第35話 光がいきわたりますように
12月にしては珍しく温かい日が続いたかと思いきや、クリスマスを控えた週末を前にシベリア大陸から強い寒気が流れ込んでいるのだという。
5階建ての白い外壁の建物の周囲では、湿った雪で濡れた道路をバシャバシャと音を立ててトラックや乗用車が行き来していた。敷地内には3階建ての介護施設も併設されている。ガラス張りの多目的室からはいつもなら山々が一望できるが、この日は雪煙に隠れている。
車椅子に乗る山崎とみ子は、まだ自分が奈良にいて、露と消えた万葉の里を探そうとするかのように、白く霞む景色を眺めていた。朝食が終わった時間で、職員は食器の後片づけと、管内の清掃に忙しい。
「さみ、さみ」
近くを通り掛かった男性職員をとみ子は呼び止めて、椅子の上で股間を揺らし、排泄の介助を求めた。男はすぐに廊下の奥でシーツ交換の準備に差し掛かっていた女性職員に声を掛けた。
女性職員は大丈夫、とみ子さんは逆に女の人と一緒に排泄はしたがらないの、と大声で言った。まだ働き始めて間もない男は車椅子を押してとみ子をトイレに連れていき、片言の日本語を駆使してとみ子を適切な体勢にし、一連の作業を終えた。室内の暖房と緊張で額に汗が流れる。
200メートルほど離れた5階建ての建物の1階には、総務部と人事経理部、秘書室など間接部門のスタッフが業務にあたる部屋がある。
入社して2カ月経ったサングラス姿の山崎澄夫は、入口近くの机の列にある総務部に所属し、長期入院する児童と介護施設に入居する高齢者のためのクリスマス会の準備に追われている。近所のキリスト教会から電話があり、ゴスペルクワイアの到着時間や適切な規模について問い合わせを受けていた。
人事経理部の机の並びを挟んで、部屋の最も奥の一列に二宮麻友の席があった。介護業界の専門誌の広告担当者から、新春号の特別企画に新しい理事長のインタビュー記事を掲載したいとの連絡を受けていた。
時村の都合のつく日時を伝え、企画書をメールで送付するよう依頼して電話を切ると、卓上のデジタル時計に目をやった。定時は午後5時半だ。終業後は母の様子を確かめてから神谷正美、山崎澄夫と3人で、パスタを食べに行くことになっていた。
時村は、元理事長の娘がユーチューバーとなったことを聞き、インターネットで購入した高性能のビデオカメラと編集ソフトを駆使して、自ら榛名山の自然を紹介するチャンネルを作っていたが、その趣味を誰にも話すことはなかった。短大を出たばかりの麻友が就職した介護施設で、彼女が職場に馴染めなかったことも、グループ人事を統括する身として知っていた。
組織の不祥事が明るみになり、秘書室の能田を他部署に転籍させたことで生じた欠員を麻友で補おうと考え、時村が直接、彼女にコンタクトし入社を勧めたのである。
やがて元理事長の二宮直子の意識が回復し、娘の入社の事後報告を受けた。娘が病院経営を継ぐ身になることに元理事長が否定的な考えを持っていたとはいえ、娘の顔が見られるようになったことを素直に喜んでいた。
麻友が秘書として仕えることとなった時村が、トップとして最初に行った採用面接の相手が山崎澄夫だったのは今考えても不思議だった。
麻友の手元に届いた応募資料にその名があるのを目にした時、彼女は絶句し、すぐに何とも言えない幸せな気分になった。なぜ応募することになったのか、ショートメッセージで本人に尋問したい衝動を必死に抑えていた。
山崎が本部にやってきた時、面接の控室に誘導するために出迎えの役目を担ったのは彼女だった。涼しい顔を装い続けようと互いに考えていたが、無理だった。山崎は我慢できず、別の世界での活躍ってここのことなのか、と聞き、二宮麻友は笑顔を隠すことなく頷いた。
時村との面接には同席できなかったものの、正式に採用が決まった後、山崎が自ら開くことを提案した『お祝いの会』で、当時のやり取りが再現された。相当な圧迫面接だったようだ。
挨拶を済ませた後、40になってユーチューバーで儲からなくなったから応募したのですか、と辛辣な質問が始まり、介護の世界舐めていないか、ほかにも稼げる世界はあるだろう、せめて資格を取る努力ぐらいしようよ、と、言葉のボディーブローが何発も続いた。
山崎はただひたすら、すみません、今までの自分を振り返っても恥ずかしい限りです、新しい世界でやり直したいのです、と繰り返すのが精一杯だった。
新理事長はあえて圧力を掛け、その反応から山崎の人格を見極めようとし、この点においては合格ラインにあると判断した。
一方で、時村の後任の人事経理部長は、別の問題を心配していた。介護を経験したことのない山崎が、母のいる施設で働くことにより起こりうるトラブルだ。
実の母であっても、他人であっても、介護施設の職員は入所者に対し公平に接する必要がある。たとえ認知症患者であっても、山崎と彼の母の距離感が近いと他の入所者が感じ、それが親子関係であると知ったら、面白いとは思わないだろう。かといって、関西にあるグループの特別養護老人施設は奈良の1拠点しかない。ようやく母の身元保証人になった息子を、あえて母の元から離れた場所に留めるのもおかしな話である。
