夏
蝉時雨と直射日光を飽きるほど浴びる夏。
塩素の匂いと水面下でたゆたうタイルに見惚れる夏。
プールサイドで準備運動をして、うずうずしている生徒達を制している先生。
青春という二文字は「青い春」と書くけれど、私が思うに夏こそが一番の青春であると思う。
青春じゃなくて青夏だ。
祭りに花火に、海、海、海!
こんなに楽しいことがいっぱいの季節は他に無い。
そして我々は、様々な経験と失敗を経て、やがて大人になっていき、いずれこの日々を振り返ったときに感慨深くなるのだろう。
あぁ、なんて虚しくて、甘美で、麗しいのだろうか。
……と、私はビート板を積み重ね合わせて作った、特製のベンチに座りながら思う。
私は、泳ぐことに関しては他の人より抜きんでている自負があった。
小学校の時からスイミングクラブに通っていて、そこでは特に一つの泳ぎを極めるというよりも、四つの泳法を満遍なく鍛えていたのだ。
なので、先生が課した「クロール十周」という指示を私はいち早く終わらせて、今、悠々自適に休んでいるということである。
そして、そんな私のことなど露知らず、プールサイドの端っこで蟹やら魚やらの形を模した沈むタイプのおもちゃを、慎重に一個ずつ積み上げている少女がいた。
スクール水着を着て、ぺたんと座っている。
私はその少女に近づいて尋ねる。
「まなつん……何してるの?」
「んー……賽の河原ごっこ」
なぜ、そんなことをしているのだろう。
理解できないし、理解しようとも思わないけど、背が低くてつるぺたしているまなつんが、それをしているのを見ていると、様になっている? 感じがして悪くも言えない。
それに……私はまなつんが極度に水が怖いということを知っていた。
私は気になって、一年生の時に聞いてみたら、「小さい時に家族で海に行った際に溺れかけたことがあって、それ以来、海やプールが怖くなった」とまなつんは言っていた。
多分、その出来事はまなつんのトラウマとなり、まなつんの心を不安にさせるよう、バランス悪く積み重なっているのだ。
それこそ賽の河原の石みたいに。
だとするのなら、鬼がその石を崩さないとじゃん。
つまり……私が鬼になってそのトラウマを壊さないとじゃない?
「まなつん、気になったんだけどさ」
「なに?」
イカのおもちゃを積みながら応えた。
「まなつんて、プールで泳いでみたいなーとか思ったりする?」
まなつんの手が止まる。
そして、しばらく下を向いて考えたかと思ったら、蟹のおもちゃを積み上げてこう言った。
「……ちょっとだけ」
ことん……ころころガシャン!
積まれていた海鮮ブレーメンが、
「じゃあさ、今度練習しにいかない?」
「練習?」
「うん! 今週の日曜日に市民プールでさ! 部活もその日は休みだし」
逡巡……そののち。
「うん。分かった」
その表情を見れば、百パーセントで首肯していないことが見え見えだったが、せっかくその重い腰を上げてくれたのだ、このチャンスを逃すわけにはいかない!
……まなつん、安心して! 私にかかれば三途の川でもスイスイ泳げるぐらいになるからね!
プールサイドで息巻く私と崩れたおもちゃを見て悲しむまなつんであった。
日曜日の午後二時。
私達は水着とタオル、水泳キャップを持って市民プールへと現地集合で集まった。
日曜日の昼間なので混んでいるか心配だったが、今日は予想外に人が少なかったので良かった。
鍵付きロッカーにタオルと着替えを入れる。
私達は見慣れたスクール水着を着て、見ているだけでぞわぞわする見た目の、コンクリートでできた水溜め用らしき階段を三段降りて、三段上った。
青空と紫外線。
透明なプールの水が日の光をまだらに反射する。
空を反射して青く染まったプールに白い雲が浮かんでいる。
私はそこにダイブする。
ばっしゃあぁん。
準備体操? ここは学校じゃないんだからそんなのはいい。
ここまで走ってきたから、そんなのとっくに終わっている。
今は、衝動とわくわくと冷たさに身を任せたい気分だからと言い訳をして、暑い外気と冷たい水温のグラデーションをしみじみと、染み染みと嚙み締める。
「まふゆちゃん……準備体操は……?」
……冷静になってみると、まなつんがいる手前、こんなことをしてはいけないだろうと、もう一人の私が思った。
そういえば、そもそも今日はまなつんのために来たんだった。
「ごめん、テンション上がっちゃってつい……」
私はプールから上がって、今度はまなつんと一緒にしっかりと準備体操をする。
それが終わると、いよいよ「まなつんの苦手克服大作戦!」という名の挑戦が幕を開けるのだった。
「まず、まなつんには、水に慣れてもらうところからやってもらおうじゃないか」
ということでまずは、プール際に座ってもらい、私がプールの中から水をかけていく。
「どう? 気持ちいい?」
「……うん」
よし、第一関門は突破!
