弓張月のいるに任せて

佐倉真理

第1話


 夜の都を、狩衣姿で忍び歩いた。

 やましいことなど何もない。帝のため、陰陽師のお墨付きで暗中をかき分けている。だというのに、頼政は心落ち着かない。歌の素養の無い人間が、なんの準備も心構えもないままいきなり歌合に参加させられるような―――そんな喩が、彼の脳裏を過る。


 倒すべき物の怪など、本当にいるのか?

 陰陽師は鵺、とそれを呼んだ。猿の頭、狸の身体、蛇の尾に、トラの手足を持つという。そしてぬえ鳥の声でひょうひょう、と鳴くらしいのだ。


 なんの話だ、と思う。

 そんな獣、見たことがない。山の中でも川の中にも、海の中にも、空を飛んでいるのも視たことがない。都には多くの人間がいる。農民も商人も僧侶もいるし、彼のような武者もいる。だが、そのいずれも鵺なる怪物を見たことがない


尋ねれば陰陽師も見たことがないという。

 ならばどうして、その鵺だかなんだかという怪獣であると言えるのか。そう尋ねると、陰陽師・安倍泰成は滔々と語り始めた。


「唐には白鵺という鳥がいるそうです。山海経という書物にありまして、雉のような頭と白い翼と黄色い足を持つ鳥なのだとか」

「いや、それでは貴方のいう鵺とは別ではないか」


 猿の頭も狸の身体も蛇の尾もない。手足が黄色いあたり、トラの手足という要素もあるかもしれないが―――まぁ、いずれにせよ今語られるそれとは違う。

 そう詰問すると、泰成は困ったような顔で汗を袖でぬぐった。


「いやぁ、そうなのですが。うん―――そうなんですよねぇ。無理があったかな」


 などと、何とも煮え切らない言説を繰り返すばかりである。

 頼政はそれに対して、どういうことだ、とつい声を荒げた。帝に根も葉もない、適当なことを吹き込んだのか、と。


 そう、事の始まりは帝の病であった。

 幼帝の寝所である清涼殿に、黒い煙をまき散らし、ひょうひょうという鳴き声とともに夜ごと現れるのだ、という話だった。

 帝を守るための番を用意すると、彼らも確かにそれを見た、と言った。そのいずれもが、バラバラのことを言っている。猿だの狸だの蛇だのという話はそこから来ている。


 なんとも要領の得ない話に公達たちは困惑に見舞われた。その原因を特定する役割を与えられたのが陰陽師・安倍泰成である。彼は過年の九尾の狐討伐で功績をあげたことから朝廷の覚えが目出度い。


 その彼が「それは鵺だ」と朝廷に注進したのである。頼政もその経緯は聞いていたのだが、そんな根拠薄弱な話とは感じさせない、揺るぎない確信を感じさせる語りだったとか。さすがは安倍家の陰陽師、と感心していたのに、蓋を開けてみればこれである。


「あのぅ、説明しにくいところではありますが、決して適当を申しているわけでは」

「しかしですな、話に聞く物の怪とは違うものの名前を言ったわけでしょうが」


 泰成はその言葉に、やはり困ったような顔をする。

 決して適当とか謀ろうとかそういうつもりではない、とそれだけは断言した。陰陽師が言うには、物の怪にはまず名前を付けなければならないのだ、という。


「要は形の無いものだと思うのです。お臥せりになった帝が視たものであり……まぁそういう経験は誰にでもあるものでしょう。熱病にうなされると見えざるものが視える……というようなことはありがちなことです」

「帝の見た夢であろう、と?」

「そうですね。……まぁ、夢とて大切なものです。夢に見たことが現実になったり、逆に先のことを夢に見ることだってあるものでしょう?」

「私には分かりかねる」


 頼政にはわからない。

 彼は熱病にうなされたことなど無かった。夢が正夢になったこともない。夢が現実となるのなら、父も自分も今頃高位についているはずである。が、そのような事実はない。夢は結局のところ、夢に過ぎない、と思う。

 それ以外にしてもそうだ。夜を行く百鬼存在も、死者の祟り、穢れも、多くの人が畏れている。しかし、畏れても畏れなくても人間には吉事も凶事も降りかかるものである。

 摂津源氏も貴族の末席にいる。だから貴族なりの決まり事に従って様々な行事を執り行っているが……頼政自身は、そのいずれにも価値を見出せなかった。


「しかし、ですね。帝が熱病に浮かされて夢を見たのだとしましょう。あるいは実際に弱った帝を襲わんと鳴き声と黒煙が清涼殿に襲い掛かってきた、としましょう。いずれにせよ、起きたことは同じこと———帝がそれを視た、という一点で同じことなのです」


