嘘を数える

サトウ・レン

嘘を数える

 俺が嘘を数えはじめたのは、まだ小学生の時だった。


 具体的に何年生だったか、記憶的には曖昧だけど、記録を確認すると四年生の時だ。別にこんなことで嘘を書く必要はないから、まぁこれは事実だろう。


 時期ははっきり覚えていないけれど、出来事自体は鮮明に覚えている。俺にとって、忘れることのできない強烈な体験だったからだ。ランドセルを背負う、まだ幼かった当時の俺は、学校からの帰り道、よく近くの公園に寄り道をしていた。そんなに大きな公園ではなかったけれど、傾斜の急な階段があって、それが結構、特徴的だった。いまなら怖くて、絶対にできないが、その階段の一番上から数段近くジャンプする度胸試しに、当時はまっていた。


 逢魔時、っていうのかな。黒ずんだ橙色の夕景がやけに不安を与えるような、そんな時間帯に誰と一緒にいるわけでもなく、たったひとり、その公園に俺はいた。当時はひとりで行動することが多くて、寂しい、という感覚は別になかったけれど、化け物でも出てくるんじゃないか、と思えるような景色には、さすがに人恋しくなった。


 きょうはもうさっさと帰ろう。


 公園の階段を下りよう、と一番上に立った俺は、いつも通り大きくそこでジャンプしたんだけど、着地がうまくいかなくて、


 あっ、死ぬ、って思った。


 転げ落ちた後、すぐの記憶は正直ない。気付いたら、俺はベンチに横になっていて、俺の隣に、不思議な男がいたんだ。


 たぶんこの不思議な感じ、っていうのは、実際会ったひとにしか分からない、と思うし、俺もうまく言えない。細身の二十代前半くらいの、どこにでもいる若者、って外見だった。若者っていう呼び方もちょっと違和感がある。当時の俺からすれば、ずっとお兄さんなわけだから。


 とにかく人間らしさをまったく感じなかった。


『お、生き返ったか』

 って言われて、最初は男の言葉が理解できなかった。


『あの……』

 と言いよどんでいると、男は笑った。

『俺が助けてやったんだ。感謝しろよ』


『は、はい。ありがとうございます』

 条件反射的に、お礼を言ったのを覚えている。


『あぁ、俺? 俺のことか?』と聞いてもいないのに、男は話を続けた。『俺は悪魔なんだ』

『あ、悪魔……』

『そう、悪魔。ひとの死ぬ瞬間を見るのが楽しみなんだ。お前の死に方も傑作だった』


『どういうこと。だって……』

 生きていることを確認しようと、俺が自分の身体を色々と触っていると、悪魔の笑い声が大きくなった。


『お前は死んだんだ。そして俺がよみがえらせたんだ。なんで、よみがえらせたか、って?』また聞いてもいないのに、悪魔を名乗る男が続ける。『一度だけじゃ、物足りないだろ。傑作な死を見せてくれた礼に、生き返らせてやったんだ。感謝しろよ』


『そんなの嘘だ!』


『ふふん。嘘か、まぁそう思うのは、勝手さ。しかし、そうか嘘か』と男が俺のひたいに触れて、何かを唱えたんだ。『よし、じゃあ。信じるか信じないかはお前の勝手だが、俺はお前に呪いをかけた。百回だ。これから嘘を百回つくと、お前は死ぬ。信じるなら、注意して正直に生き続ければいいし、もし信じないのなら、試しにここで百回ほど嘘をついてみるか? まぁ、さすがにその勇気はなさそうだな』


 男はそれだけ言って、消えてしまった。


 信じ切ったわけじゃないが、嘘と決め付けることもできないような迫力があった。俺は家に帰ると、まだ使っていないノートの表紙に、【嘘ノート】とマジックで記入した。一番最初の嘘は、あまりにも他愛ないものだった。


『それ、なに?』


【嘘ノート】をぼんやり眺めていた俺は、背後にひとがいることに気付かなかったのだ。姉が勝手に部屋に入ってきて、後ろからそう声を掛けてきた時には、心臓が飛び出てしまうんじゃないか、と思うほど、びっくりした。


