待った

ちびゴリ

第1話

 たなびく煙に目を細めながら、長くなった灰を無造作に落とすと、そのフィルターを再び口へと運ぶ。そして、近くにあった団扇で生暖かい空気を煽いでは時折小さな虫を追いかける。


 パシッ!


 足元に止まる蚊を叩いた直後、目の前からパシッと聞こえる。余程良い手と見えていつも以上に音が響いた。皺だらけの手が離れた場所にある五角形に角と書かれた文字を見つめる。


「気持ちが籠ってたからな~玄さん」


 と、ワシは口の端を上げた。


「何十年もやりあってると、それこそ音だけでどんな手かわかるっつーもんだな」


 御年八十を過ぎた玄さんが笑う。そういうワシも彼とは同級生だ。今の若い人みたいにスマホだアプリだのに関心も沸かない。玄さんもそうだが、もっぱらゲームと言えば将棋なのだ。滅多に車も通らない路地の端に数十年使い込んだ縁台に腰かけて打つ将棋。これがワシらの唯一の楽しみと言って良い。


 夏はステテコに腹巻で上半身は裸なんてこともある。それでよく、ばあさんから文句を言われたりもした。世間体がどうのと。たぶん娘だって似たようなことを言ってるのだろう。だが、そんなことに貸す耳は無い。遠くなったのもまんざら悪い事ではなく、聞こえないふりをする。便利なもんだ。ワシは両腕を組んで考えた。


 三十分くらい盤を見つめてワシはようやく声を発した。


「待った」

 

 待ったは二回までがワシらの決まりだ。


 玄さんは置いた角を戻しワシはその前に打った金を掴んだが、さすがに日も暮れて来たので勝負は持ち越しとした。玄さんが倒れて入院先で死んだと聞かされたのはその日の夜だった。


 一気に五歳も老けたようにワシはすることも無くボケたように縁台に座り続けた。孫も気を遣って将棋のゲームを紹介してくれたが、平面な将棋に指を伸ばそうとはしなかった。縁台の上にはあの日のままの盤が置かれている。一ヶ月が過ぎ夕方には涼しい風が舞うようになった。


 ふと玄さんがワシの手を待ってるような気がして、次の手を指した。久しぶりに持つ駒の感触が懐かしくもあった。あの時は苦し紛れの手に見えたが、今思えば起死回生の勝負手だったのかもしれない。


 ワシは一人で盤面を見つめ緩みのある口角を少しばかりあげる。


 その時だ。


「待った」


 いよいよ幻聴が聴こえるようになったかと、何気に視線をあげてビックリした。なんと盤の向こうに玄さんが座っていたからだ。


「玄・・・・」


 ポカンと開いた口が途中でだらしなく止まった。


「なんだよ。勝負の途中で逃げたとでも思ったか」


「いや・・・そんな奴じゃねぇってことくらい・・・」


「そうだろ。だから続きをやろうってな。こうして───」


 とうの昔に涙も枯れたと思ったワシの目がしょぼしょぼとした。玄さんがぼんやり映る。笑われちゃいけないと鼻を啜るのはやめた。そして、こうも考えた。あの世で続きをやろうって呼びに来たんじゃないかと。


 そう思った直後、玄さんは首を振りながら笑った。


「安心しな。おめぇが頭下げるのを見に来ただけだから」


 いつもの柄の悪い口調だ。それもワシには嬉しかった。


「頭下げるのはそっちだろ!」


 と駒を響かせる。


「く~、そうくっか。じゃ~こうだ」


 玄さんも返す。あれこれ言いながら打ち合っていた。


 そんな気がしただけなのか、風邪を引くからと娘に起こされたのは辺りが薄暗くなってからだった。いよいよ、ボケたのかと、不意に将棋盤に目を移すと確かに玄さんと、つい今しがたまでやりあった状態になっていた。



「居たんだな・・・・玄さん」


 と独り言のように呟いた後で、続きをやるために将棋盤と駒は棺にでも一緒に入れてもらおうと思った。



「それまで、待っただ。玄さん」

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待った ちびゴリ @tibigori

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