後ろや床下など、ありとあらゆるところにアイテムは収納されていた。

 次に鈴原が調べたのはカメラの所在だった。これだけ莫大な資金が動いているなら、映画などではこの光景を見て楽しむ存在がバックにいたりするものだが、どうやらそれはないようだった。閉鎖された状況。このゲームが行われる理由は一体なんだろうかと考える。ゲームマスターの意図がわかれば、そこから解法を推理できるかもしれない。

 恋をしろ、とバスガイドは言った。高級旅館というわかりやすい釣り針にひっかかった人間たちに、親になれと言った。ガイドは「今までも」と言っていた。二回目ならば「前回も」と言うだろう。少なくとも三回以上は行われているゲームだと思っていいだろう。

 そして、それはこの主催者が今まで逮捕されていない、もしくは逮捕されても別の人間が主催するシステムが整っていることを意味していた。時計を外すことも試みたが、画面に「Deprecation(非推奨)」と表示されたので、鈴原はこの選択肢を早々に放棄した。最初にバスガイドが全員の時計装着を確認していたことからも見張られていると考えるべきだ。ゲームをおりるということだけが、それだけが許されていない。

 鈴原にこのゲームの勝ち筋は見えていなかったが、何をしたら詰むかはなんとなく掴めた。確かに脅迫はポイントを集めるには有効だ。ただ、拳銃には跳弾の危険があり、さらに──。

「あ、ごめ、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

 狭い車内では人数で抑えられると弱い。暴力はよほど圧倒的でない限り、人の反抗心を煽る。もしも拳銃を手にして勝ちたいなら、銃弾を確保しておかなければならない。そしてまず何人か撃ち殺して恐怖を与え、目当ての人間以外は全員殺すつもりで挑むべきだ。最後に残った人間はそいつとペアになるしかないから、時間さえあれば、ストックホルム的に恋が生まれる可能性もある。

 だから、武器さえ持っていなければ勝てそうだと思わせた時点で、その選択は負けなのだ。鈴原の読んだ通り、銃の男は女王の親衛隊によって繰り広げられる一方的な暴力の餌食になった。こうして正義という大義名分を与えられた暴力は、見る側に奇妙な興奮や恐怖を植え付ける。どちらにせよポイントは配分されるものだから、力自慢の男たちはこぞって制裁に加担していた。鈴原は止めに入らなかったし、参加もしなかった。ここで動くことになんのメリットもなければ、銃なんてもので脅す相手に同情もできない。

 そして、王子も動かなかった。こういう状況で力を振るうことを、強さや頼もしさだと女が思わないことよく知っているようだった。王子は女王を抱き込むようにして、その光景を見せないように守っている。鈴原は感心した。あの男は、立ち回りが賢い。

 数分後、顔が陥没した哀れな銃男を救おうと動いたのは、最初の犠牲者の時にも立ち上がったあの男だけだった。動き出すのが遅いのか、慎重なのかは知らないが、どちらにせよ正義感と道徳心がそれなりにある男のようだ。鈴原は逡巡し、仕方なく通路の真ん中に転がる瀕死の男を座席に引き上げる手伝いをする。

「あ、さっきの……。あの時はありがとうございました。君に止められなければ、俺も死んでいたかもしれない……」

「いや、俺も漫画で見て知ってただけですから」

「へえ……漫画で。えっとこれ。高村です。もしも生き残ったら、お礼をさせてください」

「まあ、生き残るためには誰かとカップルにならないといけませんけどね」

 鈴原が座席に寝かせた男の血を拭いていると、目の前の穏やかそうな男が名刺を差し出してくる。その際に財布の中身を盗み見ると、かなりの金額が入っていた。名刺を見ればその理由もわかる。