『友達から貰ったんだ。日記日記』


 これが俺の最初の嘘だ。


『へぇ。もしかして交換日記?』

 茶化すように言う姉に、俺は必死で首を横に振った。


『違う。あの、その。……言わない!』

 俺のいまはもう色褪せた【嘘ノート】の一ページ目には、このことが書いてある。


〈一回目 姉に【嘘ノート】のことを隠すための嘘 二〇〇×年○月△日〉


 そんなふうに。


 それ以降、俺はかなり真剣に嘘と向かい合うようになった。仮に嘘を百回ついたとしても、死なないんじゃないかな、という気持ちもあったが、まぁ死ななかったら、それはそれで笑い話にでもすればいい。


 これが嘘を数えはじめたきっかけだ。


 だけど自分の言葉が嘘かどうか判断するのは、思ったよりもずっと難しかった。ちょっとした冗談やとっさに出てしまった言葉は、嘘だと気付きにくく、後になって慌ててノートに追加したこともある。


 一番の問題は、俺自身が嘘だと気付いていない場合だ。例えばピーマンをパプリカだと間違えて、「このパプリカ、すごく美味しい」と言ったら、それは嘘になるのだろうか。


 しかし考えたところで、俺に自覚がないままであれば、嘘だと気付く術はない。結局これに関しては諦めるしかないと判断した。意図しない嘘がカウントされるのなら、俺のノートが百回目を刻む前に、俺は死ぬだろう。いまのところ俺はまだ生きている。つまりカウントされていないか、もしくはこの呪いこそが嘘だったか、のどちらかだ。


 本音で生きるのは、思いのほか、難しい。でも嘘をつかなければいいだけで、わざわざ本当のことを言う必要はないのだ、と気付いてからは、だいぶ楽になった。必要以上に、おのれから発信しない、と心掛ける。そのせいか物静かな大人びた少年と周りから思われた。だけど俺から言わせれば、周りのほうがずっと大人に見えた。俺はこの呪いのせいで、他者とうまく関われず、人間関係を構築する、というひとつの成長のチャンスを逃したのだから。


 中学の時は、ほとんど誰とも接することのできない孤独な日々を過ごした。この頃のことは思い出したくない。この時期が特にそうだが、何度か、もういっそ嘘かどうかなんて気にしないで、好き勝手に生きてやろうか、と爆発しそうになったこともあったが、そのたびに、もしかしたら、という気持ちが同時にやってきて、結局は嘘をつかない生き方しかできなかった。そして、それはあまりにもつまらないものだった。


 すこしだけ状況が変わったのは、高校の時だった。

 大切な友人と呼べる相手と好きなひとができたのだ。


『お、それ、俺も好きなんだよ』

 と高校の休み時間に、ミステリ小説を読んでいた俺に話し掛けてきたのが、柊吾しゅうごだ。彼は誰とでも仲良く接することのできるひとで、軽口で冗談をよく言うような性格だった。第一印象は憎らしく、だけどそれは羨ましかったからだとも気付いていた。


 俺が読んでいたのは、クリスティの『ナイルに死す』だった。十代の俺は、どっぷりと古今東西、あらゆる虚構の物語に浸かっていた、と言ってもいい。これは間違いなく、正直者に生きることを義務付けられた人生に対する反動だった。


『意外。小説とか読まないと思ってた』

『はっきり言うなぁ』と柊吾が笑った。『いや、まぁ実際、普段は読まないんだけど……。まぁ前の彼女が、小説好きで、さ』


 彼と話すようになったのは、それがきっかけだった。仲良くなったタイミングはあまりはっきりと覚えていないが、彼は気軽に話しかけやすい雰囲気を持っていて、俺は彼といる時間が楽しくなった。ただ柊吾のほうは、どうなんだろうか。そんな想いは、つねにあった。口数がすくなく、気軽な冗談も言えない俺といる時間を、多くの友達に囲まれている彼が楽しいと思えるのだろうか、と。


『実は、さ。俺、ずっと憧れてたんだ。お前に』気恥ずかしそうな表情を浮かべて、彼がそう言ったのは、卒業式の直後だ。『真っ直ぐな心、っていうのかな。そういうのが……、あぁなんか、やっぱり恥ずかしいな、こういうの。うん。まぁとにかく、羨ましくて、憧れだったんだ。高校三年間、ありがとう。きっとまた会うだろうけど、とりあえず、さよなら』


