世界一幸せなカフェ

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世界一幸せなカフェ

 ミシェルは、雨の中を歩いた。


 勤める会社で、上司に恋をした。

 知的で有能な上司は、地味で冴えない事務員のミシェルにも優しかった。

 不器用なミシェルは、自分の気持ちをうまく隠すことなどできない。

 どうしても熱く染まってしまうミシェルの頬を見て、彼はふと甘やかな微笑を湛えた。


 彼の放つ男の匂いに、ミシェルは抗う術もない。誰にも知られぬよう、彼は金曜の夜にこっそりミシェルを気に入りのカクテルバーに誘った。

 オフィスでは決して見せることのない彼の艶やかな表情や声を知るようになり、ミシェルは天にも昇る幸せの中にいた。


 今日、その上司から、リストラを告げられた。


「残念だよ、ミシェル」

 彼は、さも悲しそうな顔をした。

 今日の彼は、指輪をつけていた。左手の、薬指に。

 ミシェルは、青ざめた。そんな指輪は初めて見たし、彼はこれまで一言もそんな話をしなかった。


 未婚かどうかを彼に確認しなかった私がいけないのだろうか?

 耳元で「可愛い、愛してる」と繰り返されたあの囁きは、一体何だったのか。

 小さな宝石を嵌め込んだその銀の輝きが、残酷に自分を嘲笑った気がした。



 呆然と帰路に着く。強張った顔のまま、電車に乗る。

 家に帰っても、することなどない。ひょっとすると、死にたくなったりするかもしれない。

 この悲しみを暗い部屋でひとり噛み締めるのは、嫌だった。

 いつもの駅の一つ手前の駅で、電車を降りた。知らない街を歩いてみたくなった。


 小さな改札を出ると、寂しげな街が夕暮れにポツポツと灯りを灯している。

 秋の終わりの風の冷たさに、コートの襟を思わずかき寄せる。

 俯いて歩いていたら、ポツリと冷たい滴が髪に染み込んだ。予報にはなかった雨までが本降りになり始めた。

 こういう時って、とことんまで突き落とされる。口元におかしな笑みさえ浮かぶ。


 髪から雨粒が垂れるのを拭きもせず、細く薄暗い路地の入り口でミシェルは立ち止まった。

 やりきれない思いが紛れるならば、なんでもよかった。この奥で、自分と同じずぶ濡れの野良猫くらいになら、出会えるかもしれない。

 ミシェルは路地の奥へと足を進めた。



 穏やかな臙脂えんじ色の煉瓦の壁に挟まれた細い路地。静かに暮らす人々の小さな窓が両側に続く。

 平坦に続く煉瓦をぼんやり見つめながら歩いていたミシェルは、前方に小さなドアがあることに気づき、吸い寄せられるように歩み寄った。

 静かな存在感のあるマホガニー色の木のドアだ。

 表札や看板などは、何も出ていない。

 だが、芳ばしいコーヒーの香りがふと鼻をくすぐった。

 ドアの横にある小さな窓から、中を覗く。

 オレンジ色の優しい灯りの下に、数台の小さなテーブル。この雨のせいか、客は誰もいない。奥のカウンターにはギャルソンベストを着た品の良い男の姿がある。彼の目の前のサイフォンから、静かに湯気が上がっている。

