後日談(書き下ろし)

「ーーじゃあ七星、またね!」

「ああ。またな、雪羽」

 東雲しののめ七星ななせは、見慣れた後ろ姿を呆れた様子で見送った。

 言い終わるなり急ぎ足で教室に戻るその背中には、きっとこちらの返事など聞こえていないのだろう。

「…………はぁ」

 深くため息を吐いた七星が時間を確認すれば、次の授業が始まるまで残り時間はあと二十分もない。去り際にまだ昼飯を食べていないと慌てていたが、余計な首を突っ込んだ本人の自業自得だろう。むしろ、これを機にもう少しでも落ち着きと慎みを持ってほしいところだが、それができるのならそもそもこんな話など起きていないわけで。

 七星の胸中を占めるのは、また幼馴染みのせいで面倒事に巻き込まれた、その疲労だけである。




 事の発端は一通の手紙だった。

 次の授業で使う資料集を取りにロッカーへ向かった七星はそこで、貸していた英和辞典を返しに来た幼馴染みから『ロッカーに入っていた』と手紙を受け取ったのである。

 本当に自身のロッカーに手紙が入っていたとして、なぜそれを幼馴染みから受け取ったのかについては疑問が残る七星だったが、それ以上に悩みの種となったのは、その手紙の送り主のことをちゃんと考えろと再三釘を刺されたことの方だ。

 ただ呼び出すための手紙をラブレターだと解釈して自分事のように熱の入る幼馴染みを前に七星は、差出人不明だと言いかけた言葉を飲み込んだ。

 そうして、軽くあしらうためだったとはいえ、考えておくと軽率に頷いた結果がこの昼休みである。

 どうしてこうなったのかなど考えるだけ無駄だろう、と七星はぼんやりと思った。

 その手紙の第一発見者が幼馴染みだったことも、その手紙が七星にはどうでもいいものだったことも、そういうこともあるのだから仕方ないで済む話だ。そのうえで七星が手紙を無視していた方が余計な手間もなく事が終わる、……はずだったのは結果論でしかなかったとしても。それでも、送り主を案じた幼馴染みがお節介で首を突っ込むから今回のような面倒事に発展したわけで。それが彼の心労を増長させていた。

 七星にとって幼馴染みこそが最大の悩みである。

 天宮あまみや雪羽ゆきは

 幼馴染みの彼女を一言で説明するなら世話焼きだ。

 いわゆるお人好しとも呼べるような困っている人を放っておけないタイプの人間で、事実、持ち前の人懐っこさや積極性で誰が相手でも分け隔てなく手を差し伸べる節がある。そのうえ彼女は何事もすぐ自分事のように真摯に受け止める節があるわりには他人との距離感を測るのが上手いのだから、雪羽と面識のある友人たちが彼女に相談事を持ちかける気持ちはわからなくもない。少し猪突猛進で空回りすることも多々あるが、誰かを思っての行動だと理解しているので、その辺はフォローすればいいだけの話だろう。閑話休題。

 七星にとって、雪羽は何をしでかすかわからず放っておけない幼馴染みなのだ。

「……まあいいか」

 もう一度ため息を吐いた七星は談話室へと戻る。

 その世話焼きを極めた幼馴染みが、他人の恋路には手を貸そうとしなかった。そう顧みれば、この程度で済んだことは不幸中の幸いだと、彼は思うことにしたのである。

 結論から言えば、あの手紙には告白のために呼び出す内容が書かれていたので、大雑把な分類としてはラブレターだった。……ただし。送り主である紺野こんの手毬てまりがその手紙を意中の相手と七星のロッカーを間違えて入れたので、ラブレターとしては無効だけれど。宛名も差出人も書かれていなかったことを踏まえれば、七星が悪戯だと判断したのは妥当なところだろう。