「社長さんなんですね。それ、言えば勝ち上がれるかもしれませんよ」

「今はみんな正気じゃないから……なにをしても逆鱗に触れそうで」

「なんだかわかる気がします。俺も、へえ社長かって思ったし」

「ちなみに、君は正気と思っていい?」

「ドキッとしたでしょ」

 高村は鈴原を見て素直な感想を告げる。改めて鏡で自分の姿を見て、鈴原もその感想は当然だと思う。実際にポイントを付与されたことからも、高村を驚かせることに成功した。やはり、他人の心拍数をあげることでポイントは付与されるのだ。

「しました。びっくりの方ですけど。どうしてそんな恰好を?」

 鈴原はポイントを少しづつ消費してメイク道具やワンピースを入手し、着替えていた。気が狂った人間か、哀れな人間か──その判断は相手に委ねるとして、鈴原の狙いは自分が脅威ではないことを相手に知ってもらうことだった。ポイントをわざわざそんなものに交換する。自分は敵意がない。そう感じ取ってもらったうえで、驚かせてポイントを回収する。

 無論、生理的に嫌悪される可能性もある。急に女装しだす男なんていじめの標的になってもおかしくない。けれど、今のところバスの雰囲気は辛うじて正義を重んじている。可哀相な男を吊るし上げることで得られるメリットは、軽蔑されるデメリットを凌駕するとは言い切れない。今のところは安全だと鈴原は考えた。おさわり禁止物件だとでも思われていれば、ちょうどいい。

「びっくりさせて……ポイントを貯めて……何と交換するんだい?」

 いつの間にか敬語が外れた高村に、鈴原も調子を合わせる。

「お金。男女関係なく支持を得られるかな、と」

「そういうのも交換所にあるんだ……確かに。でも、奪われたりしないかな」

「かもしれない。だから高村さんも言い出さないんだろうし」

 苦笑する高村に、鈴原はスカートをめくってみせた。

「すね毛も剃った」

 鈴原は高村の表情を、針のような視線で窺う。高村は目を丸くして固まった後、噴き出した。

「あはは。っと、危ない危ない。大きい声が出ちゃうところだった」

 すぐさま鈴原は腕に視線を落とす。高村が驚いたのか、ポイントが付与されている。しかし、笑わせてもハートマークは表示されない。気が合うことがカップルの条件だとバスガイドは言ったが、この程度では恋愛と判定されないようだった。

 機械が判定するということは、あがる為に媚を売っても仕方がない、と鈴原は思っていた。乗客がみな相手の顔色を窺っているのは、目の前の危険のためだ。誰かに殺されないため。しかし、それではいずれ死ぬことが確定している。

 バスガイドは旅館につくまでに、と言った。時間が残されていない状況で相手に好きになってもらうことはまず不可能だ。そもそも時間があったところで誰かに好きになってもらうということは難しいことなのだと思う。吊り橋効果でドキドキさせるにも、この舞台設定が整った状況でまだ王子と女王にハートマークが浮かんでいないことからも、なにかしらの判定基準があるように思えた。

 ドキドキすることでポイントは貯められるが、ドキドキさせればあがりというわけではない。気持ちがぴったり重なることが条件と言ったが、まさか同じ心拍数になることが条件ではないだろう。確率が低すぎる。何かのタイミングで同じになることが重要ではあるはずだ。なにが?

「おい、犯罪者を庇うつもりか?」

 気づけば、鈴原の後ろに屈強な男が立っていた。その男が突き付けたナイフの切っ先に、息が止まる。

 心臓も止まるかと思った鈴原はしかし、無事に生きている。かたや鈴原を驚かせてポイントを手に入れた男はというと、鈴原の膝にもたれかかっていた。こんな光景をあと何度見たら、このゲームを終えることができるのだろう。

 煙を放つのは、高村の手に持たれた拳銃。その凶弾はまっすぐ男の胸を貫き、口をぽかんと開いた男の涎が鈴原のスカートを濡らす。

「な、に……してん、だ……」

 高村は、自分の掌を見て不思議そうに首を傾げる。絶望したような、理解が追いつかないような半笑いの顔で、自身の手で奪った命を見下ろしている。咄嗟にさきほどの男の拳銃を手にしたのだろう。