 これが彼と顔を合わせての、最後の会話だ。電話でのやり取りは何度かあったものの、彼は東京の大学に行き、俺は地元に残ったこともあって、関わりは自然と減っていった。最後に聞いた彼の近況は、貿易会社に入って、海外で働いている、というものだった。ただどれだけ長い期間会っていなくても、友人と聞いて最初に浮かぶのは彼で、いつまでも特別な存在だ。柊吾に、いまの俺の現状を伝えるかどうか迷ったが、やめておくことにした。


 そしてこの高校時代に、俺はすこし遅めの初恋をした。


 もともと彼女と話すようになったきっかけは、柊吾と仲の良い女性だったからだ。放課後の教室で、柊吾と彼女のふたりと、あと何人かが話していた輪に俺が加わった時に、はじめて話した。ちょうど会話の途中に俺の話題が出たらしく、柊吾が教室に残っていた俺を呼んだのだ。彼女は同じクラスで、友紀ゆき、という名前だった。もちろん同じ教室で普段過ごしているわけだから、顔も名前も性格も、なんとなく知ってはいたけれど、でも認知しているだけで、仲良く話すような間柄ではなかった。


 友紀の内面は、俺にすこし似たところがあった。……と言えば、友紀は怒ってしまうだろうか。外側から見る雰囲気は、俺なんかよりも柊吾に近い。誰とでも分け隔てなく接する感じなんか、まさにそうだ。だけど、内側には他者を避ける心があるように思えた。それは他者への嫌悪、というよりは、恐怖や警戒だろう。別に本人からそう聞いたわけではない。俺がそうだったから、なんとなく気付いてしまっただけだ。


 共鳴するような感覚が、もしかしたらお互いを引き寄せあったのかもしれない。まるで磁石だ。

 彼女とは話す機会もおおくなり、ふたりきりで出掛けたこともあった。


『好き、です』

 と言われた時、彼女の表情に迷いがあることは気付いていた。俺は彼女のことが好きだったし、もちろん告白してくれたわけだから、彼女も俺のことを憎からず思っていたはずだ。でも友紀の気持ちが、俺と柊吾の間で揺れ動いていることも知っていたし、そして柊吾が友紀に想いを寄せていることも。


『ごめん。俺は、友紀のこと、好きじゃない』

 と嘘をついた。


 五十回目の嘘だった。


 そのあと、柊吾と友紀が付き合ったと聞いた時、俺は喜んだ。喜びながら、胸に刺すような痛みを感じ、なぜかその夜、涙が止まらなかったのも覚えている。


 これが俺の高校時代だ。


 高校を卒業した後、俺は就職ができず、フリーターの道を選んだ。一番の理由は面接で嘘がつけないことだった。嘘はつかず、本当のことは言わなければいい、というのは面接の場では中々難しい。根掘り葉掘り聞かれると、何かは答えなければいけないからだ。卒業後、両親はそこまで俺を責めなかったが、いったん無職になった俺に対する姉のまなざしはどこか冷たかった。仲が良かっただけに、その視線はつらかった記憶がある。


 アルバイトもすぐに決まったわけではなかった。何度か落ちたあとに、地元チェーンの小さなCDショップの店長が拾ってくれたのだ。そこまで正直に話すひと、めずらしいね、という面接途中の店長の言葉が印象的だった。それもひとつの魅力、ってことだよ。何年か後に、この話をした時、店長はそう笑った。


 アルバイトをしていた期間は、約三年だった。


 二十二歳の時、俺はその店の正社員になった。店の現状を考えれば、気軽に俺を正規の社員として雇う余裕はなかったはずだ。きっと店長が説得してくれたのだろう。


 正社員になったばかりの頃、初めての恋人ができた。


 彼女はその店の常連で、梨沙りささん、という近くの大学に通う女子大生だった。年齢は俺よりひとつ下で、ポップス、ジャズ、ロックにクラシックと、とにかく音楽に詳しいひとだった。よく店に訪れる彼女と話している時間は楽しかった。と言っても、俺は仕事から音楽について知っていった人間なので、むかしから音楽に浸り続けていた彼女に比べると、まだまだ知識は浅い。だから俺は彼女の話を聞く一方だった。