 気づけばミシェルはそのドアを押し開けていた。


「いらっしゃいませ」

 男が来客に気づき、入り口へ顔を向けて静かに微笑んだ。

 クラシックな給仕服に黒いカフェエプロンをかけた、引き締まった長身。美しい銀髪をした年配の男だ。

 しかし、その顔を見てミシェルは驚いた。窓からは見えなかった右頬のこめかみから顎近くまで、大きく引き攣れたような傷があったからだ。


「——あの」

「ああ、びしょ濡れじゃないですか。髪から滴が——急に降ってきてしまいましたからね。タオルをお貸ししましょう。

 冷えてしまうから、そのコートも脱いで。

 ちょうどよかった、コーヒー淹れたてですよ。お好きな席へどうぞ」


 彼は優しくミシェルへ笑いかけ、濡れたコートを預かるとカウンターの奥へ入っていく。

 コーヒーの香りと、温かな店内の空気が、眠気を誘うほどに心地よい。

 顔の傷が何だというのか。今更躊躇う必要もない。言われるままに、ミシェルは窓際のテーブルの椅子を引いて座った。



 柔らかいタオルを手渡され、髪を拭う。密かに自慢だった長い髪が今はひたすら煩わしい。

 ゴシゴシと雑に髪を拭いている間に、湯気の上がる白いコーヒーカップとソーサーがテーブルへ静かに置かれた。


「……いい香り」

 憂鬱で何も喋りたくないはずの唇から、自然とそんな言葉が漏れる。


「ありがとうございます。これ、当店自慢の豆なんですよ。自慢できるものは、どんどん自慢しなきゃ勿体ないですからね」


 テーブルの向かい側に立ち、男が悪戯っぽく微笑む。

 自分の髪に苛立っていた彼女の心を癒すような彼の言葉の温かさに、ミシェルは思わず男を見つめた。


「飲んでみてください。冷めないうちに」


 そう言われ、香り高いコーヒーを口に運ぶ。

 喉から胸の奥に染み渡るその優しい熱に、不意に涙が湧き上がった。



「——……」


「それがいい。

 悲しい時は、我慢しないで。

 好きなだけ泣きましょう」


 両頬にぼろぼろと涙を零すミシェルを見つめ、男は優しく呟いた。


「——何も、聞かないんですか。

 こんないい歳の女が、子供みたいに突然泣いたりして」


「あなたがもしも、胸の内を話したいと思うならば。

 どんなお話でも聞きます」


「……やっぱりいいわ。

 こんな話したら、惨めになるだけだし」


「ならば、私も無理に聞きません。

 好きなだけ、ここで過ごして行ってください。

 そのメニューを見て、オーダーがあれば呼んでください」


 カウンターの奥へ去りかけた男を、ミシェルは思わず引き留めた。


「あの」


「はい?」


 そのまま、言葉を探しあぐねて黙り込むミシェルを少し見つめ、男は淡く微笑んだ。


「……向かい側、座ってもいいでしょうか? 

 ちょうどお客もいないし、実は黙って仕事するのもつまらなくて。

 この歳になると立ちっぱなしもなかなかキツい」


 そう言ってはにかむように笑う顔がまるで少年のようで、ミシェルはクスッと笑って頷いた。

 一人きりでコーヒーを飲むのが寂しい、という心を、この人に見透かされてしまったかもしれない。

 けれど、そんなふうに心を読まれることが、今はなぜか心地いい。

 言葉にしないまま何かが通い合うその温もりが、ミシェルにはたまらなく嬉しかった。



「じゃあ、私の話を聞いてもらおうかな」

 テーブルの向かい側に座った男は、さらりと微笑んで呟いた。


「ええ。聞かせてください」


「30年ほど前まで、この国は隣のS国と戦争をしていたでしょう?

 私の親友は、その戦争の最中に密かにS国からこの国へ送り込まれた、スパイでした」


「——それで?」


「驚かないんですか?」


「どちらでもいいわ。創り話でも、本当でも。ワクワクする」


 ミシェルの言葉に小さく笑い、男は続けた。


「任務に就くにあたり、彼は、S国の医科学研究所や軍事施設で厳しい訓練を受けました。

 そこで、彼は恐ろしい技術を教え込まれました。

 それは、何気ない日常会話を用いて、相手に一切勘づかれることなく相手の心を操るカウンセリング技術でした。つまり、この国の若者の思考を少しずつS国寄りに『洗脳』することを、彼は任務として負わされたのです。

 そして、万一の時には相手を容赦なく殺害する戦闘技術も、同時に訓練されました。もともと軍隊に所属していて身体能力は非常に高く、頭脳明晰な男でしたから、そういう危険な仕事には適任だったのです。

