もう一人
妻高 あきひと
もう一人
― 夢の中 ―
濃い霧の中にいるらしい。
自分の手どころか身体も足も見えず、目だけが動いている。
霧がゆっくりと渦を巻き始めた。
平衡感覚がおかしくなり、自分の身体まで回っているような気がする。
渦の中に赤っぽい灯りが見えてきた。
ぼんやりと明るい、どうやら街灯のようだ。
灯りの下で何か動いている。
ブランコだ。
誰もいないのに揺れている。
ここは公園なのか、そういえば見覚えがある。
ああそうか、アニマの前にあるあの公園だ。
なんでオレはここにと思っていると、ブランコの横にいつの間にか小柄な女(ひと)が立っている。
うつむいたままだが身体はこっちを向いている。
胸のあたりまである長く赤い髪を垂らしているので顔がわからないが、目だけのオレに気づいているようだ。
赤いシャツに黒いブレザー、灰色のスカート、小柄で年は30代くらいか。
袖から白い手がのぞいてるが足の下は霧に隠れて浮いているようにも見える。
この姿、思い出した、ひょっとしたらあの人じゃないのか、そうだ、間違いない。
あの人だ。
全身に鳥肌が立った。
逃げようと思ったが、足が金縛りのようになって動かない。
あの人は赤い髪を両手ですくい上げながら、うつむいたまま音もなくス―ッと近づいてくる。
歩いていない、浮かんで目の前まで来た。
手を伸ばせば抱けるほど近い。
赤い髪の毛の一本一本が意志を持ったように波打っている。
何だよ何する気だよ、あっちへ行ってくれよ。
あの人はゆっくりと顔を上げた。
顔を上げるな、見たくない、やめろと叫ぼうにも声が出ない。
目をつむろうとしても、目をそらせようとしても、目がまばたきもせず言うことを聞かない。
あの人の顔が、目が合った・・・・
オレはその怖ろしさでギャーッと悲鳴を上げた。
今度は声が出た。
自分の大声に自分で驚いて目が覚めた。
夢、か。
夢を見てた。
カーテン越しの窓の外が明るい。
時計を見れば朝の6時過ぎだ。
いやァ怖かった。
怖かったのだが、その顔が画像として思い出せない。
怖いと思うから怖かったのか、そんなはずはないが。
まあ夢だからこんなもんか。
それに思い出したら、これもまた大変だ。
まさか今夜も、いやそんなことはないだろうと思うが。
考えると眠れなくなりそうだ。
でもあの人に会ったこともないのになぜ夢に出たのか。
公園の前のアニマに行くたびに気にしているせいか。
会ったこともない人だが気の毒だと思っているし、あの人を追い込んだ男への憤りも少しはある。
しょせん他人事だが、アニマに行くたびに現場が目の前にあるのだからいやでも気にしてしまう。
そういえば今日は金曜日だった。
どうせ残業があるし、今晩アニマに寄ってみよう。
夢のこともママに話してみるか、そうしよう。
ケンタは手洗いで歯をガシガシと磨きはじめた。
窓の外が段々とにぎやかになってくる。
― ケンタ ―
ケンタは中堅の広告会社に勤めるサラリーマンで入社しておよそ6年になる。
広告とその関連だから新聞テレビ雑誌から看板からチラシまで仕事は山ほどある。
ケンタは営業が主だが、外から帰れば帰ったで広告制作のアシスタントのようなことまでやらされる。
本人もそういうのは好きで制作の連中もケンタに同じ匂いを感じるらしく、PCでの加工までやらされることもある。
頼まれれば断らないし、あれこれ知っていると営業の役にも立つからおろそかにはできない。
どうせ彼女もいないし、それなら仕事を覚えた方がいいと思っている。
社内も得意先もみな人間関係がいい。
この会社でこれからもずっとかな、それも悪くはないな、と最近は本人もそれなりに本気で思っているようだ。
