第8話 道現成は夢む、塗れた華の七仏通誡偈

七仏通誡偈しちぶつつうかいげ


諸悪莫作しょあくまくさ ― もろもろの悪を作すこと

衆善奉行しゅうぜんぶぎょう ― もろもろの善を行い

自浄其意じじょうごい ― 自ら其のこころを浄くす

是諸仏教ぜしょぶつきょう ― 是がもろもろの仏の教えなり



   『法句経ほっくぎょう』、及び道元『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』諸悪莫作の巻より








「こんな深夜帯に、事務所でパソコンに鍵盤繋いでなにやってるんだい、くるるちゃん」

 湿度が高い今は春から夏へ変わる時期。

 気候の変化の起伏が最近は滅法激しい。

 除湿機をかけた百瀬探偵結社事務所ももせたんていけっしゃじむしょの事務室で、午前一時、事務員で女子高生の枢木くるるぎくるるちゃんは、左手でランチパックを持ち、口でもしゃもしゃしながら、右手だけで鍵盤を叩き、なにかを奏でていた。

 その現場を、たまたま事務室に来た僕が見つけた、というわけだ。

 窓の外は真っ暗だ。夜空は、今夜は曇り空、星々はその姿を隠している。

「そんなことの推理も出来へんから、山茶花さざんか猫魔びょうまお兄ちゃんに尻に敷かれてばかりなんやよぉ」

 僕は百瀬探偵結社の雑用係の萩月山茶花はぎつきさざんか

 オレンジ色のパーカーの袖で目をこすり、あくびをしながらくるるちゃんのデスクの上にあるパソコンを眺める。

「この横向きの棒グラフは一体なんだい?」

「ピアノロール言うんやよ。今、MIDIキーボードで曲のラフつくりに、MIDIキーボードをリアルタイム入力で打鍵してたとこなんよぉ」

 全くわからない。

 僕は知識不足だった。

 でも、興味がある。

 枢木くるるちゃんは百瀬探偵結社の事務所の事務員であると同時に、女子高生DJなのだ。

 自身の盟友である小鳥遊たかなしふゆりと二人で、〈ソーダフロート・スティーロ〉という名の音楽ユニットも結成している。

 ユニットの人気は上々。

 鍵盤も叩いていることだし、音楽関連の作業なのだろう。

 知らない世界に、好奇心が湧く。

 この〈女子高生DJ〉は、一体なにでなにをしているのか。


 くるるちゃんはランチパックを平らげると、

「やっぱツナのランチパックが一番やわぁ」

 と言って、湯飲みに口をつける。

 湯飲みに入っているのは甘酒なのは、ただよってくる甘い香りとアルコールの匂いでわかる。

 くるるちゃんは湯飲みを鍵盤の脇に置くと、事務椅子をくるりと回して、僕の方に向き直った。

 くるるちゃんの桃色の、少し跳ねたボブカットが揺れる。

「山茶花に、教えてあげへんこともないんやけどぉ?」

 笑顔が眩しいくるるちゃんは、深夜帯でも笑顔で。

 だけど、ちょっと疲れているのもわかるし。

 偉い子だなぁ、と僕は思った。

「うちのためにあとでカレー南蛮こしらえてなぁ、山茶花」

 僕はちょっと吹き出して、

「わかったよ、くるるちゃん」

 と、頷いて約束をした。

「MIDIっていうんはなぁ……」

 嬉々と語りだすくるるちゃん。

 自分の好きなものについて語るのは楽しいよね。

 それを聴く僕も楽しくなりそうだ。

 僕はくるるちゃんと向かい合うようにソファに腰を下ろし、話を聴く態勢に入った。







 MIDIって言うんわなぁ、山茶花。ミュージカル・インストゥルメンタル・デジタル・インターフェイスの頭文字を組み合わせた言葉なんよ。電子楽器やコンピュータなんかの、メーカーや機種に関わらず音楽の演奏情報を効率良く伝達するための〈統一規格〉のことなんやで。

 日本のMIDI規格協議会と国際団体のMIDI Manufacturers Association (MMA) により策定されてん。でやな、1981年に公開されたんよ。

 ちょうどその直後、1982年に、CD……コンパクトディスクが発売されてるんやわぁ。

 そしてさらに翌年。

 1983年に、MIDIを一気に普及させた画期的なデジタルシンセサイザー、ヤマハのDX-10が発売されたんよ。


 MIDI規格てのはぁ、ずーっと昔からあった、音楽を数値化して管理するっていう欲望の発露、と見ることができるんやわ。

 それは、音楽の「電化」と「磁化」ってファクタに対してのカウンターとして受け取ることも出来るんやよ。

 電化はエレクトリック、要するにシンセサイザーの、混じりっけなしの音である正弦波、磁化はピックアップで拾った音をアンプリファイするエレキギターの、濁りやひずみを含めたものを、ここでは代表的に指す、と思ってくれればええんよ。


 少し、歴史について語る必要があるんやな、こうなると。

 猫魔お兄ちゃんのようには物事を上手く説明は出来へんけど、うちなりに語るから、よーく聴くんやでぇ!


 1722年頃に西欧で生まれた『十二音等分平均律』というシステムとその記譜法。

 このシステムと書き方で世界の全ての音楽を捉え、コントロールすることが始まったんよ。

 次の転換期が1950年前後に成立した『コード・シンボル』による音楽の把握なんやよ。

 これは高度に体系化され、二十世紀後半の商業音楽の傾向を決定づけるに至った。

 このコード・シンボルとジャズの相性が良くて、ジャズ発祥で『モード』という技法が開発され、またさっき話した「電化」と「磁化」っていう機能和声を切り下げるファクタが音楽ん中に入ってきてん。

 もっと決定的に、ファンクに代表される『律動』中心の音楽によって、『コード進行』による音楽を前進させるということ自体が必要なくなってきたんや。

 この変化で『コーダル』は全能感をなくし、MIDIの登場以来は音楽学習の場はそのオペレーティングの教育にシフトしたり、モダンジャズの様々なサウンドをアーカイヴィングして教育をしたりするようになってん。