 彼は、心から祖国の幸せを願っていた。だからこそ、その過酷な任務を引き受けたのだと思います。


 約5年間の戦争の期間中に、彼の洗脳によってこの国の若者が何人も命を落としました。自国の政治への反感が芽生え、反政府勢力となって暴動を起こした者や自爆テロを起こした者。有力政治家を暗殺しようとして捕らえられ、拷問死した者。彼らは、祖国を守るために死んだのではなく、祖国を憎みながら死んでいったのです。

 彼の言動が怪しいことに鋭く気づき、彼を襲撃しようとした若者たちもいました。彼はその若者たちも片っ端から殺した。歯向かうものは躊躇わず殺せと、そう叩き込まれていたからです。


 やがて、戦争が収束し、S国はこの国に破れました。彼が水面下で黙々と進めた任務は、結局報われることなく終わったのです。

 終戦後すぐに、彼は自分を送り込んだS国の役人に捕らえられ、まるで犯罪者のように扱われた。戦争が終わってしまえば、自国の政治や軍部の裏側を全て知っているスパイなどただの厄介な危険物でしかなかったのでしょう。

 彼は、その頭脳で監視の目を潜り、執拗に追ってくる人間を騙し、時に殺しながら、S国を脱出しました」


 最初は軽い興味だけだったミシェルの眼差しは、気づけば重く真剣な色を湛えていた。


「……それで、そのお友達は?」


「彼は、今はただの平凡な男として、静かに暮らしていると。人を惑わす洗脳術も、人間を瞬殺できる技術も全て封印して、『本当の幸せ』だけを探していると——

 数年前、一度だけ、そんなことを長々と綴った手紙が私の元へ届きました」


 男も、小さな息を一つつくと、表情をふっと和らげた。


「私も若い頃、彼と同じ軍隊にいましてね。戦場にも赴きました。だから、彼の苦しみがよくわかるんです。過酷な任務は実を結ぶことなく、守ろうとした祖国から犯罪者扱いを受け……一体、彼はどこでどんな暮らしをしているのか。

 その手紙を受け取ってから、私は彼を必死に探しました。けれど、どうやっても彼の居場所を突き止めることはできませんでした。——彼の消息は、今もわからないままです。

 彼の言っていた『本当の幸せ』は、果たして見つかったのか。

 今も時々、彼のことを思い出すのです」



「……」


 ミシェルの頬を不意に伝った光るものに気づき、男は慌てる。


「ああ、ごめんなさい。あなたを悲しませるつもりはなかったんですが」


「いいえ……この涙は、悲しいんじゃないわ。

 彼は、今どうしているんだろう。『本当の幸せ』を、見つけられたのかしら……

 私の今の悲しみなんて、本当にちっぽけだったと……そう気づいたら、なんだか泣けてきちゃった」


「あなたは、素敵な人ですね」


「ただのバカな女よ」


 男の温かい眼差しに、ミシェルは微かに頰を染めた。


「——一つだけ、覚えておいてください。

 世の中には、正しいと信じていたことが、一瞬にしてひっくり返ってしまうことがある。

 だから、あなたも、真っ直ぐに自分が信じられるものだけを選び取って進めば、それでいいんです。確かなものなど何一つない理不尽な世の中に振り回されて、懸命に生きている自分自身を責めたりは、どうかしないでください。

 もしも選んだものが実を結ばなかったとしても、その時あなたが本気で向き合ったのならば——自分を悔やみ、責める必要はない。

 そのまま、真っ直ぐ歩けばいいんです」


 自分は、今日の出来事を何も話してはいないのに。

 彼の一言一言が、なぜかミシェルの悲しみを射抜くかのように刺さり、温かく染み込んでいく。

 彼の言葉に縋るように、ミシェルは思わず呟いた。


「——私は、間違ってなかったのね?

