第5話

 李奈はKADOKAWAビル三階、Dの小部屋で打ち合わせに臨んだ。プリントアウトしてきたプロットを菊池に見せる。

「んー」菊池は一読するやうなった。「またこういう展開か。ファンタジーなんだから、もっと早く物語が進むべきじゃないか?」

「恋愛をしっかり描いておきたいんです。うわべだけの愛情でないってことを、ここでなるべく詳細につづって……」

「悪い。ちょっとまってくれ」菊池がペットボトルを手にとり、閉じたまぶたの上に当てた。

 李奈は困惑した。「だいじょうぶですか?」

「ああ、平気だ」菊池は深くため息をついた。「おとといは朝まで飲んでてね。参加した編集者はみんな疲れぎみ。宮宇さんも」

「そんなに盛りあがったんですか」

「そう。作家のいない場だと、やばいくらい意気投合することがわかった。いや、小説家の悪口ばかりいってるわけじゃないよ。杉浦さんのことは特に話してない」

 べつに気にしていない。編集者ひとりにつき、四十人前後もの作家を抱えるのが常だ。クラス担任の教師どうしの会話とそう変わらない。

 ドアをノックする音がした。どうぞ、と菊池が応じると、開いたドアから若い社員が顔をのぞかせた。

 社員がいった。「菊池さん、ちょっときてください。杉浦さんも」

 李奈は菊池と顔を見合わせた。こんな場合はふつう編集者のみ呼びだされる。なぜか李奈にとってみのない社員に呼ばれた。なんの用だろう。

 ふたりとも席を立ち通路にでた。しばらく社員の後につづく。行く手のドアが半開きになっていた。社員が室内に向かって頭をさげる。

 そこは小会議室の様相を呈する部屋だった。李奈は初めて足を踏みいれた。宮宇編集長のほか、五十代とおぼしきスーツが何人か列席し、しきりに話しこんでいた。議論はひと区切りついたらしく、宮宇以外は腰を浮かせた。スーツらが李奈に軽くおじぎをし、黙って退室していく。

 菊池が宮宇に話しかけた。「役員が勢揃いとは穏やかじゃないですね」

「座ってくれ」宮宇は疲れの漂う顔で菊池を見上げた。次いで李奈にも目を向け、ぼそりと告げた。「杉浦さんもおかけください」

 戸惑いながら着席したとき、李奈はテーブル上のハードカバー本に気づいた。装画はなく、題名と著者名が大書されている。『告白・女児失踪』、汰柱桃蔵著。出版に関わる人間の常で、小さく掲載された版元の表記も、めざとく識別できる。はんせつ社。

 李奈はきいた。「それ、汰柱さんの著書ですか? 見覚えがありませんが」

 宮宇がうなずき、本を李奈に押しやってきた。「発売まで一週間あるからな。これは見本だよ」

「拝読していいんですか」

「ぜひ。その文体をよく見てもらいたい。本当に汰柱さんが書いたのかな?」

 妙な問いかけに思える。カバーのそでには汰柱桃蔵の顔写真と履歴が載っている。本人の著書にまちがいないだろう。

 本文のページを開いた。汰柱の文章表現はあまり技巧を駆使しない。読みやすさとわかりやすさを優先した書きようが特徴的だった。それでも随所に固有の癖は見てとれる。

 たとえばあさろうは、段落の頭の人物名が前後の数行に連続しないよう、常に書きだしを変えようとする。だが汰柱はそこを気にせず、三行や四行にわたり、同じ主語から始まる短い段落がつづく。『聞く』ではなく『く』を多用する。『むせび泣く』『見目麗しい』『破顔』が頻繁に使われる。公文書のように接続詞が『及び』『並びに』となりがちでもある。

 会話はおおらかな表現がめだち、地の文で天候や気温についての描写を、ほとんど脈絡なく挟んでくる。ひとつの節は五、六ページていどで区切る。女性の登場人物については、容姿の説明に半ページを費やすが、男性はそのかぎりではない。