「……高村さん、」

 そっと、鈴原は首を横に振った。悪くない。もちろん、自分を守ろうとしてくれたことが鈴原にはわかる。今までも何度も、怯えつつも人を助けようと動いた彼だからだ。ただ、冷静な行動とはとても言えなかった。少なくとも先ほどの男は殺そうという決心はついていなかった。自分の優位性をとるため、そして周囲に自分の正義感を示すためにナイフを手に取っていた。

 よほどの快楽主義者やモラルの欠如した人物、もしくは復讐などの感情に塗りつぶされていない限り、人を殺すということはなにより躊躇する行為だ。暴力に支配された女王の部下ですら、命までは取らなかった。人殺しは、下手をしたら自殺をするよりもやりにくい行為である。だから、自分の命が危険に晒されているという極限状態でも、追いつめられても、その覚悟を決めることは難しい。

 それを覆すには「正当防衛」という盾と守るべきものが揃わなければいけない。高村にとって一度命を救っただけの鈴原がそうであったように、グループで信頼を深め合ったものたちもまた、条件をクリアしている。

 周囲の目は鈴原たちを敵視していた。理不尽なゲームを強制し、最初に殺人を犯したバスガイドには敵対しないくせに。拳銃を持った男を寄ってたかって制圧したくせに。それなのに、正当防衛をしただけの、惨めな女装男を守っただけの男を睨みつけている。


 正確には、鈴原の背中越しに隠れてしまっている、銃を撃ったはずの存在を注視している。まるで初めて悪を見たような目で、視線で殺害せんとする乗客たちから彼を救う方法を鈴原は考えた。

 それは、彼が初めて犯したミスだった。立ち上がった鈴原の膝から死体が人形のように転げ落ちると悲鳴があがる。そのミスを取り返そうとしゃがみこんだ行動が、次の悲劇を生んだ。

 ──銃声。

 背後に倒れ込む高村。その存在を感じながら鈴原が見上げた先では、先ほど武力制圧に加勢していなかった男が立っていた。傍らの女が銃を手にして震えている。女の方が撃ったということは、人を殺す決意ができているコンビだということだ。男は前衛、女は後衛と役割分担がなされている。射撃の反動で仰け反っていない女の方が、目の前の屈強な男よりも鈴原としては脅威だった。

「あ、ちが……う、の……」

 銃を撃ったとみられる女は、高村を狙ったものではなかったらしい。その証拠に驚愕した表情で固まっている。どうやら、さきほどの拳銃男が息を吹き返して復讐を目論んだと咄嗟に判断して、間違えたようだった。相手が誰かも確認しない状況で人が撃てる。それが、今のバスの緊張状態を語っていた。

 今度はその二人に向けて視線が集まる。堂々巡りだ。自分たちのグループを守るために出る杭を打ったコンビにも、疑心は向けられる。逆らったら殺されるかもしれない相手と、誰が恋などできるものだろうか。目に付いたやつから殺される。それでも鈴原は乗客たちに背を向けて、高村に声をかけた。

「高村さん……」

「ヘマしちゃ……った……鈴原くん、生き、て……」

「……馬鹿なことを……止血、止血しますから……!」

 鈴原はポイントを応急セットに交換しようと時計をスライドさせる。その手を、高村が掴んだ。

「もったい、ないよ……」

 例え人が死んだとしても、自分が生き残るためには仕方のないことだと割り切ろうという考えが鈴原にはあった。自分には関係ない。高村に言われずとも生き残るつもりだった。これはそういうゲームで、ここはそういう場所だ。

 鈴原には高村の行動の全てが理解できなかった。鈴原が車内で浮いた時にすぐに声をかけてこなかったことからも、自身の長所のアピールができなかったことからも、高村は英雄的な人間とは言い難い。それなのに、自分が人を殺すことも、それによって敵視されることも織り込み済みで鈴原を庇った。それが、まったく理解できなかった。