 物の怪を視たり、感じ取ったりする、というのは特殊な能力である。帝がそのような力を持つ、というのならそれを否定することもない。しかし、頼政にはそれは分からない。自分には見たくても視えないものなのだ、という諦めがあった。


「物の怪を討伐する、ということは、つまりは人の感じ方や考え方に納得を与えること、と言いましょうか。とらえどころのない、ただの物の怪……というものを討つことはできませんよ。ひとまず名前という枠で当てはめて、討てるようにすることが必要なのです」


 わかるような、わからないような。つまりは気のせいということではないかと思った。それならば正直に気のせいと説明するべきではなかろうか、と頼政は思う。

 そう伝えると、泰成はやや関心したような、それでいて道理を介さぬ稚児をあやすような声音で答えた。


「頼政殿はお強いのですね。物の怪を意にも介さない。ただ、煩わしい噂として退けている。それは物の怪を相手取るにあたって最も強い力となるのでしょう。……そのような方であるのなら、私も頼政殿の言うように説明すると思います。しかし、多くの人はそうではないのですよ」

「……だから私を討伐に指名されたのか」

「まぁ、そういうところもあります。頼政殿は物の怪を意に介さないのに、しかし縁はあるわけで」


 云々、と陰陽師は小さな声でよくわからない言い訳をつづける。

 わからないと言えば頼政はこの男のことも分からない。おどおどと小心なようで、かと思えば揺るぎない信念や論理をもって物事に対処しているかのようで、かと思えばやっぱり小心であったりする。とらえどころのない、というのなら、この男こそとらえどころがないと思う。


「それで、鵺のことですよ。黒い煙とともに現れる鳥の声であるならば、まぁ普通に当てはめられる物の怪は思いつくわけです。私もこの件を聞いた時は、漢籍にある白鵺などを当てはめて、名前を付けて封じ込めるのが落としどころだろうな、と思っていたのです。しかし番をしたものの証言に猿だの虎だのが入り込んだあたりで、対処するものは大変だろうと同情したものです。……まさか自分のような木っ端役人がその対処に指名されるなどとは」

 泰成は言うが、しかし彼が呼ばれたのは必然だった。なにせ今の帝が帝の位につけたのは、この男の卜占によるものである。彼が皇太子への呪詛を読み解き、その犯人を待賢門院と特定し、呪いを解いたのだ。そうして皇太子は生き永らえ、帝に即位している。そうなると、その帝と周囲のものが彼を信頼するのは当然のことである。


「申、寅、巳……と来ましたので、方位に関する物の怪、乃至神ということにして追儺するということも考えました。しかし、身体はよりによって狸、なのですよね……」


 どうしていいか分から無くなった、と泰成は本音を白状した。


「となりますと、もう言葉通り、夜に鳴く鳥が怪異として現れたのだ、と。そういうことにしてしまうのがよろしいかと思いまして」


 頼政の知る限り、鵺という言葉は夜に鳴く鳥以上の意味がない。確か萬葉集にも何首かぬえ鳥を使った歌があった。


「久方の 天の川原に ぬえ鳥の うら歎げましつ すべなきまでに」


 覚えていた一首を諳んじる。

 久々の天の川を眺めながら、ぬえ鳥のように、ただ嘆くことしかできない……

 伝説に語られる織姫の、切ない恋情に思いをはせた一首である。


「牛郎織女を題材にした歌ですね。どなたのものでしょう」

「柿本人麻呂ですな」


 ほかにもぬえという言葉を用いた歌は何首かあったが、いずれにせよ物の怪の名前として用いられたことは無かった。ただ、ひょうひょうと夜に鳴くその声が、人々の哀愁を掻き立てるのだろうと思う。あるいは、その悲鳴のような鳴き声を不吉と捉えるものもいる。