 八十年代。

 コード・シンボルが持っていた規範と可能性は消尽され、記号化のレベルがMIDIというデジタルな段階に突入することによってそのパワーがほどけたんよ。

 以降、トラディショナルとマニエリスムっていう作業で、ポストモダン的時間をひたすら過ごす期間に突入したんよ。

 要するにポストモダンの思想が語るような、ハイパーリアルのシミュラークル世界の到来ってのと重なってしまうんやわ。

 おしまい。







 大人になったらブロードウェイに行きたいわぁ、と背伸びしながら言うくるるちゃん。

 何故にブロードウェイ? と尋ねると、うふふ、とくるるちゃんは微笑む。

 少し待つ。

「ミュージカル。〈総合芸術〉の最高峰を、現地で、ナマで観たいんよ。うちの人生、変わる気がするんよ」

「ふぅん。僕が一緒についていこうか」

「あはは。なに言うてん、山茶花。それ、告白かなんかのつもりやの?」

「い、いや、違う、けどさ」

「さ、カレー南蛮つくってぇなぁ」

「はいはい。麺はソフト麺で良いかい」

「ええよぉ」

「じゃ、鴨南蛮にしよう。材料があるから」

 そんなこんなで午前一時過ぎ、ソファから腰を上げた僕は、キッチンで調理を始める。

 調理なんていうたいしたものでもないけどもね。

 キッチンから目をそらさずに、またパソコンに向かい始めたくるるちゃんに、僕は話しかける。

「さっきの話の前提になってた、『十二音平均律』って、どんなんだい? 僕はそこからわからないんだけど」

 ああ、あれなぁ、と思い出したように、くるるちゃんは手を止めないで話を紡ぐ。


「十八世紀半ば頃から西欧音楽で使われるようになった調律の仕方のことやよ。〈ド〉からその上の〈ド〉までの間を十二に割って、等しい幅を持った十二個の音程でオクターヴをつくるんやわ。簡単にいうとピアノが十二音平均律で調律された楽器の代表やな。1722年、バッハが十二音平均律を使って『平均律クラヴィーア曲集(第一集)』を発表すると、西欧で爆発的に広がっていって、ワールドスタンダードになっていったんやよー」


「へぇ」

「その数値化の結晶が、今うちがパソコンで起動させてるDAW……デジタル・オーディオ・ワークステーション、っていうアプリケーションソフトなんよぉ」

「DJソフトいじってるのかと思ったよ」

「違うでぇ。今はトラックメイキングをしてるとこなんよ。明日、北茨城の六角堂でうちら〈ソーダフロート・スティーロ〉のファンたちと〈野点のだて〉をする予定で、そこで初披露ということでプレイする新曲の、編曲作業中なんよ」

「明日って……。ふゆりはぶっつけ本番になるんじゃない、新曲を歌うの」

「ラフは送ってあるから大丈夫やと思うで。〈プリンセス・オブ・ステージ〉こと〈神楽坂ふゆり〉には不可能なんてないんや」

「そんなもんなのかな。天才の考えることやすることは僕にはさっぱりだよ」

 神楽坂ふゆり。

 それは、小鳥遊ふゆりのステージネームだ。

 くるるちゃんは、DJ枢木くるるぎ

「……凄いな。凄いよ、本当に」

「鴨南蛮つくる手が止まっとるでー、山茶花」

「はいはい。つくりますよー、だ」


 鴨南蛮をつくっていると、事務所のドアが開いた。

 ドアから入ってきたひとは、ここ百瀬探偵結社の総長、百瀬珠ももせたまだった。

「ふはははははー! 良い匂いに釣られて我が輩参上じゃ! 山茶花、我が輩も、お相伴にあずかろうぞ! さっさとつくるのじゃ。我が輩はスコッチを持ってきたからのぉ! 食しながら飲もうぞ」

「総長。くるるちゃんには飲ませないでくださいね」

「わかっとるわい」

「って、これ、ザ・マッカランの30年物じゃないですか。〈シングルモルトのロールスロイス〉と名高い、あのマッカランだ。飲みましょう」

「おぬしも好きよのぉ、ウィスキー」

「珠総長には敵いませんよ」

 低身長の珠総長は、床まで届きそうなロングの髪を揺らしながら、ザ・マッカランの30年物の瓶を片手に持って、反対の手を腰にあてて笑みを浮かべている。

 グリーンを基調にしたエスニックな服装に、ビーズ系のネックレスとブレスレットをたくさん身につけている総長。

 頼れる僕らの〈飼い主〉だ。


 疑問があったので、僕は珠総長に訊いてみる。

「今日はあいつは、破魔矢式猫魔はまやしきびょうまは、いないんですか?」

「まだ仕事が終わってないと、ついさきほど連絡があったのじゃ。我が輩の〈迷い猫〉は、いつも迷いがあるのじゃよ」

「猫魔に迷いがある? あの〈探偵〉に迷いなんて……あるのかな?」

「今、猫魔は〈土浦九龍つちうらくーろん〉で作業にあたってもらっておる。どうも、キナくさいのじゃ、土浦九龍。水戸にある〈水戸アートタルタロス〉との敵対関係が、濃厚になってきおったのじゃ。内戦状態になる可能性もある。そこで、探りを入れてもらっておるのじゃよ」

「土浦九龍と水戸アートタルタロス……か」

「ふゆりの奴はもう眠っていることだし、我が輩らだけで美食を楽しもうぞ」

「は、はぁ」

「煮え切らないのぉ、山茶花」

「鴨南蛮は煮えてますよ。食べましょう」

「良い良い。こころは煮え切らないがつくった料理は煮えている、か。……山茶花も明日は北茨城に向かうのじゃよ?」

「え、なにかあるんですか」

「〈ソーダフロート・スティーロ〉のマネージャーとして、北茨城の六角堂へ向かうのじゃよ」

「は、はぁ。ま、とりあえず出来たので、鍋から食器に移しましょう」

「問題の先延ばしは感心せんな」

「ほはほら、冷めちゃいますよ」

「ふむ」

 そんな僕と珠総長のやりとりに、ひとり微笑むくるるちゃん。

 深夜の眠気のなか、食事とお酒の用意をして。

 僕らは鴨南蛮を食べた。







 鴨南蛮をすすりつつ、珠総長はぐいっとグラスの中の琥珀の液体を飲み込む。

 マッカランで頬を赤くする総長。

「くるるもふゆりも、よくやっておるよ。音楽ユニット〈ソーダフロート・スティーロ〉のライブコンサートをはじめて観たときのおぬしらのあのステージ上での輝き。未だに目に焼き付いておる」

