第5話

「朝、食パンにジャムを塗るのが人間の一番身近な芸術だと思いませんか?」

「俺はマーガリン派だ」

「私はごはん派です」

「なんだこいつ」

 窓際の椅子の背に手を乗せて立ったまま桜沢は言った。時折、開いた窓から夏を忘れさせるような冷たい風が流れ込んでくる。

「芸術っていうのはそんなに特別なものじゃなくて、誰がいつ始めてもいい気軽なものだよってことです」

「まあそれはわかるけど、急になんだよ」

 乱雑に絵具が仕舞われた箱の中から朱色を探しながら訊くと、彼女はその真意を告げた。

「美術部に新入部員が入って来るそうですよ」

 さっき先生が言ってました、と彼女は続けたので間違いない情報なのだろう。

「こんな時期に? もう秋だぞ」

「本当の入部はもう少し先らしいですけど、まあおかしいですよね」

 そして、彼女は口だけで笑ってこう続けた。


「でももっとおかしいのは、絵も描かないのに美術室に通ってる幽霊部員ですよ」

 

 風は止み、椅子は鳴らない。

 一瞬だけ時間が止まったかのように音が消えた。

「……先生がそう言ったのか」

「私がそう思ったんです。こんなやる気のない人が出入りしてたら、きっと純粋に絵が描きたい人の邪魔をしちゃうだろうなあって」

「邪魔って」

「邪魔ですよ」

 ぴしゃりと言い切られたセリフを否定することができず、俺は口を噤む。

 その様子を見た彼女は小さく苦笑した。

「だから今日はこれだけ言いに来たんです。――先輩、美大に進むんですよね」

 椅子の横に立ったままの桜沢と目が合う。

「じゃあそのまますっごい画家になってください。いろんな美術誌に取り上げられて、テレビには引っ張りだこで、世界中にファンができて、世界中の賞を総なめにして、たくさんの美術館に先輩の絵が飾られて、先輩展が開かれちゃうくらいの、そんな画家になってください」

 たん、と彼女の上履きが床を叩いた音がした。

「ここに来なくても、先輩の絵が見られるようにしてくださいよ」

 そんな言葉を残して彼女は美術室を出て行く。

 窓枠に切り取られた鱗雲は背景になれないまま、ただ静かに揺蕩っていた。

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