面接終了後、幹部らは協議を踏まえ、山崎澄夫には病院と介護施設の両方が近接する群馬の本部で勤務してもらうことと、母のとみ子の入居先を群馬に移すことを打診し、問題がなければ内定を出すという流れが決まった。
麻友と同じく、ユーチューバーとしての経験を、いずれは広報宣伝活動に生かしてもらうことも期待された。山崎には断る理由がなかった。慢性的な人手不足の状況で職員が増えると喜んでいた向井の思惑が外れる格好となり、後日とみ子の引っ越しのために奈良の施設を訪れた山崎が、向井からねちっこく恨み節を聞かされる羽目になったのは言うまでもない。
──クリスマス商戦が繰り広げられるショッピングモールで、美容部員としてのキャリアを始めたばかりの川本の元にはスキンケア関連商品を求める女性客が殺到していた。
北関東の冬は空気の乾燥が著しい。仕事にも慣れてきた頃だった。鏡に映るのは、本番前の自分ではない。主役は女性客の方で、自分はいわば黒子(くろこ)に過ぎない。給料は決して高くはなかったけれども鏡に映る女性の顔が綺麗になり、喜ぶ姿を見るのがこれほど楽しいことだとは思わなかった。
仕事を見つけてしばらくして、高崎市内のアパートを借りた。山崎澄夫がユーチューバーを辞めて、二宮の病院に勤務するようになったのを耳にした時、少しだけやりきれなさを感じたが、すぐに吹っ切れた。
自分の過去を完全に消去することはできない。記録媒体にあった自分の、最も見られたくなかったシーンを山崎が目にしたのであれば、目線を合わせて会話をするのは難しいだろうし、それを望むのも適切ではないように思えた。
それよりも彼女は、新しい日常を愉しんでいた。新しい男性を捕まえるのには時間が掛からなかった。接客中の川本に声を掛けた男性は、前橋のキャバクラで働いていた時に、「あすか」をよく指名していた男性客だった。
困惑した女の表情を目にすると、軽率な行為を恥じらうように男は短い頭をポリポリと掻き、携帯電話を記した紙切れを彼女に分かるように、商品の陳列棚にそっと置いたのである。
男には妻子がいた。互いの休みが合うと、男は周囲の目を気にしながら川本を車に乗せ、お台場や横浜をドライブした。
「かわもっちゃんの彼氏ってどんな人なの?」
麻友はクリスマス・イブの前日に体調を崩した川本のアパートを訪れていた。
「群馬のひと……」
川本は咳込んだ。出会った場所がどこなのかは、まだ言いたくはない。
「いくつぐらいなの?」
「私達と同じよ」
「仕事は何しているの?」
「うーん。ぶらぶらしているっぽい。ごめん、気持ち悪い。吐きそう」
川本はベッドから起き上がりトイレに向かった。呻き声が部屋のなかに響き、数分ほどしたら、川本は青白い顔をして戻ってきた。麻友はグラスに注いだスポーツドリンクを手渡しながら言った。
「検査したほうがいいんじゃない? 単なる風邪だといいんだけど、咳も止まらないし。ちなみにその人は独身?」
「男の子が2人いる」
「何しているのよ、全く。……まさかその人、イチゴが好きな人じゃない?」
麻友の目に怒りの炎が立ち上がろうとしているのがなぜなのか、川本にはよく分からなかった。
「イチゴよりも葡萄が好きみたいよ。高校時代に好きだった女の子が、巨峰が好きだと言ったのをきっかけに、自分は葡萄が好きだと思い込んで食べ続けて、そのうちに本当に好きになったんだって教えてくれた。東京の大学に通っていた時は、おカネがなくてなかなか食べられなかったみたいだけど」
ああ、彼のことね。私のこと好きだったんだ。あ、でもあの人とは限らないな。
「あたしのこと気に入っているイチゴ好きでもいるの?」
「いや、ごめん。そういう訳じゃなくて、同級生で最近離婚したイチゴ好きがいたからね」
「ふうん」
川本はスポーツドリンクを一口だけ飲み、グラスをサイドテーブルに置くと、ベッドの上で横になった。天井を見上げた。
「二宮はどうなの?」
「何の話?」
「決まっているじゃない。言っとくけど、分かっているからね。奇跡的な出会いを果たした元ユーチューバーのこと」
「ああ、山崎さんね。まだそんな関係じゃないよ」
ベッドの脇に腰を下ろす麻友は嬉しそうだ。
「2人でどこかに出かけたりしないの?」
「同じところで働くことが決まった時に、2人で飲んだぐらいよ」
「何もなかったの? それでいいの?」
麻友は少し思案顔になり、それから照れ笑いをして言った。
「一言、あればね。でも仕事はどんどん忙しくなりそうだしな。一言あっても、まずは膝枕かな」
「なんだこいつ」
2人はくすくすと笑った。夜は静かに更けていく。
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百名ほどが入れる集会場の緞帳(どんちょう)が間もなく上がろうとしていた。
