猿真似

尾八原ジュージ

猿真似

 獣道というよりはもう少しだけ拓かれた、それでも細い道だった。無論舗装などされていない。長年ここを通るものが踏み固めてきた道だ。でこぼこした地面を踏んで進みながら、(旅館の従業員が道案内をしてくれなかったら迷ってしまったかもしれない)と改めて思った。まして、夜は猶更だ。

「お客さん、確かご親戚がこの町の出身ちゅう話でしたが……」

 私の三歩ほど先を行く男が話しかけてきた。谷田という人当りのいい男性で、旅館の法被の上に登山用らしいジャンパーを着、懐中電灯を持っている。長年この地で暮らしているらしく、土地勘もあるため、道案内を買って出てくれたのだ。こうして山中の小道を歩く足取りにも、不安げなところが一切ない。私と同年代だろうが、よほど身が軽そうに見えた。

「ええ、僕の祖父母がこの町の出身で。ただ若い頃に夫婦で出てきてそれっきりだそうで、実をいうとこちらを訪ねたのは、これが初めてなんです」

 対する私は日頃の運動不足が祟って、もう息が切れ始めている。

「へぇー、そんなご縁があるんですねぇ。まぁ、田舎ですからね。若いが都会へ出て行って戻らんちゅうこんはあるもんで……しかしねぇ、こ~んなところにある温泉が話題になるなんて、わからんもんですよ」

「SNSに投稿された写真が拡散されたんですよね。『星降る秘湯』って」

「ええ、それそれ。バズりにバズったそうで。はっはっは」

 少ししゃがれた、しかし快活そうな声で、谷田は愉快そうに笑った。

 フリーのカメラマンである私は、この山中にある温泉の写真を撮るためにやってきた。山の斜面にある浴場からは、晴れた夜には星がよく見え、まるで夜空に浮かんでいるような気分になるそうだ。

 地元民だけが知る秘湯だったが、少し前にそこからの風景を撮った写真がネット上で拡散され、話題になった。私はある旅行雑誌の依頼を受けてこの地にやってきたのだ。

 天気予報を睨みながらスケジュールを組んだ甲斐あって、今夜は美しい星空が頭上に広がっている。

「晴れてよかったですね」

 私の思考を読んだかのようなタイミングで、谷田が言った。

「ええ、こりゃ街中じゃなかなか見られませんね。銀河鉄道が走っていきそうだ」

 私がそんなことを言ったのは、昨年亡くなった祖母のことをふと思い出したせいかもしれない。宮沢賢治の描いた銀河鉄道は、死者を乗せて駆けるものだ。

「確かに――そういえばこの辺りは昔、ちっと気味の悪い話がありましてね。夜にこの道を歩いていると、死んだ者が呼び止めるっちゅう」

 谷田はそう言っておいてから振り返り、「あっすみません。いやな話をしてしまって」と頭を下げた。

「いやいや、よかったら続けてください。実は怪談の類いが大好物なんですよ」

 私が促すと、谷田は嬉しそうに「うですか。ならよかった」と笑った。おそらく、彼もこういった話が嫌いではないのだろう。

「昔――といっても私のじいさんの頃ですかね。この辺りはまだ土葬でして、死者を焼かずに墓に埋めてたんです。そうするとたまぁにね、この辺の猿が死人の皮だの着物だのを剥いで、亡くなった人に成りすますんですよ」

「はぁー。そいつは不気味だ」

「でしょう? 人間の皮をかぶった猿が山の中に立って、この辺を通る人を騙して、一緒に人里に下りようとするんです。何で人間と一緒でないといけないのかはわかりませんが……だから日が暮れてからこの道を通る人は、呼びかけられても絶対に返事をしちゃいかんちゅうて」

 山中で呼びかけられても返事をするな、という話は、この地方に限ったものではない。しかし、今こうして明かりの乏しい山道を歩きながら聞くと、改めてぞっとするものがあった。今もその辺りの藪の中に人の形に似たモノが立っていて、こちらに向かっておいでおいでをしている気がする。私は足元から這い上がるような寒気を感じた。

「実はその、私のじいさんからね」

 谷田は続ける。「見たっちゅう話を、よく聞きました」

 急にあたりが、しん、と静まり返ったような気がした。ざく、ざく、という谷田の足音がやけにうるさく響いた。

「昔、じいさんの妹が病気で死んだんですが」と谷田は語り始めた。

「年頃の娘が死に装束しか持っていかないなんて不憫だと言ってね、母親がよそいきの黄色い着物を棺桶に入れてやったそうなんです。で、葬儀が済んでからしばらく経った日の夜、じいさんが野暮用でちょうどこの道を歩いていたんですって。その夜もえらく空が晴れていて、月明かりで普段より周りがよく見えたんだそうです。そしたら突然、声をかけられたんですって。『にいさん』って、若い女の声で」