 くるるちゃんはいきなり自分のことを言われたからか、椅子からぴょん、と飛び上がって、

「ないない、そんなことないんよぉ」

 と、恥ずかしそうに手を振って否定する。

 くるるちゃんの挙動に笑う珠総長。


「この場合、音楽じゃが、ほかにも、絵がうまくなったり漫画を描くのがうまくなったりすると、その受け手、送り手たちにとってはそのうまいひとは魅力的な人間に映るようになるもんじゃ。じゃが、同時に承認欲求スパイラルに陥る場合もあるのじゃな。もともと自己評価が低かったひとが人気者になったり、人気が下がったりなどしてひとがたくさん寄ってきたり、去って行ったりするのを経験すると、その人気の浮き沈みが起こっているのに耐えられなくなって、つらい、死にたいと思うこともある……というか、当然ある浮き沈みで一喜一憂するのがそもそも人間てものじゃしな。成功で感覚が麻痺してるときに人気が地に落ちたら、まずは失意と憎しみが襲ってくるじゃろう。話を戻すと、ルックスがアレなおっさんでも、地位があったり金があるとモテたりするものではないか。そりゃぁその業界のひとには魅力的に映るからで、モデルやアイドルの方が望んでプロデューサーに抱かれるなんてよくあるし、世の中そんなものじゃ。そんなものでしかないのじゃよ。ひとが寄ってくるときはたくさん口説かれるし、ひとが去っていくときは、本当に誰もいなくなるものじゃ」


 僕はぽかーん、と口を開けて、話を聞いていた。

 珠総長はくすくす笑って、

「なーんちってのぉ。探偵結社の一員とはいえ、女子高生のくるるとふゆりが人気者になるのも、それはそれで不安なのじゃ。今のは、そういう話じゃ」

 と、付け足した。

「そんなもん、なんでしょうか、総長。僕は、くるるちゃんのもとを去ることなんて考えられない」

 と、僕。

「おだててもなにもでぇへんでぇ」

 人差し指を立てて頬を膨らますくるるちゃん。

 僕とくるるちゃんのやりとりを見て、珠総長はスコッチ、マッカランを自分のグラスに注ぐ。

「若いのぉ、おぬしら」

「珠総長だって、まだ二十代じゃないですか」

「はーっはっは。まあ、山茶花の隣部屋の更科美弥子よりは若いかものー」

 またぐいっとマッカランを飲む珠総長。

「なっ。別に僕は美弥子さんとはなにもないですからね!」

「なーに、ムキになっておるんじゃ、山茶花。含みもなにもないわい」

「そ、そうですか」

「ふぅ。しかし、我が輩の飼い猫はいつ戻ってくるのやら」

 飼い猫とは、もちろん探偵・破魔矢式猫魔のことである。

「猫魔の奴……〈土浦九龍〉なんかに行って生還出来るのかな」

「気になるか、山茶花」

 そこにくるるちゃん。

「うちは九龍のことなにも知らへんけど、そんなにヤバいとこなん? 嫌な噂はたくさん聞きよるけど」

 ふむ、と口を閉じて珠総長は頷く。

「ヤバいとこ、じゃよ。我が輩のこの百瀬探偵結社の仕事でヤバくない仕事なんてないのじゃが、土浦九龍は、それでもランク上級のヤバさ、じゃのぉ」

「どない場所なんですの? 土浦九龍いうのは?」

 鴨南蛮をずずず、とすすってから、珠総長は口元をティッシュで拭いた。

「土浦九龍……それはのぉ、常陸国ひたちのくにの、土浦市に出来た自己増殖する違法建築群じゃ」

「自己増殖する違法建築群?」

 頭にはてなマークが付くくるるちゃん。

 人差し指を唇にあてて首をかしげる。

 僕はくるるちゃんのその仕草に見とれてしまうが、かぶりを振ってグラスの中の、ザ・マッカランを一気飲みする。

 日本に出来た、現代の九龍城砦くーろんじょうさいの外観を思い描き、気を引き締めるようにしながら。







 知っての通り、日本は十年前に〈厄災〉に見舞われた。

 平将門の怨念が再び日本を襲ったのじゃったな。

 それを〈元麻布呪術機構もとあざぶじゅじゅつきこう〉の退魔士・鏑木盛夏かぶらぎせいか夢野壊色ゆめのえじきのコンビが山手線を使った陣形である〈山の手魔方陣〉で封じた。

 そこには〈横浜招魂社よこはましょうこんしゃ〉の連中の暗躍があったとも言うが……、それはさておき。

〈スガモ・プリズン〉で斬首した将門の首はここ、常陸国に飛ばされた。

 いや、飛んでいった、のじゃな。

 飛んでいった先の常陸国自体が新しい首塚、呪われた冥府のヘソと見なされるようになったのも記憶に新しいのぉ。


 東京は東京であるから〈厄災〉の被害が軽く済んだのだ、守られたのだ、という立場の人間たちがこぞって東京に住み始め、東京の地価はまた高騰した。

 実際はそんなのは妄想で、被害は甚大なものじゃったが、のぉ。

 その立場の人間たちを違う立場の者たちは〈東京妄想〉と呼んだのじゃったな。

 格差は拡大の一途をたどったその末の出来事じゃから、お金がなくて追い出されたり、また、東京だから被害が軽く済んだという〈東京妄想〉の立場に否定的、信じない者たちが弾圧されて東京を追放されたのじゃった。

 それは〈東京追放〉と呼ばれておるな。

〈東京追放〉された難民たちのたどり着いた、その受け皿になったその先のひとつが常陸国の〈土浦〉であり、難民の受け入れが〈土浦九龍〉の始まりじゃ。

 土浦に追放された者たちは、住み着いた土地を改築し始めた。

 改築により、バラック、違法建築、鉄筋コンクリートが日々、設計もなにもないままつくられ続け、日々自己増殖していく巨大アパート群となったのじゃ。

 昔、アジアの違う国にあった九龍城砦と外観がそっくりなことから、その違法建築群を指してひとは〈土浦九龍〉と呼ぶ。




 ……一気に説明した珠総長は、大きく嘆息した。

「鴨南蛮も食べ終えたことじゃし、マッカランのボトルも空になった、今夜はお開きじゃの」

 珠総長が立ち上がったその刹那、

「術式〈蛇淫じゃいんせい〉!」

 と、誰かが叫ぶ。

 大きな声量で唱える〈術式〉の〈じゅ〉が、部屋に響いた。

 唱えたのと同時に〈術式〉は発動し、巨大な蛍光オレンジ色の大蛇が現出する。

 大蛇は珠総長に飛びつくと全身に巻き付いた。

「なっ! なんじゃ、これは! 蛇淫の性じゃ、と?」

 部屋が濃霧に包まれたかと思うと、その霧が収斂して像を描く。

 像は女性の身体になって、その場に〈霧状で不鮮明〉なまま、姿を現した。

 珠総長が息をのむ。

「なっ、我が輩のプレコグでも〈出現〉の〈予知〉が出来なかった……じゃと! バカな! 何奴じゃ!」

 霧人間は言う。

 白いビキニの上に袈裟を着ている霧人間の女性が。

「尼僧も暗闇坂家くらやみさかけの人間ゆえ、百瀬珠、尼僧の出現はあなたの〈プレコグ〉では予測出来なかったのでありんす。プレコグの能力の〈埒外〉に尼僧は存在するのでありんす」