残業を終えて電車に乗った。
アニマは二駅先の駅の裏通りだ。
この路線も外国人が多い。
斜め前にも顔の彫りが深く浅黒い中東系が座っている。
ケンタは思っている。
「みなムスリムなんだろうな。そういえば中東にも幽霊話しがあるのか、聞いたことがないな。砂漠と石ころだけの世界では、幽霊も居場所がないのだろう。おまけに貧困と戦争に明け暮れていて現実のほうがはるかに悲惨で怖いもんな。やはり幽霊も場所次第か、ハハハ」
一人で勝手に笑っていたら、その浅黒い人と目が合った。
気分を壊したかなとケンタは思い、軽く頭を下げて何とか無事に過ごした。
駅についた。
時計を見ると11時過ぎだ。
表通りはまだ人通りが多いが、裏通りに入ると一気に人も車も減る。
アニマの近くにはスナックやラーメン屋、コンビニなどもあるが、多くは企業の事務所や工場、倉庫あるいは駐車場で土日を前にした金曜は特に人通りが少なく、暗がりも多い。
どこか秘密めいていて歩いているとスパイ映画の主人公になったような気分がする。
アニマは三階建てのビルの一階で他の部屋はみな貸事務所やトランクルームで夜中は人がほとんどいない。
アニマの前まできた。
道路を隔てた前には夢に出たあの公園がある。
街灯のそばでブランコが誰かを待っているように見える。
なぜあんな夢を見たのか、ケンタは思い返している。
街灯の明かりにコウモリが一瞬浮かんだ。
街の中だが、ネズミなどの餌が多いのだろう。
― アニマ ―
アニマはスナックだ。
店はカウンターだけで奥に長く伸びている。
ママが笑いながら低い声で迎えた。
「いらっしゃーい、今晩あたり来るな~なんて期待してたわよ」
歳の分からない顔をしているが、60歳前後だということは聞いた。
自分の母親より少し上だが、ママもケンタをそのように思っているらしく、そのせいかケンタによくしてくれる。
すぐにビールとツマミが出てきた。
「昨晩、あの人らしい夢を見た。会ったこともないし顔も知らないのになぜか夢に出てきてね、目の前まで近づかれて顔が見えた、恐ろしくて上げた悲鳴で目が覚めたんだけど」
「どんな顔だったの」
「それが、その顔を思い出せない。怖かったことは覚えているけどね、怖いはずだという思い込みがあるせいかもしれないけど」
へ~とママはケンタの話しを聞きながら応えた。
「あの人の幽霊なんて誰かが面白半分でまいた噂よ、ケンタクンが気にするから夢にも出てくるのよ」
あの人とは、ママの前にここでスナックを経営していた女性のことだ。
三十代半ばのキレイな女性だったらしいが、結婚詐欺にあって何もかも失ったあげく、三年前に公園で首吊り自殺をした。
その少しあとから、公園や近所にあの人の幽霊が出ると噂が立った。
赤く長い髪で顔は隠れているが、自殺したときと同じ装いで30代の年恰好で小柄、となればあの人に間違いないとなった。
周辺の会社や車のドライバーにも見たという人が現れ、やがては見ると祟りがあるなどと噂が一人歩きを始めた。
無人になった店の前は一気に人通りが減った。
たまに来るのは怖いもの見たさのやじ馬程度で、特に深夜になると全く人通りがなくなった。
店で自殺したわけではないが、事故物件になって次の借り手もみつからない。
希望者が下見に来ても前の公園の寂れた様子を見ると借りる気にならないらしい。
困った大家は不動産屋で嘆いた。
「店もお祓いして改装もしたのに誰も入らない。噂のおかげで他の物件にも影響が出ている。亡くなったあの人の後始末までやってこれでは、こっちが浮かばれん。なあ何とかいい案はないか、アンタ不動産屋だろう」
聞かれる不動産屋も応えようがない。
