第40話《終》

 風呂に入っている最中も、あなたは彼からいかにして解放されるか、彼の記憶をいかにして消し去るかということについて繰り返し考えては、ときどきわれに返ったようにまったく関係のないことに意識を集中しようとした。知らず知らずのうちに、あなた自身の考えや感情が汗のように分泌され、湯船に溶け出して、あとから浸かる天上の肌に浸透していくのを想像すると頭がくらくらした。あなたは結局いつもの半分以下の時間で風呂から上がり、後ろめたいものをバスタオルで巻いて隠して寝室へと向かった。


 リビングを横切ろうとしたとき、入れ違いで浴室へ向かおうとする天上とぶつかりあうかたちとなり、タオルを巻いただけのあなたを見て天上が驚いた顔をした。天上の視線があなたの濡れた髪からタオルで隠された部分へ動いていくのがはっきりとわかり、あなたはとっさに身体を捻って天上の眼差しを遮った。


「ごめん。そういうつもりはなかったんだけど、嫌な気分にさせてしまったね」

「気にしないで。みっともない姿で出てきた私が悪いんだから」


 そそくさと脱衣所に向かう天上を、あなたは振り返って呼び止めた。


「天上さん、長風呂をするほうですか?」

「いいや。むしろ烏の行水だよ」


 天上は、今度はあなたの目をしっかりと見て答えた。


「よかった。長風呂をせずに、早めに上がってきてね。私のからだが冷えないうちに、上がってきて」


 あなたはわざと視線を落として言ってから、不安げな目をふたたび天上の顔へと上げた。あなたの言葉の真意は相手にも伝わったとみえ、天上は少し焦った様子で、


「わかった」


 と答えると、脱衣所へと消えていった。


 心臓が激しく拍動するのを感じながら、あなたは寝室へと駆けこんだ。ベッドに潜りこみ、背中を軽く丸めてうずくまるような体勢になると、全身を内側から殴打される気分になる。


 この胸の高鳴りは、天上を誘った高揚感から来るものでは決してない。彼と憂希に抱かれたこのベッドで、何も知らぬ天上にからだをゆるすことへの罪悪感に心を鷲づかみにされて、あなたは本当に窒息したような気分になっていた。


 あなたはまだ天上に裸を見せたことがなかった。婚約者であり、定期的に会う関係にある天上に対してあなたはいつでもそうする機会があったが、母の手先であるという嫌疑のためにキスさえも許可しなかった。だが、いまでは天上に身も心も委ねるつもりでいるどころか、一刻も早く愛してもらいたいとさえ思っている。天上の愛を飲み干したい。その瞬間、あなたのなかで大切な何かが終わるだろう。だが、ここから一歩先に進むためには、自由になるためにはそれを終わらせなければならなかった。


 やがて、言いつけどおり早く風呂を上がった天上が寝室へやって来ると、あなたは暗がりの奥から白い手を伸ばして天上の腕を掴み、ベッドに招き入れた。顔と顔が触れあうほどに近づき、やがて触れるべきところが触れあう感触が、あなたの全身に波のように押し寄せてきた。そのあとは、波に身を任せているだけでよかった。あなたを抱く天上の腕はぬるま湯のように温かく、触れる指は花を愛でるかのように優しかった。


 彼や憂希と愛しあうとき、二人の身勝手さのためにあなたが身構える瞬間が何度かあったが、天上とのあいだにはそれがない。月と星が空から剥がれ落ちた夜、あなたという行き先を失った船は、天上という船頭を得て、恍惚という終着点に向けて穏やかな航行を続けていく。暗闇のなかで薄明るむ二人の肌は夜風を受けた帆のように揺れ、シーツの衣擦れの音は遠い海鳴りの音に似ていた。


 これで終わったのだ。あなたは天上にしがみつきながら泣いた。悲しみか、喜びか、あるいは安堵のためかわからない涙が止めどなく溢れた。


「ごめんなさい。ごめんなさい、天上さん」


 切実な声が暗い寝室に響いた。天上の誠実さという光があなたの最も汚れた部分を照らしだしていて、そのことにあなたは耐えられなかった。


 天上は涙の理由を訊かず、暗い悲しい目をしてあなたの肩を抱きしめた。そのときあなたは、天上があなたと彼の関係について気づいているのだと思った。







 果実のように赤く実った太陽が砂浜を焦がし、じりじりという音がさざ波に紛れて聞こえてくるようだった。


 あなたは砂の照り返しに首筋を灼かれながら、水平線の向こうに広がる深い色の空を見つめていた。


 傍らには母が足を折りたたんで座り、水筒の茶を飲んでいる。その横顔を眺めているうちに、あなたは親戚や友人から母親にそっくりだとよく言われていたことを思い出した。当時は母への敵愾心から頑なに否定していたものだったが、いままじまじと見てみると、たしかに似ている部分が多い。