 白いビキニに袈裟を着ているのも異様だが、それで語尾が「ありんす」というのも異様だった。

 異様な上に、姿は霧のようにうつろだ。

 全身を大蛇で締め付けられる総長。

 僕もくるるちゃんも、巻き付く大蛇の鋭い目に射すくめられて、その場で凍り付いた。

 珠総長は言う。

「我が輩の部下には手を出すな!」

 その霧人間は、そこにいるのかいないのか不明なほど不鮮明な輪郭で、つかみ所がない。

 悔しくて唇を噛む僕は、しかし動けない。

 くるるちゃんも声を失っている。

「ふふ。〈神に酔える魔女・百瀬珠〉。尼僧があなたを〈連行〉致すでありんす。ご同行を願うでありんす」

「暗闇坂家の人間が、我が輩を捕まえる、じゃと? どういう了見じゃ」

 それに答えない霧人間は。

 珠総長、そして総長に巻き付いた蛇とともに。

 霧のように…………消えた。



 珠総長がいた空間には誰もおらず。

 僕は、唖然となって、事務所を見た。

 形跡すらない。

 忽然と、消えたのだ。

 床で音がした。

 ザ・マッカランの空き瓶が床に転がる音だった。







 僕らの世界では、〈市ヶ谷〉、〈赤坂〉、〈桜田門〉と土地の名で呼ばれる隠語が存在している。〈市ヶ谷〉は防衛省情報本部、〈赤坂〉は在日CIA及びアメリカ大使館、そして〈桜田門〉は公安警察のことだ。

 もちろん、僕らに用事があるのは、〈市ヶ谷〉、〈赤坂〉、〈桜田門〉という場所でも、その〈暗部〉の仕事をしているセクションを指している。

 それらの存在は〈地下に住む彼女〉と呼ばれている人物のお気に召すままに動いている、というウワサもあるが、百瀬探偵結社の中で〈地下に住む彼女〉の謁見を許されているのは百瀬珠総長ただひとりである。珠総長の飼い猫である破魔矢式猫魔だって、そこまではお供できない。

 僕なんかにとっては、その〈地下に住む彼女〉の名前を口に出すことでさえ、ためらいがあるほどだ。


「だが、山茶花。言うのをためらうだけで、名前自体は知っているだろう? その〈地下に住む彼女〉の、さ」

 野点をしている〈ソーダフロート・スティーロ〉の神楽坂ふゆりとDJ枢木の二人とそのファンたちの姿を遠目に見ながら、探偵・破魔矢式猫魔は、僕にそう言った。

 アッシュグレイの髪の毛。

 猫のような瞳。

 スーツを着ているその探偵は、特注品の黒いドライバーグローブを手に装着させている。

 僕は猫魔に不平を漏らす。

「確かに、僕もその名前を、知っている。だけど、知っているだけだ。僕は、〈彼女〉のことを、なにも知らない」

 僕に対し、間髪おかずに猫魔は応じる。

「〈地下に住む彼女〉……、その名前を、暗闇坂深雨くらやみさかみう、という。〈現・暗闇坂家当主〉であり、また、〈元麻布呪術機構〉の首領でもある」

「…………」

「元麻布に、暗闇坂という地名の坂がある。その暗闇坂の坂道から入る結界の中に、〈元麻布呪術機構〉の本部がある。そこに暗闇坂家という一族が住んでいる。その暗闇の〈うろ〉こそが東京の〈地下〉……言い換えれば〈アンダーグラウンド〉、の中心点さ。彼女はそこのお姫様だよ」

「僕が昨日見たあの尼さんは、暗闇坂を名乗った。そして、珠総長を連れ去った。どういうことなんだ、猫魔」

「そう焦るなよ、山茶花。今はうちの女子高生探偵・小鳥遊ふゆりだって自分を押し殺してソーダフロート・スティーロの〈神楽坂ふゆり〉を演じきって、野点でファンサービスやってるじゃないか。あの〈魔女〉のことが大好きでたまらないふゆりが自制してるんだぜ? おれたちだって、ちょっとは冷静になった方がいいんじゃないか」

「そうは言ったって! 僕は……、僕はなにも出来なかったんだ!」

「だから、焦るなって」

「猫魔、これは一体どういうことなんだ」

「大丈夫。おれは知ってるよ」

「知ってるだって! 今日、土浦九龍から帰ってきたばかりの猫魔が知ってるってのか!」

「ああ。〈魔女〉……珠総長のプレコグ能力を甘く見ない方がいい。いや、向こうの方が甘く見積もっていた、と言うべきかな。手は打ってあったよ」

「総長は、驚いてたよ? プレコグ……予知能力が効かなかったって」

「そりゃ、あの雲水うんすいが現れたことだろう? いつも通り〈なにかが起こる〉ことはわかっていたのさ。ぼんやりとなんだろうけどな」

「雲水?」

「ああ。禅宗の僧のことを雲水と呼ぶ」

「どういうことなんだ、猫魔。もしかしておまえが土浦九龍に行ってたってのは」

「もちろん、今回の件に絡んでいる」

「どう絡んでるんだ、教えてくれ。なにが起こるんだ。なにが起こりそうなんだ?」

「あはは。だからそうくなって」

「笑ってる場合かよ」

「いや、さ。復活をもくろんでいるのさ」

「復活? なにの?」

「なにの、っていうよりは、誰の、ってのが正しいかな」

「誰のって、誰のだよ。誰の復活なんだ」

 口をゆがめて、ケラケラと猫魔は笑う。

「そりゃぁ、平将門の復活さ」

「なっ! 平将門だって!」

「そう。将門を復活させて、直接的に〈厄災〉を再び起こして、今度こそ滅ぼそうってわけさ、この日本を、ね」

「一体誰がそんなことを? 将門を復活させて〈厄災〉による日本の滅亡を謀る。正気じゃないぞ、そいつは」

「さぁ、でも愉快犯ではなさそうだぜ、山茶花。それにさ、この将門という爆弾を抱えた日本の運命を、正当に非難出来る者なんてどこにもいないさ。導火線を引きたい奴はごまんといるだろうし、着火にしてもそうだ。そもそも百瀬探偵結社事務所が常陸国にあるのは将門と〈厄災〉を巡る関係性の調査のためだろう。故に、これはおれたちの事件であり、おれたちへの挑戦状さ」