 どのページを開いても、著者ならではの特色に満ちている。李奈はうなずいた。「いかにも汰柱桃蔵さんの文章です。愛読者が百人いれば、百人ともそうだというでしょう」

「やはりそうなのか」宮宇編集長がため息をついた。

 妙に重い空気が室内に充満する。李奈は戸惑いながらページを拾い読みした。主人公は〝私〟となっている。一流企業に勤務しながら、二度の結婚と離婚を経て、現在は五十すぎにして独身。しだいに変わった性癖に悩まされるようになった。幼い女の子が力尽きて死ぬ、そのさまを夢想すると、夜も眠れないぐらい興奮するのを自覚しだした。

 やがて〝私〟は、女児が両親により虐待死させられたという新聞記事を、切りとって壁に貼るようになった。ニュースはネットで知るのだが、わざわざ新聞を買いに行き、その記事をしゆうしゆうしたくなる。女児が児童相談所に保護され、救出されたという報道には興奮しない。男児や小学生以上の女子児童だった場合も、興味の対象外となる。あくまで幼い女の子の死だけに夢中になる。〝私〟はそんな自分の異常性を忌み嫌いながら、どうしても欲望を断ち切れずにいる。

 そのうち〝私〟は精神科医に悩みを打ち明ける。精神科医による助言は、女児の気持ちになり、いかにつらく苦しいことかを理解すべき、そんな内容だった。ところが女児に成り代わるとの妄想は、〝私〟をさらに倒錯の世界へと至らしめた。〝私〟は本気で女児になりたいと切望しだした。むろんそんな願いはかなわない。よって欲求不満がまる。しだいに〝私〟は女児が許せなくなった。あのいとおしい見た目を持って生まれ、しかも苦痛に表情をゆがませ、生命力を失っていくさまで〝私〟を魅了する。その一方的に〝私〟の偏愛を誘発しつづける、女児という存在そのものが、徐々に憎悪の対象になっていった。

 物語の後半では、〝私〟が地元の小学生アイドルに心酔し、ストーカーと化す経緯が描かれる。本来なら女子小学生は〝私〟の興味の対象外だが、極めて幼く見える外見のため、女児の代用となっていった。〝私〟は握手会でそのアイドルに、苦しんで死ぬふりをしてくれと頼んだうえ、首を絞めようとする。会場は大混乱となり、〝私〟はアイドルのライブに出入り禁止となる。

 これ以降、いきなり別の主人公の一人称が割りこんでくる。章ごとにふたりの主人公が交互に描かれるようになる。もうひとりの主人公である〝わたし〟は、まちに生まれた女の子で、物心ついた三歳ぐらいから描写が始まる。幼児の一人称ではあるものの、描写のすべては大人の視点と変わらず、小難しい言いまわしが多用されていた。幼児の両親は離婚し、母子家庭になったが、明るい性格で保育園でも人気者だった。

 異様に引きつけられる物語ではある。李奈はいつしか読みふけっていた。終盤〝私〟はもんもんとし、日没後の郊外にクルマを走らせた、そのとき事件は発生した。


 三月十八日という日付を、私はぼんやりと理解していた。職場から謹慎を食らい、ずっと仕事をしていないのに、なぜきょうが何月何日かわかるのか。妊婦切り裂き殺人事件の日だと、けさテレビでいっていたからだ。

 陽はとっくに沈んでいる。町田街道はもう暗かった。私はトヨタクラウンのハンドルを、意味なく左右に揺らした。前後にクルマはおらず、反対車線にもヘッドライトの光は見えない。徐々に蛇行の振り幅は大きくなっていった。黄色の線が仕切られていたが、かまわず乗り越え、道幅いっぱいに車体を揺らしつづけた。

 やがて赤信号に差しかかった。そこを横断する小さな身体に、私は目をとめた。

 女児だ。小生意気な巻き髪、つんとすました色白の横顔。わずかにうつむきながら、横断歩道に歩を進める。私の目の前をゆっくりと横切っていく。水色のチョーカー風トレーナーに、黒のミニスカートを身につけていた。細く長い生脚が二本、交互に繰りだされる。女児はこちらをいちべつした。私のクルマのヘッドライトに、青白く照らしだされたその顔は、透き通らんばかりに輝いていた。妙に大人びた表情が、うつとうしげに軽くひきつった。私は瞬時にそのとりこになった。女児が苦しみあえぎ、痛そうに顔を歪め、もんぜつするさまを見たくなった。見ずには帰れない。すべてを失っても見たい。