「そう言われてもねえ、うちも影響が出ているしさ、相手が生きた人間じゃないだけに警察もパトカーがさっと通り過ぎるだけだよ。警官もきっとあの人に会いたくないのだろう。役所もお手上げだよ。公園を整備してくれと頼んでも予算が優先順位がと言うばかりで何もしてくれない。幽霊騒ぎだもの、そう簡単に予算もつかないしさ」
どうしようもなくなった大家はとうとう初期費用は一切無し、保証人も不要、家賃は三年間はタダ。
貸し出しの条件は、店を開き灯りを付け人がいて営業している、という事実だけという条件を出した。
それでやっと数人が下見に来たが、みな前の公園を見て気が変わるらしい。
店に入るときも公園を振り返り、出るときもドアーを開けた途端にあの人が目の前に立っていたらと思うと恐ろしさと緊張で出られなくなるらしい。
そして下見にきた者は二度と来なかった。
ところが一人だけ様子が違う人物がやってきた。
それが今のアニマのママだ。
店の中も公園も見て回ってこう言った。
「幽霊はただの噂でしょ。わたし、気にはなりません。親にも周囲にも昔からお前は霊感があると言われ、そういう勉強もしていますし、お祓いも除霊も心得ていますから大丈夫です」
とあっさり言って店を借りた。
もちろん大家は条件通りの契約書をつくって店を貸し出した。
ママは店の壁に小さな神棚を取り付け、お宮や札や榊などを飾って毎日開店前と閉店後に拝んでいる。
そしてママが入ってからはピタリと幽霊を見たという話しも消えた。
辺りの人通りも増えたようにも見え、日が暮れたあともブランコに乗っている高校生たちやタバコを吸いながら休んでいる人も現れ始めた。
幽霊話しは噂だけだったのか、いやママのおかげであの人が出なくなったのではないのかとケンタは思っている。
確かにママは雰囲気もどこか普通とは少し違うとケンタは思っている。
店の名前のアニマもラテン語で魂や命を意味しているらしい。
イタリアでは霊や霊魂も意味するという。
ケンタが会社の連中と面白半分で最初にここに来たときママはこう言った。
「店の名前はお告げなのよ。面白いでしょ」
とケンタにあれこれ説明しながらママは屈託なく笑っていた。
それ以来ケンタはここの常連になった。
その後は幽霊話しも宣伝になったのか、客も増えて一人では手が回らないほど忙しいことも多い。
ママがアニマを始めてからおよそ二年近くになる。
ママがケンタにビールをつぎながら言った。
「この前さ、不動産屋さんと大家さんがそろって来てね『そろそろ家賃を・・・ 相場よりうんと安くするから』て言うのよ。でも家賃を払うのはまだ一年先の契約でしょと言ったらさ、『分かってる、分かってるけどさ申し訳ないけど、考えてもらえんかな』なんてさ」
「三年はタダだよね、契約違反じゃないの」
「そうよ、でもさ、契約だからで突っ張ってもね、そうドライには割り切れないのよ。裁判になればこっちの勝ちは確かだけど、そんなことはしたくないし」
ママはケンタに相談しているわけではなく、安心できる誰かに聞いてほしいようだ。
ケンタにもいい案は思い浮かばない。
カウンターに目を落としながらツマミを食っている。
そこへドアーを開けてコンバンワ~と言いながら女性が入ってきた。
半コートに下はGパンスニーカーだ。
初めて見る顔だが、ケンタを見て軽く頭を下げながら言った。
「ここ、よろしいですか」
「ああ、どうぞ」
ケンタの横に座った。
ママの知り合いらしく、肩に提げていた黒い大きなバッグを下ろして床に置いた。
彼女の名前はサキだと、ママがケンタに紹介してくれた。
サキはケンタより一つ年上らしいが黒いショートヘアーがよく似合う。
映画が好きで劇団の公演も見にいくし、自身も小さな素人劇団でたまに舞台に出ているという。