「どうしたの? 私の顔をじろじろ見て」


 母がサングラス越しに怪訝そうな目を向けてくる。


「何でもないわ」


 あなたはそう言って視線を水平線の向こうへと戻した。


「あの子のこと、まだ探しているの?」


 唐突に母が訊ねてきたので、あなたは驚いて肩をすくめた。


「ええ。でも、最近は身の回りのことで精一杯だから、あまりそちらに手が回らなくて」

「あの子がいなくなってから、もう四年になる。そろそろ、区切りをつけていい時期かもしれないわね」

「諦めろというの」

「いいえ。でも、あなたには家庭があるでしょう。お腹のなかには二人目だっているんだし。人探しは私のような暇人に任せてはどう?」


 母はなだめるような声で言った。彼が失踪してから、母は年々弱く、優しくなった。そしてそれに比例して、あなたのなかで母への敵意は薄れていった。


「そう……そうね。そのほうがいいのかもしれない」


 あなたは曖昧な答えを返したが、それは捜索を母に任せることを躊躇っているからではなく、捜索にかける情熱があなたのなかで薄れているからだった。四年も探し続けて見つからないものが、これから十年も二十年もかけて見つかるとも思えなかった。もう潮時かもしれない。そんな言葉を口に出しかかって、あなたは飲みこんだ。


「おーい、美夜子」


 少し気まずくなった空気を割るように、あなたを呼ぶ声がした。


「どうしたの、誠さん?」


 遠くで手招きする天上に、あなたは手を振り返す。


「砂のお城ができあがったんだ。美夜子にも見てほしいってさ」


 あなたが母のほうを見ると、母は黙って頷いた。あなたは立ち上がり、天上のもとへと向かう。


「お母さん、見て。こんなに大きいお城ができたんだよ」

「砂を運んでくるだけでも大仕事だったよ」


 天上は苦笑いを浮かべながら自分の肩を揉んだ。


「お疲れ様。立派なお城ね」


 綺麗に仕立てられた砂の城を見ていたあなたは、ふと視界の隅に動く影を認めて視線を動かす。海水浴客の群れの向こうに、彼がこちらを見つめて立っている。あなたは驚いて、瞬きする。一度、二度、そして三度目に目を開いたときには、しかし彼の影は消えている。


 結局、天上と結ばれても、あなたが彼から解放されることはなかった。天上の優しさという膜に守られているおかげで日常生活を侵蝕されるようなことはなかったが、それでもふとしたときに彼のことを思い出し、彼の幻覚を見るのは変わらなかった。まるで聖痕か何かのように、死と再生を繰り返しても残る呪い。それがいまのあなたにとっての彼なのだった。


 あなたはかつて彼を巡って母と戦った。そして彼との愛のやり取りもまた、いま思えばひとつの戦いであった。ならば彼と母とのあいだにも、あなたの知らない戦いがあったことだろう。


 結局、三人を巻きこんだ戦いに誰が勝利し、敗北したのか。そもそも勝者など存在したのか。いまとなっては誰にもわからない。ただ、彼が生きているにせよ死んでいるにせよ、彼という存在があなたのなかに永遠に残り続けるということだけがたしかだった。きっと母も同じだろう。少なくともこの戦いにおいて、あなたも母も勝者ではなかった。


 ぼくは必ずきみのもとへ戻ってくる。きみだって、そうだろう。


 かつて彼に言われたことを思い出す。そして、あなたが何と答えたかを。


「お母さん」

「どうしたの?」


 あなたは呼ばれたほうを振り返る。


「ぼく、もう疲れて歩けない」

「それじゃあ、お父さんが抱っこしてあげよう」

「嫌だ。お母さんがいい」

「わがまま言うんじゃない。もうすぐお兄ちゃんになるんだから」

「いいのよ。砂のお城を作って疲れちゃったのよね」


 あなたは微笑んでみせたが、細くなった目の奥には悲しみの地下水脈が広がっている。決して解けない呪いに苦しめられる者の悲しみが、あなたをほかでもないあなたにすることを、あなたはわかっている。呪いによってしか自らを規定できないむなしさをわかっている。そしてその呪いを愛する夫に知られ、ゆるされることの意味もまた、あなたはよくわかっている。


 あなたは目に入った埃を取り除くふりをして涙を拭うと、もういちど、今度は先ほどよりも上手に微笑んで、私を抱きかかえた。

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共犯 屑木 夢平 @m_quzuki

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