勘の鋭いウインドウ

木野かなめ

勘の鋭いウインドウ

 紅茶を淹れて、テーブルに置いた。


 オレンジの芳醇な香りが部屋に広がる中、ツタヤで借りてきたDVDを袋から漁る。取り出したるは『サム・オア・エヴリ』。今、世界的にヒットしているアメリカのドラマだ。

「やっぱ、香りが違うよな」

 僕は初美はつみに言った。

「アンタバカァ?」

 なのに初美は、某弐号機のパイロットの棒読みバージョンで答えてくれる。

「あたし、匂いはわからないって何度も言ってるでしょ」

「ああ、そっか」

 駅前の紅茶専門店で奮発して買ってきたのになぁ。フォートナム&メイソンは300年以上前から珠玉しゅぎょくの味と香りを提供し続ける、イギリスの銘茶だ。

達也たつやはまだ学生なんだから、無駄遣いしちゃだめだと思うなあ」

 初美の説教をはいはいと受け流しながら、僕はフローリングに腰を下ろした。少し湿っている。梅雨の影響か、最近は食パンの痛みも早い。初美を透過する灰色の光が静けさのとばりをもたらしていた。初美は、にっと笑った。


 初美は、人間ではない。


 窓だ。

 正確に言えば、窓にぼんやりと浮かぶ目と鼻と口の像。そこから発せられる人格をもった言の葉の集合体が初美という存在なのだ。

 どうして窓に顔がついているのかって?

 それは僕自身が初美の首根っこを掴んで訊いてみたいくらいだ(ま、首そのものがないからどだい無理な話なんだけどさ)。

 僕は一年前、実家から遠く離れた大学に合格した。けっこう難関の部類だ。親も一人暮らしを容易く許してくれた。不動産屋に行って、部屋を選んで、簡単に下見をして。不動産屋のどこかひきつった笑いに違和感を覚えながらも契約した部屋の中で――僕は、初美に出会った。

 もちろん僕はびびった。窓に顔がついている。しかも話す。速攻で逃げようとしたら、「逃げたら呪うわよ」とぬかすので、へこへこと部屋の中に戻らざるをえなかった。彼女は自分を初美という名の地縛霊だと紹介した。名字は出会って一年と少しになる今になっても教えてくれない。どうやら初美は事故で命を落としたらしい。これまでこの部屋を契約した人たちは例外なく当日あるいは翌日に出ていったんだと。そしてやむなく『呪う』という最終兵器をもち出すことにしたんだと。

 ふざけんなって話だ。

「いやー、あんたがビビリでよかったわ」とは最近の初美の言。

 どうやら呪いとかいうのは嘘だったようだ。やっぱりふざけんな。今度マジックリンでも買ってきてぴかぴかに磨いてやろうか。うん、たまには、ピカッピカに。


「あんた、『サム・オア・エヴリ』好きねえ。七巻感動だもんね。崖んとこで恋人に向かって微笑むシーンなんか、泣きまくってたもんね」

「テキトー言うなよ。僕、これ初めて見るんだってば」

「ありゃ、ばれたぁ?」

「ついでに、ネタバレもNGで頼むな……」

 僕が肩全体でため息をつくと、初美は唇を弓形に変えた。

 初美はこういうテキトーというか半ば嘘というか、あっけらかんとした物言いをするところがある。だから僕は初美がいる暮らしに早々に慣れることができたし、今も友達のような存在として彼女と『同居』している。

「ねー、早く見ようよ見ようよぉ」

 初美が急かすので、DVDプレーヤーの電源を入れた。

 一巻の三話分を一気に見た。主人公は普通の高校生なのだけど、水中から取りこむ酸素だけで生きられる身体適正があり、人類まだ見ぬ深海の世界へと潜っていくらしい。研究所に連れこまれたところで第三話は終わった。引きも利いているし、続きが気になるいい作品だ。

「俳優さん、名演技だねぇ」

 初美は、跳ねるような声で言った。



 初美は自分自身の過去のことをほとんど語らない。そもそも彼女自身が地縛霊なのだから、聞いてはいけないことも多いのだろう。だから僕は、初美が話したいタイミングで話してくれればよいと思って無理には訊かない。