「マジで、なに……やってるんだよ、なんで……」

「君は……俺より若いから」

 その光景が哀れっぽかったからだろうか。追撃はなく、車内は高村の死を弔うように黙っていた。鈴原には誰の感情も理解できなかった。自分たちで殺したくせに感傷に浸るような乗客も、自分より若いという理由で鈴原を庇った高村のことも。

 若いことになんの希望があるのだろう。裕福で才能があり、必要とされているから仕事に成功しているのであろう高村が、こんなくだらないツアーに参加していることすら、それすら理解できなかった。

「あ……部下におみやげ買うって言っちゃったのになあ……」

 高村の目が濁っていく。感動した映画より、許せない史実より、なによりも鈴原は泣きそうになった。人が死ぬ。自分のために死ぬ。人の死というのは、病気でも老いでも事故でも、誰かのせいであったとしても、誰かのためのものではないはずだ。

 誰かのために人が死ぬなんてことが、この現代に存在していることを鈴原は理解できない。高村の胸を必死に押さえているが血は止まらない。こんなに他人の死を悼んでいるのに、ハートマークは時計に表示されない。

 それはそうだ。鈴原は別に、高村のことを好きにはなっていない。互いを好きになることでしかゲームをおりられないなら、鈴原も未だ死から救われたわけではない。

 高村を好きになってしまいたかった。そうして二人とも生き残れるなら、恋心なんて安いもののはずなのに。


「しっかり、しっかりしてくれ……!高村さん……!」

「……もう死んでる」

 ぶっきらぼうに、背後から声がかかる。背が高い女が不機嫌そうな顔で鈴原を見下ろしていた。マスカラが滲んで目をこする鈴原の手を、長い黒髪が絡んだ腕で、その女が握る。

「……な、なんだよ」

 女の横には別の女が立っている。おどおどとした茶髪の女がティッシュを鈴原に渡した。この二人組のことも周囲は監視している。その状況にあってわざわざ慰めに来ることを鈴原は奇妙に思い、二人をじっくりと観察する。

 生き残らなければならない。このどちらかとうまくカップルになるなどして、気を引けるだろうか。ただ、誰かに好きになってもらうことも難しいが、鈴原自体が誰かを好きになることの方が彼にとっては難関だった。なにせ、自分の命を救った男のことも好きになれはしなかったからだ。

「……っ、」

 鈴原は必死に声を殺した。二人の腕を盗み見ればハートマークが表示されていた。マークの下には「EMIRI」「KANADE」とある。両方女性の名前で、おそらくこの二人のことだ。この二人はあがっているのだ。この状況下でカップルが生まれたことも驚愕だが、あがってもバスから降りられないという状況に彼は絶望しかけた。

 そうだ、最初からこのバスツアーは恋人同士になったものだけが高級旅館に辿り着けるけるという趣旨だった。どの段階でカップルになったかは知らないが、カップルが成立しただけではあがれない。到着までに他の人間たちからの嫉妬で殺されてもおかしくない状況で、それを隠し通すか、祝福されなければいけないのだ。

 ゲームは鈴原が想像していた以上に難しいものだった。無事にバスをおりるためには恋人ができるだけではダメだ。そんなの、無理に等しい。最初からこの鉄の箱は、誰も降ろすつもりなどなかったのだろうか。

 この二人はずっと目立たないでいた。鈴原にとっての彼女らが狂気の最中で傍観を決め込んで動かないでいる何人かのうちの一人だったことも、それを裏付けている。

「……ありがとう。これ、代わりになるかわからないけど」

 鈴原は深呼吸をしてティッシュを受け取ると、目元を拭いながら大きめのコートを二着、自分のポイントから二人に与えた。それは鈴原が二人のハートマークを誰にも知らせないという意思表示であり、寧ろ時計の表示を隠すことに積極的であるということを言外に理解してもらおうという行為だった。