 そんなわけで、さまざまな要因によって起きた今回の出来事は紺野が誤解に誤解を重ねたことで少しばかり大事になりかけたが、色々あった末に雪羽と紺野が和解したことで無事に決着がついた。痛み分けと言うにはこちら側のーーとりわけ七星の被害が大きい気もするがそればかりはどうしようもない。

 巻き込まれただけの七星にとってはいい迷惑以外の何物でもないのだが、幼馴染みの暴走を止められなかった責任が多少なりはあると思っているので、それこそ仕方ないと割り切るしかないのだろう。



   ・


「ありがとう。助かったよ、東雲」

「ああ。どういたしまして……」

「すぐ返すって言ったのに遅くなってすまない」

「……別に、明日でもよかったけど」

 五限目の授業が始まって少し経った頃。

 図書室で時間を潰していた七星の元へ、猫崎ねこざき静人しずとがやって来た。授業で使う教科書を探していた猫崎に、見かねた七星が教科書を貸したのは四限目の授業が始まる前のことである。

 七星は多少戸惑いつつ現文の教科書を受け取った。

 何を隠そう、この猫崎静人こそが紺野の想い人であり、その猫崎と七星のロッカーが隣同士だったために今回の誤送事件が起きたのである。

 今日は自身も猫崎も午前授業で終わりだから、と紺野がラブレターを入れるに至った経緯を語っていた時のことを思い返して七星は問いかける。

「お前こそ、今日は午前授業じゃなかったのか」

「ああ、俺は午前中で授業は終わりなんだが、翔太しょうたたちは午後も授業があるんだ。だから放課後まで残ってるぞ」

「…………」

「東雲?」

「いや、何でもない」

 猫崎が言う翔太とは、彼の幼馴染みでもある友人二人のうちの一人のことだ。たち、と複数形で呼んでいたところから察するに猫崎の幼馴染み二人とも今日は午後も授業があるのだろう。

「東雲も同じだろ?」

「……何が?」

「ほら。東雲の幼馴染みの、えっと、教科書を借りた時にロッカーで会った、あの……」

「天宮?」

「そう、天宮さん。彼女を待ってるんだろ?」

「六限が授業だから時間潰してんだよ」

「そうだったのか。勘違いしてすまない」

 さして気にした様子のない七星は無言を返して、猫崎に向けていた視線を現文の教科書へと落とした。

 持っていても邪魔になるが、すでに六限の授業に必要な教科書などは手元に準備してあるので今からロッカーに寄るのは面倒である。もちろん、今日はもう使う予定はない。

 とりあえずカバンに入れておこうとした七星は、ふと、あることに気付く。

「……猫崎。これ、お前の教科書なんだが」

「えっ?」

 七星は先程返された教科書を、その裏面を見せながら猫崎へと差し出す。

 そこには、教科書の隅の方に黒い油性ペンで「猫崎静人」と丁寧に書かれていた。

「あっ! すまない、間違えた」

「あったのか、教科書」

「ああ。前に翔太に貸したのをお互いすっかり忘れててな。昼休みの時に翔太のロッカーから発掘された」

 色々と気になる点はあったものの七星は何も言わなかった。

 わざわざ会話を広げようと思うほど七星は人付き合いに積極的ではないうえに、あえて言及するほどの興味がなかったのも事実で。彼の中で先の話題は、まあどうでもいいか、で結論付けられたのである。

 七星は猫崎が教科書を受け取ったのを確認してから口を開く。

「返すのは明日でいい」

「いや。東雲は六限も授業があるんだろ? 俺も六限が終わるまで学校にいるから放課後に返す」

「じゃあロッカーで。俺がいなかったら勝手に戻しといてくれればいいから」

「わかった。手間をかけさせてすまないな。じゃあ、また放課後に」

 猫崎の挨拶に七星は、またなと頷いた。




 六限目の授業が終わり放課後になった。

 七星は先の授業で使った教科書などをロッカーにしまい、ノートと筆記具、図書室で借りた本だけが残ったカバンをしめる。ロッカーを閉じた彼が一息つきながら立ち上がった時だ。

