第七話 _ 稚拙

「緋愛、出てきなさい」

 穏やかなお父さんの声とは真逆の、激しく暴力的な音がドアを攻撃する。

「ご、ごめんなさい…ごめんなさい…」

 私が何度も繰り返す謝罪の言葉も、その音に掻き消されてしまう。

 なんで。10歳の誕生日当日なのに、なんでこんな目に遭わなきゃいけないの。

 原因を作った私が悪いのは分かってる。けど今日の怒り方は本当に、尋常じゃない。もしかして私を殺そうとしてるんじゃないだろうか。

 というか、お母さんが入れたジュースを零しただけなのに、なんでここまで怒られる必要があるんだ。

 今私に話しかけているお父さんの声も、いつかは怒鳴り声になりそうで怖い。

 もう降参した方が身のためなんじゃないだろうか。そう思った矢先、ドアを殺そうとしていた激しい音がピタリと止んだ。

 恐る恐るドアを開けてみると、そこには、先程までの物凄い剣幕だったお父さんの顔には、朗らかな笑みが浮かべられていた。

 その後ろにいるお母さんも、同じような笑みを浮かべている。手にはさっきのコップがあり、ジュースを入れ直してくれたことが分かった。

「…ごめんなさい!」

 もう一度そう謝り、隠れていた部屋から抜け出す。

 中断された誕生日パーティーを再開した後に起きた、仕組まれた悲劇なんて、


 その時の私には、知る由もなかった。


          *


 好きな人にチョコを渡す日。それだけ言えば、大抵の人は何月何日かすぐに分かるだろう。

 いやもう自分で言おう、今日は2月14日、バレンタインデーだ。

 朝からソワソワしまくっていた僕は、帰りのHRが終わっても教室に残り、自分の机に突っ伏していた。

 緋愛に突然「放課後教室で待ってて」なんて言われたら、そうする他ないだろう。

 でも僕は知っている。確実に義理だ。それ以外は考えられない。

 昼休みにクラスメイト全員に配ってたのは見た。あの子、見た目変わってるって言われててもコミュニケーション能力は高いし、人を避けるような子じゃないし。

 …あれ、そういえば…何でその時に渡してくれなかったんだろう。その流れで渡す方が手間は省けるのに。って、貰うの前提で考えるのはさすがにおかしいかな…。

 なんて思考を巡らせていたら、教室のドアがガラッと乱雑に開かれる音がした。机に突っ伏していた体を瞬時に起き上がらせ、バッとその方向へ振り返る。

「優斗〜!ごめんね遅れちゃって!」

 明るい声で言いながら、ドアを開けた主の緋愛は教室に入って僕の元へ駆け寄ってきた。

「あ、い、いや、大丈夫!」

 裏返りかけた声で、ぎこちない返事をする。

 あれ、どうしよう、なんかすごい緊張してきた。やっぱり貰えること前提で考えちゃってるな…。

「…どうしたの?」

 緊張が顔に出ていたのか、首を傾げながらそう聞かれる。

 言えないよ。言えるわけない。貰うのが楽しみだなんて、口が裂けても言えない。

「ん~…。…まぁいいや!」

 どう言えばいいのか分からず固まる僕を怪訝な顔で見つめた後、緋愛はそれだけ言って手に持っていた紙袋を漁りだした。

「……はい、どうぞっ!」

「…え?」

 突き出すように差し出された箱を見た瞬間、顔が熱くなった気がした。

 緋愛が僕に差し出したのは、赤いハート形の大きな箱だった。

 あれ、これ…期待していいやつ、なのかな。いやでもこの期待で心が砕かれる可能性もある。というか砕かれると思う。

「えっと…あ、ありがとう…?」

 勝手に上がる口角を誤魔化すように、お礼を言いながら笑顔を浮かべる。

 これを言ったら緋愛を凝視していたことがバレてしまうので緋愛には言わないけれど…クラスメイトに配ってたのは、ピンク色がかった半透明の袋に入ったチョコチップ入りのクッキーだったはずだ。

