脳筋セフレにかないません!
@yasashikibu
第1話
小汚い居酒屋は好きだ。金髪バイトのデニムな小尻や、JDを口説くメビウスの煙が、影絵のように動く。静寂というものが訪れない、いい洞窟だ。
世の中には悪い洞窟もある。たとえば神田から日本橋へ抜けるとき、国道の下をくぐる黄色い地下道。たとえば乃木坂の美術館を出て坂をのぼりきったところのファミレス。
たとえば千歳船橋の実家。
「30までは遊んでいいのよ」
正月早々、母親に妙なプレッシャーをかけられた。弟が家を出てから、父と2人きりで、一番立場の弱いおれを追いこむしかないのだ。
テレビ局の営業から、取引先のメーカーに転職し、いまだ彼氏の1人も見せたことのないおれに。
抑圧委譲って言うんだっけ、こういうの。ふと公民の授業を思い出す。当たり前のように受けていたが、都内の私学は思想が偏っている。
テレビ局には、中高一貫から早慶やら国立に行くような奴しかいないので気付かなかった。メーカーの営業に、まともな思想があるやつはいない。みんな、飲みか営業成績か女のことしか考えられない。思想は教養に裏付けられるのだと、おれは転職して初めて知った。と、言ってはみるが、おれはメーカー営業の先輩にはかなわないと心底思っている。
たとえば、ある生徒が試験で100点を取ったとする。でも、それだけで優秀とは言い切れない。なぜなら母集団のレベルが低い可能性があるし、そいつが本当に100点しか取れないのかも分からない。試験が違えば、もしかしたら200点取れたかもしれない。
中学受験をしてからずっと、そういう感覚で生きてきた。周りの皆もそうだった。そういうレールを歩いてきた。学校なり、親なり、塾なりが敷いたレールだ。
けれど、高校生になってから脱落者が出始めた。大学2年生で半分くらいになり、就職するころには1割くらいに減っていた。大学で付き合った彼氏もそうだった。
恋愛が、車輪の下に落とすのだ。
彼は同じ大学のやつが大勢行くコンサルに落ち、第一志望の鉄道会社に落ち、結局、非上場のIT企業に行った。
OB訪問して、ESを書いて、インターンに行くより、女とやっていた方が楽しいに決まっている。将来は大事だと頭ではわかっていても、極限まで自分を追い込めない。それが初めての経験なら尚更だ。
そいつらの高いプライドがへし折れ、親が泣いている間、人間的な経験を積んできた連中の何割かが、就活転職をきっかけにレールに乗ってくる。人格形成期に名門と囃し立てられたおれたちと違って、人間ができているから、まともなコミュニケーションができる。これ以上は書くまでもない。
もちろん、本当に優秀な人は、失恋をしようが浪人をしようがレールを外れることはなく、仮に落っこちてもそのうち戻ってくる。おれはそれを見たことがある。
……酔っていて、話が逸れた。就職をきっかけにレールにのってきた男の話がしたかったんだった。メーカー営業で、尊敬している先輩だ。一言で、努力の人だ。今の処遇はおれと大して変わらないが、あと数年で間違いなく出世する。環境と運にめぐまれただけのおれは、多分一生かなわない。
こういうところで惚気話をするのは恥だと思っていた。でも、年のせいだろうか、開き直れる。彼がいま、おれの一番好きな人だ。
おれは、おれと言うくらいで、ジェンダー的にちょっとあれだ。鶏が先か卵が先か、女子校に10年近くいた。大学時代も緑髪の女の子が好きだった。
バイという言葉がある。男でも女でもいける。おれとしては、その定義は少し乱暴だと思う(おれの勉強不足かもしれない)。おれに限って言えば、人が嫌いなので、誰でもいいと思われるのは心外だ。
好きと言っても一様ではない。女の子は、どうしようもなく心がかき乱されて、おれだけを見てほしいと願う。男はそうではない。
女の子はどこまで行っても他人だが、男は怖いくらい融け合う瞬間が来る。
女の子は裏切ったままそばにいるが、男はいなくなってしまう。
まあおれの話はいい。本当にいいたいことを言えないのはおれの悪い癖だ。
