魔術師サトウとかいう性格悪い女と私


 格闘家のヤマダが黙って開けた宝箱は爆弾罠だった。

 ヤマダは素早い身のこなしで逃げ出し、爆風が私へ直撃する。

「サトウ、悪いがヒール頼む」

「お任せあれ」

「えっマジで」

 信じられない。あの人間バジリスクこと魔術師サトウが素直にヒールを……。

「実はそれ、この私のおかげなんですよ」

 無傷のヤマダが私へ耳打ちする。

 馬鹿め、私は素早くヘッドロックをかけた。

「割れちゃうっ! 頭蓋骨割れちゃうからっ!」

「安心しろ、お前がサトウに何をしたか口を割るまで割らん」

「どっちを!? 割るとか割らないってどっちの方!?」

 ヤマダの頭が私の腕と胸の間でミシミシと鳴っている。ブレストアーマー越しなので痛さも割り増しだろう。

 そして私が解放すると、ヤマダは語りだした。――催眠術について。

「お前、催眠術なんて使えたのか」

「合間を見て修行していましたから」

「そういえば、格闘家にしてはいつも本を読んでいると思ったが、魔導書だったのか」

「いえ、私が今読んでいるのは『ヤンレズ白書』という本です」

 ……ヤンレズ? 知らない言葉だ。病的に愛してくる人物を指す『ヤンデレ』なら知っているが。

「それで、具体的に催眠術で何をできるんだ?」

「まあ、ちょっとしたことだけなら」

 少し離れた所で、サトウは傷ついた私のマントを補修している。同性ではあるが、地面に座り込んでお裁縫する姿は正直言って可愛らしい。

「あれが”ちょっと”か?」

「この私にも流石に限度があります。個人が持つ元々の性質や欲求を引き出す程度ですよ」

「性質や欲求ねぇ。解除はどうする?」

「解除方法は『手を三回叩く』です」

「ずいぶん簡単だな。ところで、これからさらに修行しても新しい性質とかは与えられないのか?」

「え? ああ、同性愛はいけませんよ。非生産的です」

「私は百合じゃないっ!……ん? 修行していたと言ったが、誰相手にだ?」

「簡単ですよ」

 ヤマダは懐から一枚の手鏡を取り出した。

「眠れ~。グゥ……」

 バタリと倒れ寝息を立てはじめるヤマダ。嫌な奴だが、結構すごいな。

「あなた、イビキがうるさいんですよ~。催っ眠っ。ムニャムニャ……」

「夢の中から真相を伝えるんじゃないよ!」

 催眠術。大した技術だが、使い手がこんな奴ではな。

 まあ、イビキのことはすまないと思うが。

「ヤマダ、寝たの?」

 いつのまにか私の後ろにサトウがいた。

「こいつはもう放っておこう……。マント、ありがとうな」

 私はサトウからマントを受け取った。

「ねぇ、そこにキレイな水場があるらしいんだけど、念のため確かめに行かない? ヤマダは結界に入れておいてさ」

 私はサトウが地図職人から買ったという地図を思い出した。この近くの少し分かりにくい場所に水場があったと記憶している。

 そういえば、地図上の水場の箇所へ『二人組向け!』と書いてあったが、『そこそこ狭い』という意味なのだろうか?

 サトウの魔術で結界を作れば、寝ているヤマダが何者かに不意をつかれることはないだろうが……。

「行かないの?」

「ああ、飲み水は充分ある。それにちょっと遠いかな」

「水浴びとかは? あなたも女だし」

「女?」

「そう、女」

 これがあのサトウか? 私の知るサトウは私を女扱いしない。宿帳に『人間トロール』と勝手に書かれたこともある。

 それでも、サトウとは腐れ縁で何度もパーティを組んでしまう。仲良くしてくれるならそれに越したことはないが、この感じはなんか嫌だ。私を色恋の対象として接してくる女たちと同じ気配がする。

 ヤマダは自分の催眠で引き出すのは『個人の元々の性質や欲求』だと言っていた。

 だとすると、サトウのこの態度は……。まさか私のことを……。

 いや、友情あまって愛情百倍ということだろう。そうに違いない。

 よし、催眠を解こう。手を三回叩く、だったな。

 叩くのは自分の手か、サトウの手か。まあ、両方とも試せばよいか。

 私が手を叩こうとしたその時、サトウが私を抱きしめた。

「ほ・ば・く」

 サトウが小さくつぶやく。まずい、これは短縮呪文だ!