 わかっていることは、『初美』という名前と。

 あと、おそらくは僕よりも年上のおねーさんなのだということ。


 初美は食事をしない。息もしない。

 だけど睡眠だけはきっちりとっている。

 僕が「おやすみ」と挨拶をすると、「また明日ね」と答えてくれる。

 そしてなにより、妙に勘が鋭い。

 去年の十二月に有馬記念という競馬の大きなレースがあった。僕は予想番組を見ながらうんうん頭をひねっていたんだけど、初美が急に新聞を見せてくれとせがんできたのだ。

「なに、初美は競馬も知ってんの?」

「いーやー、ほとんど知らないんだけどさ。どんな名前の馬が出てんのかなーと思って」

「名前で選ぶのかよ。血統とか、適正距離とか、色々見るとこあるんだぞ」

「ふーん……あ、このジャンヌダークっていう馬、有馬記念に出るの初めて?」

「ん? ああ、そうだな。初めてだけど、この馬がどうかした?」

「あたしなら、ジャンヌダークに賭けちゃうかな」

 それはない、と僕は首を振った。ジャンヌダークは前のレースで惨敗しているし、短距離の血統だ。有馬記念はそこそこ長い距離を走るレースなのだから、買う要素はない。僕は二番人気の馬と六番人気の馬を軸にして、他にも数頭選んで賭けてみた。

 結果。

 まさかのジャンヌダーク優勝だった。逃げ戦法がドンピシャはまり、ジャンヌダークは二着馬に影も踏ませず見事一着をもぎとったのである。僕が選んだ二頭は二着と三着だった。つまり、初美の言うことを素直に聞いていれば、勝っていた。


『三連単 242万6920円』


 なんと、100円でも買っておけば250万円近い金を手にできていた。僕は生まれて初めて泡を吹いた。卒倒間近。初美はしたり顔で「ほーらほーら、ぷっぷくぷー」と言った。

 それから、競馬のレースがあるごとに僕は初美大明神に予想をお願いしたのだけど、初美が予想してくれることは二度となかった。

「お金はコツコツ貯めないといけないのよ」

 初美は砕けているようで、たまにまっとうなことも言う。反論ができない。

 だけど嘘か本当かよくわからない発言も多いわけで。

「近々、ビーハイブプリーツスカートが流行るわよ」

「吉野家とコカコーラがコラボするかも」

「宇宙人が地球にやって来る気配がぷんぷんするなあ」

 こういうの全部含めて、初美は僕を楽しませようとしているみたいだった。僕はアルバイト先のコンビニの店長に「シフト増やさない? 中川なかがわくんよく頑張ってるし」と言ってもらったけど、初美と話す時間が少なくなっても面白くないと思い、現状維持を決めこんだ。

 やがて二年生に上がって、学部のコース分けが始まった。食堂に一緒に行く友達も増えた。大学受験、頑張ってよかったとようやく実感することができた。

 だけどある日を境にして、初美と絡む機会は激減する。

 そのターニングポイントは、『マクロ経済学』の第十一回目の講義が終わって講義棟を出てすぐ、後ろから名前を呼ばれたことだった。

 五月晴れが梢を抜けて、僕の腕にまだらの模様をつくる。幅の広い白い階段に、短い影が一つあった。



 僕に声をかけてくれたのは、宮下みやしたさんだった。

 宮下さんはうちの学部の中でもとびきりの美人と評判で、長い髪には一本の枝毛も見当たらない。まつ毛はぴしっと上を向き、間もなく訪れる夏の空気に縁どられている。ほっぺは白く、唇はふっくらとしている。それでいて化粧っ気をまったく感じさせないのだ。

「中川くん、お昼食べた?」

 僕は戸惑った。宮下さんに話しかけられたのが五回目くらい、ということだけでなく、僕はいつでも講義が終わってから自主的にノートをまとめているので、最後の一人として講義棟を出ているのだ。まさか自分以外に誰かが残っているなんて、かほども思わなかったわけ。

