後日談 ふたりの持ちもの


はじめて、喧嘩をしてしまった。


水族館でのデート中、ほんの些細なことだった。きいちゃんがいろんなものに魅入っては、あっちへふらふら、こっちへふらふらと歩くものだから、その手にひっぱられて歩くのに疲れてしまって……


つい、強めの語気で「ちゃんとして」と言い放ってしまった。跳ねられたように振り返ったきいちゃんの見開かれた瞳が、うるうると海のなかに沈み、頬は仄赤く染まりあがる。まずい、とおもったときには遅かった。



「こども扱いしないで!」



どちらかというと、いつもぼんやりとしていて穏やかなきいちゃん。それに似合わない荒い表情とトゲトゲしい声。ああ、こんな声を、顔を、させてしまったのは私だ。じぶんの余裕のなさを言いわけにして、きいちゃんにやつ当たりしてしまったのだ。


思えばいつものことだ。すこし幼い言動のきいちゃんと一緒にいること自体はすきだったし、そんな仕草だってかわいいと思っていたのに、それがきょうはなぜだか苛つきにかわってしまったのだ。


この気まずい沈黙を破りたくて、休憩しようとテラスを指した。気まずさはろくに変わってくれなかったけれど、きいちゃんは俯きがちに目線を泳がせながらも、半歩後ろをついてきてくれた。


待ちに待ったデートの日。数時間前までは天気の良さにふたりではしゃいでいたのに、いまはこの澄んだ青空がすこし憎い。



私たちの心に寄り添うつもりなんて微塵もなさそうな爽やかな風が、ふたりをくるむように吹いて、おなじシャンプーの香りが混ざりあう。


太陽光がおそろいのピアスと照らしてちらちら笑う。こんなにも私たちはいろんなことを分け合ってきたのに、いまのふたりのあいだには、途方もない壁があるように思う。



振り返ってみれば、口下手な私がこんなにもひとと話せているのは珍しいことだった。ひとえにきいちゃんがそうさせてくれているのだと感じていた。


ついつい警戒心から作り上げてしまう私の壁を、あくまで心地よく、丁寧に崩してくれる。乱暴に壊さないで、レンガをひとつずつ外すように。戻されたレンガのなかにひとつだけきいちゃんのレンガが残されていて、それが繋がりと約束を残してくれる。


一方で、踏みこんで欲しくない場所に対しては敏感に察知して距離を保つ。私にはできないことだ。きいちゃんの、そういうアグレッシブな優しさが好きだった。


だからこそ、きいちゃんにひとたび壁をつくられて、その壊し方を私は知らなかったことに気づかされた。なにかから身を守るように力をこめて丸まった背中には、迂闊に触れられないトゲがある。ハリネズミみたいだ。どうしたらいいんだろう。


怒っているのか、悲しんでいるのか、それすらうまく読み取れない。途方に暮れながら、同時にきいちゃんに嫌われたかもしれないという焦燥感と不安が湧きあがって、心をぼこぼこ波立たせてくる。


不意に、きいちゃんが口を開いた。


「……わかってるよ、疲れさせてるって」

「疲れてなんか」


と、反射的な言葉を遮るようにきいちゃんが短いうめき声をだした。駄々をこねるこどものような声だった。


「ちがう……ちがうよ、そんなふうに嘘ついてほしいわけじゃない…ごめん。じぶんでもなおしたいとおもってるけど、うまくいかないの。梅雨ちゃんが手を握っててくれるから、まだ人にぶつかったりしないでいられるてるだけ」



ちいさな手を擦りあわせるようにしながら、きいちゃんは、ぽつぽつと言葉を降らしはじめた。その瞳は、なんの面白みもない床に注がれたままで、私のことはやっぱりみてくれない。



「昔からそうなんだ。そうやってお母さんからもよく怒られた。ほんとは手を繋ぐのも苦手。自由がなくなって縛られてるかんじがする。でも、それが続くのは耐えられないくらい寂しかったから、振り回されてくれるひとを利用して手を繋いでる、梅雨ちゃんも彼も利用して。”ずるい”のかたまりだ」