「……ありがとう。カナデ、寒そうだったから」

 背の高い女が傍らの女、カナデにコートを着させてやる。つまり、この女がエミリだ。エミリは自分もコートを羽織ると鈴原に向けてか、はたまた周囲に向けてか、申し出る。

「死んだ奴ら、移動させたいんだけど?」

 乗客たちは返事はしなかったが、道を開けた。そしてまた固まって会話をし始めた。なにせ、終点は近い。死人に構っている暇などないのだ。死んだ奴ら、の言葉通り、銃の男も既にこと切れていた。


 最初の犠牲者の女性、リンチにされた男、高村に撃たれた男、高村。男が三人減ったことで、女性優位だった雰囲気が入れ替わる。車内には焦りが見え始めていた。

 一番後ろのシートに遺体を移動させた鈴原は、その腕からドキドキウォッチを取り外す。またしてもエラーが表示されるかと冷や汗を垂らしたが、思っていたよりも簡単に時計が四つ座席に並べられた。心拍数の表示以外は鈴原のものと変わらない。

「……やっぱり、使えるのか」

「なに、してるの……?」

 カナデが震えながら鈴原を見る。エミリの方は小さく舌打ちした。

「最低だね」

「なんとでも言えよ」

「アンタじゃない。このゲームが」

 ああ、と鈴原は心底同意した。ドキドキウォッチには“ポイントが残っていた”のだ。対立構造を煽るなんてものじゃない。最初からこのゲームは他人の時計を奪うことを踏まえて作られている。

 ドキドキウォッチは、装着者が生きている間は外れなかった。つまり、殺して奪うことがゲームの攻略に組み込まれているということだ。殺して奪ったポイントで送られたプレゼントや武器で脅したとして、相手を好きになれるかは甚だ疑問ではあるが。

 そうだ、と一層声を殺して鈴原は二人の女に向き直る。

「言い方に配慮がないと思うけど、二つづつ持っておこう。死人が持っていてもしょうがないから……俺、生き残らないといけないし」

「ホントにデリカシーがないね。でもまあ、もらっておく。それで、アンタはタダでくれるわけ?」

 ずけずけとしたエミリの物言いに鈴原はかえって安堵した。勿論死にたくないのは当然として、それ以上に目の前で事切れている高村の遺言が呪いのように鈴原に巻き付いていた。生きろという言葉がプレッシャーになってのしかかっている。

「お前ら二人は、どうしてそれが表示された?」

「どうしてって言われてもね。強いて言うなら、アタシとこの子は元から女しか好きじゃなかったからかな」

「てきとうなこと言うなよ。女しか好きじゃなくても女ならだれでもいいってことはないだろ」

 苛々して声が震える鈴原の手を握り、カナデはなんとか慰めようとしていた。その健気さに、鈴原は溜息を吐く。

「……なんか、守ってやりたくなる気持ちはわかる」

「やらないよ」

「ふざけてる場合かよ」

 ふ、とエミリと鈴原の苦笑が重なる。誰かと同じ気持ちになるという条件なら既に何度か満たしているはずだった。

「あの……ごめんなさい。その、人、私……黙ってて、看護師、なのに」

「カナデって言ったっけ。俺に謝られても困るよ。高村さんは死んじゃったし、俺とこの人は別にペアでもなかった。それに、高村さんよりお前は若いし、いいんじゃないの」

 カナデは首を傾げながらも、沈痛な面持ちで小さく頷いた。罪悪感があるようだった。あの状況で飛び出せばカナデとエミリは危険に晒されていただろう。互いに既に大事な相手がいれば、そっちを守ることが優先になる。そのことに関して鈴原は二人を責めるつもりはなかった。