 そこまで言うと猫魔はふゆりとくるるちゃんの方を向く。

「とりあえず、ソーダフロート・スティーロのファンイベントの野点が成功するのを祈ろうぜ」







 常陸国の北茨城。そこには岡倉天心が住んだ六角堂がある。

 六角堂が見渡せるそのすぐそばの旅館の庭園で、ソーダフロート・スティーロのファンクラブイベントである〈野点〉は行われた。

「しかし、なんでまた野点なんかしてるんだ? 和風ユニットってわけでもないだろ、音楽ユニット・ソーダフロート・スティーロは」

「バカだなぁ、山茶花は。常陸国の一番北のこの土地、北茨城市でイベントやるんだ、そりゃ野点がぴったりだろうよ」

「なんだよ、猫魔。僕にはさっぱりだ」

「アジアの文化はひとつである。それが岡倉天心の思想の中核にある。本当の亜細亜主義ってわけさ。もっとも、同時多発的にどこかで起こった亜細亜主義は戦争の口実に利用されてしまったんだが、な」

「アジアの文化はひとつである、か」

「そう。それを詳細に書いている本がアメリカを中心にバカ売れした。その本のタイトルが『茶の本』だ。野点って、要するに野外のお茶会だ。今、ふゆりたちが抹茶を点てているだろ。あれでいいんだ。お茶をすること自体が、〈思想〉なのさ」

「お茶が、思想?」

「うまいだろ」

「お茶だけに、ね。うまい。って、ごまかすなよ、猫魔。意味がわからない。お茶するのがなんで思想なんだ? なんの実践だっていうのさ。どういう理論がお茶にあるのさ」

「そういっぺんに訊くなよ」

「訊きたくもなるさ。僕にはさっぱりだ」

「文学青年が泣くぞ」

「それはいいから、教えろよ。どういうことなんだ」

「現・東京藝術大学の前身の一つであるところの『東京美術学校』の設立に大きく貢献し、『日本美術院』を創設した人物が、岡倉天心だ。1906年……つまり明治39年だな、その年に日本美術院の拠点を茨城県の五浦いづらに移す。五浦ってのは北茨城市のことだ。ていうか、この六角堂があるのが北茨城の五浦海岸だ。日本美術院の生徒には福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らがいた」

「横山大観か。大観なら知ってるよ、僕でも」

「その、大先生である思想家の岡倉天心が英語で書いた、挑発的、挑戦的な本が、『ザ・ブック・オブ・ティー』……日本語訳で『茶の本』だ」

「で、お茶がなんで思想なんだ。岡倉天心はなにを考えてそう述べたのさ」

「ああ。そうだな。客人に茶を供する礼の始まりには、道教の始祖、老子に密接な関係がある。そして、その老子の道教の意志を受け継いだ思想が〈禅〉であり、その特殊な〈禅〉の東洋思想の寄与が、道教とともに〈茶道〉にその精神性を与えた、と言える。それが、〈茶〉の思想だ」

「いきなりでまとめすぎだよ、猫魔。もっと優しく、丁寧に教えてくれよ。これじゃちんぷんかんぷんだ」

「ったく、山茶花、おまえって奴は。物覚えが悪いな」

「悪かったな、僕が覚え悪くて」

「いや、仕事に関してなら山茶花は記憶することには長けているだろ。でも、いきなり茶の話をしても、右耳から入ったら左耳から抜け落ちていくだろうな。だが、さ。今回の〈魔女〉の誘拐にも、この話は繋がるかもしれないんだ。覚えておいても損はないぜ」

「繋がるのか、これが?」

「ああ。だから、頭の片隅にでも茶の話を置いておくんだ、山茶花。まあ、ここでは与太話にしか聞こえないだろうけどな」

「やけにうろんな言い回しじゃないか」

「昨日現れたという霧のような尼僧ってのは、〈禅門〉の尼僧だ」

「禅とお茶……か」

「暗闇坂家から出家したとは聞いていたが、出戻ってきたのかな。曹洞宗という、禅宗の雲水だ。おれの記憶が確かなら、な」

「曹洞宗。道元だね」

「だが。宗派は、今は置いて、〈道教〉との繋がりとしての〈禅〉の話をすることになる」

「なるほど」

 僕は、ふむ、と首肯した。

 破魔矢式猫魔は、話を続ける。







 岡倉天心によれば、〈茶の湯〉は〈禅〉の儀式が発達したものだ、という。

 その〈禅〉は、〈道教〉の教えを強調していることが、しばしば見受けられる。

 この二つの東洋思想。

 これが茶道の思想のルーツだ、と岡倉天心は言うんだな。

 じゃあ、まずは道教から見ていこう。


 道教とは、老子を始祖とする、漢民族の伝統的な宗教だ。

 中心概念は〈たお〉と呼ばれる。

 その〈道〉ってのは宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す、と辞典には出ているな。

〈道〉は文字通りだと「経路」を指す言葉だが、ほかにも「行路」、「絶対」、「法則」、「自然」、「至理」、「方式」も指す言葉であり、道教での〈道〉の言葉の用法には、そのときどきで問題にしている話題によって、異なる意味合いで〈道〉という言葉を使うから、どれかが正しい用法ということでもないんだけどな。