「あ、いたいた!」

 聞き慣れた声が、軽い足音とともに近寄って来る。

 そちらへ視線を向ければ、すっかり帰り支度を終えている雪羽が朗らかな笑みを浮かべていた。

「ビックリしたんだよ! 気付いたら七星が教室からいなくなっていたんだから」

「……別に俺の勝手だろ」

「一言言ってくれればいいのに」

「どう言えと」

「メールがあるでしょ」

 雪羽とは六限の授業が同じだった。

 授業が始まる少し前に教室に入った七星へ、先に教室に来ていた雪羽が逃げるように話しかけてきたのは授業開始のチャイムが鳴る直前で。話したいことがあるから一緒に帰ろう、と彼女は珍しく約束を取りつけてきた。

 そうして、授業が終わってすぐに雪羽が同じ授業を受けていた女子数人に取り囲まれた時点で、七星は幼馴染みが約束を取りつけてきた理由を察した。やがて別の授業を受けていた女子も彼女を囲む輪に合流した辺りで、長くなるだろうと見切りをつけた七星は一足先に教室を出たのである。

「まあいいや。……私も、七星が教室を出ていく瞬間に気付ければよかったんだけれどね。そうしたら七星を待たせなくて済んだのに」

「その割にずいぶん早かったな」

「そりゃあまあ、いないって気付いた時点ですっ飛んで来たからね。一緒に帰るから追いかける、って言ったら快く見送ってくれたよ」

 嬉しそうに笑う雪羽は『待たせないために追いかける』という意味で言ったのだろうが、それを聞いた周りが『先に帰られる前に追いかける』という意味で受け取ったことは容易に想像できた。七星としても周囲からそう解釈してもらえるような行動したので、ある意味では思惑通りだろう。

「今日は本屋に行く? 私、帰りにちょっと寄りたいところがーー」

「東雲」

 呼ばれた名前に七星と雪羽が振り返る。

 そこには、現文の教科書を片手に持った猫崎がいた。ほんの僅かだが肩で息をする様子に、どうやら急いで来たことが窺える。

「よかった。まだいたんだな」

「ちょうど帰るところだ」

「そうか。なら間に合ってよかった」

 そう言った猫崎は、自身のロッカーにしまってあった現文の教科書を取り出して七星に差し出した。

「貸してくれてありがとう。助かったよ、東雲」

「どういたしまして」

 七星は淡々とした口調で受け取った。

 返してもらった教科書の裏表を見た彼は、流すようにページ全部をパラパラと高速で捲ってから、先程閉めたばかりのロッカーをもう一度開ける。七星がロッカーの中に教科書を片付けるその隣では、猫崎が手に持っていた教科書を改めてロッカーにしまっていた。

 そんな二人を眺めながら雪羽が呟く。

「そういえば、教科書を貸していたんだっけ。すっかり忘れていたなあ。明日でもよかったのにわざわざ今日返してくれるなんて……あれ? そう言えば猫崎くんって、今日は午前授業じゃなかったっけ?」

 小首を傾げた雪羽へ猫崎はひとつ頷く。

「ああ。俺は午前授業だが、翔太たちは午後も授業があるんだ。だから放課後まで残ってた」

「…………」

「天宮さん?」

 不思議そうに首を傾げる猫崎に、雪羽はどことなく歯切れの悪い言葉で答える。

「あーうん。猫崎くんの放課後は、午後の授業も終わった後なんだなと思って」

「授業が終わらないと放課後にならないだろ?」

「まあ、そうなんだけれどさ。……そんなことより、私たちが帰る前に会えてよかったよ」

「ああ本当に。東雲からは、いなかったらロッカーに戻してくれればいいと言われてたが、ちゃんと渡せてよかった」

「確かに。ロッカーを間違えちゃうと大変なことになるかもしれないからね」

「さすがにロッカーまでは間違えない」

 しみじみと頷く雪羽に、猫崎は力強く否定した。

 二人の言葉は噛み合っているようで噛み合っていないのだが、互いに気にした様子はない。思わず呆れたようなため息を吐いた七星は、勢いよくロッカーをしめながら立ち上がる。

