アイロニ

棗颯介

アイロニ

 初めてティッシュを食べた。どこの家庭にもあるティッシュペーパー。街で配っている人もいるあのティッシュペーパー。この部屋の中で食べられそうなものはそれしかなかった。


「………」


 味がしなかった。いや、舌は何かの味覚情報を脳に伝達していたのだけれど、その正体が何なのか、まだ八歳のあたしには判断できなかった。強いて言えば、紙の味。神の味じゃなくて、紙の味。紙の材料は木だったはずだから、多分それは木の味っていうことでもあるのかも。

 丸めたティッシュを口内で咀嚼する。噛み切れない。今のあたしの身体のどこから出てきたか分からない唾液が消化を助けようとティッシュに溶け合い、口触りだけはちょっとした中華風の卵スープのようになった。


「……っ」


 喉にティッシュを通すのにも結構な労力がかかった。胃に送ったそれは、果たしてあたしの身体を動かすエネルギーに昇華されるのかな。少なくともお腹を壊すことはない気がしているけど。


「———お腹、すいたな」


 まだ声が出ることに自分でも驚いた。一体この部屋に閉じ込められてからどれだけの時間が経ったんだろう。学校の先生は、クラスのみんなは、お母さんは、あたしのこと心配してくれてるのかな。


 ———してるわけ、ないか。


 友達はいない。お父さんは仕事に夢中で、お母さんは自分のことを見てなんかいない。誰の心の中にも、あたしはいないんだ。お母さんがあたしをこの部屋に閉じ込めたことだって、きっとお母さん自身も気付いていない。たまたま鍵をかけた部屋にあたしが居合わせただけで。

 

 ———このまま、ここでこうしていれば、死ぬのかなあたし。

 ———死ぬのって、どんな感じなんだろう。

 ———痛いのかな。苦しいのかな。

 ———多分違う。

 ———きっと。


「———寂しいよ……」


 誰の心にもいないあたしが死んでも、誰も悲しまない。誰も喜ばない。誰にも何も残さないまま、誰にも気づかれずに死んでいく。そう考えたとき、あたしはたまらなく寂しくなった。

 せめて、何か一つだけでも、自分がこの世にいた証を残したい。功名でも悪名でも構わないから、誰かにあたしの存在を知ってほしい。

 じゃないと—――。


「あたし、何のために、生まれてきたの……?」


 その問いに答える者は部屋の中には誰もおらず、ただ自分の腹の虫だけがひっきりなしに鳴いていた。


***

***

***


「よぉ、うじ虫」

「………またあんたか」


 引きこもり生活二十一日目。ちょうど三週間。齢十一歳で生まれて初めて“自分探し”という名の引きこもり生活を始めたが、存外長く続いている。不登校を許してくれている両親と学校の先生には感謝しかない。その好意のおかげで今日もこうして自室でタダ飯を食いながらテレビゲームに没頭できるのだが。

 

「お、今日は食後のデザート付きか。いいお母さんじゃん」

「毎日言ってるけどそれ僕のだから」

「カタいこと言うなって。対戦ゲームはCPU相手じゃ物足りないだろ?今日もオレが遊んでやるからさ」


 僕と同い年ぐらいの背格好の少女はそう言って僕の隣に胡坐をかいて座り、今朝方母親が作ってくれた朝食の膳にあったバナナを一本取ると、手際よく皮を剥いてかぶりついた。


「なぁ、あんた本当に何なんだ?」

「通りすがりのプロゲーマー」

「昨日僕に何度も負けたろ」

「能ある鷹は爪を隠すんだよ」


 そうぶっきらぼうに言い捨てた少女が、今日もコントローラを手に取った。

 名前も知らないこの少女が僕の前に現れたのは一週間前のことだった。唐突に、何の前触れもなく、気付けば彼女はそこにいた。


▼▼▼


「腹減ったんだけどなんかねぇか?」


 開口一番、人様の部屋にいきなり現れておいてそんなことを言ってのけたとき、僕がたまたまおやつのドーナツをつまんでいたのは幸か不幸か。


「お前、何してんの?」


 ドーナツを食べ切った後、彼女はそう聞いてきた。普通初対面の相手なら先に名を尋ねるのがセオリーな気もしたが、そもそも神出鬼没に突如現れた少女に対してそういう常識を期待するのもナンセンスだった。


