タイムリープし過ぎた男

春泥

 公園のベンチで泣いている若い男がいる。

 彼は両手に顔を埋め、この世の終わりのように肩を震わせている。


 近くの教会の鐘が鳴り響く。鐘の音は幸せを運ぶかのように陽気だ。教会では結婚式が終わり、夫婦になったばかりの幸福そうなカップルが、家族や友人達の祝福を受け、ハネムーンへと旅経つところだ。


「もし」と声をかけられて、公園のベンチで泣いていた男は顔をあげた。


「こんなお天気のいい日に、何を泣いているのかね。ほら、向こうの教会では、幸せそうな二人が結婚式をあげたところだよ」


 一体何歳なのかわからないほどの老人だった。若い男は、「教会」という言葉にびくりと身を震わせて、「結婚式」という言葉で再び両手に顔を埋め、身も世もなく泣き出した。


「あれま。こりゃあ、何か悪いことを言ったかな。わしでよければ話をきこう」と老人は男の隣に腰をかけた。


 男は、今さっき教会で結婚式を挙げた新婦にずっと片思いをしていた。彼女に想いをうちあけられないまま諦めたことが今更ながらに悔やまれて仕方がない。ふられてもよいから、せめて告白だけでもすればよかった。涙ながらにそう語った。


「なるほど」


 老人は、頷きながら、上着の内ポケットから、何かを取り出した。


「そういうことなら、これを君にあげよう」


 それは小さく古ぼけたサイコロだった。とりたてて特別なところのない正六面体で、黒色の各面に一から六までの数字が白い丸の数で表されている。


「これはね、転がして出た目の数だけ過去に戻ることができるんだ。『一』は一ヶ月だよ。これで少なくとも、彼女が結婚する前に告白するという君の願いは叶う」

「それで、潔くフラれて、諦めろ、と」

「さあね。告白した結果がどうなるか、わしにはわからん。だが、このサイコロは何度でも使うことができる。どう使うかは、君の自由だ」


 そう言って、老人はベンチから立ち上がった。


「ただし、君の願いが成就した暁には、そのサイコロは燃やしてしまうように。それは幸福な人間には必要ないものだからね」


 老人が去った後も、男は長いことベンチに座ったまま、掌のサイコロを見つめていた。見ず知らずの老人に片思いの苦しみを語ってしまった恥ずかしさは、彼を余計憂鬱にした。挙句の果てに、このような子供騙しの玩具で軽くあしらわれた。彼は腹を立て、サイコロを足元に投げ捨てた。ころころと地面を転がったサイコロが、「三」の面を上にして、停止した。



 マモルは会社の近くにあるパン屋にいた。昼休みに焼き立てのパンで息抜きをするのが彼の日課となっていた。十三時を過ぎているため店内の客は少ない。明日の会議の資料を作成していて出遅れたのだ。オフィス街のランチアワーの混雑を避けるにはちょうどいいし、レジで慌てる必要もない。

 マモルはトレイに載せたパンをレジへと運んだ。


「いつもありがとうございます」


 彼女は笑顔でそう言った。特に美人ではないが、人懐っこい笑顔で感じのいい女性だ。年齢は三十前後だろうか。彼より少し年上と思われる。


「今日も遅いんですね、お昼」

「ええ、仕事が終わらなくて。まったくうんざりですよ」


 マモルがこのパン屋を利用するようになったのは、一年ほど前。最初は、ただ感じのいい店員だとしか思わなかった彼女を、いつしか好きになっていることに気付いたのが約半年前。それから更に三ヶ月経って、彼女の首には、プラチナのチェーンを通した婚約指輪がぶら下がるようになった。相手は、マモルとは別のビルで働く会社員だという。それから更に三ヶ月後、彼女はマモルが泣いていた公園の近くの教会で結婚式を挙げるのだ。

 彼女は客である自分に親切にしてくれているだけだ、勘違いするなと自重していたマモルは、レジで他の客が居ない時に彼女とお喋りができるだけで十分だと思っていた。しかし――


 支払いを済ませて店を出たマモルは、はっとしてポケットを探ってみた。指先に触れた小さく硬い物を引き出すと、それは古ぼけたサイコロだった。彼の掌の上で、それは「三」の目を示していた。

 これは、彼女の結婚式が行われた日から三ヶ月遡った世界だ。マモルはそう確信した。何故気付かなかったのだろう。彼が必死に取り組んでいる会議の準備も、既に一度経験した記憶が残っていた。