 ややあって、七星がカバンを肩にかけ直すのを見ながら猫崎は苦笑いを浮かべた。

「手間をかけさせてすまなかったな」

「本当にな」

 雪羽が呆れた視線を向けてきた。

 それに七星が素知らぬ顔を返せば、肩をすくめた雪羽は、申し訳なさそうにしている猫崎へと朗らかな笑みを浮かべる。

「東雲はこう言っているけれど、気にしなくていいからね。むしろ、そんなに急がなくても、明日返してくれたってよかったくらいだよ」

「借りたものは早く返さないと」

「まあ確かに、それが礼儀だとは思うけれどさ。でもやっぱり、すぐに返してくれてありがとう」

「いや。本当ならすぐに返すつもりだったんだ。でも昼休みに返せなくて、その後に返そうと思ったんだが、俺が間違えたせいでこんな手間になったから、礼を言われることじゃない」

「そうなんだ?」

「ああ。返そうと思って昼休みにロッカーの前に行ったんだが、二人とも何か取り込み中だっただろ? だから邪魔するわけにいかないと思ったんだ」

「そんな、それこそ気にしなくてもいいのに。ただの雑談だったし、そもそも猫崎くんは紺野ちゃんとは知り合いなんだから遠慮しなくてよかったのに」

 あっけらかんと告げる雪羽に、今度は七星が呆れた視線を向けた。

 何かおかしなことでも言ったかと言わんばかりに小首を傾げる彼女から目の前の猫崎へ視線を移せば、彼は困惑を隠せない様子で目を丸くしている。

「……その、紺野って女子、だよな? ええと、そいつと俺は、知り合いなのか?」

「気にするな。天宮は少し思い込みが激しいんだ」

「ちょっとその言い方」

「そんなもんだろ。中学の時に同じ委員会だっただけのやつのことなんか、わかるわけないんだから」

「でも、私は覚えているよ」

「お前と一緒にするな。普通は覚えてねえんだよ」

「中学の時に、同じ委員会……」

 七星と雪羽の会話を聞きながら猫崎は腕を組んで考え込む。記憶をひっくり返して思い出そうとしているようで時折うーんと唸るものの、その表情が晴れる兆しは見られない。……ややあって。

「すまない、やっぱり思い出せない。……その、俺は人の名前を覚えるのが苦手で、……失礼なのはわかってるんだが、あまり話したことのない人の名前はすぐわかんなくなるんだ。すまない」

 猫崎は申し訳なさそうに項垂れた。

 彼の言う人の名前を覚えるのが苦手がどの程度なのかは七星にはわからないが、猫崎と紺野の場合においてはその言葉は当てはまらないだろう。高校での出来事なら話は別だが、中学の時のちょっとした出来事など余程の何かがない限り忘れているのが普通なのだから。ましてや、猫崎もおそらく七星と同じで人付き合いが得意ではないタイプだろうし。

 七星たちとは正反対に人付き合いが得意な雪羽は、

「でも、私の名前は知っていてくれたんだね」

 などとフォローとは言い難いことを言い放った。

「ああ、それは五限目の時に東雲と天宮さんの話をしたんだ。だから覚えてた」

「そうなんだ?」

「別に言うほど話してねえよ」

 本当のことである七星の言い分をどう受け取ったのかはわからないが、雪羽は妙に嬉しそうな笑みを浮かべていた。妙な居心地の悪さに七星は思わずため息を吐いたが雪羽が気にした様子はない。

