第6話


 パレットにアクリル絵具を乗せる。 

 筆を水に軽く泳がせ、色を溶かして運ぶ。


 久しぶりだな、と思った。

 彼女に出会う前はいつもこんな風に一人で静かに絵を描いていた。やっていることはずっと変わらないはずなのに、懐かしいなんて不思議なものだ。

 あれから二週間、桜沢が美術室に姿を見せることはなかった。目の前のキャンバスにいくら色が増えても、窓際の椅子は音を鳴らさない。

 彼女はもう美術室には現れないかもしれない。それだけで学年の違う彼女と交わる機会は完全に失われてしまった。


 筆を動かし、曲線を描く。

 弧状の軌跡が連続して形を成す。


 このまま自分は卒業して、二度と彼女と話すことはないかもしれない。

 そんな思いがよぎった時、俺は彼女に大事なことを伝え忘れていたことに気付く。そして気付いてしまったら、動かずにはいられなかった。

 切り取られていない空はまだ明るい。

 最後の線を描き終えて、俺は筆を持ったまま立ち上がる。

 そしてポケットからスマートフォンを取り出して、唯一の後輩の名前を選んだ。

『え、どうしたんですか先輩』

「外を見ろ」

 壁越しに見える緑の屋根の、カーテンが開く。


「部活の時間だ」

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