蜻蛉の目

文月八千代

蜻蛉の目


 誘われるがまま入ったラブホテルは、ひどくセピア色だった。

 最初に気になったところは、あらゆるところに染み付いたタバコのにおい。呼吸をするだけ部屋の一部に組み込まれたような気がして、眉間にシワを寄せた。口には出さないけれど、とても不快だ。


 次に気になったのは、部屋中が昭和感に溢れているというところ。回転ベッドこそないものの、白いシーツに包まれた小花柄の布団や、レースのあしらわれた枕。ほかにもドアや壁紙、お風呂なんかが一昔……いや、ニ昔や三昔前のもので、昭和感というよりも昭和そのものを表していた。

 このセピア色の感覚に嫌なところはあるけれど、どこか懐かしい感情が胸に湧いた。


「いやぁ、こんなところでよかったのかな? 女の子はもっと綺麗なところとか、さ」

 ベッドにカバンを投げ置いた男性が、スーツの上着を脱ぎながら不安げに言う。

「べつに……」

 ボソリと吐き捨てたあと、私は心のなかで「場所なんて、ただの箱でしかないから」と呟く。

 ここに来た目的は、部屋を楽しむことじゃない。ダブルサイズより少し大きなベッドの上でする行為。アプリで知り合った初対面の相手と体を貪りあう、醜い行為だけだ。

 私はいつからか、そうやって心の隙間を満たしてきた。



 考えてみると、昔から満たされない日々をおくってきたな……。

 家にいても両親は常に不在で、空腹を満たしてくれるのは前日の、割引シールの貼られたお弁当。それをレンジで温めて食べるのだけれど、冷たい砂を噛むようで味がなかった。だから私はいつも、ひとりぼっちのダイニングを見回したあと、勝手に溢れてくる涙と一緒にそれを飲み込んでいた。 


 そんな生活が基本になっていたせいか、私の心は学校でも満たされない。

 常に頭がボーッとしていて、話しかけられても曖昧な答えを返す。それを繰り返しているうちに、だれも声をかけてくれなくなった。

 休み時間に人の群れができる机や、はしゃぐ声。羨ましいと思いながらも冷めた気持ちでいた私は、いつもうつむいて考えごとをしてやり過ごしてきた。



 考えごとといえば、きまって好きな人のことだった。

 たとえば、小学校で同じクラスだったタクヤくん。隣のクラスでヒーロー的存在だった、スズキくん。中学校では秀才タイプのシュンくんに、高校は……もう、たくさん。私は好きな人を思い浮かべては胸を焦がし、年齢が上がるにしたがって、また別の部分を熱くしていった。


 そうすれば嫌なことを忘れられるし、少しだけ心が満たされる。

 でも、満足するには足りなかった。



 そんな私に転機が訪れたのは、高校二年生の秋に行われた体育祭。

 澄んだ青空の下でみんなが騒ぐなか、私はちょこまかと動く姿を視線で追っていた。その先には、クラスでいちばんイケメンのマサトくん。例にもれず不埒なことを考えながら姿を追うと、体の熱と比例して目線にも熱が入る。

 ある瞬間、目が合った。マサトくんと。心臓が、ドキンと跳ねた。


 その放課後のことだ。突然ひと気のない体育館裏に呼び出され、マサトくんは言った。

「お前、ずっと俺のこと見てるだろ? 今日だけじゃなくて、いつもさ」

 体は硬直していた。けれど、どうにか動かせる首を縦に振る。

「やっぱりな。なんつーか、キモいんだけど。でも、さぁ……」

 舐めるように全身を見回したあと、マサトくんが腕を掴む。その力は思ったより強くて、はねのけられない。

 ううん、そんなつもりはひとつもなかった。だから私は強引な行為を受け入れ、太ももに一筋の赤を引いたのだ。

 痛みはあったのに、嫌な気分はしなかった。むしろ痛みが、私のなかのスイッチをオンにした。そして、体を重ねれば空白が満たされる……そんなことに気付かされた。


 まだ火照りの残る体で、のろのろとズボンを上げるマサトくんを見ていた。その頭上に、小さな物体。 

「あ、トンボ……」

 そういえば体育祭の最中も、頭上をたくさんのトンボが飛んでいた。そのうちの一匹が、マサトくんの頭にピタリと止まる。

「げっ、うっぜ。俺、嫌いなんだよ、トンボ。なんかさ、目が……こう、『全部見てるぞ』って感じでさ」

 腕をバタバタさせて追い払おうとするけれど、トンボは飛び去る気配がない。それどころか細い足をしっかりとマサトくんの髪に絡め、私のほうをじっと見つめていた。


 


「きみ、さ。いつもこんなことしてるの?」

 私の体を抱きしめながら、男性が言う。

「だって……満たされるんだもん」

 そう答え、フフッと笑った。

 あの日から何年も経ったけれど、心を満たす手段はセックスだった。相手なんて誰でもいい。街で、ネットで……相手なんて、すこし甘えたふりをすればいくらでも見つかるのだから。

「満たされるって……セックスで?」

 コクリと頷いた私は、男性を抱き返す。そして耳元に軽くキスをしてから、甘ったるい声でささやいた。


「だから、はやく……ね?」

 火が、ついた。男性は力強く私を抱きしめ、ゴロリと回転しながらベッドに寝転ぶ。私が下になる体勢だ。

 そしてハァハァと荒い呼吸を繰り返し、体中を貪ってくる。どこか手持ち無沙汰な私は、ぼんやりと天井を見つめるしかできなかった。

 ところどころシミのある、古ぼけた色の壁紙。ちょうどベッドの上の位置には、ミラーボールがあった。たぶん動かないであろうその物体は、蛍光灯の光を反射してギラリと輝いていた。



「あ、トンボ……」

 小声で呟く。べつに、トンボがいたわけじゃない。鱗のような物体で覆われた球体が、トンボの目のように見えたのだ。

「ねえ、トンボの目ってなにを見てると思う?」

 そんな問いに「え?」と言った男性は、それ以上の返事をするわけでもなく、愛撫を続ける。私の体も正直に反応して、蜜が漏れた。

「なにもかも、見透かしてる……のかな。トンボは、さ」

「どうでもいいだろ、いまは」

 ピシャリと反論した男性は、唇を塞いでくる。まだ言いたいことがあった私の唇は、ひどくねじれていた。


 いよいよ行為はラストスパート。男性の息はひどく荒い。私はそれを耳元で聞きながら、心のなかで言葉を発する。

「ねえ、あんたに私はどう見えてるの?」

 目線の先には、トンボの目。尋ねてみたものの、返事はない。なら、もういちど。

「私の心の満たしかたって、間違ってる? 心なんて、ただの箱でしかないのに……」


 やっぱり返事はない。

 ミラーボールはたくさんの光を反射させて、輝いているだけだった。小さな鏡一枚一枚に、これまで私を満たしてくれた人たちの姿を、セピア色に映し出して。

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蜻蛉の目 文月八千代 @yumeiro_candy

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