第7話

「先輩こんなところで何してるんですか」

「部活って言っただろ」

「私、辞めたんですけど。部も術も」

「知ってるよ。だから今日はこれだけ言いに来たんだ」

 広場の入口で待っていると、桜沢は少ししてやってきた。久しぶりに見た彼女は私服姿で少し呆れたような表情を浮かべている。

「なんですか言いたいことって」

「ああ、ついてきてくれ」

 そう言って俺は広場の中へと足を踏み入れる。砂を踏む音で、彼女が後をついてきているのがわかる。

「これから俺はすっごい画家になる」

 後ろまで届くように言いながら、俺は進んでいく。

「いろんな美術誌に取り上げられて、テレビには引っ張りだこで、世界中にファンができて、世界中の賞を総なめにして、たくさんの美術館に俺の絵が飾られて、俺展が開かれちゃうくらいの、そんな画家になる」

 真っ直ぐに目的の場所へ向かう。

 この広場にあるものなんて、ひとつしかない。

「そうなると学生時代の作品も引っ張り出されるだろうし、沢山のインタビューを受けることになるだろう。例えばこの作品では、こう言ってやろうと思うんだ」

 不意に、足音が聞こえなくなった。

 俺は振り返る。

 彼女はもうこちらを見てはいなかった。


「『これは昔、一人の後輩から影響を受けた作品です』」

 

 青のタイルが敷き詰められた大きな壁。

 そこには様々な青色で彩られた、無数の魚の群れが描かれていた。

「……なんですか、これ」

 彼女はその『青い壁』を真っ直ぐに見つめながら絞り出すように言った。

 統率の取れた青色の魚群は緩やかに螺旋を描きながら、天頂から差す光へと昇っていく。

 楽しそうに、歌うように。

「壁画だよ。どうせ取り壊されるからいいだろ」

「そうじゃなくて。でも、だって、なんで先輩が青だけで」

「青は本当に綺麗な色だって教えてもらったから」

 彼女は俺の色遣いが好きだと言ってくれた。まるで世界に色があることを祝福するようだと。そんなの、こっちのセリフだ。

 説得する気はない。別に彼女を止めようなんて思わない。

 それでも離れてしまう前に、これだけは伝えておきたかった。

「俺はお前の描く絵が好きだよ」

 激辛な世間はいつだって個人の尺度で他人を測る。

 そのものの価値は見る人に委ねられる。そんな中で一つのものを愛し続けるのはどれほど難しいことだろう。

 それでも彼女が絵を描くことに出会って、笑って泣いた日々は無駄じゃない。俺だけはそう言える。

 だって。

「こんなに、心動かされた」

 好きなものを好きなままでいることも難しい。

 こんな世知辛い世の中で。


「素敵な絵を描いてくれてありがとう」


 俺の言葉を訊いて、彼女は何も言わなかった。

 そして少し経ってから、ゆっくりと歩を進める。すれ違いざまに一度だけ俺の目を見て、そのまま俺を越えた先の『青い壁』に手を伸ばした。

「……初めて会った時も思ったんですけど」

 彼女はタイルとタイルの狭間、青色の境界を指先で静かになぞりながら、ぽろぽろと涙のように言葉を零す。

「先輩は、本当に」

 夕風に彼女の黒髪が揺れて、わずかに覗いた横顔は微笑みを湛えていた。

「歌がお上手ですね」

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