 それから彼女は猫崎に向き直った。

「私も紺野ちゃんとは、さっきの昼休みに話したのが初めてなんだけれどね。紺野ちゃんは猫崎くんと同じ中学で、一緒に体育祭実行委員をやったんだって」

「そうなのか」

「うん。それから一度も話す機会はなかったみたいだけれど、猫崎くんと高校が同じでとても嬉しくて、せっかくだから友だちになりたいんだって」

「……そう言ってたのか?」

「うん、そう。それで……、あ、えっと」

 何かを言いかけて、雪羽は困ったような視線を七星に向けてきた。おそらく、猫崎の幼馴染みである友人たちのことか、紺野の恋愛感情についてでも言いそうになったのだろう。七星は自分は無関係ですと言わんばかりに素知らぬ顔を返した。

 幼馴染みが余計なお節介をしようとしていることを察知して面倒事に巻き込まれないための行動だったが、ふと七星は考え直した。もしここで雪羽が言わなくていいことまで喋りだしでもしたら、それこそ取り返しのつかないことになりかねないと思い至ったのである。大した経験値もないというのに、他人の恋路に首を突っ込んだ雪羽が馬に蹴られるようなことでもしでかせば、さすがの七星もフォローしきれなくなる。

 そう考えた七星が何か言おうと口を開いた時だ。

「あー!」

 ロッカースペース中に聞こえるのではないかと思えるほどの大声が響いた。

 七星と雪羽、そして猫崎が同時に声のした方を見れば一人の男子がこちらを指さしている。活発そうなその男子の表情は、信じられないようなものを見たと言わんばかりにみるみると驚愕に染まっていく。

「静人が女子と話してる!」

 何とも言えない視線を向けてくる男子は、しかしながら、通路からこちらを見つけた時からそれ以上近付いてくる気配はないようで。

 驚いた猫崎は慌てて彼の元へ駆け寄ろうとして、しかし雪羽と会話中だったことを思い出して二の足を踏んだ。それがまた彼の表情を曇らせる原因となっているのだが、猫崎は気付いていないらしい。

「静人の裏切り者!」

「違うんだ翔太。確かに話してたのは事実だが、別に天宮さんとはーー」

「静人が名前を覚えてる?!」

 これは何なんだろう、と七星は思った。

 計らずも同じタイミングで顔を見合わせた雪羽がどうしようかと目で訴えてきたので、好きにしてくれと七星は視線で返した。

「聞いてくれ翔太、俺はーー」

「教科書を返してくれたんだよ、東雲の」

 口を挟んだ雪羽の言葉に彼は目を丸くした。

 彼、削摩さくま翔太しょうたこそが猫崎の教科書を借りたまま返し忘れていた幼馴染みであり、そしておそらく、紺野が話していた絶対に邪魔をしてくる友人とやらなのだろう。

「あ。何だ、そうだったんだ」

「ほら、言った通りだったでしょ」

 ポカンとした翔太に話しかけたのは、彼の隣にいる男子で。ロッカーが壁になっているので姿はよく見えないが、確認するまでもなく猫崎のもう一人の幼馴染みだろう。幼馴染みであり友人でもある彼らは、休み時間や放課後は常に三人一緒に行動しているのをよく見かけるのだから。……人のことは言えないかもしれないが。

 ふと、遠くに吹奏楽部の演奏や運動部の声が聞こえてきた。時計で時間を確認すれば、授業が終わってからだいぶ時間が経っている。

 ため息を吐いた七星は彼らに背を向けた。

「……帰るぞ、雪羽」

「あ、待ってよ七星。じゃあね、三人とも!」

 さっさと歩き出す七星を、雪羽は三人に手を振って挨拶をしてから小走りで追いかける。猫崎たちから返ってくる三者三様な返事が遠くに聞こえた。

 後日。顔を真っ赤にして突撃してきた紺野が猫崎と友だちになれたと嬉しそうに教えてくれた、と雪羽が七星に語ったのはまた別の話である。



   ・


 リビングのテーブルで頬杖をつきながら作業をしていた七星は、ふと、そんな昔のことを思い出した。

 あの騒動がきっかけで、こんなことになるなんて一体誰が想像できただろうか。

 招待されて訪れた紺野と本庄ほんじょうの結婚式。

 ただ高校が同じだっただけの紺野と会ったこともない本庄とやらの結婚式に何の感慨も感動もない七星だったが、自分とは無関係のはずだと言わんばかりに死んだ顔をしていた彼があの場で浮かなかったのは、その隣で新郎が引くくらいに嬉し泣きをしていた幼馴染みがいたからだろう。