月見山つきみやま食堂、行こっか」

 宮下さんは、理学部の近くにある小さい食堂に誘ってくれた。断る理由もなく同行。がらがらに空いた月見山食堂で、僕たちは最近流行っている映画の話をした。

「『トランボリンジャスティス』の銃撃戦はマジですごいな。実はあれ、ほとんどCG使ってないんだって」

「ふうーん。でも、銃撃戦って一発で決まっちゃうからあんまり面白くないよね」

「まあ、そういやそうだね」

 言って僕がかき揚げそばの汁をすすると、宮下さんは椅子にもたれたまま大きく伸びをした。

「中川くん、映画けっこう詳しいんだ」

「映画館にはあんまり行かないけどね」

「あ、じゃあ」

 宮下さんの身体が前のめりになり、僕に人差し指を向ける。

「今度、一緒に映画行こうよ」

「え」

「お父さんが共済会のプレゼントで当たったのよ、チケット二枚。なんでも観れるよ」

 そこから、とんとん拍子に映画を観にいく話が進んだ。

 帰り道、僕はわざわざ遠回りをしてまで宮下さんを駅まで見送った。彼女は人目も気にせず手を振ってくれた。心の中が温かくなる。夏のかげろうの向こうに、宮下さんの姿が消えていく。今日はラッキーだったと、僕の足は自然と速まった。

 家に帰って早速初美に報告。初美はジト目を僕に向けながらも「よかったじゃーん」と言った。ひやかしているのだろうか、微妙な表情だ。

 僕は訊いた。

「そうそう。初美は映画の銃撃戦って、好き?」

 初美はちょっと考えてから、

「あんまり好きじゃないけど、もしおすすめがあったら教えてくれたら嬉しいかな」

 それから僕は今日宮下さんと語ったことを、初美にも話した。宮下さんの外見や性格もうまく伝えられたと思う。額に汗を感じたのでエアコンのスイッチを入れる。ガタガタと鈍い音がして、青臭い匂いが部屋中を席巻せっけんした。思わず鼻をつまむ僕を見て、初美は静かに笑った。



 七月に入って、僕と宮下さんの交流は多く、そしてより深くなっていった。

 映画にも行ったし、ショッピングにも付き合った。晩御飯を一緒することも毎日のようになった。そのぶん、初美と話す時間は減っていったのだけど。

 ある日、同じ学部の友達がこっそりと教えてくれた。

「宮下さん、ずっと前から達也のことが好きなんだぜ」と。

 今の今まで教えてくれなかったのは、少々のやっかみがあったかららしい。ま、それを友達の口から聞くのもどうかと思うけど、とにかく僕はびっくりした。

「中川くん、この前おすすめした紅茶、どうだった?」

 宮下さんの笑顔が眩しくて、正面から見ることができない。目の前にいる、この綺麗な人が僕のことを好きだなんて。いったん考え出すと、意識するのをやめることはできなかった。

「うん。まあまあ」

「よかった」

「お返しに、僕もおいしいチョコレートをプレゼントしようと思うんだけど……」

 ちょっと声がうわずる。

 だけど目の前で、宮下さんは腕で大きなバツをつくった。

「ごめん。私、チョコレート苦手なの」

「あ、ちょうどよかった。チョコレートがだめな人でもおいしく食べられるらしいよ。ココア風味を強くしてるんだって」

「それでも、嫌なものは嫌よ」

「そう……」

 国道の高架の下は、ひんやりとして静かだ。蝉の声だけが鼓膜に響いている。宮下さんのロングワンピースはいつもに増して清楚なように見えた。

「あのさ」

 言いながら話題を探そうとしたその時、僕たちの横を中学生と思しき女子たちが黄色い声を上げて駆け抜けていった。咄嗟とっさに小さな横跳びで道を開ける。どうやら中学生たちもテスト期間とかで半日授業に移行しているんだな。

「……わね」

「ん?」

「うるさいわねえ、あの子ら。私、中学生の時はもっと落ち着いていたわよ?」

「あー、めっちゃわかる。イメージできる。宮下さん、飄々ひょうひょうとしてそうだもん」

「ま、そんな感じかな。ところで中川くん」

 宮下さんの声の調子はいつもと違ってまじめだ。僕は空気の色が変わる瞬間を覚えた。

「私が中川くんのことをどう思ってるか、誰かから聞いた?」

 う、と呻く。

 ここはどう答えたらいいのだろう。正直に話すべきか、あるいはうまくごまかしてみせるべきか。ただ、回答までの時間は数秒も許されない。

「まあ、あの、聞いたけど、それって」

 宮下さんの瞳に対して、嘘をつくことはできなかった。

「余計なこと言ってくれるわねえ。でも、それはほんとよ」

「そう」

 変な返しだったと、自分でも思う。宮下さんにここまで言わせているのだから、僕からコクるか、あるいは先回りをして断るか。最後の詰めは僕の仕事だったはずだ。

 だけど言葉が出てこなかった。これまでの僕は、宮下さんと仲良くなれて嬉しい、という単純な喜びしか感じていなかった。その瞬間、初美の抑揚のない表情が浮かんだのも事実だ。どうして今関係のない初美の顔が、と不思議に思う。