「……一応、理解はいたしました。腑には落ちませぬが」

「何故です?普通、理解はできずとも、ともかくその物の怪を討つ……という風になるのでは?討伐すれば帝の覚え目出度く、殿上人になるのも夢ではありませんのに」

「そのようなものを私が相手取れると思えないからです。わたしには何も見えないし、存在を感じ取ることもできない。それが強みだ、と言われるが……」


 とても、そうとは思えなかった。

 泰成はしかし、感心した様子で「鬼神を語らず、敬して遠ざける……ということでしょうか」と論語の引用などをする。けして、そういうつもりではなかった。ただただ、自分の仕事ではない、と思っただけなのである。



 自分の仕事ではない、と思った。今でも思っている。しかし、何度も諭され、帝の周囲の者にも頼まれ、頼政はついに断り切れなかった。

 結局、先祖伝来の弓矢をもって夜の都を歩いている。夜を歩き回るうち、そろそろ眼が闇に慣れてきた。

……確かに、この夜に何かがいる、と思う気持ちは理解できないでもない。ただし、その気配の正体は得てして盗賊だのごろつきだの、あるいは夜這いに出かける男であろう、と思う。その、狸とも鳥ともつかぬ怪物ではないはずだ。


 いないものを射ることはできない。だというのに、いないものを射なければならない。そのために御所の周囲をぐるぐると回って巡回している。


 ふと、月を見上げる。

 満月の夜、このようなことでなければ酒の肴にしながら一首詠んだかもしれないが、そうもいかない。不本意だとしても仕事は仕事である。

そもそも、頼政を指名した安倍泰成はどのような落としどころを求めているのだろうか。実のところ、それもよくわからないのだ。


「確かに、鵺は夜鳴き鳥以上の意味はありません。しかし―――帝を騒がす物の怪が現れ、番の者がその姿を見て、私が鵺と名付けた。それによって人々の間で『鵺の如き怪物』の噂が流れています。……噂となれば、それはいずれ実態を得る。それがこの世の道理です。例えば天神様の祟りはご存知でしょう?」


 都に住むものならだれもが知る逸話である。

 かつて大学者かつ知恵者として知られた菅原道真は、摂関家の讒言によって大宰府に追いやられ非業の死を遂げた。その恨みから病と雷を御所にもたらし、多くの人々の命を奪った、という。

実際、過去の記録を見れば流行り病で公達・民問わず多くの人間が死んでいるし、御所に雷が落ちたというのも事実だった。


「あるいは祟道天皇は自身の死によって長原の京を祟りました。それが原因となって今の都に移らざるを得なくなったのもご存知の通りです。……そういうことがあるのですよ。それまで存在しなかったはずのものが、噂となり、凶事と結びついて物の怪として成立する。ならば、わたしに名付けられた『鵺の如き怪物』も現れないとも限りません」

「……しかし、現れなかったらどうすればよいのです」

「その時は……適当に獣を殺して、どこかに塚でも作るしかありませんな。遺体は穢れが酷かったので埋葬した、とでもいえば。その時は私も口裏を合わせますので」

 

 そんなことをなんのやましさも見せずに言う。頼政はそんな嘘を吐くようなことをしたくなかった。ただ適当につじつまを合わせるためだけの行動も。まだ若く、病に苦しむ帝をだますようなことだけは、決してしたくなかったのである。


 とはいえ、嘘をつかないためには鵺が実際に現れてくれなければならない。

 頼政はそんなものが現れるなどとは露とも思っていない。つまり、嘘を吐かなければならないのはもう決まっている。

 供に連れてきた郎党は血走った眼を周囲に張り巡らせている。いつでも刀を抜けるぞ、という様子である。

 郎党、猪草太のそういう様子が恨めしい。彼は純粋に、帝を悩ます怪異が闇に潜んでいると思っている。しかし、本当はそんなものはいないのだ。陰陽師ですらそのように言っていた。


 じんじん、と耳の奥がなり始める。風のざわざわとした声と、かすかな虫の羽音だけが闇の世界を支配している。

 ひょうひょう、というあの声がいつ聞こえるか、井草太も……頼政もかすかに期待している。今であれば決して聞き逃すことはないだろう。その声が聞こえれば。その姿が現れてくれさえすれば。そうすれば、帝の病の原因を滅したことになる。頼政が嘘を吐く必要もなくなる。鵺が現れてくれさえすれば――――


 そんな、諦めと期待を半々ずつ抱いていた折、ついにひょう、と声がなった。

 ぬえ鳥の声。

 闇夜になる鳥の声。


「いまのは―――」


 草太が小声で声を漏らす。

 頼政は何も答えなかった。肯定とも否定ともつかない態度である。頼政自身は嘘をつきたくなかったからそのようにしたのだが、草太はその沈黙を機会を伺っていると解釈したようで、鞘から刀を抜いて臨戦態勢に移っていた。


 ぬるり、と。闇夜に動くものが視界の端をとらえた。

 いた―――!