 客に茶を供する礼は、その老子の高弟、関尹かんいんに始まる。

 関尹が函谷関かんこくかんで「老哲人」に、一杯の仙薬を捧げたことから客にお茶を出す礼が始まった、とされるんだ。


〈道〉は「経路」というよりむしろ「通路」で、新しいかたちを生み出そうとして絶えず巡り来る永遠の成長だ、と老子は言う。

〈道〉は大推移であり、宇宙の気であり、その絶対は相対的なものだ、ってね。

 道教でいう〈絶対〉は〈相対〉であり、倫理学的な場面においては社会の法律や道徳を罵倒することもあった。

 と、いうのも正邪善悪は相対的な言葉であったからなんだ。

 その定義が常に〈制限である〉というんだね。

 故に、「一定」「不変」は単に成長停止を表わす言葉に過ぎない、という。

 制限であるということは〈道〉から外れてしまうということなんだ。

 永遠の成長を目指すのが〈道〉だからね。


 その道教がアジア人の生活でした主な貢献は〈美学〉の領域で、であったんだ。

 歴史家に言わせると道教は常に「処世術」だった、と言われていると岡倉天心は書いているけどね。


 そして、話は〈禅〉に移る。

 いや、〈重なって〉いく。

 禅道は道教と同じく、〈相対〉を崇拝する。

 ある禅師は禅を定義して〈南天に北極星を識るの術〉と言っていたそうだ。

 どういうことかというと、真理は反対のものを会得することによって達せられる、と。

 さらに禅道は、道教と同じく個性主義を強く唱道する。

 われらみずからの精神の働きに関係ないものは一切実在ではない、という立場なのさ。


 禅は仏教なんだが、しばしば正統の仏教の教えと相反した。

 それはちょうど道教が儒教と相反したのと似ている。

 どうして相反したかというと、禅門の徒は事物の内面的精神と直接に交通しようとし、その外面的な付属物はただ真理に到達する阻害だと見做したから、なんだな。


 この精神性が、禅門の徒をして古典仏教派の精巧な彩色画よりも墨画の略画を選ばせたに至ったんだ、と岡倉天心は言う。

 これが、そういう〈美学〉なんだな。


 禅の東洋思想に対する特殊な寄与は、この現世のことをも後生のことと同じように重く認めたことだ、と岡倉天心は書いている。

 この禅の思想の〈相対性〉から見れば大と小の区別はなく、一原子に大宇宙と等しい可能性がある。

 極致を求めようとする者はみずからの生活の中にその極致の反映を発見しないとならない。



 庭の草をむしりながら、またはお茶をくみながらでも、いくつもいくつも重要な論議を次から次へと行う。

〈茶道〉一切の〈理想〉は、人生の些事の中にでも偉大を考える、というこの〈禅〉の考えから生まれたものだ。

 道教は審美的理想の基礎を与え、禅は実験的なものとし、それが〈茶〉の〈思想〉となった。



 と、まあ、そういうことで、茶は思想、なんだな。

 ご静聴、ありがとな、山茶花。







 お茶をくみながら、どころかお茶をくみながらファンイベントをやっている音楽ユニット様を見ながら、僕らは話を続けていた。

 破魔矢式猫魔は、ストレッチをしながら、僕に向かい合う。

 昨日の仕事疲れが抜けていないようで、目には少しクマが出来ている。

「神に酔える魔女……と、呼んだらしいな、あの雲水。神に酔える魔女という百瀬珠総長の二つ名は存在感が突出してるよな。でも、その二つ名を言うってのは、くだんの尼僧、総長の存在は知ってはいたが、総長に会うのは初めてだったんだろうな」

 猫魔が、不意にそんなことを言った。

「なんでそんな風に思うんだ、猫魔」

「確かにスタンスとしては総長は〈神に酔える魔女〉って表現は妥当だとは思うが、おれたちからしてみりゃ、……普通に酒で酔っ払ってることの方が多いからさ」

 ケラケラ笑う猫魔。

 僕はため息を吐いた。

「さて。〈禅〉と言えば、臨済宗には護符を使ったり神通力を使ったりといった傾向があり、〈異能力〉との相性が良い。如何にも戦闘向きだろう。だが、今回は曹洞宗。禅と言えば〈不立文字ふりゅうもんじ〉や〈以心伝心〉という、言葉以外で伝えていくってのが有名だろ。ところが曹洞宗の道元は大著『正法眼蔵』を書いていて、その思想がベースのひとつだ。〈不立文字〉とか言いながら〈文字〉で書かれた経典を読むことをベースにしている。今回、敵にするにはその使い手だけに、ちょっと厄介だとおれは思っているんだ」

「厄介、というと?」

「術をビシバシ使うやり口なら対抗策もあるが、……今回は〈思想〉そのものを〈術式〉にした奴とやり合うことになりそうだから、さ」

「具体的にはどういうことだい、猫魔」

「法術や仙術なんかは最初から実用性を考えて敵に飛ばしてくる方法だが、実用じゃなくて『正法眼蔵』という本の理論がそのままのかたちで敵に飛んでくる……と言えばいいのかな。つまり」

「つまり?」

「実体のないものがこっちに向かって飛んでくるのさ。対処するには相手を知らないとならないが……あいにくとおれはその理論を読み解いていない。いや、言い過ぎた。おれは今回の敵、あの尼僧……名前を暗闇坂寂滅くらやみさかじゃくめつというんだが……そいつが一体どんなことをしてくるのか、全くわからない」

「昨日は蛇淫の性、とか唱えてたような」

「いや、蛇淫の性は『雨月物語』に出てくる話さ。如何にもとんちが利いている」

「とんち?」

「雑念を払うための尼僧なのに、欲望丸出しの蛇の話をベースにした術式だし、くるるに聞いたら、語尾が、やはり尼僧なのに、ありんす、だぜ? どう解釈しろってんだ。欲を祓わない、囚われた自分を肯定した方法論だ。もちろん、書物の言葉を使った術式での攻撃ってのが、おれにはもうすでにわからない」


 僕らが顎に手をあてうなりあっていると。

「じゃあ、どうしろって言うのよ、このへっぽこ探偵! 無能! 猫魔はやっぱり無能ね!」

 現れたのは小鳥遊ふゆりだった。

 金髪の髪を大きなリボンで束ね、黒い眼帯をつけている、ソーダフロート・スティーロのボーカリストの〈神楽坂ふゆり〉であり、その正体が女子高生探偵・小鳥遊ふゆりなのである。

「ん? イベントは終わったのか、ふゆり」

 いつの間にか近づいてきて声をかけられたからか、猫魔は不思議そうにしている。

 なんというか、ソーダフロート・スティーロのファンに見られたら問題だし、探偵見習いの女子高生だ、というのは一般には伏せられているから、思わずあたりをキョロキョロ見回してしまう。

 ファンに見られたら一大事だぜ。

 そう思う僕が見回すと、スタッフの撤収作業も終わりかけていた。

 喋りすぎていて気づかなかった。


 ふゆりの方は猫魔が挑発してきたのだと勘違いしてか、声を荒げる。

「ふん! あんたに言われなくてもイベントは滞りなく終わったわよ! あのねぇ、猫魔。どんな攻撃してくるのかわかんない奴なんて、パワーで押し切りゃいいのよ。簡単じゃない」