好きな人の本名を出すのはさすがに憚られるので、仮に英二としよう。バナナフィッシュの英二だ。彼のように童顔だが、ガタイは極めてよく、同じようにもとスポーツ選手だけど、棒高跳びではなく野球だ。小中高大と全く勉強せず、体力とメンタルの強靭さだけで大企業に入った。彼女はしばらくいないらしい。いかにもな営業マンで、ぴちぴちのシャツと、青いスラックスで、営業所のフロアを闊歩している。仕事ができるからか、性格の問題か、上司と仲が悪そうだーーー。
「なにごちゃごちゃ書いてんの」
居酒屋の喧騒が太い声にかき消された。振り向くと、英二の顔がすぐ近くにあった。おれのMacを覗きこんでいる。おれはあやうく、カウンターの高い椅子から落ちるところだった。書きかけのラブレターを本人に見られたようなものだ。でも、英二はあまり興味もないようで、よっこらしょとおれの隣の席に座った。
「居酒屋でMacひらいてるやつ見たことねえよ。小説?」
そうだった、英二は文章を読むのが遅い。
おれは胸を撫で下ろしながら、Macを足元のカバンに放り込んだ。
「遅かったですね」
「わりーな。上司に急に仕事増やされて。本当は早く上がれるはずだったんだけど」
「べつにいいですよ。生でいい?」
競合他社のマークが入ったタブレットから、生ビールの文字を探す。390円。華の金曜日は安上がりな方がいい。
「おまえもうワイン飲んでんの?」
ピィピィ、と注文完了を告げる音が鳴る。英二は呆れたようにおれのグラスに手を伸ばした。シャツから太い腕が見えている。
「酔ってる?」
顔を上げると、色素の薄い丸い目がおれをじっと見つめている。
「ちょっとね」
「ふうん、めずらしーな」
色気がある、と思う。緊張感があるともいう。肉食獣の獲物になった気分だ。英二にとって、おれが実は女の子も好きになれるとか、そういうことは関係ない。肉になってしまえば、彼の前では全部肉だからだ。
それがおれにとっては、とてもありがたい。
「あ」
おれが止める前に、英二はおれのワインを飲み干してしまった。ぺろりと赤い舌が唇を舐める。
「乾杯のビールから付き合ってよ」
こういう芸当は、レールにのってきた奴には一生できないだろう。実技は反射神経と経験がものを言う。おれは黙ってビールを追加した。
「先輩のそういうところ、尊敬しますよ」
「何言ってんの今さら」
「遊びすぎって話です」
英二にとって、おれはきっと、ちょっと変わった肉なのだろう。だから試してみたい。とはいえ、チェーンの居酒屋でMacを開いて長々と文章を書いている肉。噛みきれなさそうだ。
「何食べます?」
「肉」
「焼き鳥ならさっき頼みました」
「じゃあそれでいいわ」
金髪バイトが生ビールを持ってくると、英二は「ありがとう」と微笑んだ。上機嫌な彼女の背中から、安っぽい香水の匂いが漂う。ふと見ると、キッチンからこちらの様子を心配そうに窺っている従業員がいる。ははん、さては金髪バイトの彼氏だな、とほくそ笑むと、英二は不可解そうな顔をした。
「なに?」
「あのね、先輩を見て、妬いてる男がいます」
「さっきの金髪の女の子の?」
「そうそう、いいなあ。バイトどうしで付き合うとか」
「そいつ、おまえは見えてないのかな」
おれがぽかん、としていると、英二はビールを突き出してきた。かつん、とぶつかる。グラスがかたむく。しゅわしゅわと喉を通っていく。
「どういう意味ですか」
「普通に考えて、女連れの男が、わざわざ居酒屋の店員を口説かないだろ」
「カップルには見えなかったんじゃないですか? 実際ちがうし」
最後の方のおれの声はほとんど聞こえなかっただろう。
「見えるようにするか」
英二はおれの肩を抱き寄せると、ゆっくりと顔を近づけて、あたたかな頬を寄せた。
おれは酔っている。
酒を飲まないと物も書けないようになったのはいつからだろう。緑髪の女と別れてからか、それとも新卒で入ったテレビ局を辞めてからか、
おれには分からない。
いつからおれはレールからはみ出てしまったのだろう。
白い天井に傘つきの裸電球がつる下がっている。首の下に硬い感触がある。いわゆる腕枕だ。横を見ると、至近距離で英二がいびきをかいている。