 七星の手には結婚式の写真があった。

 新郎新婦を中心に、雪羽と七星、そして猫崎と翔太の六人で撮った集合写真だ。本来ならば同じ高校の同級生五人で一枚だけ撮る予定だったのだが、撮影後に何を思ったのか翔太が新郎を誘ってもう一枚撮ることになったのである。

 小さく息を吐いた七星は手元の写真に視線を落としてから、その他にもテーブルに広げられている結婚式や披露宴で撮った写真たちを眺める。ややあって、七星が持っていた写真が雪羽に引き抜かれた。

「ほら七星、ぼーっとしてないで手を動かしてよ」

「はいはい」

 七星は今、封筒に宛名を書いていた。

 それは結婚式で撮った写真を知人たちに送るためなのだが。なぜわざわざデータではなく現像した写真なのかというと、誤って同じ写真を何枚も現像してしまったので猫崎をはじめとした数人からデータだけじゃなく写真もいるかと聞いたところ、ほしいと返答をもらったからである。

 言うまでもないが、七星がそんなことをしている理由は、何枚も同じものがある大量の写真を手にしょんぼりとしていた幼馴染みに相談されたからで。うっかりミスをした当の本人は、七星の目の前で誰にどの写真を送るのか選別している。

「一枚ずつ残しておけよ。後でアルバム作るんだろ」

「わかっているって。……あ! これもアルバムに入れようか」

「はあ? こんなん入れてどうすんだよ」

「だって、七星が写っている写真が全然ないんだよ」

 そう言う雪羽は少しだけ不満そうだったが、思い出作りに積極的ではない七星としては、たった数枚程度はむしろあるほうだと思っていた。

 友人でもない相手の結婚式でわざわざ撮りたいシーンのない七星にとって、集合写真を撮るんだと雪羽に引き摺られるまま自発的に写ったもの以外は、披露宴で無理矢理一緒に写されたか気付けば勝手に撮られていた不本意な写真でしかない。それが数枚で済んだのは、付き合いの悪い七星がいる写真を撮りたがる物好きが雪羽や翔太以外にいなかったことも一因だろう。

 結婚式は、招待された半数以上が新郎新婦の仕事関係者だった。紺野と本庄は同じ職場の同僚らしいので当然と言えば当然だろうけれど。そして、それ以外に紺野が招待した友人枠はほとんどが大学時代の友人で。なぜ紺野と別の大学に進学したはずの猫崎が呼ばれたのかというと、翔太を通じて猫崎と紺野の友人関係が今でも続いているからで、その翔太は紺野と本庄の二人の同僚であり本庄とは互いに実力を競うライバル関係にあるらしい。ちなみに、彼らの残りの幼馴染みは新郎新婦とは知り合いではあるものの呼ばれるほど深い関係性ではないと言うのだから、雪羽の連れという立ち位置の七星としては疑問が残るところだった。……ちなみに、この話は全部、七星が雪羽や翔太本人から聞いた話である。

「ほら雪羽、さっさと封筒に入れるから、選び終わった分から渡してくれ」

「はぁい」

 宛名と差出人を書き終えた七星は、雪羽から受け取った写真を封筒に入れていく。数枚の写真たちは葉書サイズの封筒に問題なく入り厚み的にも余裕があったので、ついでに一筆箋を添えた。糊で封をして、締めマークの代わりにレターセットに同封されていたシールを貼っておく。