 棒立ちになる僕をじっと見て、宮下さんは眉をほとりと落とした。

「あーあ、帰りに買い物していこーっと」

 背を向けて、腰の後ろで手を組む宮下さん。

「ちょっと……」

「待たないわよ。……今はね」

 意味がわからない。僕は手を伸ばしたままの格好で、アスファルトに縫いつけられたように足を止めた。

「今日は私一人で買い物に行くわ。だから『今』は待たない。でもさっきの答えはもう少し待ってあげてもいいのよ。じっくり考えて、中川くんの答えを出してくれたらいいわ」

 宮下さんは早足で歩いて、駅へ続く路地の角を曲がった。

 途端、オゾンの匂いがした。路面に次々と灰色の染みができる。梅雨がまたしても首をもたげてきたのだ。僕はしばらく高架の下から動かず、車が水を打ち上げる音を聞き続けていた。



 夜、二十一時。僕はずぶ濡れになったまま、家へと帰った。雨はまったくやまなそうだし、ようやく頭の回転が元に戻ってきたので、僕はゴミ捨て場においてあった女性向け月刊誌を傘代わりにして家へとダッシュを決めた。

「うわー、ずいぶんやられたね」

 初美が大きく口を開けて言う。

 僕は黙ったままクローゼットからバスタオルを取り出し、頭にかけた。

「やれやれ、達也は今日もデートですか。雨もひやかしたくなったんだろうね。ひゅーひゅーだねー」

「宮下さん、僕のことが好きらしいよ」

「さぁさぁ、退屈してたんだから早くテレビを……って、え?」

「これ」

 僕は初美の前に、傘代わりにした女性月刊誌を投げた。

 表紙には『今アツい! ビーハイブのプリーツ大攻略!』と書かれている。

 僕はバスタオルを頭から外し、あぐらをかいたまま初美の顔をじっと見つめた。

「でも僕は、宮下さんとはつきあわない」

「……なんで? 宮下さんってすごく美人で、学校でも有名なんでしょ?」

 そこで大きく息を吸った。左胸を二回くらい叩いた。けして恥ずかしいことじゃない。言っても僕は死なない。だけど、こんなことを言うのは生まれて初めてだった。


「僕は、初美のことが好きだから」


 言って、わかったことがある。

 言っても死なない、んじゃない。

 言えば僕は、ぬるぬるとした『生』を全身で感じることができた。全身で血流を押し流しているようだった。どれだけ頑張っても鼻息がおさまらない。こんなの無茶苦茶かっこ悪いんだけど、無茶苦茶にかっこよかった。初美のことを好きだと言えて、ほんとによかったと思う。


 なのにだ。


「アンタ、ヘンタイ?」

「なっ……」

 初美はふう、と息を吐く。

「あたし窓よ? 単なる窓よ? 食べることも匂いをかぐことも、外に出ることもできないのよ? しかも天秤の片方が学校の美少女? なんであたしを選ぶのよ。この、ヘンタイさん」

「そ、そんなこと言うなよぉ。せっかく頑張ったのにさ」

 僕はいつの間にか、声色や呼吸の調子がいつもどおりに戻っていることを自ら知った。

「あたしを選んじゃ、デートできないぞー」

「い、いい! 家デートってのもあるんだからな!」

「ラブホにも行けないよー。××もできないよー、どうするどうする?」

「そ、それは……」

 にゃははは! と初美は笑った。なんだいそりゃあ。こうなったら意地だ。僕は腕を組んで初美の顔を凝視した。初美は笑いを止めて、それでも頬は少し上がっているようだった。

