聖職者 6

 ――カランコロン


 男は次の日早くよろず屋うろん堂の扉を開けた。今まで幾度となくその商店街の道を通り歩いて来たのにもかかわらず一度も立ち寄る事がなかったうろん堂へ、男は迷う事なく来たのだった。女店主が優しく声をかける。


 「あら、まぁ昨日のお坊さま。本日はお仕事ではないようで?」


 女店主が店の奥のカウンターから初老の男に気づき声をかける中、男は、ひなびた合皮の黒い鞄を胸に抱き、女店主の方へと近づきながら恐る恐る尋ねる。


 「あの……。開店時間には早かったですか……?」


 女店主は初老の男の方を向く事なく何やら書き物仕事をしながら口元だけは緩ませ、


 「いいえ、このお店は時間という概念がございませんもので、お気になさらず」


 と言った。男はその言葉に訝しげな顔を見せたが、それでも女店主に何か用事があるようでカウンターまでの道のりをゆっくりと歩き、


 「あの……」


 と声をかけた。女店主は手に持っていた万年筆をすぐそばに置き、その手が汚れていないかを確認するそぶりを見せながら、萌黄色の着物の襟を正して男をその場から見上げ見た。


 「あの……」


 男は口を開くが、その先の言葉はすぐには出てこないようだ。


 「あの……」


 女店主はその先の言葉が出るまでいつまでも待ちますよというかのような面持ちで初老の男を飴色に光る年代物のカウンターの中から見上げている。


 「あの……」


 「はい?」


 女店主は男がそのまま時間を過ごす事を許している。しかし、その次の言葉もまた必要としている事を知っているようだ。


 「あの……この戯曲集なのですが……」


 男が昨日の戯曲集を鄙びた鞄からそっと取り出す。私は聖職者である住職に最初興味を持ったが、果たしてそれは仏の道に入っているということだけで聖職者であると言えるのであろうかということへと興味は移った。だからこそ、この男に興味を持ったのだ。果たして職業と言うだけで聖職者と言えるのだろうか、と。そしていよいよその時が来るようだ。私はその男の背後で待ち構える。来るべきその時を。


 「この、戯曲集をここに持ち込んだ人は……誰なのでしょうか……?」


 馬鹿な事を言うなと私は思う。今更誰が持ち込んだかは重要ではない。だがしかし、この男はそう思いたいのであろう。過去の自分の罪を忘れる事なく体験してしまった今となっては、それさえも、その体験さえも夢の中だと思いたいのだろうか。女店主は先ほどとは違い、口元をキュッと引き締め、


 「さぁ、どなたでございましょうか、私には今となっては分かりかねます」


 とだけ言った。初老の男は、俯きながら戯曲集を胸に抱き、


 「では、私にこれを売っていただけませんか?」


 と言った。私はそれには納得できない。そんなくらいの深みの味わいでは満足できないからだ。すると、それを察したかのように女店主が初老の男に言う。


 「それはあなた様にはまだ相応しくない品のようです。その物はあなた様の過去の痛みを忘れる事なく味会う覚悟ができてからしか、どうやらお売りできません品物でございます」


 と言った。初老の男は一瞬その言葉にたじろくような表情を見せたが、


 「私は自分の中にある過去の罪と向かい合いたいのです。だからこそ、これを私に売ってくださいませんか」


 と言った。私は深い闇のそこから、これこそはと舌を伸ばした。過去の罪悪感、その罪の重さ。それを忘れて生きていては幸せな人生は送れないであろう。罪は消えることはない。一度自分が犯してしまった罪は消えることはないからだ。どうやらやっとこの男はそれに気づいたようだ。


 「私は自分の犯した罪を忘れることなく、その罪の意識を抱えて生きること、そんな想いの人が出ないようにこれからの未来を創ること、それが贖罪だと思って生きていきたいのです」


 男がそう言うがはやいか、私はその長い舌で男の感情を舐めとった。


 忘れ去りたい自らの罪への罪悪感。何年も押し殺してきた暗い封印の味。

 それは一見苦味があり特段おいしいと表現できる物ではないだろう。

 だが、それがあるからこその未来は深みある世界になる。


 それは味わった人にしかわからない味わい。

 そして同じ過ちを繰り返さないと言う決意の味わい。


 本日もご馳走様でした。と、今はしておこうか。


 

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よろず屋うろん堂 和響 @kazuchiai

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