次はプールに入るフェーズだけど……。
「まなつん、行けそう?」
まなつんの顔色をうかがうと、その表情はこわばっていて、あからさまに緊張している様子であった。
私はまなつんの手を優しく握ってニコッと笑いかける。
「私に体を預けて!」
まるで、手と手を取りダンスを踊るみたいに――なんて言うのは大げさだけど、多分それぐらいの一体感を感じたのは間違いないと思う。
広大で深さ無限大の水に落ちていくんじゃないかみたいな、怖いイメージを払拭させる。
水は決して恐怖の対象なんかじゃない、優しくて心地よくて綺麗なものだと。
今は私もついている、だから安心して欲しい。
そして、そんなことを思っていたからかどうかは分からないが、まなつんはすんなりとプールの中へと入ることができた。
まなつんはというと、自分自身に驚いているような、そんな表情をしていた。
「どう? 怖くない?」
「……案外怖くないかも」
「ホントに!? やったー!」
私はまなつんの手を握ったまま、ジャンプしてそのまま背中に倒れる。
そして、水面にプカプカ浮かびながら安堵した。
澄み切った青空と暖かい直射日光が体の前面に当たっている事を、背面の冷たさによってより感じる。
ちぎって投げたみたいな白い雲を触れようと手を伸ばす。
届かない手は宙を掴み、重力に引っ張られて水面に着水した。
水しぶきがはじけて飛ぶ。
「わぶっ……」
「あ! ごめんまなつん! 嬉しくて一人で舞い上がっちゃった! ごめん!」
「うんん、私こそ嬉しいよ」
笑顔こそまだないけれど、それでもまなつんの表情は確かに柔らかくなっている気がした。
それを見るだけで私は救われた気持ちになった。
心の鬼が笑った気がした。
トラウマという積み石を破壊しながら。
……そう考えるとなんかシュールで面白い絵が浮かんできてしまうが、今はそれでもいいかも、なんて思う。
「えっと……それじゃあ次は、手はつないだままで、歩く練習しよっか!」
まなつんは静かに頷いた。
了解を得たところで、私は周りに人がいないことを確認する。
そして、私は後ろ向きになり、まなつんの手を引きながら、ゆっくりと歩きだす。
温度に慣れてきて心地よくなってきた水が、歩くごとに肌を優しくなでてくる。
背中で水の抵抗を感じて、手のひらでは人肌の暖かさを感じる。
まなつんは水の中を歩くことに慣れていないながらも、頑張って私についてきている。
私達は自分たちのペースを維持しながら、プールの端から端まで歩いた。
たしか、ここの市民プールは学校のプールと同じ長さで、片道25メートルだったかな。
「25メートル到達ー! どう? まなつん」
「……楽しい」
まなつんは恥ずかしそうにしながら少しうつむいて、少し微笑んだ。
私の中で何かが込み上げてくるのを感じる。
これは何……魔力?
心臓もドキドキする、やっぱり魔力かも……。
「じゃあ、次は一瞬潜ってみる練習かな」
そう言うと、まなつんはあからさまに嫌な顔をした。
普段だったら、どんなことがあってもわざとみたいに表情を崩さないまなつんが、こんなに表立って嫌な顔をするということは相当嫌らしい。
「うーん……じゃあ、水面に顔をつけるはどう?」
そう言うと、さっきの半分ぐらい表情が和らいだ。よかった……。
まなつんは深呼吸をして、そうしたかと思ったら真っ直ぐ私の目を見てくる。
その表情から緊張していることが分かって、それを見ているとこっちまで緊張が伝染してくる。
私達は未だ手をつないだままだったので、手汗が出てないか不安になる。多分、出ててもプール内だし気付かないだろうけど。
――そんなことは置いといて。
目の前ではギュッと目を瞑り、恐る恐るゆっくりと頭を下げ始めているまなつんの頭があった。
徐々に水面へと近づいていくまなつん。
……と同時に強まっていく握力。
そして、ついに顔面が水面に付く。
その衝撃で顔の周りを波紋が伝わっていく。
それから、二秒とちょっとした後ぐらいに勢い良く顔を上げた。
「ぷはぁっ……。……できた」
顔を上げて誇らしげにそう言った。
まなつんのドヤ顔? らしきものを見たのは私の人生で初めてだったかもしれない。
眉毛がちょっと上がっていて、きりっとした瞳だった。
「ぷふっ、あははっっ」
その顔を見てしまっては、流石の私も笑いをこらえることができない。
なぜ笑っているのか理解できないといった表情でこっちを見るまなつん。
心が満たされる空間。
これは、私が一人で好きなことをやっていても絶対に生まれない空間だ。
「ふー、笑った笑ったー! よし、じゃあ次はどんどんレベルを上げていこうかなー……」
また嫌な顔をするまなつん。
その顔を見て嗜虐心が沸いている自分に気が付いて、驚く。
あれ、私ってもしかしてSなのか……?
