第45話

「私たちが当たり前に見ていた光景が、それほどに価値のあるものだとは知りませんでした。……これを平和ボケと言うんでしょうか。」


「いいえ。それでいいのです。本当はそうでなければならない。……出来ることなら私たちもボケていたかった。生き延びることだけが目的で繰り返される毎日は辛い。」


「……はい。」


 そんな生活の中で、ここまで日本語を話せるまでに勉強をして来ていたことに結城は少しだけ違和感を覚えた。

 日本で自国民に役立てる物を探すためだと聞かされていたが、違う気がしていた。アフマドは自分の国を大きく変えようとするために執念を持って行動しているとしか思えない。


「長い時間を掛けて、何も変えられず抗うだけ。……こんな光景を見ていると、私たちのやっていることは無駄なことに思えてしまいます。」


「そんなことはないと思います。少なくとも抗うことをしていなければ、貴方方の苦労を私が知ることはなかった。どんなことも知らなければ始まらない。」


「そうですね。私も、こんな日常があることを知らなかった。」


「と言っても、私に出来ることなどないのかもしれませんが……。」


「いいえ。遠い日本で私たちの痛みを理解してくれる人がいることが私たちに意味を与えてくれる。今はそれだけで十分です。」


 国として文化や価値観は違うのだろうが、痛みを理解することは出来る。アフマドのやってきたことは犯罪行為になってしまうことかもしれないが、結城に咎める気持ちは全くなかった。



「……結城さん、そんな国の人間が日本で自由に行動していることに疑問はありませんか?」


「えっ?」


「私のことです。私の国は内戦状態であり、私は一般人です。」


「えっ、ええ。ですから、自国で困っている人たちのために役立てる物を探して……。」


「フフッ、そうですね。そんな説明をしていましたね。」


「……違うのですか?」


 アフマドに指摘されるまで結城は問題視すらしていなかったが、確かに不自然な状況ではある。荒れた国内事情からアフマドが単なるビジネスとして日本に旅行感覚で来られるはずはない。


「目的は違いませんよ。」


 話す必要のないことまでアフマドが口にした真意が結城には分からなかった。

 ビジネス目的の来訪者であることに疑いを持っていなかった結城に、わざわざ自分を疑えと言っているのと同じ行為である。


「妹さんも戻って来たようですね。……私もこれで失礼します。」


「あっ、は、はい。」


 結城は呆気に取られてしまい、まともに挨拶も返せないままアフマドと別れることになった。

 アフマドは擦れ違う佳奈に何か話しかけて、軽く頭を下げて歩き去っていた。


「……どうしたのお兄ちゃん?」


「いや、何でもない。それより何か言われてなかったか?」


「うん。『元気な赤ちゃんを生んでください』って。」


「……そうか。」


 短い言葉ではあるが、アフマドが口にしていることに意味があるように結城は感じていた。言葉に込められた想いが違っている。


 結城が当たり前だと考えていたことがアフマドの当たり前ではなかった。そして、アフマドが日本に来ている経緯も結城の常識では理解出来ない裏があるらしい。


「あの人、大丈夫かな?」


「えっ!?……どうして?」


「気のせいかもしれないけど、何だか張り詰めている感じがしたんだ。」


「……まぁ、ずっと気を張っているのは間違いないけど、俺たちとは覚悟が違うから大丈夫じゃないのかな?」


「覚悟?何を覚悟してるの?」


 結城は自分で言っておきながら妹の質問に答えられなかった。アフマドが覚悟を持っていることは分かっているが、その覚悟が行き着く先が分からない。


「……何を覚悟してるんだろ?」


「やだ、自分で言ったんでしょ?自分の言葉には責任持ってよね。」


「そうだな。……さぁ、そんなことより買い物だろ?」



 結城は結論を出すことなく話題を変えてしまう。

 結論の出せないことであり、結城は心の奥底でアフマドの覚悟を感じ取っている。ただ、その覚悟を妹に説明することが出来なかっただけなのだ。


――たぶん、アフマドは正規のルートで日本に来ていない。


 アフマド自身がそのことを示唆していた。


――そのことを北村常務は知っているのか?……いや。どちらにしても、かなり問題じゃないのか?


 会社にとって、それだけのリスクを負う意味があるとは思えない。北村常務が個人的な事情で窮地に立たされていたとしても、リスクが大き過ぎる。


――ハイリスク・ハイリターン……。


 リスクに見合うだけの利益が得られるのであれば自分の立場を守るための道具にすることもある。一度上から見下ろすことを覚えてしまった人間は見上げる場所に落ちることに恐怖する。


――北村常務の暴走?……それも違うな、あの男には覚悟がない。それに目的が分からない。


 社内でアフマドと接触したチームは「風鈴」だけである。

 順調に進み過ぎている仕事が北村常務の後ろ盾であることは間違いなさそうだった。東部大学の黒川教授を紹介したのも北村常務。


――風見さんに話しておかないといけないな。


 会社の中で起こっているだけの権力争いであれば結城もある程度は納得していた。そんな物は何処でもあることで大した問題にはならない。

 だが、アフマドが加わってしまえば単なる権力争いで終わる物ではなくなりそうだった。


「『元気な赤ちゃんを生んでください』……、か。」


 結城はアフマドの言葉を繰り返して、風船を手にして嬉しそうに歩いている子どもを見た。その光景は見慣れた日常であったはずだが、かけがえのない物に変わっている。

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セイギのミカタ ふみ @ZC33S

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