 私はアクセルを踏みこんだ。なんの迷いもなかった。いて即死にするわけにはいかない。心得たものだった。驚きに目をみはった女児の胴体に、車体前部をこつんと当てた。軽い振動をおぼえた。たったそれだけで女児は前方に飛び、路面に転がった。なんといとおしいのだろう。万歳をするように投げだされた両腕、小さな両手の指の丸まったさまが、いかにも可愛らしかった。


 李奈のなかに嫌悪がこみあげた。鳥肌が立ってくる。〝わたし〟の章につづられた女児の短い人生、その物語には既視感がある。李奈はつぶやいた。「これって……」

 宮宇編集長がうなずいた。「そうざきさん、五歳。後半にでてくる〝わたし〟は亜矢音さんにまちがいない」

「たしか行方不明ですよね?」

「二か月ほど前、町田街道を歩いているところを目撃されたのを最後にしつそう。そこに書いてあるとおり、三月十八日の日没後のできごとだ」

 寒気にとらわれる。室内の温度が下がったかのようだ。李奈は言葉を失っていた。

 惣崎亜矢音という女児の失踪に、ひところ世間は騒然となった。公開捜査が始まり、情報提供を広く呼びかけたものの、いまだ発見されていない。

 母子家庭に育った亜矢音は当日、母親の気づかないうちに、ひとりで外出したらしい。失踪したとされる現場は、自宅から二百メートルと離れていなかった。連れ去りが起きたとみられるが、有力な目撃情報は寄せられていない。悪いことに付近の交差点の防犯カメラが、どれも新調するため工事中で、映像の記録も未発見のままだった。

 菊池がこわばった表情でつぶやいた。「信じられない。汰柱さんはたった二か月前の女児失踪事件をテーマに、新作の小説を書き下ろしたんですか。問題作狙いといっても、あまりにも……」

 亜矢音を轢いてしまったクルマのドライバーが、そのまま連れ去ったとする説がある。あるいはわざと亜矢音にクルマを当て、失神したところを誘拐した、そんな可能性も取りされた。この小説は後者の説に基づいた創作と考えられる。

 鉄は熱いうちに打てといわんばかりに、起きたばかりの事件を小説にする風潮は、一部にたしかにある。不謹慎だとの批判を含め、問題作に位置づけられることで、早急にベストセラーにのしあがろうとする試みだった。

 最近では新刊の寿命も短い。三か月をまたず書店は売れ残りを取次に返本する。たちまち中古本が安くたたき売りされる。なら鮮度のあるネタをすばやく売りさばき、まとまった金を手にすればいい、そんな考え方が業界内に蔓延はびこっている。

 汰柱桃蔵ほどの人気作家が、そこまでな話題づくりに走るだろうか。いや汰柱だからこそ書きうる小説だといえる。彼は過去にも、発生したばかりの皇室スキャンダルを題材に、露骨にそれとわかる小説を発表した。SNSは炎上し、書評界も紛糾したものの、本はミリオンセラーとなった。ビジネスとしては大成功だった。今回の作品も同じ狙いか。

 宮宇編集長が頭をきむしった。「不謹慎ってことだけが問題じゃないんだ」

 李奈の目は文面から離れなかった。自然に物語の先を読み進めていた。〝私〟は女児をクルマの助手席に乗せた。まだ息があったため、手で口を押さえた。女児は〝私〟の期待通りにもがき、苦しみ、喘いだ。やがて呼吸が消えせ、ぐったりとして動かなくなった。〝私〟はクルマを一本裏の道に乗りいれ、道端の草むらに女児を捨てた。

「いいか」宮宇編集長が身を乗りだした。「これを読んだ警察が捜査を始めている。捜査陣と犯人しか知りえないはずの情報が、この物語には数多く含まれているそうだ」

 驚かざるをえない。李奈はきいた。「これは実話ですか?」

「そう思える箇所が数限りなくあるらしい。具体的にはトヨタクラウンという車種、横断歩道に差しかかる前の蛇行運転、亜矢音さんが横断歩道上に倒れたという事実などだ」

 菊池がまゆをひそめた。「偶然の一致じゃないんですか?」

「いや」宮宇編集長が語気を強めた。「『告白・女児失踪』だぞ。〝わたし〟という女児の一人称で綴られた節も、まぎれもなく惣崎亜矢音さんの三歳から五歳までを描いている。やはり親や保育園の関係者しか知らない情報ばかりだ」