「自分探し」

「あー、あれか。引きこもりか」

「……そうとも言うけど」


 自分でも自覚しているつもりではあるけれど、面と向かって他人にそう指摘されると思っていた以上に居心地の悪さを感じた。


「なら頑張れ」

「え?」


 彼女は話は終わりだと言わんばかりに床に寝そべって、僕の部屋の本棚にあった漫画を読み始めた。さも自分の部屋で寛ぐように。

 彼女が何者なのかもどうしてここにいるのかも理解できなかったけど、「頑張れ」と言われたとき、どうしてか、少し気が楽になった。


▲▲▲


「なぁうじ虫、炭酸飲みたくね?」

「台所の冷蔵庫に入ってるんじゃない」

「そうか、じゃよろしゅー」

「自分で行けばいいのに」


 文句を垂れながらも僕は重い腰を上げて一階の台所に降りた。ちょうど食べ終わった膳を返す用もあったし、トイレにも行っておきたかった。

 彼女は僕のことを「うじ虫」と呼ぶ。最初に会ったときからそう。一応ちゃんと名前は教えたんだけど、多分そっちは彼女の記憶からとっくに消え失せてるんだろう。どうしてうじ虫なのかと以前聞いたら、彼女はこう答えた。


「うじうじしてるじゃん。芋虫か毛虫みたいに」


 ぐうの音も出なかった。


「ただいま~、ってじゅん、起きてたの?」

「……起きてちゃ悪いの」


 タイミング悪く、ちょうどパートから帰ってきた母親と台所で鉢合わせてしまった。


「ううんそんなことないわよ。ご飯、ちゃんと食べてくれた?」

「……うん」

「そう、良かった。今日スーパーの特売だからこれから買いものに行くんだけど、お夕飯、何食べたい?」

「なんでもいいよ」


 短くそう告げて早々に二階に戻った。

 お母さんは優しい。声に滲み出ている。それに甘えさせてもらっている手前、あまり反抗的なことはしたくないしするつもりもない。でも、その分かりやすい優しさがどうしても自分の罪悪感を刺激する。


「お、サンキュー」

「あんた、いっつも飲み食いしてるけど、よく太らないね」

「食った分はちゃんと身体使えば太らないだろ?」

「どこで使ってるっていうのさ」


 彼女の食い意地は他の同い年の女の子と比べれば少々度が過ぎているように見えた。毎日毎日僕の食事をつまんでは追加を要求する。僕自身そこまでたくさん食べる方でもないから残すくらいなら食べてもらえるのは助かるといえば助かるのだけど。お母さんもその点に関しては安心してくれているようだし。

 彼女に食事を提供することは、今の自分ができる数少ない善行の一つだった。現実を見つめれば後戻りできない後悔と罪悪感で押しつぶされそうになるけど、少なくとも今の自分は他人に貢献することができている。何もせずただ漫然と時を過ごして逃げているわけじゃない。その事実が僅かながら僕を安心させてくれた。


「あっ、ちょ、おまっ!今の反則だろ!」

「別にチート使ってるわけじゃないんだけどな」


 テレビゲームは今日も僕の全戦全勝。彼女が現れる前はずっとCPU相手でしか遊んでいなかったから、実際に他人と勝負するのは新鮮だ。まぁ彼女に対戦型アクションゲームの才能はあまり無いようだけど。


「はー、クッソゲー」

「プロゲーマーなんじゃなかったの?」

「プロゲーマーがどのゲームでも強いと思うなよ」


 そうムキになる彼女の表情は、言葉遣いこそ粗暴だが同い年の子たちとなんら変わらない愛らしさがあった。


「あんたに全勝できるなら僕にもなれそうだな、プロゲーマー」

「なりゃあいいんじゃねぇの。オレはそういうのよく分かんないけど」

「やっぱりよく分かんないんじゃん」


 そんな他愛のないやり取りをしながらも、僕はどうしても考えてしまう。自分の将来。果たして十年後、自分はどんな自分になっているのだろう。今の自分からしたら、二十一歳なんて未知の世界。大学生か、そうでないなら社会人ってことになるんだろうか。いやそもそも、十年先まで自分は生きているんだろうか。人生に飽きて死んじゃっているんじゃなかろうか。それとも。