「まあ、学校のアイドル宮下さんがあんたを選んだのもよくわかるわ。あんたは、いい意味で単純なのよ」

「単純?」

「そう。人にお勧めされたらなんでもためしてみるでしょ? だからあたしの『呪い』なんて嘘っぱちにも、うまいこと引っかかってくれたんだけどねー」

「それは初美だって同じだろ。だから僕は初美のことが好きだって言ってんだけどな」

 初美は口を開けようとして、止めて。

 それから、澄んだ声で言った。

「ありがとう」

「う、うん」

 今のって、僕の告白を受け入れてくれたと思っていいのかな。……難しい。恋愛って難しいですよ。でも、生きてるって、思えるよ。

「達也は……こんな窓に恋してるようじゃ、だめね」

 初美の言葉は、遠くに向かっていくようだった。僕はあぐらをかいたまま、初美のすぐそばまで近づく。初美は「おっと、ストップ」と言ってから、

「今夜は久しぶりに、たくさんお話しよっか」

「ああ、そうだな」

 僕がなにをしようとしているか見抜かれたらしい。僕はハッピーターンをもってきて、初美の横に寝転がる。遠雷の響く中、僕たちの夜の会話が始まった。



 その夜。僕と初美は色んな話をした。

 映画のこと、大学のこと、僕がこれまでどんな人生を歩んできたかということ。

 でもそれらは全部、『僕』に関わることばかりだ。初美は自分自身の話をしてくれない。それでも僕は、どうしても初美に確かめておきたいことがあった。

「初美は、地縛霊だったよな?」

「なーにお、今更。そうです、あたしは怖い怖い地縛霊。窓に映った幽霊さん」

「でもさ……」

 僕は今日拾った女性月刊誌の表紙を、初美の眼前に当てた。

「『死んだ』んじゃないよな。これから、『死ぬ』んだろ?」

「はて」

 初美の目が横へと流れるのを、見逃さない。

「初美は未来を知ってるんだろ?」

「いや、偶然よ。あたし、昔から勘が鋭いの」

「僕は初美のことが好きって言ったぞ。本当のことを言ったんだぞ。なのに隠しごとするなんて、フェアじゃないだろ」

 強く言うと、初美は下唇を内側にもにゅと巻いた。

「……うん」

「初美はなんで地縛霊になったんだ? で、どうして過去の世界に来たんだよ」

「あたしね、事故で死んだのよ」

「うん」

「ひどいのよ。右折信号がついてるのに、対向車線からトラックが直進してきたんだよ。一瞬だったね。魂……ってやつが抜け出したんだろうけど、あたしはあたしの身体を『外側』から見たの」


 窓の外、雨がしとしとと降る。

 窓に雫が垂れる様はまるで、初美が涙を流しているようにも見えた。


「あたしの首から下は全部、潰れてたわ。でも顔だけはきれいなままだった。私は空に吸いこまれていった。光があったの。その光の中からあたしを憐れむ声がして、一つだけ願いを叶えてくれるって、そう言ったの」

「一つだけ? だったら、生き返らせてもらうのがよかったんじゃない」

「それがだめなんだって。さすがに命そのものは戻せないって言われたの。だからあたしはもうしばらくの間、この世にいたいってお願いしたわけ」

 それでも初美の願いはよほどのことがないと叶えられないケースらしく、『過去の平行世界であれば、現生に影響を与えないためできなくはない』という結末に至ったという。

 初美は過去の平行世界――すなわち、今僕が生きる世界への転送を望んだ。平行世界といっても似ている部分は多い。だから初美はあれほどに未来の出来事を言い当てることができたのだ。……もちろん、外すこともあったわけだけど。

 ただ、初美はこの『世界』になんの目的もなく居座ろうとしたわけじゃないだろう。

 この部屋のこの窓に転生したのには、必ずなにかの理由があったはずだ。

 僕がそれを目で問うと、初美は「ま、そういうことよ」と照れくさそうに言った。

「あたしの、愛しい人のそばにいられるようにって、お願いしたのよ」

「もしかして僕と初美は、未来で……」

「そこから先は、推測にしといた方がいいわ。さぁて、辛気臭い話はこれまでにして、続き続き! たしか達也が高校で陸上部に入ったとこまで話したはずよね」

 僕は心を惑わせながらも、軽くうなずいた。

 陸上部でメディカルボールを投げるトレーニングをしていたことや、高二の春の記録会で自己ベストを更新したことなどを話す。女子マネージャーとよくダベっていたというくだりでは「こいつぅ」と茶化されたが、彼女とはまったくなにもない清廉潔白な関係だったことを熱弁した。