「でも」李奈は宮宇を見つめた。「〝私〟のほうは、汰柱さんってわけでもないですよね? 年齢は近くても、二度の結婚と離婚なんて経験していないでしょう。ずっと独身だと汰柱さんのエッセイ本に書いてありました。小学生アイドルの握手会に出禁なんて、本当ならとっくに週刊誌が話題にしてるかと」

「たしかに〝私〟とたなはししゆうぞう氏の人生は、似ても似つかない」

「棚橋修造氏?」

「汰柱桃蔵さんの本名だよ。きょう警察がうちに来て、行方を知らないかとたずねたそうだ。汰柱さんは一昨日おとといの夜から姿を消していると」

 さらなる衝撃が李奈を襲った。「汰柱さんも失踪したんですか」

 菊池が目をいた。「一昨日ってことは、あのホームパーティーの後ですか」

 宮宇編集長が硬い顔で応じた。「どうもそうらしいんだ。仕事場から家に帰った形跡はあるものの、夜のうちにまたクルマででかけたとか。飲酒運転になるはずなんだが」

 李奈は本を閉じた。「この見本本はどこから……?」

「装丁担当のデザイナーが献本を受け、うちに持ちこんでくれた。斑雪社もずっと内容を伏せていたらしい。刊行予定に題名は載っていたが、汰柱桃蔵の著作ということで、取次も単なる文芸書ととらえていた。ところが製本中、内容を問題視した印刷所の経営者が、弁護士に相談。発売の一週間前に警察が動きだす騒ぎになった」

「でもこれ……」李奈は思ったままを口にした。「いつもの汰柱節というか、ミステリ小説のような文体と構成です。先が気になってどんどん読めるような、興味をあおる筆致です。自分の秘めごとを告白しているようには、とうてい思えませんが」

「それでも警察は汰柱さんを、事件の詳細を知る重要参考人に指定したそうだ。まだ亜矢音さんは発見されていないが、未報道のあらゆる状況が、この本の内容と一致するからだと」

 菊池が当惑をしめした。「汰柱さんが二か月前に、そんな深刻な事件を起こしていたなんて、とても思えません。誰かからネタを売りこまれたとか?」

 宮宇編集長は首を横に振った。「新潮社で汰柱さんを担当した編集者に話をきいた。汰柱さんは典型的なベストセラー小説家だそうだ。内容を打ち合わせることなく、事前にプロットも提出せず、いきなり書き始める。完成した原稿を一方的に送ってくる」

 李奈はきいた。「原稿を読んでから出版を検討するんですか?」

「まさか」菊池が顔をしかめた。「あのクラスになると、脱稿日が事前に伝えられるだけで、もう印刷所への入稿準備が始まるんだよ」

「そうとも」宮宇編集長のけんしわが寄った。「作家としてのプライドが高いから独創性にこだわる。他人からアイディアの提供なんか受けたがらない。印税を自分以外に分けあたえるのをなにより嫌う」

「でも」李奈の戸惑いはさらに深まった。「話題になっている事件の真犯人から告白があれば、汰柱さんもそれを元に小説を書こうとするのでは? 独占取材のようなものだし、売り上げも期待できるし、作家としても名をあげられるでしょう」

 宮宇は賛同しなかった。「警察はすでに汰柱さんの交友関係を調べている。この二か月間、それらしい人間との接点などなかったそうだ。小説に書かれたような人物も見あたらない。小学館で汰柱さんを担当する編集者もいってる。真犯人が汰柱さんにアプローチしてきたら、さすがに相談があるはずだと。問題作を手がける作家ほど、じつはおくびよう者だからな」

「他人の告白を小説化したのでないとすれば……。やはり汰柱さんの実体験に基づいた話なんでしょうか? 〝私〟について、あえて汰柱さんとは別人のように描写することで、告白の生々しさを薄めたとか」

「ありうるな。しかし〝私〟が衝動的に亜矢音さんをいたわりには、それまでの亜矢音さんの私生活に詳しすぎる」

「衝動的というのも事実に反していて、じつは以前から連れ去りを計画していたのかも……」

「ああ。〝私〟の人生は、あきらかに汰柱さんとちがっている。だが内面はわからん。女児への異常な欲求こそが、この題名にある〝告白〟なのかも……」宮宇編集長はふと我にかえったように、管理職としての保身を気にしだした。「いや。私はやっぱり、なにも思いつかない。なにもしやべってはいないぞ。きみらもきかなかったことにしてくれ」

