最終話

「ねぇ先輩、覚えてます? あの『青い壁』」

「ああ、あの広場の」

「あの壁、取り壊されなくなったらしいですよ。新しいマンションのシンボルになるんですって」

 俺たちはイーゼルを並べて、描きかけのキャンバスを置いた。パレットを持ち上げて昨日の続きに取り掛かる。

 この前入ったばかりの新入部員はまだ来ない。HRが長引いているのだろうか。

「嘘だろ。なんでまた」

「こんな芸術作品を壊すわけにはいかん。この作品は将来世界を震撼させるものだ。と現場監督が言ったとか言ってないとか」

「現場監督見る目あるな」

「先輩って意外と大物ですよね」

 桜沢はキャンバスに黒に近い青を運びながら笑う。

 相変わらず多様な青で描かれた彼女のキャンバスを見て、何もない広場にある『青い壁』を思い出した。

 螺旋状に泳ぐ青色の魚の大群。

 そして、その端に付け足すように描かれた一匹の猫。

「私、先輩と同じ大学に進みます」

 彼女は唐突にはっきりとそう告げた。

「先輩の作品をもっと見たいですし、私の作品をもっと見せてあげたいんです」

「大学は部活とは違うぞ。そう簡単に辞められるもんでもない」

「変わりませんよ」

 キャンバスから筆を離して、後輩はこちらを向いて微笑んだ。


「先輩のいる場所が部室ですから」

 

 そう言って彼女はもう一度キャンバスに向き直った。

 俺も再び筆を動かす。

「……お前は変わってる」

「先輩に言われたくありません」

 窓を背にする彼女はもういない。背景になれない青空は美術室を明るく照らす。

「にしても、よく戻ってきたよな」

「だってあんなのずるいじゃないですか。私の好きな人が私の好きな色で絵を描くなんて発狂ものですよ。奮い立たないわけない」

「いや大袈裟だろ――え?」

 彼女の言葉を遅れて理解して、俺は言葉を失った。

「あらら照れてるんですかー?」

 からかうように彼女は笑う。

 しかしちらりと横目で見ればその横顔は耳まで真っ赤に染まっていて、俺は少しだけ笑ってしまった。

「はー、いい天気ですねえ」

 桜沢は窓の外を見ながら、赤らむ耳を隠すように筆を持ったままの腕で大きく伸びをする。

「踊りましょうか、先輩」

「ダンス部に行けよ」

 楽しそうに笑う彼女を見て、俺は小さくため息をついた。



(了)

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歌う魚と踊る猫 池田春哉 @ikedaharukana

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