ケンタも仕事柄、映画も舞台もよく知っていて盛り上がった。
気が合うようだ。
それからケンタは忙しくなって3週間ばかりアニマから足が遠のいた。
― 公園 ―
仕事が一段落したころ、久しぶりにアニマに行こうとするとデザイナーのコースケが言った。
ケンタとは同期の入社だ。
「ケンタ、お前、今晩アニマに行くのか」
「ああ、久しぶりだ、一緒に行くか」
「いやそうじゃない、あそこまた出るんだってな」
「エッ」
「またあの幽霊が出始めたという噂だぞ。何人もが店の周辺や公園で見たらしい。じきに店の中にも入ってくるかも、なんてことになってるらしい。それも今度は確かな証人が複数いるらしいから本物じゃないのか」
ケンタはアニマへ急いだ。
ドアーを開けるとき少し緊張し、公園を振り返った。
街灯の灯りにブランコが浮かんでいる。
あの夢を思い出し少し背中がゾクッとした。
ママはケンタを見ると嬉しそうに言った。
「おやまあ、お久しぶりね、嫌われたのかと思っちゃった」
「大仕事が入ってね、一段落してやっと来れた。ところでママ、あの人、また出るって噂聞いたけどホントなの」
「ああ聞いたのね、うんそうよ、そうらしいわね、でもさわたしは見てないし、店の中もそのような気配も無いし」
「お客さんが帰ったあとはママ一人だよね、平気なの」
「平気よ、なぜって彼女に恨まれる覚えはないもの。出たところで怖くもないわよ」
「ケンタ君はどうなのよ、怖いの」
ケンタは黙った。
実はケンタは元から幽霊は苦手なのだ。
ママもそれには気づいているから、なおさら気に入っているのだろう。
ママは客の注文でツマミをつくり始めた。
ケンタはママの動きを見ながら声をかけた。
「今度は見た人が複数いるて聞いたけど」
「実際に見たというお客さんは確かにいるわよ。うちにも来て話してくれたもの、ウソや冗談とは思えなかったしさ、いるんでしょ。でもさわたしは見てないし、自分の目で見るまで信用できないわよ」
「お客さんは減ったの」
「それがさ、面白半分、怖いもの見たさでさ、お客さん増えてんのよ。ただ野次馬気分の人がほとんどだから、そのうち落ち着くだろうけどさ。その中で何人かがうちの常連さんになってくれれば嬉しいんだけど」
確かにそのようだ。
見たこともない客が数人座っていて、それも長居している様子だ。
ママが他の客を横目で見ながらケンタに小声でささやいた。
「あのお客さんたちも幽霊目当てなのよ。3日前も来て彼女に会えなくてさ、今晩も来てんのよ。ああいうお客さんだから愚痴もこぼさないし、酔って騒ぎも起こさないし、飲み代の払いもきれいだし、頃合いになれば勝手に出ていくしね」
「家賃の話しはどうなったの」
「まだ分からないけど幽霊話しのせいで取り消しになりそうなのよ、そうなればあの人の幽霊も歓迎だけどね」
そこへサキがやってきた。
今晩も黒い大きなバッグを肩から提げている。
「コンバンワ」
「あらケンタさん、先日はどうも、お久しぶりね」
二人は幽霊そっちのけで話し始め時間が過ぎた。
二人が会うのは二回目なのに、どうもそれ以上に仲がいいようだ。
ひょっとしたらこの二人、とママは思っている。
サキは明日は朝の用事があるからと言って先に帰った。
ケンタが時計を見ると12時を過ぎている。
幽霊話しの影響か、その後も客が来て席が埋まってきた。
ケンタはママに声をかけて店を出た。
公園を見ると薄明かりにブランコが前後に少し揺れている。
誰も乗ってないし、風も無い。
ケンタは以前見た夢を思い出した。
「これで霧が出てくれば夢の通りか、おおコワ、早く帰ろう」
すると公園のそばから男の二人連れが現れた。