 私の体を一本の細い鎖が縛る。両腕ごと胸のあたりを縛られただけだが、これは魔力の鎖だ。

「サトウ……! 全っ然動けないんだけど……!」

「どこも動かせないでしょう。そう、首から上以外は……ね」

 サトウの言う通り、体は麻痺したように動かない。だが力を加えれば魔術による呪縛とて破れるはず!

「おりゃあっ!」

 脱出するべく腕に力を込めると、わずかに魔力の鎖が広がった。

 いける!鎖からミシミシと音が聞こえる。

 ヤマダの頭蓋骨と違って、こちらに手加減する必要はない!

「捕縛」

「ぐあああっ!」

 まあ、そりゃこうなるわな!

 サトウが再び唱えた呪文は、魔力杖を手に持っているせいか、より太い鎖を作り出した。

「そんなに痛かった?」

「いや、どちらかというと精神的ショックがでかい」

 そう答えると、私を見下ろすサトウがニヤリと笑う。

 背後に闇のオーラが見えそうなほどの邪悪な笑み。そしてその眼差しは、獲物へ食らいつく寸前に獣がする眼だ。

 私は冒険者。この稼業、意外と恨まれるのだ。ダンジョンでモンスターや罠だけを相手にしているわけではない。無法者たちと刃を交えることもしばしばだ。

 私がかつて捕らえた山賊や盗賊の残党がまさか……!?

「思い出したぞ! ユリカップル山の山賊ハサマリテーの娘! お前がそうなのか、サトウ!?」

「えっ、誰……?」

「じゃあ、ユリデート海の海賊オレモ=マゼテの妹か!? 全然日焼けしないところが似てる!」

「……」

 サトウは屈んでじっと私を見ている。やはりマゼテの一族なのか!