「んだよ、辛気臭いツラして」

「いや、十年後も自分、こういうことしてるのかなって」

「こういうこと?引きこもってるって?」

「そう」

「別にいいじゃん、どうでも」

「どうでもって、無責任だなぁ」

「当たり前だろ。オレはお前じゃないんだからお前の人生に責任なんか持つかよ」


 至極当然という顔で堂々とそう言ってのける彼女の潔さは、正直僕も見習いたい。というか、実際その通りではあるのだけれど。


「ま、なるようになるんじゃねーの?」

「そういうもんかな」

「人間なんか生きてりゃ放っておいたって前進するんだから。人によって歩く速さに違いはあっても、逃げるも止まるもねぇよ。あるとすればそりゃそいつが死んだ時だ」

「………」


 逃げるも止まるもない。生きているだけで前進。

 じゃあ今の僕は。


「———……るのかな」

「なんか言ったか?」

「僕はいま、進んでるのかな」

「胸に手あてて心臓が鳴ってりゃそれが答えだ。ついでに腹の虫」

「ッ………!」


 熱いものが、目から零れた。

 彼女は面倒くさそうに眉をしかめた。


「どうしてそこで泣くんだよ、うじ虫」

「ごめん」

「お前が自分で言ってたことだろ。“自分探し”だって。なら納得いくまでそうすればいい」

「うん………うんっ……!」


 気が済むまで、僕は泣いた。床に顔を伏せて蹲るその姿はどうしようもなく、彼女が言う通りうじ虫のようだった。


***


 それから十か月近く、僕は自分探しという名の自宅警備員生活を続けた。その間ずっと、彼女は僕の部屋に現れ続けた。二人でご飯を分け合って、お菓子を食べて、いろんなゲームをして、取るに足らない話を沢山した。

 十か月経って、僕はようやく少し外に出てみたいという気持ちになった。これと言ってきっかけがあったわけでもない。単純に、自然とそう思うようになったというだけ。まずは保健室登校だった。親も学校もそれを許してくれたし、暇をしている先生の何人かが交代で僕の勉強を保健室で見てくれるようになった。そうするうちにクラスメイトが時折顔を見せに来るようになって、小学六年に上がる頃にはクラスに顔を出してみんなと授業を受けるようになっていた。

 自分でも驚くほどトントン拍子に、僕はごく当たり前の生活を取り戻していた。

 でも変わったことも確かにあった。僕が元の日常に戻るにつれて、彼女は僕の前に現れなくなった。たとえばそれはクラス替えで別々になった友達と疎遠になるように。

 学校から家に帰って、部屋でゲームの電源を入れるたび、僕はいつも彼女のことを思い出す。


「よぉ、うじ虫」


 そう僕を呼ぶ彼女の声が今にも聞こえてきそうな気がして。

 いつも彼女と部屋で分け合っていたご飯も、今ではリビングで両親と普通にとるようになった。ずっと二人で分け合っていたから、彼女がいない食事は僕には少し量が多い。冷蔵庫のジュースや戸棚のお菓子の減るペースも以前のそれには及ばなくなった。

 元の日常には戻れたが、代わりに彼女との“自分探し”は終わった。いや、“自分探し”が終わったから、僕は元の日常に戻り、彼女は姿を消したのかもしれない。どうあれ、彼女に対しちゃんとした礼も挨拶もしないまま別れてしまったことは、僕の中に後味の良くないものを残した。


 ———あの子に貰ってばかりだった。

 ———僕は、あの子に何を返せるんだろう。


 そうこうするうち、僕は義務教育の六年を終えていた。

 いつの日か彼女が言ったように、放っておいても人は前に進むんだ。


***


「ただいま」

「はい、おかえり」


 卒業式から母さんと一緒に帰ってきた。家に誰もいなくても帰った時に「ただいま」と言ってしまうのは喉の無駄な負担かもしれないけれど、そういう当たり前の人間らしさみたいなものを取り戻せたのは喜ばしいことなのかもしれない。


「淳、お父さんが帰ってきたら、三人でどこかご飯食べに行こうか」

「うん、いいよ」

「なに食べたい?」

「うーん、和食かな」

「分かった、お父さんにメールしておくね」

「ありがとう」


 引きこもっていた頃は「なんでもいい」なんて言っていたけれど、曖昧でも多少なりとも自分の希望を言えるようになったのも前進ということなのかなと、僕は内心苦笑した。

 二階の自室に戻ると、僕は六年間(正確には五年少々)使ったランドセルを机に置いて、中から卒業アルバムを引っ張り出してパラパラと本のページをめくった。クラスの集合写真にはちゃんと僕も映っている。自分が思っていた以上には楽しそうな笑顔を浮かべて。


「少し前からは想像できないな」

「そうだな、うじ虫」

「えっ?」


 懐かしい声に思わず振り返ると、そこには彼女が立っていた。あの頃と変わらない姿で。


「どうして?というか、今までどうして会いに来てくれなかったの?」

「何言ってんだよ。オレはずっと一緒にいたぜ」

「え?」

「お前が学校に行ってた時も、友達と遊ぶようになった時も、家族でメシ食ってるときも。ずっと見てた」

「だから、どうして現れてくれなかったんだ?」

「相変わらずニブいヤツだな。オレが会わなかったんじゃなくて、お前が見えなくなってたんだよ」


 そう言ってジッと眉を寄せて面倒くさそうにこっちを見るその視線も、あの頃と何も変わっていない。


「見えなくなった?なんで?」

「知るか。でも、多分お前が変わったからじゃねぇの?」


 僕が変わった。

 確かに、僕は変わった。この部屋を出て、外に出て、人と交わるようになって。でもそれは変わったんじゃなくて、元に戻っただけ。


「マイナスがゼロになっただけなのに」

「はぁ?まだそんなこと言ってるのかよ」

「え?」

「マイナスになることなんてあるか。お前はずっと他のヤツにはできないことをしてきたんだから、そりゃプラスにしかならないだろ。オレが変わったって言ってるのはそういうことだよ」