手前には3メートルを裕に超えるクリスマスツリーが飾られ、色とりどりのLEDランプが点滅を繰り返している。前列には小中学生が15名、車椅子や移動ベッドに小さな身体を載せて、舞台に視線を向けていた。
その後ろには高齢者が50人ほど陣取っている。外は暮れかけ、肌を切るような内陸特有の寒さとは対照的に、集会室は暖房が十分効いていて、職員は普段の制服姿で準備に走り回っている。
山崎と麻友は裏方として働き、観客側には、入院中の二宮直子と、山崎とみ子がそれぞれ車椅子に乗る姿があった。
室内灯の照度が落とされると、天井から吊るされたスピーカーからクリスマスキャロルが流れてくる。会場内に集う人々が雑談を止めると、浄化された空気が杉板を敷きつめた空間を満たした。
ステージが徐々に光で満ち溢れるようになると、サンタクロース姿に扮した時村が壇上に上がった。最前列の子どもがプレゼントをちょうだいと騒ぎ出す。子どもの素直過ぎる反応に時村は一瞬、表情を崩したが、すぐにいつもの厳しい表情に変わった。挨拶の声はいつもより低く、トップとしての風格を表そうとしたものの、衣装と釣り合いがとれていない。
続いて、外部から招へいしたスタッフで、この病院の終末医療に携わる近隣の教会の牧師が登壇し、聖句を引用し、10分ほどの説教を行った。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった――。内容をまだ理解できない男子の一人が退屈したと騒ぎ出すと、看護師長が近寄り、腰をかがめて彼の機嫌を取ろうとした。
説教が終わると、聖歌隊が登場した。きよしこの夜。あめには栄え。ショッピングモールや駅でこの時期にになると耳にする、高齢者であっても口ずさむことのできる讃美歌を続けた後、カトリックの日本人神父が作曲し、プロテスタントの教会でもよく歌われる『キリストの平和』の合唱に入り、聴衆に、合唱の仲間に加わるように求めた。
職員の多くはそれぞれの信仰を脇に置き、仕事として合唱に参加した。もちろん喜んで合唱する者もいた。
色付きのグラスを掛けていた二宮直子は、目頭が熱くなるのを感じた。聴衆の脇で立っていた娘の姿が目に入ったからだ。
同じ場所にいて、ともに讃美の時間を過ごしているのが、奇跡だと感じた。
そして小山内サミフの母を思い出した。
自分を含め、あの時の聴衆や、新たな配偶者が、どれほどたくさんの涙を流したとしても、母の心の傷を癒すには十分ではなかったに違いない。
だが、それらは本質的な問題ではない。サミフの不幸を嘆き、残された人間の心が安らかになるのを祈るために牧師の下に集ったのであって、無条件に心を一つにしたことに価値があるのだ。直子はサミフの母のクリスマスが、癒しの時間になることを心から祈った。
合唱が終わると再び照明は消えた。キャンドルサービスの時間だ。
会場の一人ひとりの手に、豆電球のついた電池式の小型の蝋燭が手渡される。
すべての人間に蝋燭がいきわたる。
暗闇の中で揺れる一つひとつの光の荘厳さは、本当の蝋燭の炎と遜色がなかった。
サンタクロースの時村は、キャンドルを手にする麻友と山崎を、それぞれの母が座る車椅子のそばに向かわせた。麻友は母が涙をこらえているのを目にし、くすっと笑った。山崎澄夫は顔を自分に向ける母に、サミフやないで、と言った。
牧師が聴衆に祈祷の辞を述べる。
職員に対しては、2020年が忙しい1年になったとしても、絶望することなく、患者や入居者の支えとなり続けられるよう、医療従事者の道を選んだ人間の一人ひとりに祝福と恵みがあるように、共に祈りをささげるよう求めた。
祈りの時間が終わると、時村がマイクを持ち、懇談会の時間に入ると告げた。
明るくなった室内の、集会場の入口近くに置かれた折り畳み式のテーブルには、ケーキやシャンメリー、お菓子やお寿司などが並んでいる。
麻友は、自分と同じように母とともにいる山崎を見た。山崎は麻友の視線に気付いて、手を振った。麻友はなんだか嬉しくなって、母の車椅子を押して彼の下に向かった。
「山崎さん、こちらが私の母です」
母と言っても元理事長であり、威厳は残っている。山崎は緊張した。
「はじめまして。今年の10月に入職しました山崎と申します」
二宮直子は山崎のサングラスを見た。そして一礼し、後遺症として負うこととなった言語障害を憚ることなく、彼に言った。
「娘を、よろしくお願いします」
山崎とみ子は、この子でええんちゃう、という表情で息子を見る。麻友は顔が赤くなった。
「お母さん、まだそんな関係じゃないから」
「そんな関係になることもあり得るのかね」
山崎澄夫は身体を強張らせ、硬い表情を崩さなかった。暗がりのなかで前を向く顔が、麻友は大好きだった。
(了)
産業系インフルエンサーの隘路 フョードル・ネフスキー @DaikiSoike
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