「日焼けしない海賊って面白いね。もっと聞かせてよ。あなたの話」

 なんだそのキラキラした眼は。どうやら、私とサトウに血生臭い因縁はなかったようだ。

 しかしなにか雲行きが怪しい。とにかく、催眠を解かねば。

「ヤマダ! 起きろ! 催眠を解け!」

「ムニャ……」

「ヤッ、ヤマダァッ! お前のヤンレズ烈伝をモンスターが指に唾つけながらめくっているぞ!」

「ムニャ……。静まれ、人間トロール……」

「お前も私のことそう呼んでたのかよ!? 私もサトウに変なあだ名つけてたけども!」

 ヤマダからそれ以上の返事はなかった。嫌な静寂が訪れる。

「ねぇ、催眠ってなに?」

「……ヤマダがお前に催眠術をかけたんだよ」

「私、以前と比べて別人みたい?」

「そうだな。別人みたいだ」

「それじゃあ、今の私のことはどう思う?」

「……パーティとして、うまくやっていけるかも、って思ったよ」

「そのパーティに加わるのが、以前の私だったら?」

「無理だな。偶然が重なって、何回か組んだ……それだけだ。それだけでもわかる」

「でも、今の私が本当の私なら、どう?」

「催眠が掛かってるんだよ。本当のお前ではないだろう」

「うん……。そうかもね」

 サトウは立ち上がって、開いた両手同士を近づけた。

 そして手を叩く。一回、二回、三回。

 そのままサトウは眠るヤマダへと向かい、その頭を足で踏みつけた。

「起きろよ、魔術で石にするぞ」

 あっ、人間バジリスクに戻ってる。



「ねぇ、私が自分に『眠れ』って催眠をかけてもちゃんと起きましたよねぇ。ですから私の催眠術は使い古した剣をちょっと研ぐ程度なんですよ。この意味、わかります?」

「いや、もっと具体的に言ってくれ」

「ですからねー! サトウの気持ちを人間トロールのあなたが受け止めなきゃダメなんですよ!」

「なんで私が人間バジリスクの気持ちを尊重しないといけないんだよ! 逆だろ、逆!」

「だってあなたが人間をやめたらただのトロールですよ!?」

「やめるならトロールの部分に決まってるだろ! 私を人間と認めろ、この野郎!」

 私の隣でサトウがげらげらと笑っている。手には酒の入ったグラス。

 ここは冒険者の酒場。あれからさっさと帰路についた私たちは、日が暮れないうちに街へ帰ることができた。

 三人で飲んでいると、ヤマダの格闘仲間が加わった。

 入れ替わり立ち替わり、色々な人が加わり、小さなグラスを一杯空けては抜けていく。意外とヤマダは顔が広い奴だ。

 そのうち、酒場のどこかで誰かが歌い始める。酒場のざわめきが徐々に歌へと変わっていく。

 その歌は、『眼鏡を外すな』という歌詞だが、男たちがなぜ特権階級しか持たない眼鏡を喜んで歌い上げるのかは知らない。

 ヤマダも合唱の輪へ向かっていった。

 テーブルに肘をついたサトウがグラスを一気に煽る。

「これからの予定を聞いても?」

 サトウは私へそう問いかけた。奇妙な問いだと思った。

 私に関心を持つとは、一体どんな心境の変化なのだろうか。

 私たちは同じ日にこの街にいるというだけで、連れ立って旅をする仲間ではないからだ。それに、サトウはこの街が拠点だが、私は季節を問わずあちこち巡っている身だ。

 とはいえ、自分の行先を秘密にする理由はない。

「今までと変わらない。西の街道を通って、まずは山、次は海へ行く」

「それがユリカップル山と――」

「ユリデート海」

「楽しそうね。旅ができて」

「そうでもないよ。同じ道を巡っているだけだ。軍隊や自警団の手伝いもしなきゃならない」

「でも、自由にみえる」

「色々なものに縛られているよ。法律にも、期待にも」

「法律はしかたない。期待されるのは、あなたの働きが良いからではなくて」

 今日のサトウは妙なことを言う、そう感じた。酒のせいか、ヤマダの催眠から抜けきっていないのかはわからないが。

「期待なんて、私を雇うのが安いからさ。それでも、次から次へと問題が起きて、解決しきる前に私へ支払われるべき給金は底をつく。どこも貧しいんだ、この街ですらも」

 滑るように自分の言葉が飛び出す。私はその言葉を少し考え直した。

「いや、貧しさというのは、私の考え違いかもしれない。この街道の周辺には、今やなんの問題もなく、だから本当は……私のほうが行くべきなのだろうな」

 私は一息ついた。サトウは黙っている。どういうつもりか、両手で頬杖をついて私を見つめたままだ。私に喋らせたがっているのだろうか。

 しかし、語りたいことはもう残っていない気がした。

 元々、私は話好きでもない。それでも、サトウの妙な眼差しにたえられず、私はずっと先の予定を話すことにした。

「今度は、まっすぐ海へ向かおうと考えている」

「海には何があるの?」

「船だ。船に乗るつもりだ」

「どこ行きの船に?」

「南か北か、あるいは海の向こうか。その時に決めようと思っている」

「じゃあ、この街には戻らない?」

「そうだな。もう戻らないだろうな」

 私とサトウの会話はそこで終わった。お互いに一言も発さなければ、当然だ。

 酒場は相変わらずやかましく、合唱と演奏にも満たされている。

 じきに歌が終わり、酔いつぶれて戻って来たヤマダは仲間たちに引き取ってもらった。

 支払いはすべて先払いしてあったから、ヤマダのことは気にせずに済んだ。

 私とサトウは酒場を出た。

 この地域では栄えているほうの街だが、夜道はやはり暗い。

 宿へ向かって歩き出す。

 背後の酒場から新しい歌が聞こえてきたが、それも夜の静寂にのまれていった。

 サトウは私の少し後ろを黙ってついてくる。私が、夜でも酔っていても、道に迷わないことを知っているからだ。

 この女にも少しは他人を信用する気持ちがある証拠だろう。他人を疑うのは嫌な気分だが、以前のサトウが見せた私への刺々しい態度を思えば、親し気な一面に触れたからといってその疑いを拭いきれるものではない。