「利用されてるなんて、思ったことないよ。私はきいちゃんが好きだから……だから手を繋げるのも嬉しくて……」



私はただきいちゃんのことがすきだっただけ。嫌になったわけじゃない、でも話をきいてほしかった。



いろんなものに目を輝かせられるきいちゃんのことがだいすきだからこそ、こっちのこともすこしはみてほしいと思ってしまった。たぶん、きっと、寂しかったの。水槽のなかの海獣にすら嫉妬してしまうような弱い私のことを、みてほしかっただけ。



ふたりの気持ちは、ときに豊かに、ときに不器用に、言葉の雨になって、おもしろみのない床に向かってしとしとふり続けた。澄み渡った青空と風が、それをみまもってくれていた。



そのとき不意に閉園のアナウンスが響いて「わぁっ」と驚いて顔をあげた。すっかり夕暮れだ。お互いのすっとんきょうな声がなんだかおかしくなって、笑ってしまった。きいちゃんも可笑しそうに笑っていた。



「…ぜんぜん、時間みてなかった」

「気にしないで、私もみてなかった」

「イルカショーみたいって言ってたのに、元はといえばきいが…」

「いいの」


またはじまりそうなきいちゃんの謝罪を遮って、私は言葉を続けた。


「いいんだよ。そのかわり…また一緒にデートしたい。喧嘩したっていいし、いやなことや苦手なことは今日みたいにいってほしい。話しあうのに私が慣れていないから気を使わせちゃってたと思うけど、きいちゃんがいつも私にしてくれるみたいに、私はきいちゃんのことを、もっとちゃんと知りたいよ」


ぱちくりと丸い瞳が夕暮れを取りこんで琥珀こはくうるむ。いつものゆったりとした大らかな態度はどこへやら、その瞳は不安に揺れている。


「いいの…?」


「もちろんだよ。それで、今日みたいにぶつかったらこうやって話がしたい。楽しいのもいやなことも言葉も景色もわけあいたい。だって私たち、そのためにこうして一緒になったはずでしょう?」


「そう、か。そうだねえ……」


尻すぼみにそう呟くとふいっと顔を背けてしまった。でも、私は確かにこの目できいちゃんの口角があがり、頬が紅潮するのをみた。それは夕暮れのせいだけではないはずだ。


ひとが疎になった園内、すこしレトロなメロディが鳴り響くなかで、ハリネズミはいくらか針を寝かせてくれたらしい。


「ねえ、最後にお土産かっていかないと」


声をかけると、きいちゃんは、そうだった、と一瞬天を仰いでからノロノロと立ち上がった。


「まだやってるのかなあ」

「一緒にいってみようよ」


気づけば立ち上がってきいちゃんに対して手を伸ばしていたことに驚いた。きょうの私はずいぶん勇気があるらしい。


それに気づかないきいちゃんではない。からかうように笑いながらも、いつもの小さな手できゅっと握り返してくれた。



これでいいんだとおもう。私はきいちゃんみたいにそれぞれの心の世界を守るレンガ職人のような繊細なことはできないけれど、向き合って、言葉にして、交わることができたじゃないか。


下手くそかもしれない。

誤解を招くかもしれない。

でも、いまはそれでいい。

私たちは、これがいい。



閉店間際で混み合った店内で、お互いに家族へのお土産を探した。



夫へはお揃いのマグカップを買い、きいちゃんとは、おそろいにしようと海月のピアスをかった。シャラリと笑う紙包をあけて、きいちゃんがどんな顔をしてくれるのかが楽しみだ。いそいで窮屈な店内から抜け、店の出口近くから、店内のきいちゃんを眺めた。


いろんなものに目を輝かせて、ふらふらと、小柄な身体で人びとの合間を縫い、時折ぶつかりつつも、瞳を輝かせて楽しそうに歩いているのを、私はすこしだけ緩んだこころでしばらく見守っていた。背後で夕陽が青く沈んでいった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

きいろの甘梅雨 伊月 杏 @izuki916

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画