 菊池が李奈に目を向けた。「小説家としてどう思う? 体験をこんなふうに書くことはありうるのかな」

「これが告白だなんて……。もし他人からきいた話だったとしても、ここまで面白い小説に仕立てるなんて、ふつうなら良心がとがめます。あまりにリーダビリティがありすぎるんです。どこをとっても汰柱桃蔵のミステリ小説ですよ」

 文体は一人称だが、私小説にはほど遠い。謎めかした前振りで興味を引き、終盤に向かうにつれ、伏線を次々に回収する。さすがベストセラー作家とうならせる小説作法に満ちている。

 李奈はささやいた。「汰柱さんの自由な創作と、まったく同じ事件が現実に起きた可能性は……?」

「いや」宮宇編集長が渋い顔になった。「この小説は連載でもないし、書きあがるまで誰の目にも触れなかったと思われる。斑雪社の編集者が原稿を読んだのも、わずか一か月前だったそうだ」

 菊池がため息まじりにいった。「亜矢音さんのしつそうは二か月前だ。汰柱さんほどの作家なら、一か月もあれば長編一本は書ける。事件を起こしてすぐに原稿にとりかかったとすれば……」

 宮宇が椅子の背に身をあずけた。「期間的にはぴったりだ」

「でもなあ。あのホームパーティーのあとに失踪だなんて。理解不能じゃないですか?」

「まったくだ。思い詰めている人間が、赤坂のバーやらカラオケやらを検討するか?」

そう状態がひとり家に帰ったとたん、うつ状態に転じたんですかね……?」

 李奈は頭に浮かんだことを言葉にした。「わたしたち、汰柱さんに最後に会った人々ってことですよね?」

 すると宮宇が苦い表情でうなずいた。「役員にもそこをきかれた。警察は汰柱さんの行方を追っているから、失踪した当夜に会った人間に、片っ端から事情をたずねるそうだ。杉浦さん。きみのもとにも連絡が入るだろう」

 また警察か。李奈は腰を浮かせた。「さがのアパートに戻って、連絡をまちます」

 菊池がなにか思いついたように立ちあがった。「杉浦さん……」

「お断りします」

「まだなにもいってない」

 用件はきくまでもなかった。李奈は菊池を見つめた。「汰柱さんと最後に会ったときのようすを、手記に書かないかというんですよね? それだけでは一冊の本にならないから、優佳とか、推協のパーティーにいた曽埜田さんとか、大御所の作家さんたちにも声をかけて」

「……よくわかったな」

「分量が揃いしだい、『汰柱桃蔵・失踪当夜』とでも題したノンフィクション本として出版するとか?」

「いい題名だ。『失踪直前』としようかと思ったが、たしかに『失踪当夜』のほうがインパクトがある」

「失礼します」

「まった!」菊池が行く手にまわりこんだ。「このままじゃ幻冬舎か太田出版あたりが同じ企画を立てる。きみにもたぶん声がかかるぞ」

「わたしはどこでも書きません」

「頼むよ。うちには報道系の週刊誌がないから、ノンフィクション本の出版以外に手がない」

「さっきのプロットは?」

「あれも前向きに検討するからさ。なんなら前に没にした異世界転生ものの再検討も……」

 李奈はテーブルを眺めた。『告白・女児失踪』が目にとまる。李奈は宮宇編集長にきいた。「その本、お借りできないでしょうか」

 菊池が間髪をいれず割って入った。「貸す代わりに、いまの提案をきいてもらわなきゃ」

 だが宮宇は部下の商魂に、半ばあきれた態度をしめしていた。すでにハードカバーを差しだしている。李奈はそれを受けとり一礼した。ただちに部屋の外に駆けだす。

 通路を足ばやに歩きながら李奈は思った。この本はいったいなんだろう。小説の面白さと引き替えに、登場人物をもてあそびすぎている。現実に起きたことと知っていて、作家はここまで非情になれるものなのか。

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écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅱ 松岡圭祐/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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