 いやそれどころか、前回は、うっかり当日の会議室を押さえておくことを忘れていて上司から大目玉を食ったことまでマモルは覚えていた。昼休みを追えてオフィスに戻ったマモルは、いの一番に、明日の会議の人数に合わせたミーティングルームを予約した。


 もしかしたら――マモルの心に希望の灯がともった。


 もしかしたら、彼女が自分以外の男との結婚を取りやめるように、過去を書き換えられるかもしれない。いや、現時点から見れば、未来を書き換える、だ。

 彼は浮足立つ心を抑えつつ明日の準備に取り組んだ。翌日の会議では、重要なプレゼンでしくじり上司から叱責をうけるという、前回は発生しなかった出来事に見舞われることになるのだが、彼は気にしないだろう。


 帰宅すると、彼は仕事中も電車の中でも何度もポケットに手を入れてその存在を確かめたサイコロを取り出して、リビングのローテーブルの上にそっと置いた。


 仕事がおろそかになるほど考えてみたのだが、いくら過去に戻れたといっても、結婚式の三ヶ月前では遅すぎる。彼女は既に別の男と婚約済みだ。今は、教会で挙げる予定の式の準備が楽しみで仕方がないといった様子。こんな時に彼女に告白をして、良い結果が得られるわけがない。

 彼はサイコロを取り上げて、握った拳の中で転がした。


 もう少し、過去に戻らなければだめだ。できれば、自分が彼女と出会った、一年前、いや、現時点からなら、九ヶ月前に。


 彼は期待を込めてサイコロをテーブルの上に転がした、つもりであったが、彼の手を離れたサイコロは、そのままストンとテーブルの上に落ちて、一回転もすることなく停止した。三の目が上を向いていた。


 おや。と彼は思い、更に三ヶ月前に戻ったのだろうか、とカレンダーやスマホの日付を確認してみたが、何も変わった様子はなかった。そこは相変わらず、彼女の結婚式から三ヶ月前の世界だった。

 もう一度サイコロを放り投げてみたが、結果は同じだった。回転しないで、テーブルの上に落ちたサイコロは、三の目を上にして停止するが、何も変化しない。

 更に何度か試してみたが、駄目だった。彼は首を傾げた。老人は、「サイコロは何度でも使うことができる」と言っていなかったか?


 あれこれ考えた末、マモルは一つの仮説に行きついた。恐らく、最初の地点――彼女の結婚式の日――に戻らなければ、サイコロは機能しないのだ。サイコロはごくありふれた正六面体で、一から六までの目しかない。つまり、遡ることができるのは、彼女の結婚式の日から、最長で六ヶ月ということだ。


 彼は絶望しかけたが、それでも、せっかく訪れたチャンスだ、と思い直した。六ヶ月前ならば、少なくともまだ彼女は婚約はしていないのだから、彼女の気持ちを自分に向けさせることができるかもしれない。


 それにしても、まずはこの三ヶ月を無為にやり直さなければならないのかと思うと憂鬱だった。いやいや、せっかくだから、この期間も、有効に活用しなければ。


 彼のライバルである彼女の婚約者がどんな男なのか探ってみよう。マモルはそう思った。


 * *


 三ヶ月は、意外と早く過ぎた。マモルが調べた限り、彼女の婚約者は、IT企業勤務で残業が多く、彼女と会う時間があまりとれない、という以外には責めるべき点もないような好青年であった。あの彼女が好きになるぐらいだから、いかにも、といった感じで、マモルは溜息をつくしかなかったが、自分だって真面目で、浮気など考えもしないタイプ、賭け事はしないし、酒は付き合い程度、そこそこの会社に勤めているし、彼女を思う気持ちでは誰にも負けないのだ、と自分を鼓舞した。


 そして待ちに待った、と同時に永久に来てほしくないとも願った、彼女の結婚式の日がやってきた。

 彼は前回と同じように、教会の近くの公園に座り、涙を流している。


 やがて陽気な鐘の音が響いてきた。彼は手の甲で涙を拭うと、上着のポケットからサイコロを取り出した。

 ころころと拳の中で転がし、六よ出てくれと念じながらサイコロを放った。サイコロは何度か回転してから、止まった。


 一の目が無情に彼を見上げていた。



 一ヶ月前の世界に戻った彼は、やはり職場のあるオフィス街に居たが、パン屋の中ではなかった。時間は十三時を過ぎており。遅い昼食をとりに行く途中だが、結婚式が近づき内面から幸せオーラを発している彼女を見るのが辛くて、最近ではパン屋から足が遠のいていた。