 本当に、陰陽師の言う鵺なのかはわからない。鳥なのか、申なのか狸なのか、はたまた人間なのか。いずれにせよ、この時間に闇夜を行くものがいることは間違いがない。


 矢筒から矢を取り出し、弦にかけ、引き絞る。

 闇夜に感覚を研ぎ澄まし、狙うべき敵を探す。


「そういえば、源氏には代々伝わる弓矢があるとか」


 陰陽師の言葉を思い出す。

 彼は摂津源氏が誇る宝弓のことを言っていた。

 かつて都の守護を藤原摂関家から頼まれていた摂津源氏の棟梁・源頼光が夢の中で授けられたものである。春秋戦国時代、楚国の弓の達人であった養由基という人物がいた。強弓使いとして知られていた彼は、自分の弓を託すべき人物を探し続け、700歳にして亡くなってしまったのだという。死の間際、彼は娘にその弓を託した。その娘から、頼光が夢の中で授けられたものであるらしい。銘を雷上動、と言った。


 その由来を陰陽師に教えると、彼は「おあつらえ向きですね」と言った。良いものがあった、というような様子である。


「かの頼光公が夢の中で楚の国の弓の達人から弓矢を授かった一品。それはつまり、夢の世界から現世に現れたものです。あるいは、常世から現世へ境界線を越えてやってきたもの、と考えることもできる」

「……つまり、何が言いたいのです」

「つまりですね、そういう物の怪を相手取るに、ふさわしい武具をお持ちである、ということです。臆することはありません」


 臆してなどいない、と反論してやりたくなった。

 ただ、自分の仕事ではない、と思っているだけなのだ。


 頼光は夢の中で弓とともに二本の矢も授かっている。

 水破と兵破、と名付けられていた。水破は漆黒の鷲の羽をはいており、対する兵破は山鳥の白い羽が用いられている。

 この二本は養由基に化身した文殊菩薩の眼によってできている、とも伝わっている。文殊菩薩の名前くらいは頼政も知っていた。般若波羅蜜を唱えた天竺の僧である。般若―――智慧とか思考―――に実態など無く、一切は即ち空である、と文殊菩薩は語ったのだという。


 その、偉い菩薩の瞳の力がこの矢には込められているらしいのだ。


「あるいは真実を見極める力がある、ということかもしれませんな」


 これも陰陽師の言葉だ。

 どういうことだ、と頼政が質すと、「今でこそ仏の教えと陰陽道に違いはありませんが、天竺における仏の教えは、もう少し違っていたのだと思うのです。断片的に読み取れるものからすると、おそらく仏の教えは物の怪やそれを祓う儀式と言ったものを認めていない。いや、それすら空である、と定めていた。般若経に記されていることはまさしくそういうことです」


 それゆえに、物の怪を祓う力があるのだ、という。


「人の畏れる心こそが物の怪の正体であるのなら、その畏れを空である、と定めることで物の怪を追儺する。そういう、文殊菩薩の唱えた般若波羅蜜多を体現するような力がこの弓矢には込められているのかもしれません」