 雨はいつしかやんでいたようだ。時計の針の音が耳に届く。不意に意識が遠くなった。今日は色々あり過ぎてずっと気を張っていたからだ。大きなあくびを一つした。


「眠たい?」

「うん……ちょっと」

「じゃあ、寝よう」

「そうしよっか。続きはまた明日、話すよ」

 立ち上がり、ベッドに向かって歩こうとしたら、背中に初美の声が届いた。

「ね、ベッドから布団だけもってきて、ここで寝ない?」と。

「ここって……初美の前で?」

「うん。一緒に寝るんだよ。わー、卑猥な響きぃ」

 仕方ないなあ。

 僕は布団をベッドからひっぺがし、それを初美の前に敷いた。

「おやすみ」

 微睡まどろみの中で、初美の優しい声を聞いた。

「おやす、み」

 まだ残っている意識を駆使して、なんとか返事をした。

「おやすみ、達也」


 薄目を開ける。星が見えた気がした。あれは割れた雨雲の向こうの煌めきだったのか。あるいは初美の瞳だったのかは今になっても判別がつかない。蒼く、白かった。夏の色だった。雨の気配はどこにも感じられなかった。マクラは少し冷たい。だけどそのひやっこさが、僕の火照った頭にはちょうどよかったんだ。


 朝、目覚めると。

 窓に、初美の顔はなかった。



 僕はなにも考えられなかった。なにかを考えようともしなかった。ただ、世界がまったく違って見えた。東からの日はあまりにも強すぎて、僕はこれまで開けっ放しだった遮光カーテンを久しぶりに引いた。

 のろのろとした動きで、DVDをプレイヤーに入れた。初美が感想をくれると思った。だから僕は大学を一日休んで、ずっとずっと『サム・オア・エヴリ』を観た。

 第七巻。二十話目。

 いい話だった。

 崖のシーンでは、ヒロインが主人公を信じていたからこそ、ヘリに乗る主人公を止めなかった。主人公もまた、ヒロインの心を知って覚悟を決めた。


 泣いた。


 遮光カーテンの向こう、子供の声、車の音、さお竹売りのアナウンス、自転車のブレーキをかける音、またも車の音、そして静寂がオーケストラのように鳴った。カーテンの色は白か黄色か黒のどれかにしか変化しなかった。初美と名前を呼んだら、またとめどなく涙があふれてきた。明日は、学校に行かないと。……行かないと。



 間一日の朝、その日もまた巨大なレンズのような晴れ間が広がった。

 テレビでは梅雨が明けたと伝えられている。紅茶を飲み、食パンにアップルジャムを塗って口に放りこむ。

 家を出た。宮下さんからは不在着信が七件。今日はどうしても彼女と話をしないと。

 すると、高架の下まで来たところで側方から誰かが突っこんできた。いつもの反射神経はなりを潜める。避けられない。僕たち二人は絡まるようにしてすっ転んだ。

「いてえ」

 眉をひそめる。ぶつかってきたのは女子中学生だった。向こうも「あいたたた」と膝を押させている。

「おい、大丈夫か?」

「ん、いけるいける」

 女子中学生はすぐさま立ち上がり、ぴょんぴょんと跳ねた。

「今から試合だから、行かないと」

 見上げた先、駐輪スペースを区切る浅葱色あさぎいろのフェンスを背景として、すっと通った鼻があった。ぱっちりと開いた瞼には涼しげな水鏡。よく知っている顔だった。僕が一昨日まで、毎日見てきたあの顔がそこにあった。


「初美?」


「ん? なんであたしの名前知ってんの? もしかしてアブナイ人?」

「お前……はは、中学生だったのか」

 初美は眉根を寄せて僕を見る。地面に置かれている彼女のスポーツバッグには『木下きのした』という刺繍が貼りつけられていた。

「木下……お前、木下だったんだ!」

「むむむ……さらに怪しい。おまわりさんのとこ、いく?」

 僕は手を立てて、ごめんごめんと謝る。

 だけどその後、余計なひとことを言っちまったもんだから、顔面に初美の蹴りをくらうという残念な『初対面』になってしまった。しかもモロだぞ。頬骨の辺り。

「やっぱり、かわいかったんだな」


 僕は初美にそう言ったことを後悔していない。

 放った言葉は戻らないし、戻す必要もない。

 だから僕はあいつと次に出会った時のために、少し会話の作戦を練らないといけない。

 初美は全速力で走る。そのうち、駆け足の幅はどんどん大きくなった。


 UFOのような雲の峰に向かって突き進む初美の背中の手前に、僕は幻想の窓を見たような気がした。その窓がなんなのかは、今日考える。



                              了

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