 また一ヶ月経過するのを待って、彼女の結婚式の日にサイコロを振らなければならないのかと思うと非常に気が重かった。



 マモルはそれから、何度サイコロを振っただろうか。最初に出た目は三、次は一、その次が五、四、ときて遂に念願の六、しかしその後はまた三、二……何度時間を遡っても、望んだ結果は得られなかった。


 彼なりに努力はしたのだ。五や六の目が出た時には、彼女に好意を持っていることを初めからわかりやすく示すようにし、デートに誘ったりもした。それでも、彼女には「すみません、気持ちはすごく嬉しいんですけど、お付き合いしている人がいるので」と断られてしまう。

 失敗を繰り返すうち、彼は次第に大胆になっていった。当初の、教会の近くの公園で涙を流していた彼なら臆して到底できなかったであろう、少々強引な口説き方も試してみた。例え失敗して彼に対する彼女の心象が悪くなったとしても、また数ヶ月待って、やり直せばいい。

 彼女を口説くと同時に、彼女の婚約者を陥れる画策まで練るようになった。素行が悪く高校を中退しかけた女友達に報酬を払って婚約者を誘惑するように頼んだり、彼の後をつけて、頭上から煉瓦を落とすのにちょうどいい場所を捜したり……以前の真面目なマモルとは、人が変わってしまっていた。


 しかし不思議なもので、何十回目、いや何百回目かにやり直した過去で、彼女は遂にマモルと恋に落ちた。真面目な彼女も、危険な香りのする捨て鉢な男の情熱にうっかりほだされてしまったのだ。


 マモルは有頂天になった。彼女が別の男と何度も結婚式を挙げた教会で、マモルと彼女も式を挙げた。ハネムーンへと旅経つ前に、マモルは、表面が随分擦り切れてしまったサイコロを砕いて粉々にすると、集めた破片を灰皿に入れて、火を点けて燃やしてしまった。最初に老人から受けた忠告を、ちゃんと覚えていたのだ。この手の約束を守らないと、大抵不幸な結末になる。


 * * *


 教会の近くの公園のベンチに、一体何歳なのかわからない老人が一人、腰かけていた。彼は白い顎髭を撫でながら、近くの教会の鐘の音に耳を傾けつつ、首を傾げている。


 人間というのは、おかしなものだ。正直、あの若者があそこまで一人の女性に執着しようとは、人間界の恋愛を知らない老人には理解し難いことだった。


 果たしてそこまでする価値があったのか。


 人間の運命はある程度決まっている。それを、あのサイコロのようなガジェットで少々過去を書き換えても、それに対するつじつま合わせ的な作用が必ず生じる。つまり、過去のある部分の改良に成功すると、別の部分での改悪が発生するといった具合に。

 あのマモルという若者の場合、失恋をいい加減受け入れて仕事に励めば、いずれ自ら起業し大成功を収めるはずだった。その過程で金と地位を手に入れたことにより、美しく家柄もよい娘と結婚することになっていた。


 だがマモルはパン屋の店員を選んだ。彼女を勝ち得るために労力と情熱をつぎ込んだお陰で、仕事がおろそかになり、既に出世コースからは外れてしまっている。勿論、幸福は金や地位によってのみもたらされるものではない。マモル夫妻は、裕福ではないが幸福な家庭を築くだろう。だが――


 マモルの仕事面での成功が断たれた替わりに、彼女と結婚するはずだった男が出世コースに乗ることになった。


「どちらが幸せなのか、わしにはわからんがね」


 老人は独り言のように呟くと、重い腰を上げて、公園から立ち去ろうとした。その時、老人と入れ違いに、ベンチに座り込んだ若い男があった。男は、両手に顔を埋めて泣き出した。


「もし」と声をかけられて、公園のベンチで泣いていた男は顔をあげた。


「こんなお天気のいい日に、何を泣いているのかね。ほら、向こうの教会では、幸せそうな二人が結婚式をあげたところだよ」


「あ、あれは、僕の恋人だった女性なんです。僕は、すっかり彼女に夢中で、結婚したいと思っていた。彼女だって、僕のことを愛してくれていた。それなのに、ひどく強引な男が現れて――」


 若い男は、涙にむせびながら言う。


「なるほど」老人は、頷きながら、上着の内ポケットから、何かを取り出した。


「そういうことなら、これを君にあげよう」


 それは、小さく古ぼけたサイコロだった。


(了)

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