 わかるような、わからないような話だった。

 それを言うなら、文殊菩薩なる僧が自身の眼の力を弓矢に込める、などということ自体が超常のことではないか。その二つにどのような違いがあるというのだろう。


 ともかく、そのうちの漆黒の一本が弓手に引き絞られている。

 ひょう、と聞こえた場所を睨みつける。そこに狙いを向け、意識を集中させた。

 頼政の頭の中に浮かぶ疑問や不可解さといった様々な思考を打ち切る。ただ、弓を構えて、射るべきものを狙い撃つことに専心する。


 今の頼政にとって、それだけがすべてだった。

 鵺など知らぬ。もののけなど知らぬ。文殊菩薩の功徳も知らぬし、先祖が授かった弓矢のことなども全く知らない。

 ―――ただ、弓張月の明かりだけを頼りに、射るべきものを射る。


 弦はからん、と鳴り、矢は風を切って夜の闇を駆け抜ける。

 それはいずれも耳に心地良い爽やかな音だった。

 駆け抜けた矢は弓なりに飛んでいき―――やがて何かに的中した。


「あ、当たった―――!」


 郎党が思わず喝采を挙げる。

 頼政にも草太にも、矢が何かに的中した手ごたえがあったのだ。

 当たった何かは音を立てて地面に堕ちた。続けて路上の土を擦る音が鳴り始める。


 何かにあたったのだ。夜の京の空を飛ぶ、ヒョウと鳴く何かに。それが落ちているのは事実だった。


「頼政様、私が行きます―――!」


 草太は言うが早いか、自身の刀を引き抜いて、その落ちた何者かへと駆け寄っていった。

 手にした短刀でもってその獣の首を掻っ切る。ほとばしる鮮血が闇の中に香ってくる。


「これは―――」


 その、首を掻いた草太が困惑とも嫌悪ともつかぬ声を挙げた。

 どうした、と頼政が問う。


「猿―――猿です!噂通り、猿の頭だ!」


 何、と頼政も遅れて駆け寄った。

 夜の闇の中、頼政も顔を撫でる。

 嘴は無い。皺の刻まれた、やわらかい―――まるで生まれたばかりの赤子か、あるいは死ぬ間際の老人を思わせる容だった。死んではいるようだが、まだ生暖かい。頭からほほにかけて、毛髪がふさふさと茂っている。


 ならば、と体を撫でれば確かに狸のようであり、足を撫でれば―――実際の虎を見たことはないが―――どこか猫のようなしなやかさがある。少なくとも、鳥の足ではない。ならば、尾は蛇か。

 草太には尾に噛みつかれないよう気をつけろ、と指示を飛ばす。郎党はその言葉に従い、慎重に肉に刃を立てる。

 うわ、と草太が叫ぶ。遅れて頼政の足元を、なにかぬらりとしたひも状の何かが蠢いて去っていった。

 

 頼政の額に汗が一筋垂れる。同時に、心の蔵は囃子のように高鳴った。

 まるで、まるでこれでは―――噂の怪物が実在するかのようではないか。


 陰陽師は言っていた。鵺の如き怪物など知らない、と。

 同時に、彼は言ってもいた。噂となった時点で、それはもう存在しているのだ、と。


 そんなことがあるものなのだろうか。そんな、面妖なことが。

 先ほどまで無かったものが、次の瞬間にはある、なんて。そんなことがあっては―――信じられるものなど、何もないということではないか。


 心臓の高鳴りはなおも強まり、その血のめぐりは頭へと駆け上がっていく。耳の奥に虫でも入り込んだかのように、ぐぐもった音が頭蓋の内に鳴り響いていた。




「大手柄ですな、頼政殿!色々と話は伝わってきておりますよ。左大臣殿への返歌が、それは見事であったと。なんでしたか―――」


後日、陰陽師の元に出向くと、無邪気な歓声を頼政に向けた。

ほととぎす 名をも雲井にあげるかな 弓張月のいるに任せて―――と、左大臣の上の句と自分が返した下の句を目の前で詠って見せると頼政は喜んだ。恩賞となった刀も佩いていたので陰陽師に見せると、彼はなおさら喜んだ。


「獅子王、でしたか?ははぁ、これは見事な―――」

「陰陽師殿は刀にも興味がおありか?」

「ええ。自身の武具というよりは、帝の即位の際に奉ずる霊剣―――大刀契の鋳造に陰陽師が関わることもありますので。例えばかつて御所ともに大刀契が焼けてしまった際、安倍晴明がその復元を仰せつかった例が日記にも残っております」


 まぁ、鍛造された刀と鋳造する剣では勝手が違うでしょうし、私のような安倍の末席が行うことも無いでしょうが―――そう言いつつ、それでも彼は波紋輝く獅子王を眩しそうに眺めた。


 不思議な男だ、と思った。

 自分の役目に自信が無いようでいて、しかし役目に対する責任と情熱は持っている。自身の行う呪いや卜占をまるで信じていないかのようでいて、しかし確かに信じてもいるのである。


 そんなことで生きていけるのか。そんな不安定な場所にいて、彼は苦しくないのだろうか。彼のいう物の怪の理―――噂とか畏れとか、そういう形の無いものによって何かが生まれるのなら、次の瞬間にすべてがひっくり返ってしまう可能性だってあるはずなのに。