ケンタを見ると道路を横切りながら走って近づいてきた。
顔が青い。
一人が言った。
「アンタ店から出てきたようだけど帰りは気をつけなよ。公園の暗闇でおかしなものを見た。例のあれだろう。何も悪さはしないらしいけど、顔を見た者は気が狂うらしいからな」
「例の幽霊ですか」
「ああ、おそらくな、あれだろう。オレたちを見ていたようだ。初めて見た、まだ足が震えてる。こりゃ何日か寝られんかもしれん」
「おい、アニマで飲んでいこう。ママにも話してやろう」
気が狂う、とは初耳だ。
そんな噂にまでなってんのかとケンタはおどろいた。
「この先どんな噂になるか、わかったもんじゃないな」
ケンタは駅へ急いだ。
― 秘密 ―
駅に入った。
駅は二階が待合いで吹き抜けになっており、一階の広場が見える。
遅いせいか人気がない。
ケンタが酔い覚ましに手すりにすがって下の広場を何げなく見ていると女が広場に入ってきた。
ベンチに座って黒いカバンを開けて何か取り出し始めた。
ケンタは酔った目をこらして女にピントを合わせてじっと見て気づいた。
(なんだ、サキさんじゃないか、こんな時間までどこにいたんだろう)
声をかけようとすると、サキは辺りを見回しながらバッグから服を出した。
ていねいにたたみ直している。
赤いシャツ、黒いブレザー、灰色のスカート。
「?」
ケンタの頭の中を信号が走り回り始めた。
「あれ、なに」
そしてサキがバッグから最後に取り出したのは、長く赤い髪のウイッグだった。
「エッ・・・」
ケンタの頭の中で答えが出た。
サキは視線を感じたのか、顔を上げて上を見回している。
ケンタと目があった。
目を細めてケンタをじっと見上げている。
サキの顔色が変わった。
どうしたらいいのか、明らかにうろたえている。
するとあわてて服と髪をバッグに荒く戻すと走るようにして広場から消えた。
ケンタはおどろき、そして一人で笑った。
駅員がケンタを見ながら通り過ぎていった。
「そういうことか、おどろいた。しかしすごいなママもサキさんも。いやあ女てのはその気になったらやるんだ。バレたら大変だろうに、まいったな、そういえばサキさん芝居もやるって言ってたな」
ケンタはママとサキの秘密を知って二人の仲間になったような気分になった。
二人の秘密にもう一人加わって三人の秘密になった。
アニマに引き返そうか、いや明日行くか、迷ったが週明けに行くことにした。
月曜日の夜8時、やけに風が強い。
コンビニの空き袋がぶっ飛んでいった。
ケンタはアニマの前に立っている。
もう公園を振り返っても何も感じないし、怖くもない。
公園のブランコが強い風に揺れているが、当たり前だと思っている。
やれやれと思いドアーを開けようとすると近くの路地の暗がりに黒いブレザーの女が背中を向けて立っているのが見えた。
風を除けているのだろう、赤い髪が風に乱れながら流れている。
サキだ。
ケンタに気づいていないようだ。
ケンタはおかしくなった。
ドアーに身体を半分入れて振り返るとサキは消えていた。
― 赤い髪 ―
ケンタはニコニコしている。
「コンバンワ~」
ママの顔色が変わった。
(やっぱりそうか)とケンタは笑うのをこらえた。
カウンターには客がすでに三人座っている。
オッ奇跡か、お気に入りの端っこの席が空いている。
ママが荷物を置いて確保していたようだ。
ケンタがいつ来るかと待っていたのだろう。
ビールとツマミを出しながらママが小さな声でささやいた。
「ケンタくん、先週の金曜の夜、駅でサキさんを見た?」
ケンタは小さな声で言った。
「うん、見たよ」
「サキさん何してた?」
「何も見てないよ、声をかけようとしたら出ていったし」
ママは黙ってケンタを見ている。