練習において大事なことは、深い理解と反復である。
それに従って、私達は繰り返し練習をし、そして深い理解を得た。
それが何かというと、まなつんは上達するのが早いということだ。
私が次に行こうとする度に、嫌な顔をするくせにやってみたらそつなくこなす。
我々は、未だ誰も知らなかった意外な才能に気付いてしまったのだろうか……。
とは言っても、いきなりクロールとかバタフライを覚えたなんてことではない。
流石にそこまで行ったら、今まで嘘ついてたのかって思うし、まなつんはそんな子ではないことをもう知っていた。
……何はともあれ、今まなつんはというと、手を繋ぎながらではあるが、潜っている間は前に進んで、そして、息継ぎの時は起き上がって……を繰り返しながら前に進める程度まで進化した。
水に入るのも怖かったあのプールサイドの女の子が、一日でもここまで行くなんて……恐ろしい子! と言いたくなる。
そして、これを進めていけばいずれは平泳ぎができるようになるだろう。
「途中、休憩も入れたけど二時間、よくここまで頑張ったね。私は正直びっくりだよ!」
「それは……まふゆちゃんがいたからできただけ。今もまふゆちゃんがいなかったら無理」
「いやいや、苦手だった人は一日でそんなに成長できないって! 誇って誇って!」
「……ふん」
わざとらしく腕を組むまなつん。
正直言ってかわいい。
国に保護対象と指定されていてもおかしくないぐらい。
「だけど、調子に乗って先へ進み過ぎると、怪我や事故の元になりかねないので、さっきやった、潜って移動する練習をもう一回やって今日はもう終わろうか」
そう言うと、うん。と頷いたので準備をする。
まぁとは言っても、さっきやったことの繰り返しなので、さっきよりスムーズかつスピーディーに進んでいくだろうと予想できる。
なので、私は安心していた。
安心しきっていた。
言い換えれば、油断していたと言えるのだろう。
そして、その油断は事件になった。
いや、故意ではないので事故か。
その出来事は、練習の終わりかけ――端から端へのゴールがもう目の前というところで起きた。
「まなつん、もうちょっとでゴールだよ! ファイト!」
浮上したまなつんに私はそう言った。
目測で、あと一回潜りながら進んだら終わりだと思って応援の声をかけたのだ。
相も変わらず表情の変わらないまなつんは、最後の潜水を開始する。
その動きに合わせながら、ゆっくりと下がっていく私。
そこで私は考えた。
最後だし、少しだけ手を離しても大丈夫かなぁ……と。
そして、手を離してちょっと距離をとることにした。
そこはもう壁際で、ゴールであった。
――そして、そのまま、まなつんは前に進み、ワタシとハイタッチしてゴール……となる算段だった。
だがしかしその予想は裏切られることとなった。
まなつんは止まったのだ。
その場に留まって、そして、すぐに浮上した。
そして、寸分の隙も与えない間にこっちへと飛び込んできた。
飛び込んでくるまなつん、壁を背に立つ私。
私は失念していた。
一つは、まなつんがもう完全に自立して行動できるほど水に慣れたのだと、そう勘違いしていたこと。
もう一つは、まなつんの目がありえないぐらい悪かったということだ。
瓶底みたいな眼鏡を置いて、裸眼で水の中。
目の見えない中で苦手な水の中に一人ぼっち、という状況がどれほど怖いかを私は全然想像できていなかった。
できなかった。
小さい頃から水に触れていた私には想像を絶していた。
胸に飛び込んでくるまなつん。
その短い時間に、どう受け止めたらいいのかを考えるなんて人業ではできない。
回避不可能。
「ちゅっ」
そして、私たちはキスをした。
……?
その味はしっかりめの塩素の味であった。
……?
何が起きたのか全く把握出来ていないまなつんは、いまだに混乱している。
混乱するまなつんと、あまりの出来事に思考が空っぽになる私。
罪悪感と高揚感。
塩素の匂いが鼻を抜けていく。
一つ言えること。
今日一日を通して、私の心に残ったものは、ほんの小さな復讐心とありえないぐらい大きな罪悪感であったことを、私はいつまで覚えているだろう。
夏になっても、秋になっても。
そして、冬になっても。
中二病の冬と不思議な夏 不透明 白 @iie_sou
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