 俺たちが結婚したのは、恋人同士になって、三年近く経った頃だ。卒業したあと、梨沙は銀行員になった。彼女が仕事に多少慣れるまでは、口に出すのも申し訳ないような気持ちになっていたのだ。


『結婚してください』


 あまり気の利いた言葉は浮かばなかった。


『うん。あっ、私、浮気は絶対に許さないタイプだから。まぁ嘘のつけないあなたに、そんなこと無理か』


 こんな会話があって、俺たちは夫婦になり、一緒に暮らしはじめた。


 その頃になっても、俺は例の【嘘ノート】を使っていた。嘘を数える行為は、つねに俺の人生とともにあった。何度、憎んだか。憎んだ回数は数えていないので、もう嘘の数とは違って、分からない。だけど憎しみの量は、人生を重ねるうちに、どんどんと減ってきている。それはきっと、いまの、この何度も憎んだ人生でしか手に入らなかったものの美しさに気付いたからだろう。


 でも……、

 久し振りに開いたノートに、新たな嘘を書き足しながら、俺の指先は震えていた。


 九十八回目の嘘。


 あと二回。こんなの嘘に決まっている、と何度も心に言い聞かせた。祈りにも似ている。必死に自分を信じ込ませようとする言葉の必死さは、子どもの頃の比ではない。もう俺ひとりの命ではないのだ。そもそもこんな俺が結婚するべきではなかったのだ、と考えることもあった。


『どうしたの? 最近、変だよ』

 と梨沙が言った。


『大丈夫。浮気じゃないよ』

 冗談めかした言葉は震えていた。


『疑ってないよ。そんなの。でも、何かは隠している』

『うん。……こんな話、信じられないと思うんだけど』


 そして俺は、むかし悪魔に出会った時のことを梨沙に話した。一度死んで、よみがえって、嘘を百回ついたら死ぬ、と言われて……、やっぱり、どこまでも現実味のない話だ、


 なんでこんな話を真面目に信じているんだろう。梨沙だって、笑うはずだ。その笑顔を見ることで、俺もこんな馬鹿げた、本当かどうかも分からない思い出は忘れよう。


 だけど梨沙が浮かべていたのは、あまりにも深刻な、そして泣きそうな表情だった。


『あなたが嘘なんて言うわけないもんね……』

 と、梨沙がつぶやく。


 そんな顔、しないでくれ。

 話すんじゃなかった……。

 

 俺だけの呪縛に、彼女を巻き込んではいけない。


『全部、嘘だよ』

 と嘘をついた。


 九十九回目の嘘だ。

 あと、一回。


 梨沙が、俺の九十九回目の嘘を信じたかどうかは分からない。いやきっと信じていないだろう。彼女の表情を見ていれば分かる。なんで、いつもは俺の言葉を一切疑わないくせに、「嘘だよ」っていう嘘は、そんなに疑うんだよ。信じてくれ。お願いだから。


 ……嘘を、真にしよう。


 最後の嘘に生きるか死ぬかの賭けをするんじゃなくて、もう嘘をつかなければいい。本当にすべてが嘘だった、と九十九回目の嘘を真実に変えてみよう。


 それから五年が経った。


 俺は一度も嘘をつけない、という恐怖の中で、生きた。いままでとは比べものにならないほどの重圧があり、心も身体も限界にきていたのかもしれない。


 職場の階段を下りようとした時、

 突然めまいがして。


 ここからはあまり覚えていない。


 ずっと暗闇の中で回想をしていた。不幸な人生だったと、ひとは笑うかもしれない。周囲と比べれば、確かに不幸なのかもしれない。もう命のともし火も尽きようとしている。だけど誰と比べる必要もなく、俺は、俺だけの人生を辿ってきて、その中でかけがえのない光を得た。


 でも、心残りがあるとすれば……。

 あぁまだ、目は開くみたいだ。


 真っ白な部屋で、真っ白な光が、俺を照らしている。


 梨沙の顔がある。


 また現れてくれないかな、悪魔。興味本位でいいから、俺をもう一度。彼女のためにも。なんて、な。きっと悪魔は俺のためになんて絶対に行動しないだろう。


 泣かないでくれ。梨沙。


 声は、まだ出るだろうか……。


 俺は目を閉じて、百回目の嘘をつくことにした。


「大丈夫。俺はまだ、死んだりしないから――――

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