そのぽってりとした唇に、指をのばした瞬間、ぱちりと目が開いた。
「なんか良くないこと考えてるだろ」
その通りだとは言えず、無理矢理笑った。気付いたら辛気臭い小説になっている。いつもそうだ。まえの男、いやもっと前の恋愛から、おれの暗い思考が連綿と続いている。
不倫を繰り返す女優がいる。彼女の恋愛遍歴の中には自殺したロッカーもいる。どういう神経で恋愛を繰り返すのかと思うが、多分いちいち覚えてないのだろう。猫の恋と同じだ。おれとちがって、お経みたいに長ったらしく怨恨を書き連ねたりはしない。
「俺が言うのもなんだけど、恋愛に依存してるから、つらいんだよ。男なんてそんな頼っちゃだめだよ」
本当にお前が言うな、と心の中で思ってから、はっとする。ここで口にしないから上手くいかないのかもしれない。
「上手くいく」とはなんだろう。勉強においては明確だ。点数が高い、順位が高い、成績が良い。では、恋愛においては? 正解がない。客観的な物差しはなく、私が何を望むかだけだ。
私は恋愛に何を望んでいるのだろう。
たとえば英二が付き合おうと言ってくれたとする。もちろん嬉しい。3ヶ月くらいは毎日幸せだろう。でもその熱が過ぎたら、きっと「どうやったら別れを告げられないですむか」、「どうしたら飽きられないか」に思考がシフトする気がする。そしていつもの辛いループにハマってしまう。
はて、と首をかしげていると、英二は初めて訪れた観光地に到着したときのような顔をした。
「とりあえず先輩にだけは言われたくないですね……」
「ん?」
耳元で湿ったリップ音がする。英二には都合の悪いことはキスでごまかすという便利機能がある。さらにダメ押しでおれを腕の中に閉じ込める。布団に覆われた先は、暗く、狭い。
「困ってるね」
「困ってますね」
見上げると、英二は目を細めてにいっと笑った。この洞窟は良いのか悪いのか?
「じゃあヒントをあげる」
「ヒント?」
「俺と一緒にいたいなら、俺に依存しないでほしい」
なんとも不遜でクズな発言だ。バナー広告のweb漫画でも(角度を変えて何度も出てくるからストーリーを覚えてしまう)、聞かないレベルである。何のヒントだ馬鹿野郎と罵倒したいところだが、「問題には答えを出すものだ」という、悲しいかな、染みついた大原則がおれを思いとどまらせる。
問題は「恋愛において上手くいくとは?」である。
一つの答えは「相手に依存しない状態」だろう。
しかしこれはヒントと言いつつ、英二の答えであり、私の答えではない。が、なにかが引っかかっている。あと少しで何かが見える気がする。
答えが分からないとき、問題条件を読み直すことは有効だ。
「俺と一緒にいたいなら、俺に依存しないでほしい……ですか」
問題条件は「英二と一緒にいたい」ときだ。
そう、私は英二と一緒にいたい。
「別れたくない」のと「一緒にいたい」のは同じようで全く違う。なぜなら、アプローチが変わってくるからだ。
別れたくないから、引き止めて重くなる。一緒にいたければ、一緒にいられるよう前向きに考えられる。
「そうそう。なんか分かった?」
英二はやはり笑っていて、何もかもお見通しという様子だ。私というブラックボックスが、エラーを吐いたり、答えを出したりするのが面白いのだろう。
脳筋は仮の姿で、実はけっこう賢いのか、それともーー。
そうだった、「ーー。」で終わらせず、本人に言った方がいいんだった。
私は勇気を振り絞った。
「先輩ってけっこう私のこと理解してるんですね」
「だっておまえ、分かりやすいし」
と、英二はこともなげに言う。あんまりだ、と苛々していると、
「一緒にいたら、そりゃ分かるよ」
英二は私の頬に口付けを落とした。照れ隠しだと分かるのに時間はかからなかった。
恋愛において上手くいくとは、「一緒にいるためにお互いを理解しようとしている状態」なのかもしれない。それにしても、これで依存するなというのは無理な話である。
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