ケンタは言った。
「ボクはここに来たいだけ、ここが好きだし、幽霊も気にならないよ」
ママはケンタが何を考えているか理解した。
ママはケンタの言葉と、ケンタという人間を信じた。
ニコニコしながらケンタの耳に低い声でささやいた。
「家賃の話しは契約通り一年先になったのよ」
「半月こなかったうちに状況が変わったね、それもいいほうに」
「そうよ、おかげでね、サキちゃんももうカバンも必要なくなるわよ」
「でもよく今までバレなかったね」
「運が良かったのかな、今思えば冷や汗ものだけどね」
そしてママは嬉しそうに言った。
「サキちゃん今晩はきっと来るわよ」
ケンタは小声で言った。
「サキさんなら、さっき路地の暗がりで背中を向けて風をよけていたよ、ボクには気づかなかったらしいけど」
「あそう、来てたの、どこへいるのかしら、風も強いのに」
その風のせいで客はボチボチと早めに帰り始めた。
「この風じゃ出ないだろうねママ、また出直すよ、おい返ろうぜ」
カウンターはケンタ一人になった。
しばらくするとサキがきた。
「こんばんわ、あらケンタさん」
サキは勘がいい。
笑っているママの様子を見て分かったようだ。
黒いバッグを床に置いてケンタの横に座った。
「いや、この前はおどろいちゃった。まさかあそこでケンタさんに見られていたとはね」
「サキちゃん、バレないうちに終わりにするから」
「わたしはいいわよ、面白かったから少し未練はあるけどさ」
「そうと決まったら、この風じゃもうお客さんも来ないだろうし、閉めて三人で飲みましょうよ、わたしがおごるから」
ケンタとサキは喜んだが、どうやらママは二人の時間をつくりたいらしい。
でも二人にはそんなことはわからない。
ママは表の看板と行灯の灯りを消し、ドアーの外にCLOSEDの札を下げ、鍵をかけた。
そしてママはカウンターの下からインスタントのラーメンを取り出した。
「お腹空いているでしょ、とりあえず食べるかいお二方」
ケンタもサキも笑いながらうなづいた。
ママがポットから湯を注いでいる。
湯気が上がり、店中になんとなくホッとした空気が流れている。
秘密を共有していた二人と、思わぬことで共有することになったもう一人がラーメンを食べている。
「ああ、おいしい、何でもないことだけど、こんなとき何となく幸せ感じちゃうのよね」
サキが言うとママも応えた。
「わたしも今晩はなぜか幸せな気がする」
ママは日ごろ見せないような笑顔を見せた。
ケンタが二人に尋ねた。
「最初の幽霊騒ぎもあの人が自殺して思いついたの」
ママが言う。
「最初の幽霊騒ぎは関係ないのよ。あれこそただの噂よ。ワタシも他人様の不幸に悪乗りして芝居までする気はないし、そんなことしても思い通りになる保証もないし、バレたらそれこそ大変だもの」
サキも言った。
「本物の幽霊なんかいないわよ」
三人がラーメンをすする音が店に流れる。
ケンタはラーメンを食べ終わると笑いながら言った。
「サキさん、さっき路地に立っていたよね」
ママも言った。
「アンタ今晩もやってくれたのね、ご苦労さまでした」
するとサキが言った。
「えっわたし、今晩はまだ何もしてないわよ」
「でも、さっきボクがここへ来たとき、暗がりに立って風をよけてたでしょ」
「わたし、今来たばかりよ、誰よそれ」
「誰って・・・」
ケンタが言うなり三人は顔を見合わせた。
誰も何も言わずに沈黙が続いた。
そして三人は気づいた。
そばにもう一人、誰か立っている。
もう一人 妻高 あきひと @kuromame2010
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