「若いって?」

「高村さんが、若いから生きろって」

「変なヤツだな、そのおっさん」

「俺もそう思う。それで、二人にハートが表示された時のこと、詳しく教えてくれないか」

「詳しくったってね」

「私たち……最初諦めてたんです。たぶん、自棄になってカムアウトしたんですけど……まさかそんな偶然あると思わないじゃないですか。二人とも、なんて。それで、どういう相手がタイプかなんて、現実逃避に話しあってたんです……そうしたら、元々、私はエミリさんみたいな方が……って。エミリさんもそうで、それで二人で、もしかしたらうまくいくかもねって笑ってたんです。ほっとしたのかもしれません。その時突然、マークが出て……」

「なんだよ、それ。全然参考にならない」

 エミリがカナデの肩を抱き寄せる。鈴原の方は肩を落とした。最初から好みのタイプの人間がいた、なんてただの偶然。いや、いっそ奇跡だ。死んだ人間が二人に、この二人があがっているから──残りの乗客は自分を抜いて十七人。厳密に言うと王子と女王は互い以外に心を許すには段階が必要だろう。それにあの戦闘を決意していた男女コンビも結束は固そうだ。そうなると、十三人。

 後ろで騒ぎが起こった。

「スザキ、ミヤノ! なんでてめえらが先にカップルになってんだよ!」

 銃を持った女と屈強な男──例の戦闘コンビを中心とした人だかりが出来上がっている。どうやら件の二人はあがったようだ。咄嗟にエミリとカナデはコートの裾を引き延ばして身を縮める。鈴原はポイントを交換して広い座席の中身を確認する。二億の札束。ずっと狙っていたアイテムを入手したはいいが、この状況で効果を発揮するとは思えない。

 エミリもすぐさま余った時計から武器に交換し、その中からスタンガンを鈴原に投げ渡した。

「お前、自分のポイントは?」

「ああ。あがったらポイントは使えなくなるみたいでさ。ホントよくできてるゲームだよね」

 エミリは侮蔑のこもった笑みを浮かべる。なるほど。指輪も服も、現金も武器も、あがってからは交換できない。ゲームの構造を考えるとポイントを貯めて様々なアイテムを入手してから交流するべきだが、そうすると関係構築は難しい。逆に先にペアになってしまうと、他の人間からの攻撃に対処する術がない。これでどうやって過去に生き残った人間がいたのか、鈴原には甚だ疑問だった。


 銃声と怒号、悲鳴と懇願が車内に響く。

 痺れを切らしたエミリがナイフを鞘から抜き、そこにカナデがなにかを塗りたくった。

「それって毒? 200ページくらいにあった」

「……はい、そうです。全部は見られなかったんですけど。たぶん、もうここからは殺し合いになってしまうと思います……」

 焦っているのは鈴原も同じだった。かと言って、先にカップルになった人間を殺すという精神性にバス内が染まっているのは鈴原の予想よりも随分早かった。殺されるかもしれないという恐怖よりも、狡いという感情の方が人を殺す理由になるとは、人間の精神が崩壊するということについて、甘く見ていた。

 グループの中に上下関係が出来てしまったことがその一因かもしれない。王子と女王が何も言わなくても、周りが二人より先にあがることを許さない。自分たちも我慢しているのだから、という感覚が拍車をかける。

「なあ、ここならバリケードも作れそうだけど。死んでる人も盾にできる」

「訂正。アンタ普通に最悪。わざわざカップルになった二人が殺されてるの、見たくないでしょ」

「高村さんはお前たちを奮起させるために死んだんじゃない」

「それは……そう、ですよね。そうですけど、さっき二人で決めたんです。もう、傍観しないって」

「かっこいいとこ見せないと、カナデに飽きられたくないし」

 エミリはコートを翻し、中心に駆けだしていく。カナデもそれに続いた。

 狭い車内では小回りが利く武器と身のこなしが勝利の鍵になる。バスに乗っているのは傭兵でも戦士でもない、ただの一般市民だ。毒は恐らくもっとも効果的だろう。

 ただ、エミリは背が高いものの細身で、カナデに至っては一発殴られたら死んでしまいそうなか弱さがある。そんな混乱の最中でも、車内の誰もバスガイドに襲い掛かることはない。向こうがどれだけ圧倒的な権限を持っているかもわからない上に、一度植え付けられた上下関係は、簡単には覆らない。