 今のまま、胸を張っててもいいのね?」


「そうですよ。

 真っ直ぐで温かい、あなたのままでいてください。

 あなたなら、大丈夫」



 私なら、大丈夫。


 その一言を心で繰り返し、ミシェルは濡れた頬を手の甲でぐいと拭って笑顔を見せた。




 雨は止み、外はすっかり夜の闇に包まれた。

 店のドアを開けながら、ミシェルは男を見上げる。


「また、コーヒー飲みに来てもいいですか?」


「——……」


 返事を待つミシェルに、男は困ったような微笑を浮かべる。


「いや、少し前から、考えてましてね。歳も歳だし、そろそろこの店も閉めようかなあって。

 次にあなたがいらっしゃった時、ここに店があるとは限りませんから」


 その答えに、ミシェルは小さく俯く。


「……わかりました。

 あなたを困らせるわけにはいかないわ」


「ごめんなさい、ご期待に添えなくて。

 あなたが来てくれて、今日はとても楽しかった。

 今日のことも、あなたのことも、忘れません。絶対に」


「それは私の台詞よ」


 小さく微笑み、寂しさを堪えるように遠ざかっていくミシェルの背中を、男はいつまでも見送った。









 それから3年が経った、秋の日の午後。

 ミシェルは、あの小さな路地の入り口に立っていた。


 あれから、あの男の言葉をずっと胸に繰り返し、毎日を生きてきた。

 彼の言葉のおかげで、かつての苦い出来事も、大きな不運だと思わずに済んだ。

 私ならば、大丈夫。自分が本気で選んだならば、あとはその道を本気で歩くだけ。

 そんな思いが、実を結んだ。

 新しく働き始めた書店での働きぶりが気に入られ、ミシェルは今はその書店の正社員として働いている。

 自分が手にした幸せを、彼に一言報告したかった。


 どうか、あの店がまだありますように。

 息を一つ吸い込んで、路地の奥へ足を踏み入れる。

 マホガニー色のドアの前に立った。

 高鳴る心臓を押さえながらドアノブを押すが、鍵がかかったように開かない。

 ドアの横の窓のカーテンも、厚く閉ざされていた。


 熱くなっていた心臓が、水でもかけられたように萎む。



 ふと、横を通りかかった中年の女が、ミシェルに気づいた。


「あんた、ここに何か用?」


「あ……あの、以前このお店のマスターにお世話になって。

 一言、お礼が言いたくて」


 ミシェルの言葉に、女はさも驚いたというような顔をした。


「は? 嘘だろ?

 あんた、ここの店主のこと、何も知らないのかい?

 この店をやっていた男はさ、S国の凶悪なスパイだったんだよ。戦後すぐに捕まったが、監獄から逃げ出したんだとさ。2年ほど前かね、この路地に警察が大勢どかどか入り込んできてね、度肝を抜かれたよ。

 全く戦後30年以上も経ってんのに、まだこんなとこで物騒な仕事してたなんて。頬の傷が不気味な男だとはずっと思ってたが、案の定だ。この辺一帯の住人はガタガタ震えたよ。

 戦争犯罪者として、近く処刑が決まったそうだよ。全く迷惑な話だ」



「…………」


 ミシェルは、ぐっと唇を噛んだ。

 気づけば、両手は固く拳を握っていた。



「——あなたたちは、彼の何を知ってるんですか。

 彼はここで、『本当の幸せ』を、探していたんです。

 国に利用され、心をズタズタに引き裂かれ……それでもこの場所で、彼は自分自身と向き合いながら本当の幸せを探していました。洗脳の技術も殺人の技も、完全に封印して。

 私は、彼から、その幸せをもらいました。間違いなく。

 誰が何と言おうと——彼は、幸せを作る人でした。

 このカフェは、世界中のどこよりも幸せな場所だった」


 女は、呆れたように笑った。


「あんたも、あの男に洗脳でもされたんじゃないのかい」



 ミシェルは、はっと目を見開く。


 そうか。

 彼は、私を洗脳したのだ。

 ——「幸せ」へと。



 ミシェルは、その場に膝をついて崩れた。

 涙が、止めどなく頬を伝って落ちた。





 その翌年。

 ミシェル=マーティンという若い女性の書いた一冊の本が大きな文学賞を受賞し、世間の注目を浴びた。


 それは、戦争で凶悪な任務に携わり、国に裏切られ、脱獄し、自分自身と向き合いながらひっそりと幸せを作り出すスパイの物語だった。





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