 なのに、箱?しかもハート形?それに大きいし重い。中身が気になるけど…目の前で開けても良い物なのかな。

「…開けてみて?」

 そう催促され、蓋をがぱっと開ける。

 直後、最初に目に入ってきたのは『封筒』だった。

「え…何これ…?」

 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、箱の蓋を近くの机に置いて封筒を手に取る。

 すると、緋愛は焦ったような口調で「それは家に帰ってから!」と大きめの声で言った。

「あ、うん、…ええと、味の感想が聞きたいってこと?」

「そう!…あ、美味しく出来てるかは分かんないけどね」

 少し自信が無いのか、眉を下げながら笑っている。…緋愛が作ったものが美味しくないなんてある訳ない。まぁ食べたことないけど。

 机に置いた箱の蓋に封筒を置き、箱の中の方に入っていた四角いクッキーを手に取る。

 少し形は歪んでいるけれど…それはそれで緋愛らしいから、別に気にはならない。

 緊張で顔を強ばらせる緋愛に「いただきます」と言い、遠慮なくクッキーを齧った。

 さくっ、と良い音が鳴る。硬くも柔らかくもない、丁度いい食感。

 味も同じく、甘すぎず丁度いい。…と思っていると、ある事に気づいた。

「…塩、入れてる?」

「え!!気づいたの!?」

 僅かだけれど、しょっぱかったのだ。精一杯味わおうと感覚に集中してたから直ぐに分かった。

「隠し味で塩を一摘み入れてみたんだけど…変だった?」

 緋愛は不安そうに眉を下げながら、上目遣いで僕を見つめる。…この上目遣いも無意識でやってるんだろうな。すっごい可愛いけど絶対言えない。

 とりあえずこれ以上不安にはさせたくなかったので、ぶんぶんと首を横に振った。

「ううん、すごく美味しい!程よく甘い味の中で少しだけ感じる塩の味…食べてて飽きないよ、緋愛、隠し味の天才だね!」

「うぇっ!?えへへ、隠し味の天才…そんなワード初めて聞いたなぁ、でも嬉しい!ありがとう!」

 少し照れたような柔らかい笑顔を見せ、緋愛は弾んだ声でそう言った。

 封筒の中身も早く見たいけれど、今はこの時間を楽しんでいたい。味の感想を言うだけの時間なのに、そう思ってしまう。…放課後の教室で二人きりだからかな。

「すぐ食べちゃうのは勿体ないし、毎日少しずつ食べていこうかな」

 そう言って箱の蓋を閉じると、緋愛はまた嬉しそうに「そんなに美味しかったの?」と聞いてきた。紛れもない事実なので、「うん!」としっかり頭く。

「ふふ、頑張った甲斐があったな〜っ」

 満足気に微笑む緋愛。それに釣られ、僕も微笑を零す。

 僕、いつも緋愛に振り回されてるなぁ。

 まぁ、それはそれで楽しいから良いんだけど。

 その後も、僕達は先生に見つかって注意されるまで教室で喋っていた。


          *


 緋愛との下校途中。

 緋愛が「お菓子買いたい」と言ってコンビニに寄ったので、僕はコンビニから少し離れた本屋へ来ていた。本屋に行くことは伝えてあるので、緋愛の用が終わったら本屋で合流することになっている。