 時間が必要だ。少なくとも、私には。

 風を浴びながら歩いていると、外壁のランプに照らされた看板を見つけた。

 耳障りな音を立てるドアを開けると、老婆が月明りの中で服を縫っていた。

 宿屋の主人である老婆がこちらへ視線をやる。

 老婆は私とサトウへ順番に手を振った。通ってよし、という意味だ。この宿は男子禁制なのでこうした検問がある。

 寝息やら寝言やら、イビキなんかも聞こえる廊下を通って、一階の寝室へ向かう。

 その途中、サトウが私の肩を軽く叩いた。

「もう少し話をしたい」

 私は軽く「いいよ」と答えた。まだ酒の陽気が残っているのかもしれない。

 一階の廊下の突き当りに質素な椅子が二脚ある。明り取りの窓からは月の薄い光が差し込んでいた。

 私とサトウはそこに座った。語り始めたのはサトウからだった。

 それはサトウが私と出会う以前の自分を語るものだった。

 サトウが語り終えると、私も同じようにサトウと出会う以前の自分を語った。

 次にサトウは自分の少女時代を語り始めた。それから、私も自分の少女時代を語った。

 そしてサトウは。そして私は。こうして、私とサトウはお互いの人生を大体教え合ってしまった。

 奇妙な体験だった。今の自分という塊から余計な物を互いにそぎ落とし合い、初めの自分を削り出すような……。

 窓の月が去った頃、そんなただの自分が、二人分出来上がっていた。

 語りつくした気分だった。それはサトウも同じようだった。

「もう寝よう」

 提案したのは私だった。サトウは闇の中でうなづいた。

 相変わらず騒々しい廊下から寝室へ入る。

 たまに床で寝ている奴がいるので、注意しながら三段ベッドの列へ近づく。

 上から順に、手探りでベッドに先客がいないかを確かめる。

 私にも魔術の素養はあるので、手をかざせば気配くらいはわかる。

 一番目。空いているか……? いや、満床だ。寝ている最中でも気配を薄く保てるのは、先客たちが熟練した冒険者だからだろう。

 二番目。ここも満床だ。三人とも気配が濃いのは初心者だからか。あるいは、肝の太いベテラン方か。

 私は窓際にあった三番目のベッドへたどり着いた。

 手をかざしたが、どの段もまったく気配を感じない。ここに決めようかとも思ったが、職業暗殺者が三人もいる可能性は無視できない。

 結局、私は一番下の段へ荷物を置き、同じ段へ体を潜り込ませることにした。

 いるかもしれない危険な先客などどうでもいい。こんな大部屋で気配を絶つ奴が悪いのだ。

 サトウは私の一つ上の段に決めたらしい。ぎしぎしとベッドが鳴る。

 昼間のことがあったので、添い寝でも提案されたらどうしようかと思っていた。

 荷物袋を長い紐で縛ってから、その紐を足首へ結ぶ。簡単な防犯だ。紐か袋を切られたらそれまで、という程度だが。

 サトウも同じことをしているのか、ベッドの縁から垂れた紐が踊っている。

 何もかも済んだので、両手を頭の後ろへ差し込んで目をつむる。

 私は明日、サトウよりも早く起きようと決めている。

 冒険者という稼業で心が落ち着く時はない。

 他の者はどうか知らないが、私にとって冒険者とは一個のランプに等しい。

 油が尽きれば、足さない限りはそこで終わり。

 永遠に燃え尽きないランプも、所詮はただのランプだ。

 そのランプがひとりでに増えるとか、燈している限り不老不死になるとかなら特別なランプだが、私はただのランプだ。

 今のところ、私が特別なランプになる予感はない。ただ誰かに燈され、なにかを照らすのみだ。

 重要なのは、どこで、なにを照らすかなのだろうが、その点でも私はただのランプだった。

 意思なきランプは、人の手で燈される決まりになっている。

 この荒々しい世界。身に蓄えた油を燃やし尽くす前に、壊れてしまったランプはどれだけあったことか。

 私は自分をランプに例えたが、本当に単なる例えなのか……。

 そんな私は、サトウとは違う。

 酒場で、ヤマダは催眠が人の心を暴くと言いたかったのだろう。