「泰成殿―――その、この件の始末なのだが」

「ああ、船に乗せて流す、という件ですな。ご安心召されよ。すでに朝廷にも注進いたしました。対処としては、そのあたりが宜しかろうと」


 すでにそのための丸木船を頼政は用意している。あとは朝廷から命令を受けるのを待つだけである。事前に陰陽師が、そのような成り行きとなるであろうことを伝えてきていたからだった。

 残ったものは猿の首と、首と尻尾が切り落とされた巨大な狸の死体だった。

 確かに、つじつまは合う。しかし―――その、死体の欠片自体は、そう珍しいものでもない。猿の頭も、肉がそぎ落とされた狸も、あるいはあの時蠢いていた蛇も。それ自体はありふれたものだった。名前の由来となった鵺の如き声も、落ちた後の頸ではもう聞くこともできない。ありふれたものが一体となって夜の京にいたからこそ、それは面妖だったのである。残ったものは、ただの肉の塊なのだ。


 だから、それこそ熱病に浮かされた云々の話ではないが―――そういう、夢とも現ともつかぬ何かを見ていたのではないか。そんな疑念が頭の片隅に残っている。


 しかし、同時にあれは本当であった、ということも確信している。月明かりを頼りに射た矢も、その時感じた手ごたえも残っている。郎党も確かにそれはあった、と言った。鵺の落ちた時の興奮、その肉をそぎ落とす悍ましさ―――どちらも確かに覚えているのだ、と。


「泰成殿」

「はい?」

「貴方は―――」


 どうしてそんな、平然とできるのか?不確かなものしかない現世を、どうして生きられるのか。そう問いかけたくなった。

 頼政にとってすれば、歌と武と政治に生きれば、物の怪のことなど考えなくてすむ。その世界に先ほどまで無かったものが急に現れるなんてことは無いはずだ。物の怪と関わらない、考えないようにすればいい。

 しかし、陰陽師は違う。不確かなものしかない世界で、不確かなまま生きている。特に目の前の男は、その不確かさを隠そうともしない。


「このようなことをいつもやっているのか」

「はぁ……まぁ、この間は九尾の狐の追儺などもさせていただきましたし、こういうこともありますが。しかしいつもというわけでもありませんよ?吉兆を占い、暦を定める―――ああ、思い出すだけで腑が痛みます。本年ももう四月も経ってしまいました。師走まであっという間でしょうねぇ……そのころになりますと、次の年の暦の編纂でてんやわんやで……」

「不確かなものを相手取る、というのは苦しくないのか」

「……不確かなもの?暦のことでしょうか?」

「暦はあるでしょう。具体的な方法までは存じ上げないが……星の動きを読めば作れる。いわば技だ」

「いえ、そういうわけでもありません。暦など人間の頭の中にしかないものの筆頭でしょう。……その、頼政殿だって似たようなことをしてらっしゃいますでしょう」

「私が?」

「和歌ですよ。言葉や歌など、人間や神の間にしか無いものでしょう?それはまぁ、こういう言い方をしては何ですが……まぁ頼政殿なら大丈夫でしょう。これもまた不確かなものです。あなたが和歌を詠えば、それまでこの現世に無かった情景とか言葉が生まれる。旋律が生まれるわけで」

「……しかし、件の下句などは、私が視たものを歌にしたもの。決して空から生えてきたものではない」

「その、頼政殿は鵺を射かけるときにその句を思いついていたのですか?今の情景は歌にできそうだな……というような」


 そのような余裕はなかった。

 ただただ、思考を無にして、目の前の物の怪を打ち落とそうとしていた。


「つまりは後から思い出した、ということでしょう。過ぎ去った時は、これは確かなものでしょうか?」

「それは」

「根本的に、それは物の怪と同じです。人々の言葉から生まれる、という意味で言えば、物の怪も和歌も同じこと。無いものを、さもいるかのように感じさせる―――それこそが言葉の持つ霊験だと思うのですよ」


 和歌と同じ。

相変わらず納得はできない。そのような不確かなものを用いているつもりもない。ただ、この男にとっては同じものであるらしかった。

 納得できないまま、自分はそれに近づくべきではない、という漠然とした直観だけが頭をよぎる。きっと、関わりすぎてもよいことは無い。自分はそうしたものに近づくことなく―――現世にのみ生きていると錯覚したまま、生きるべきなのだと。


 その願いは叶わない。頼政はそういう星の下に生まれている。しかし、その事実は頼政はおろか、陰陽師すら知らぬことである。

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