「ふゆり、おまえ、〈暗闇坂家〉の一族がどんな優秀な〈異能の使い手たち〉だか、わかって言ってるのか?」

「バカねっ! イエの血や地位でモノを図ってんじゃないわよ! だからあんたは探偵として無能ってわけ! わかるかしら? 寺山修司の競馬予想は当たらないことで有名だったらしいわよ、何故かわかる? 全部馬の血脈で判断してたからよ! 伝記的エピソードに弱いか安全牌のつもりだったんでしょうけど、そんなのアウトねッ! ジャイアントキリングしていくのがジャスティスよッッッ!」

 ものすごいロジックが飛び出てきた……が、さすがプリンセス・オブ・ステージと名高いふゆりだ、説得力がある、とも僕は思った。

 探偵はくっくっく、と含み笑いしながら、

「さっき山茶花に話した、岡倉天心の著書の中にある、〈みずからの精神の働きに関係ないものは一切実在ではない、という立場〉の理解が今回の敵の撃破の鍵になるのは、昨日、土浦九龍で得た情報でもある。ふゆりのメンタルなら、あるいは倒せるかもな」

「やっとあたしの強さを認めたわね、へっぽこ探偵。で、土浦九龍で誰にその話、吹き込まれたのよ、わたし好みな話よね」

「そう。九龍とタルタロスが内戦を起こすのを見越して潜伏してる奴がいる。そいつが潜伏してる最中だったから、聞いてきたのさ。〈横浜招魂社〉のエージェントである、そいつに」

「だから誰よ、それ」

 くっくっく、と破魔矢式猫魔は笑いをかみ殺す。

夜刀神やとかみさ。夜刀神うわばみ姫。ふゆり、おまえの好敵手らいばるだよ」

「なっ? あの蛇の着ぐるみパジャマ妖怪かッッッ!」

「いや、妖怪じゃないって。夜刀神は『常陸国風土記ひたちのくにふどき』にも登場するカミサマさ。異境の神なのに違いはないけどね。そして、〈横浜招魂社〉のエージェントであり、〈元麻布呪術機構〉の鏑木盛夏と夢野壊色のバディのサポートをして、将門を倒した〈正義の味方〉でもあるのが夜刀神さ」

「あああああああ! あったまに来るッッッ! また夜刀神の奴かあああああああぁぁぁぁ、ムキーーーー!」

「そう吠えるなよ、ふゆり」

「夜刀神めぇッ! あの〈正義の味方〉、許さないわ!」

 僕も猫魔につられるように笑う。

「正義の味方を許さない、ってふゆりらしいよ」

「うっさいわね! 黙れえろげオタク!」

 いつも通り酷い言われようだった。

 だが、ファンクラブイベントが無事に終わって良かった、と僕は思った。

 ファンクラブイベント、珠総長はだいぶ気にしてたし。

 イベントをこなしたことで、総長の行方を追うことが出来る。

 さらには再びの〈厄災〉の阻止も、だ。


「さて、と」


 言って探偵・破魔矢式猫魔は、猫がそうするような仕草で背伸びをした。

「百瀬探偵結社、探偵開始だぜ!」







 快晴の天気。

 時期的なせいで、空気は湿度高めだけれども。

「予科練のあった土浦に、こんな違法建築群が出来ちまうんだもんなぁ」

 頭の後ろに手を回して、事務所の名義の軽自動車の助手席に座った猫魔が言う。

「クルマ、どこに止めようか」

 と、僕。

「九龍の近くに止めたら盗まれるぜ」

「だよなぁ」

 猫魔の言葉が、遠くにそびえ立つ土浦九龍の外観を見ていると、妙に納得出来る。

「駅前まで引き返して止めよう」

「それが良い。歩いてまた、ここまで来ようぜ」

 パステルブルーの色をした軽自動車をとぼとぼ走らせ、駅前のパーキングに止めた。

 猫魔、ふゆり、僕の三人での行動だ。

 くるるちゃんは事務所で留守番。

 東京の事務所にいる舞鶴めるとは別行動で動いているらしい。

 総長の危機だ、舞鶴めるとも増援に駆けつけてきてくれてはいるが、単独行動が好きな彼女は、僕らより先に土浦九龍に入ってなにか工作をしていると、ここに来る前にくるるちゃんが僕に説明してくれた。

 ふゆりが目を細めて言う。

「九龍。流石、スラム街、って感じよね。あんな無法地帯に今からあたしたち、入っていくのね。怖気おぞけがするわ」

「まあ、そう言うなって。そこに住んでるひとたちの中にも、いいひとだっているさ」

「悪いひとたちの中に、って意味でしょ、それは」

 ふゆりと猫魔が言い合っているところに僕が割り込む。

「でもさぁ、ふゆり。僕らだって〈悪いひとたち〉だよ? 世間からすれば、ね」

「口が減らないわね、あんたたちは」

「ふゆりには言われたくないよ」

「だな」

 歯ぎしりする小鳥遊ふゆり。

 話しながら歩いていると、日本の九龍城砦こと、土浦九龍が見えてきた。

「ところでビビり屋さんのふゆり。おまえもこれをそのゴス衣装の上に羽織っておくんだ」

「えー?」

 不平を漏らすふゆり。

 だが、猫魔が持ってきた大きな洗濯屋の紙袋から取り出した詰め襟の制服を受け取ると、渋々それを羽織った。

 濃紺の、七つボタンの詰め襟制服。七個のボタンには桜と錨が描かれている。

荒鷲あらわしの方から譲り受けた制服だ。本物なんだぜ」

「荒鷲?」

 僕が頭にクエスチョンマークを浮かべると、

「予科練の出身者のことを、マスコミは〈荒鷲〉と呼んでいたのさ。予科練の制服の七つボタンは〈世界の七つの大陸、七大洋〉と〈月月火水木金金の訓練〉を表わしているんだ。そして、〈七つボタン〉と呼ぶだけでそれは予科練の隠語になる。で、これがその予科練の制服だ」

 そう言って紙袋から、僕と猫魔の分の詰め襟制服も取り出した。

「駅前からこれ着てたら目立つからな。ここで羽織って、気合い入れ直して九龍に入ろうぜ」

「予科練とは常陸に住んでるとよく聞くけど、なにを指す言葉なんだ」

「山茶花。調べる以前に、疑問にも思わないで聞き流していただろう。ここ常陸国じゃよく聞く単語だからな、予科練は。仕方ないとも言える、か。……予科練とは海軍飛行予科練習生のことだ。志願制の航空兵養成制度のひとつだ。現在で普通に予科練て呼ぶときはだいたいその方たちが通っていたその海軍兵学校を指す……みたいな感じだな」

