第39話

 部屋に戻ってあなたがまずやったのは、天上に見られてはいけないものがないか確認することだった。ホワイトアウトのなかを運転して疲れ顔の天上をソファに座らせると、あなたは適度に話を振りながら部屋じゅうを歩き回って、憂希の痕跡がないかチェックした。毎朝清掃が入るので、シーツに男の髪の毛が落ちているなどということはないが、清掃員が回収していかない忘れ物があるかもしれないという不安が、エレベーターの箱のなかでいきなり湧き上がってきたのだった。


 ひとつには、体調が回復して理性的な思考が戻ってきたということがある。昨日までは高熱に浮かされて何も考えることができなかったが、いざ熱が冷めて頭が冴えてくると、いままで気にならなかったことが急に気になり出してくる。


 そしてもうひとつには、あなたがこの部屋にあまりにも多くの思い出を溜めこみすぎていることがある。彼と一生ぶんの愛を凝縮したような時間を過ごし、その愛を噛み砕く獣のような目をした憂希に抱かれた。五感に刻まれた記憶のひとつひとつがいつの間にか気化し、室内に充満し、洗面所の棚のなかや枕の裏側に凝って、何らかの物的証拠を残してしまわないか。そんなとりとめのない不安があなたにつきまとっていた。


「帰る準備はもうできたのかい」


 忙しなく歩き回っているあなたを見て何か勘違いしたのか、天上が訊いてくる。風邪の養生のために宿泊期間を延長していたが、明日の朝にはチェックアウトして天上と一緒に東京へ戻る予定になっている。


「いま頑張っているところ。私っていつもこうなの。宿題を後回しにして、よく母にも叱られて。結婚して、天上さんに失望されないといいんだけど」

「その点、心配はいらないよ。むしろいまの話を聞いてぼくのほうが安心したくらいだ」


 天上は顔だけあなたのほうを振り向いて笑った。不気味であった笑顔も、誤解と偏見が取り除かれるといくぶん柔らかく見えてくる。


「よかった。お風呂がちょうど沸いたから、天上さん、先に入ったら?」

「いや、きみに譲るよ。さっき握った手がひどく冷たかった」

「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」


 天上の飾り気のない、真っ直ぐな優しさに触れてあなたの心は激しく動揺する。なぜ、いままでこの男のことをあんなにも嫌悪していたのだろう。天上の言葉は水が土に染みこむように、あなたの心に吸収されていく。かつて多くの疑惑が分厚い地層をなしていたときでさえも、天上の優しさはあなたのもとへと届いていたし、あなた自身、その優しさに確かに触れたのだと自覚する場面が幾度かあったはずだ。


 少なくとも彼と一緒のときには、そうした瞬間はなかったように思う。彼は表向き優しい態度をとりながら、心の奥のほうには別のものを隠していた。冷たく、刺々しい、誰も手を触れることのできないものを。


 あなたもかつて同じものを胸の内に秘めていた。だがそれは彼を失った絶望によって脆くなり、憂希が血を流しながら噛みついたためにひび割れて、いま天上の優しさによって溶かされようとしている。


 あなたという存在の核となる部分が確実に変質している。そのことをおそろしく感じながら、いっぽうで変わりたいとも望んでいる。彼から解放されたい。いままでに何度も脳裏をよぎったその妄想が、実は妄想などではなく明確な輪郭と質量を持った願望としてあなたのなかに存在していることを、もはや否定することはできない。

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