 具体的に何かは知らねぇけど、と彼女は付け加えた。

 

 ———そうか。自分は。

 ―――でも。


「キミのおかげだよ、きっと」

「———もう泣かないんだな」


 いつもトゲトゲしていた彼女の声が、少しだけ柔らかくなったように聞こえた。改めて思う。僕はずっと、彼女に守ってもらっていた。僕の心は、彼女と出会った日から救われていたんだ。


「ありがとう、本当に」

「オレはただタダ飯食ってゲームしてただけなんだけど」

「それでも、ありがとう」

「やれやれ。うじ虫………じゃないな。淳」


 彼女が初めて僕の名を呼んだ。


「卒業おめでとう」

「ありがとう」


 卒業、というのは小学校を卒業したことだろうか。

 それとも。


「ねぇ、これからも会える?」

「お前次第だな」


 そう言って彼女はニヤリと笑う。

 でも、なんとなく分かる。きっともう、彼女と会うことはない。

 だからせめて、お礼がしたかった。


「ねぇ、何かお礼したいんだけど」

「いらねーよ。というかもう十分貰った」

「貰った?何を?」

「飯とかお菓子とか。美味いもの腹いっぱい食べさせてもらったよ」

「そんなので―――」

「それで十分だよ」


 彼女はそう言い切るが、でも、と少し気まずそうに顔を背けて付け加えた。


「あたしのこと、忘れないでくれたらそれでいい」

「忘れるわけない」


 僕はそう自信をもって断言した。


「………そうかよ」


 彼女は口の端を少しだけ持ち上げながら、消え入りそうな声で呟いた。

 そして気を取り直すように首を振る。


「オレは—――」


 と彼女が何か言いかけたとき、不意に下の階から声が聞こえた。


「淳~?お父さん帰ってきたよ~」

「ッ……」

「行ってこい」

「でも」

「親と美味いもの食べてこいよ」

「……うん。そういえばさ」

「ん?」


 最後に、どうしても聞いておきたかった。

 

「キミの名前は?」


 彼女は一瞬真顔になり、やがてハッと鼻で笑った。


「通りすがりのプロゲーマーって言ったろ」

「………そっか」


 それは、僕の予想通りの答えだった。


「じゃあ、行ってきます」

「おう、行ってこい」


 僕は後ろ髪を引かれながらも、ドアノブに手をかけて勢いよく開いた。

 その瞬間、ずっと彼女と一緒に“自分探し”をしていたこの部屋からも、僕は今日卒業したんだと思った。


「ッ………!」


 そのまま僕は彼女を振り返ることなく、両親が待つリビングに降りていった。


***


「………」


 淳が部屋を出ていった。前までこの部屋に籠もってうじうじしていた頃と比べれば、少しだけその背中は逞しく見えた。


「何が『お礼したい』だか」

「あたしはもう、十分貰ってたよ」


 二人で一緒に食べたご飯やお菓子は、あの頃食べていたティッシュペーパーなんかよりずっと美味しかった。


「ありがとう」


***


「淳も四月からは中学生かぁ」

「本当にね」


 連れてきてもらった料亭で卒業祝いと称した豪勢な食事に舌鼓を打っていると、両親が感慨深そうにそう言った。


「何さ、二人して」

「淳も大きくなったなと思ってな」

「そりゃそうでしょ。生きてりゃ勝手に大きくなるよ」

「それもそうね。きっと淳もあっという間に大人になるんだろうね」

「十年後はどうなってるんだろうなぁ」


 二人は期待に胸いっぱいという表情で笑っている。二人の優しさは前々から知っているし感謝もしているが、あまり過剰に期待されるのはそれはそれでこそばゆい。

 十年後。生きていればなるようになると彼女は言っていた。自分も自分が十年後どうなっているかなんて想像もつかない。

 でも、少しだけ欲張ってもいいのなら。


「プロゲーマーとか、なりたいかも」


 二人の“自分探し”で見つけたもの。

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アイロニ 棗颯介 @rainaon

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