働く夫婦の、ある夜のこと

くろぶちサビイ

『フランス革命前夜、花屋の娘シモーヌは…』

 これは1970年代に放送された少女向けアニメの冒頭ナレーションである。

 きちんと見ていた訳ではないのに、私はなぜかこのアニメを忘れることができない。

「初めのほうのストーリーしか覚えてないんだけど」

 休前日の23時。私は夫の肩にもたれかかって、テレビを見ながら二人で焼酎のお湯割りを飲んでいた。

 テレビで今、そのアニメを放送している訳ではない。全然別の番組だ。

「ネットで調べたら、意外とストーリーが難しそうな感じで…。幼稚園児が途中で脱落したのは無理なかったかもしれない」

「ふうん」

 テーブルの上には、おつまみや果物が並んでいる。休日の前の夜とはいえ、こんな時間まで飲食するのは久しぶりだった。

 私達夫婦は、二人とも50歳に近い。

 健康診断にちょこちょこと「要注意」が出てくる年齢だし、若い頃と比べると食欲も消化能力も落ちている。

「主人公のシモーヌは、敵と戦うために剣の訓練をさせられるんだけど」

 夫は優しい。内心ではテレビを見たいと思っているだろうに、私の話しを大人しく聞いてくれて(いるふりをして)いる。

「剣の訓練はとっても厳しくて、シモーヌは泣いたり、怪我もしてたような記憶がある」

 剣の練習は、こっそりと夜の間に、暗く冷たい練習場で行われた。

 一日を終えた夜は、暖かい布団の中ですやすや眠っていたいだろうに、主人公のシモーヌは、夜な夜な辛い鍛錬を積んで、みんなのために悪い敵と戦って勝たなければいけないのだ。

 幼い私は、自分があんなことをさせたられたら嫌だなあと、思いながら見ていた。

「主人公は大変だね」

 夫が言ったので、私は頷いた。

「本当に大変だよね」

 テレビがコマーシャルに切り替わった。私は抑揚のない声で、夫に重い告白をした。

「私、次の異動でチームマネージャーに昇進するって」

「あ、そう。おめでとう」

 夫は当然のことのように、その言葉を言った。

 私と夫は同じ会社に勤めている。夫は私より先に昇進して、もう何年もチームマネージャーの経験がある。

 配属先は別だ。うちの会社では、配属先が違えば、仕事上での接点はほとんどない。

 でも、当たり前だが人事制度や風土は同じだ。私達夫婦は、同じ土壌で働く者同士である。

 私の胸の中には、理不尽な怒りがこみ上げてきていた。

「何でそんなこと言うの?全然おめでたくなんかないっ」

 発作的にポロポロと涙が流れ出した。

「……年を離して、もう一人産んどけば良かった…」

 私達には、今年で二十歳になる子供が一人いる。今は友達と泊りでどこかに行っているが。

 うちの会社は、「正当な理由」というものがあれば、昇進をとめることができる。

 もう一人、小中学生あるいはギリギリで高校生の子供がいたら、子育てに専念したいという理由が成り立つのに…。

「私、これ以上うまくなんかできない…今が精一杯のパフォーマンスなのっ」

「初めはみんなそう思うよ」

 こう言われて、私は夫を睨んだ。気楽な慰めが気に障ったのだ。

「私、会社辞める」

「うあ?」

 夫は、あきれているというか、ちょっと面白がっているような顔になった。ヒステリックに涙を流す私の顔が凄かったのかもしれない。

「同期の女性でチームマネージャーになってる人なんて、いくらでもいるだろ。もっと上のシニアマネージャーやマネジメントパートナーになってる人だっているのに、何を今さら騒いでるんだよ」

「だって…」

 涙はとめどなく溢れ出ていた。

「辞めたきゃ辞めればいいよ。でも…」

 夫は意地悪そうな目で、私の顔を覗き込んだ。

「何だかんだ言って辞めないだろうね」

「そ、そんなことない」

「嘘つけ。じゃあ、さっさと辞めてみろよ」

 漫画やドラマの主人公でもないのに、会社や会社にいるみんなのために頑張るなんて、どうして他の人達はそれができるんだろう。

 慣れた仕事を、できるくらいの量だけやって、のんびりと働くことが許されないのはなぜなんだろう。

「絶対辞める…辞めるんだから…」

「へいへい」

 私の咆哮と、夫のいやらしいニヤケ笑いは、明け方まで続いた。

 夫は優しいのかもしれない。眠いだろうに、泣きわめく私に明け方まで付き合ってくれたのだから。

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