 それで、と言いながら、谷田がこちらをちらりと振り向いた。

「何しろ『返事をしちゃいけない』って昔から言われてますからね。じいさんも声は出さなんだが、それでも思わずそちらを向いたそうです。そしたら木の間に、黄色い着物を着たものが立っていて、こちらに向かって手招きをしている。それが見るからに獣だっていうならまだいいけれども、ぱっと見は人間にしか見えなかったそうなんです。でも、よぉく見るとどうも違う。背丈がやけに小さいし、手つきもぎこちない……怖ろしくなって逃げ帰ったそうなんですが、翌日墓を訪れてみたら、こないだ固めたばかりの土饅頭が掘り返されていたっちゅう話です」

 私は思わずごくりと唾を飲んだ。谷田はいっそう明るい口調になって、「まぁ、嘘か本当か、今となっちゃわからんこんですがね!」と言った。

「ああ、ほら、ようやく見えてきました。あそこに明かりが見えるでしょう? あの掘っ立て小屋みたいなものが脱衣所ですよ」

「ははぁ、野趣がありますね。混浴なんですか?」

「いや、一応中は分かれてます。お客さんは、温泉はお好きですか?」

「風呂は好きなんですが、実は公衆浴場がちょっとね……人前で裸になるっていうのがどうも苦手で。ですからこういった、人里離れた秘湯は好きですよ」

 私は笑いながら頭をかいた。

 いい年をした男が、公衆浴場で脱ぐのが恥ずかしいなんておかしな話かもしれないが、私は人並み外れて毛深いたちなのだ。だから、つい人目が気になってしまう。

「なるほど。まぁここも今はちょいちょい人が来るようになりましたけども、バズる前は人間より猿の方がよく入っていたでしょうな」

 谷田は何気なく「猿」と口に出したようだが、先ほどの怪談を思い出したのだろう、少し表情が曇った。旅館は言うまでもなく客商売だ。やはりあれは外部の人間にするような話ではなかった、と後悔しているのかもしれない。

 確かに気味は悪かったが、そもそも私が促して聞かせてもらったものだ。私はわざと気軽な調子で、

「人間のふりをしたまま、温泉に入ってたやつもいたかもしれませんね」

 と言ってみた。谷田の顔には安堵らしきものが浮かんだ。

「ははは、風呂の中で話しかけられたら、つい返事しちゃうかもしれませんね」

 そう笑いながら、ふとなにかを思い出したらしい。ちらっと夜空に目を向けると、

「そういやじいさんがね、本当に連れ帰ったやつがいるんだって、言い張ってましたよ」と話を続けた。

「へぇ。その、猿をですか?」

「ええ。その人は嫁さんを亡くしたとかでね。猿だとわかっちゃいたけど山から連れてきて、そのまま町を出てって帰ってこなかったっちゅう話で」

「へぇー、駆け落ちかぁ。そういうのも純愛っていうんですかね」

「どうですかね。猿の嫁さんなんかもらって、どうするだかねぇ」

「いや、人間の真似をするくらいだから、案外賢いかもしれませんよ」

「なるほど。町で暮らすうちに、もう見分けがつかなくなっちゃったりしてね。子供なんかもいて、案外幸せにしているかもしれませんね。はっはっは!」

「ははは、子供はどうですかねぇ」

 まぁそういった怪異の類であれば、遺伝子の違いなど飛び越える不思議な力を持っているのかもしれない。人に化けた猿が市井に混じって何気なく暮らしていたら――と考えた方が、フィクションとしては面白いだろう。

 谷田に合わせて笑いながら、私はふと、自分の祖母のことを思い出した。この町の出身だというが、親族の類はいなかった。祖父も実家とは縁を切ったと言っていた。駆け落ちだったのだ。

(いやいや、何を考えてるんだ。ばかばかしい。異種婚譚なんて御伽噺じゃないか)

 きっと夜の山道の雰囲気にあてられたのだ。心の中で笑い飛ばしながら、私はみっしりと毛の生えた自分の手の甲が気になって仕方なかった。

 私の毛深いのは、祖母の遺伝である。彼女も女性ながら異様なほど毛深く、猿のように小柄なひとだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猿真似 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