「このあと仕事だから、ついでに、その前にコンビニで切手を買って投函しといてやるよ」

「切手代は?」

「いいよ、その程度」

 七星はそう言いながら、出来上がった手紙たちを無造作にカバンに入れる。

 雪羽が申し訳なさそうな表情を浮かべていたのは僅かな間で、すぐに彼女の表情は嬉しそうな笑みへと変わった。

「何から何までありがとう。おかげで助かったよ!」

「はいはい、どういたしまして」

 七星は呆れた苦笑いを返す。

 相変わらず幼馴染みは少し猪突猛進で空回りすることも多々あって、それを七星がフォローするのは毎回のことだけれど、そんな彼女が持ち前の世話焼きで築き上げた交友関係の着地点が紺野の結婚式であるのなら、それはきっと、悪くはないのだろう。

 それが雪羽のいいところだと断言できるのは幼馴染みのひいき目もあるかもしれないが、それでも、彼女には変わらないでいてほしいと思った。

 そんな雪羽の優しさが何よりも素晴らしいものだと、七星は相変わらず思っているのだから。





「……あれ?」

 七星が仕事に出掛けた後で、雪羽はテーブルの上に一通の手紙が残っているのを発見した。

 それほど手紙の数はなかったとはいえ、一通だけしまい忘れるなんて珍しいミスでもしたものだと思いながら、彼女はその一通を手に取った。

 その封筒には天宮雪羽さまと宛名が書いてある。

「私宛てだ……?」

 小首を傾げながら雪羽は封筒の裏表を見る。

 もちろん差出人は書かれていないのだが、先程まで猫崎たちに送る写真を入れていた封筒に見慣れた文字で宛名が書かれているのだから、間違いなく七星から雪羽宛ての手紙だろう。あの作業の合間に七星はこんなこともやっていたのか、と思いながら雪羽は封筒の中身を取り出した。

「この写真!」

 それは、披露宴で新郎が撮ってくれた写真だ。

 写りたくないからと席を立たない七星の隣に押しかけてきた雪羽と翔太を中心に、便乗した紺野と猫崎で撮った写真。これを撮ったのは翔太の一眼レフカメラだったので、雪羽の手元にはなかった一枚である。

 翔太は自身のカメラにあった写真データを七星に送っている。雪羽がアルバムを作りたいと言った時に七星から一通りの写真はもらっているので、アルバム用とは別に現像していたのだろう。……もしかしたら、今回の件に合わせて準備したのかもしれないけれど。

 せっかくだから写真立てでも買おうかと考えながら雪羽が、その写真をもう一度入れるために封筒の口を大きく開いた時だ。

「あ、何か落ちた」

 雪羽の足元に落ちたのは一筆箋だった。

 半分に折られていたそれを広げると、夜空のような瑠璃色のグラデーションに星のような金箔が散りばめられた便箋で、そこには走り書いたような文字で『雪羽の世界は優しくありますように』と綴られている。

 呆けたような顔をしていた雪羽は、まばたきをひとつすると、次第にその表情が嬉しそうなものへと変わっていく。

 雪羽には、七星が詩的な文章に込めた意味を間違えずに読み解ける自信はない。それでも、この人生に優しさがあり続けるように、この日常が優しい世界であってほしいと祈っていることはわかる。

 相変わらず幼馴染みは無愛想だけれど、その不器用な優しさのおかげで雪羽は真っ直ぐに前を向いていられるのだから、それも悪くないと思える。愛想がないままでいいと、七星には変わらないでいてほしいと思うようになったのは雪羽が成長したからか、単に絆されただけなのはわからないけれど。

 少なくとも、七星も雪羽も、考えていることは同じだということはわかる。

「七星にお返事書かないと」

 そう言った雪羽の声はとても幸せそうだった。

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綴った手紙の宛て先は 吹雪舞桜 @yukiuta_32

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