 では催眠にかかったサトウのあの態度をどう解釈するべきか。

 なぜ、サトウは私を――。これ以上、言葉にする勇気が私にはない。たとえ心の中であっても。

 私が考えるに、サトウは魔術師で、性格的な問題はあるかもしれないが、土地に根ざして生きることができるだろう。

 お前は、私とは違う。

 それだけだ。答えなんて、それで充分だ。

 私は眼をつむって、夜明けの曖昧な頃合い、あの紫色の空を思い浮かべた。

 我ながら便利な体質だ。こうすると、本当にその頃に起きられる。

 まばたきをするたびに、窓の外を見ずとも、空から夜が離れていくのがわかった。

 あまり寝た気はしないが、もういい頃だろう。

 足首の紐をほどいてから、荷物をそっとつかみ取り、外へ出る。ベッドから、寝室から、宿屋から、そして街から。

 天気は曇りで、まだ朝露が残った街道を隊商の車列が行く。

 片道の護衛としてあれに乗せてもらえれば早いのだが、最近は身元保証がどうのとうるさく、冒険者ギルドの口添えがなければ難しい。

 長い列だな、のん気にそんなことを考えていた時だ。

 私の体に魔力の鎖が現れたのは。

 それは縛り方こそ昨日のものと同じだが、強力さは遥かに上だった。

 私の体は半ば麻痺し、心臓が痺れるような痛みに刺された。

 街道に倒れかけるが辛うじて膝をつく。上半身を起こしているだけで限界だった。

 車列の最後尾の馬車の、その荷台に見慣れた人物がいた。

 サトウ。あの人間バジリスクが荷台を降りて私へ近づいてくる。

 やっぱりこいつは敵だったのか。

「何を考えているか見当はつくけど、違うからね」

 私は痛みで荒く息をつくばかりで、サトウに返事をすることもできなかった。

「ヤマダに知り合いが多くて助かった……。早朝に門を出るあなたを見たって門番から聞けたのだから」

 サトウが私の背後へ回る。痺れはそのままだが、魔力の鎖が細くなっていく。

 私の背中にサトウが手を触れると、ヒールを使っているのか痛みが急速に引いていく。

「もう二度と、あなたにこんなことはしない。だから、あなたもこんなことはしないで」

 魔力の鎖は消えている。もう私を縛る魔術はない。

 しかし、代わりにもっと強力な束縛が私に使われた。

 二本の細い腕だ。それが私の腕ごと胸のあたりを縛っている。

 私が生きてきた中で、私を縛ってきたもののうち最も強力なものだった。

 なにしろ、それをちぎることなど、私には到底できやしないのだから。

「最近、実家から手紙が届いてさ。もう帰ってきなさい……って話。まあ、いつかそうするつもりではいたけど、気が進まない。一度帰ったら、あの家に踏み入ってしまったら、あとは同じ日々が続くだけ。毎日同じ道を歩くって日々が。年老いるか、何かの理由で死ぬかもって時に、私はその道の果てへとたどり着く。けど、そこは暗い崖になっていて、先にはもう何もない。ようやく私は気づく。道の途中にこそ、すべてがあったんだって。そのすべてが、私の家の玄関から始まる道にあるすべてが私にとって、欠けて、割れて、自分の半分を失った物に思えてならない。その失った半分には、この手が届いていたはずなのに……」

 サトウは黙った。私の言葉を待っているようだった。

 私は言葉を発しようとした。出来なかった。

 月の前であれほど語り合ったのに。

 どこまでもゆく風が街道を撫でた。

 私もこの風のようにありたかった。

 誰かに燈されたランプではなく、自然に吹いては絶える風。

 それをこの二本の腕がとどめている。

 私を私であらしめるのは今やこれだけだった。

 そして、私は彼女の手に手を重ねた。

 ランプは消え、風が止む。

 どこかで好きに燈され、吹いてくれ。


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遠くの文集 祭屋 銃銃太郎 @gungun

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