 鈴原はメイクを直してカツラを被ると、500ページの最後にあるアイテムとすべてのポイントを交換し、這いずりながら前へと向かった。



 それは突然のことだった。

「カナデ! エミリ! スザキ! ミヤノ! 王子、伏せろ!」

 鈴原の声に気づいたのは、呼ばれた五人が他の客よりもわずかに早かった。それを合図に車体は急カーブでドリフトし、派手に揺さぶられる。窓際に人間の塊が殺到し、ほとんどの人間が受け身を取ることはできなかった。いつの間にか全開になっていたバスの窓からは何人かの人間が振り落とされ、道路に転がっていく。しばらく猛スピードで走っていたバスは急ブレーキをかけ、バスガイドが転倒すると同時に完全停車した。

「んもう! スーツがくしゃくしゃ!」

 ガイドが起き上がり地団駄を踏んでいる横から顔を出し、鈴原は背後を覗き見る。同じように起き上がったカナデとエミリ、スザキとミヤノの姿を発見できた。王子は相変わらず女王を守っていて、そろそろハートマークが出てもいいんじゃないかと鈴原には思えた。

「運転手さん、ありがとうございました」

「いえ、仕事ですから仕方ありません。免許を持っていないと聞いた時は肝が冷えましたが」

 鈴原が交換したアイテムは「バスの運転権利チケット」だった。ゲームの範疇のことだ。当然バスガイドはこれを渋々了承した。

「運転下手すぎですう!」

 頭を打ったのかバスガイドは呻いている。ちょっとした仕返しも成功したようだ。運転手に席を明け渡すと、停車したままでいるよう指示し、鈴原は無事な人間の確認に戻った。後ろ手にはスタンガンも持って、いつでも制圧できるように。


 結果的に言えばそれは杞憂だった。鈴原が認識している存在以外の車内の人間からは戦意が喪失していた。あるものは気絶し、あるものは事切れ、あるものは茫然としている。王子と女王にはめでたくハートマークが表示され、生き残った取り巻きたちも互いの無事を確認しあっている。

 もしも敵対行動に出るなら、鈴原はその取り巻きたちも死んでしまっても構わないと思っていた。わざわざ自分に手を差し伸べてきた人間たち以外に情をかけても、危険を増やすだけだ。

「悪い、乱暴なことした」

 どちらがスザキかミヤノかはわからないが、二人は鈴原の言葉を否定するように首を振った。頭を下げられたが、喜ぶ間もなく鈴原は周囲の人間の時計を確認するため目線を動かそうとした。

 と、励まし合っていた生き残りの八人の人間たちから歓声があがる。それぞれ腕を掲げて、泣き笑いのような表情で見せあっている。

 鈴原は背筋が冷えるのを感じた。この勇気ある行動によって、誰かに好きになってもらえる可能性もあると考えていた。なにせ起死回生の一手だった。それが、八人の取り巻き、戦闘コンビ、王子と王女、カナデとエミリの全員にハートマークが表示されているのだ。慌てて自分の腕を確認するも、なんの表示もない。

「せっかく頑張ったのに、残念でしたねえ?」

 バスガイドは、先ほどまで破れたストッキングに不機嫌そうな顔をしていたくせに、打って変わってくすくすと上機嫌に笑っている。

「なにやってんだよアンタ!」

「わかってるよ!」

 ひきつった顔で咎めるエミリに舌打ちで返した鈴原は、一番後ろの座席に駆けていくと、一億の入ったトランクをひきずってまた戻ってきた。まだだ。まだ、可能性はゼロではない。ハートマークがついていない人間は、いる。