 とは言え、特に気になってる本がある訳でもないんだけど。読書は好きだから、大抵の小説は読み漁ってるし。

 …そうだな…いつも小説ばっかり読んでるし、次は漫画とか、雑誌でも読んでみようかな。

 面白そうな本は無いかと店内をうろちょろしていると、ふと目に入った本があった。

 …小説。読んだことの無いものだ。著者もよく知らない人だし、マイナーな本…なのかな。

 タイトルは『∞』。…記号。なんでだろう。

 少し立ち読みでもしてみようかな。

 と、その本を手に取った時。

 ガシャン、…いや、そんな擬音では言い表せない程の盛大な音が近くで鳴り響いた。

「…え?」

 音がした方向は、緋愛が行ったコンビニの方向だった。

 手に取った本を投げ捨て、本屋から出てコンビニへと走っていく。

 そのコンビニには、大きなトラックが突っ込んでいた。店内の商品棚はひしゃげてぐちゃぐちゃになり、大きな悲鳴が聞こえてくる。

 …きっと、大丈夫、だよね。

 緋愛は身体が強いし…こんな事じゃ……、

 ……いや。『こんな事』とは到底言えない、それくらい酷い光景だった。

 こんな状況なら、身体が強い緋愛でも耐えられないだろう。

 けれど無事であることを祈って、コンビニの近くへ走ろうと竦んだ足を、

 ──────動かせなかった。

 僕の脳は、僕の身体は、前に進むことを拒絶していた。

 もし緋愛が無事じゃなかったら…絶対に立ち直れないから。

 それを見れば、僕は壊れてしまうから。

 これ以上動けず、けれどどうすればいいのか分からず、ただ立ち尽くす。

 すると。涙でぼやけかけた僕の視界に、何か、黒いものが映った。

 ──────既視感。訳も分からないまま、その言葉だけが思いついた。

 コンビニに突っ込んだトラックの向こうから、黒い塊が静かに、けれど素早く迫ってくる。

 それに顔を上げると、僕の瞳に、『緋愛の顔をした誰か』が映り込んだ。

 緋愛の整った顔を、最大限にまで歪めたような、不気味な笑顔。

 瞳孔の開ききった瞳。吊り上がった口角。

 そんな表情に気を取られていると、刹那、お腹に大きな衝撃が走った。それと同時に、ぐりゅ、と嫌な音が鳴る。

 まるで、抉られたかのような、音が。

「……ぁ…?」

 じわじわと溢れ、それでいて激しい痛みが襲ってくる。

 そこを恐る恐る見てみると、

 緋愛の腕が、僕のお腹に突き刺さっていた。

「…ふフ、アはは、アハはハはははハッ!!」

 聞いたこともない、高く汚い笑い声。それでも、緋愛の声ではあった。

「うフ、ごめンね?君ノお友達の体、少しダケ貸しテもラウね!」

 鼓膜に張り付くような声。気持ち悪い。けれど、それよりも、腹部の痛みが酷かった。

 僕を見上げ、目を細めて笑う緋愛──────の体をした『誰か』。

 口いっぱいに広がる鉄の味。飲み込むのが嫌で、仕方なく口から零す。

 と、それと共に、突き刺さっていた腕をぐいっと上げられた。

「がッ……ぁ…!!」

 汚く情けない声が出る。更に口から零れる赤黒い液体。殺されるのは、死ぬのは、訳の分からない状況に立っていても、悟ることが出来た。

 次の瞬間に腕をずるりと抜かれると、僕のお腹には小さい穴が空いた。緋愛の腕は細いから、それと同じ大きさだ。

 為す術もないまま、僕の体はその場に崩れ落ちる。うつ伏せになった姿勢で弱々しく顔を上げると、そこには、緋愛から貰ったクッキーの入った箱が少し覗く、僕の鞄が転がっていた。

 ……箱に入ってた封筒の中身、見たかったな。

 きっと、緋愛のことだから、僕が求めてることは書いてないんだろうけど…それでも。

 薄れていく意識の中、お腹に空いた穴から血が溢れ出る嫌な音を聞きながら、僕は目を閉じる。

 ああ、『今回も』言えなかった。

 僕の気持ちも、想いも、全部。心の中に封じ込めたまま、終わってしまった。

 血を吐く喉からは、もう、声も出せない。

 緋愛の顔をした誰かは、僕の頭に足を置いた。

 そうだ。踏み潰されるのが、一番、楽かもしれない。痛みや苦しさを感じることも、その瞬間に、なくなるから。

 少しの圧迫感を覚える。どうせなら、ひと思いにやって欲しいな。

 そう思った直後、



 僕の意識は、



 ──────────

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ルナティック_ワールド とめりあん @TomE_mzk

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