「あらまあ、一億円。交換していたんですねえ。それで? 私を口説いてみますう?」

「今から俺がいかにいい物件かプレゼンする」

 バスガイドがにたついているのを尻目に、鈴原は運転権利チケットを掲げた。

「これが俺のところにあるということは、このバスが動くかどうかは俺次第ってことになる。運転する権利は、この運転手さんにはないんだ。俺が指示するか、俺が運転しない限りバスは動かない」

「それでえ? 恋が芽生えるまでここで暮らします?」

「それもありだ。つまり、運転手がこのバスを運転しないという選択を、俺は取らせることができる。もしも運転手さんがバスを降りたければ……辞めたければ。ここで、帰ることができます。バスの運転権利がないから」

「は、はあ? それになんの意味があるんです? というかバスの運転権利と解雇は別じゃないですかあ?」

「そんなの書いてないし、期限も書いてない。契約書ってのはちゃんと作成しないとな。だから、このバスはもう俺のものだよ」

「で。まあ、そうだとしても。それで私があなたに靡く要素がありませんけどお?」

 鈴原はバスガイドを押しのけると、トランクを運転席に向けて開いた。


「ここに一億あるんですけど、こんな仕事やめて俺と暮らしてくれませんか?」

「…………は」

「いや、ほんとは二億あるんですけど。一億は高村さんの家族とかに渡した方がいいかもしれないし、なので、俺は一億なんですけど」

「……はあ」

 運転手はぽかんと口を開ける。眼鏡の奥の瞳が意味を掴めていないように、動かないでいる。それをいいことに鈴原は畳みかけた。自分でも何を言っているのか鈴原にはわからなかった。自分の父親くらいの年齢の男性に、求婚を迫っている。

「どう考えても、ここで俺にした方がいいです。この後温泉にも行けるし、うまい飯が食えるし、一億あるし、こんな仕事辞められるし、温泉行けるし! あと、俺の女装、結構かわいくないですか?」

 必死だった。彼しかいなかった。あんな女はゴメンだった。それ以上に、この運転手がゲームに乗り気でないことを知っていた。バスに乗る時、最初に鈴原の身の安全に気を配ってくれたのはこの男だった。

 ならば、どうしても選ばれたかった。仕方なくこのままこんなことを続けるよりも、一緒にゲームをおりて欲しかった。しかし、この男を好きかと言われると難しい。ならば他の客には悪いが、鈴原は恋が生まれるまで本当にバスを停めておくくらいは覚悟していた。

「──は、はは。あなた、馬鹿ですね」

 運転手が笑う。その手首の時計にはハートマークが表示されていた。自分の腕時計にも、同じマークがある。

「……いやはや、ほっとしました。ようやくバスをおりられる」

「お、おれ……のほうが、ほっとしまし、た……」

 緊張の糸が切れて、鈴原はその場にへたりこむ。

 これが恋だろうか? こんなものが恋だろうか。激情も感動もない、燃えるような熱もない。

 これが恋だというなら、最新の技術というのも大概馬鹿だ。

「はああ? 最悪です!超最悪です!もう絶対私、部署移してもらいますう!」

「すみません。温泉、行ってもらっていいですか? お土産、高村さんの会社に買わないと……」

「……わかりました。ご着席ください。発車します」

 エミリとカナデが鈴原を席に誘う。バスは温泉に向かって山道を進んでいく。生き残ったカップルたちを連れて。

 恋とはこんなものだろうか。このカップルたちが、本当に恋をしたのだろうか。なにをもってそこにある感情が恋だと時計は判断したのだろうか。


 バスは走る。山道を走る。湯煙が見えてくる。


 和やかな雰囲気の中、何人かの死体を乗せて──。

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恋とはどんなものかしら マルヤ六世 @maruyarokusei

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