「で。なんでその制服を僕らはバンカラ風に羽織っているのさ?」

「お。近づいてきたな、違法建築アパート群。住めば都の常陸国で一番二番を争うスラム街だ!」

 まずは戦後闇市を想起させるバラックが並んでいた。

 が、進むとトタン屋根のバラックが四段、五段に重なっている。

 トタンとベニヤ板でつくった本来は平屋であったであろう建物。

 その上に、やっぱりトタンと薄っぺらいベニヤ板が乗っかって、五階建てになっていたりする。

 視界に映る建物がそんな異形の建物だらけになっていく。

 建築なんて知らなくてもこれは違法な建築物で、しかもその設計、まるでひとが住むこともまわりへの安全性も考えてないのが丸わかりだ。

 圧倒的に凄い。

 遠くで見ると蜂の巣に似たおかしさがあったが、中に入ると、ヤバさがわかる。

 いつ壊れて下敷きになるかわからない建築群だ。

 破魔矢式猫魔は言う。

「疑問はすぐに氷解するぜ?」







 その違法建築群には臭気が漂っていて、吹きだまりになっているかのようだ。

 ともかく、空気が悪い。

 だが、狭い通路から頭上を見上げると、三階以上、上の階で、向かい合う建物にロープを通し、そこに洗濯物をぶら下げている光景に出くわす。

 生活を、ここの住民が確かにしている息吹だ。

 九龍内部の通路は、二人ですれ違うくらいしか出来ないほどの狭さ。

 通路の両サイドには、無数のドアと、ネオンの看板がひしめき合っている。

 ドアを開けたら、なにが飛び出すか、わかったものじゃない。

 ネオンにしても、多国籍言語が飛び交っていて、日本語しかわからない僕には読めないものだらけだ。

 トタンやベニヤの壁には、びっしりと落書き、そして、貼り付けたピンクチラシ。

「さて、階段だ。登るぞ」

 猫魔が言う。

 だが、足場ががたついた階段だ。

 大丈夫だとは思えない。

「はぁ。登れば良いんだよね」

「怖じ気づいたか、山茶花」

「猫魔こそ、寝不足で倒れるなよ」

「山茶花に阿呆探偵。あんたらの夫婦漫才に付き合っている暇はないの。総長を助けるため、とっとと進むわよ!」

 酷い言われようだ。

 小鳥遊ふゆり。

 度胸がパワーアップしているのを感じる。

 重苦しいゴス衣装でもひーひー言わないで猫魔についてきているのがその証左だ。


 僕らがしゃべっていると、通りすがりのおっさんたちがこっちを睨みつけてきたり、通路につばを吐いて威嚇してくる。

 そんなの慣れっこだ。

 僕らは伊達に探偵結社のメンバーを名乗っていない。

 しかし、こいつらが僕らを襲ってこないのにはワケがある。

 それは、三人とも羽織っている〈七つボタン〉の威光があるからだ。

 金をせびりたくてうずうずしてる様子はうかがえるが、ここの住人たちはこの詰め襟制服を見ると、目が飛び出るくらい凝視して、それから僕らの顔を睨んで、そっぽを向く。

 効果絶大だ。

 猫魔を先頭にして、工事現場の足場にしか見えない、しかも錆びている階段を上がっていく。

 冷や汗が頬を伝う。


 登り切ると、そこには鳥居があった。

 後ろに、社がある。

 横手に、社務所。

 空が、ここからは見える。

 僕らを待っていたかのように、社務所から、緑色のフード付き・蛇の着ぐるみパジャマを着た背の低い女の子が出てきた。

「遅かったでごぜぇますよ?」

 あくびをしながら出迎えるその娘は、〈夜刀神〉そのひとだった。

 いや、ひとじゃなくてカミサマなのか。

 ひとかカミかは知らないけど、裏政府のエージェントなのは確かだ。

 所属が……〈横浜招魂社〉。

 夜刀神うわばみ姫。

 僕は、

「久しぶり、だね」

 と、声をかけた。

「面白かったか、『ヴァリス』は?」

 夜刀神が不意に僕に尋ねる。

 ヴァリス。

 そういや読んでたとき、ベンチに一緒に座って眠っていたのだ、この夜刀神は。

 一緒にベンチでお昼寝した仲だ、とも言えないこともない。

「ディックが好みかい? ディックの小説ならたくさんある。貸そうかい?」

 僕も減らず口を叩いてみる。

「人間。わたしもディックは全部読破したでごぜぇますよ?」

 そこに割って入るは破魔矢式猫魔。

「さっそく本題に入ろう。いいかな、夜刀神?」

「異論はねぇでごぜぇます」

 ディックの話はまた今度、か。

 今度があるかどうかはわからないけども。

 僕は横にいるふゆりを見る。

 あきらかにキレそうなのを我慢しているみたいだった。







 夜刀神は言う。

「〈水戸アートタルタロス〉と〈土浦九龍〉の調停を請け負ったのでごぜぇますよ。とりあえず弱っちぃ方……九龍の方に社を建てて、様子見をしてるのでごぜぇます。そしてこの九龍のどこかで、暗闇坂寂滅が将門の魂魄こんぱくを、依り代にする百瀬珠の身体に挿入しようとしているのでごぜぇます」

「…………」

「寂滅の奴がどこに潜伏しているのか、それさえつかめば、〈九龍〉側の問題は解決出来るでごぜぇます故、探してるのでごぜぇますが、彼奴きゃつは亜空間内にいると思われるのでごぜぇます。それで昨日、そこの探偵に協力してもらって探偵らしく〈ひと探し〉をしてもらったのでごぜぇますが」

 猫魔が続きを言う。

「共同戦線を張ったは良いが、空振り。進展なしだ。普通なら〈呪力痕跡〉を見つけてそれを追えば済む話なんだが、どうも尻尾を見せないんだ、あの寂滅って雲水は」

「雲水故、でごぜぇましょう」

「雲や水をつかめないのと同じってわけさ、雲水を捕まえられないってのは、ね」

「ときに人間。〈魔女〉のプレコグの原理は知っているでごぜぇますか」

 僕はかぶりを振る。

 無言で頷いてから、夜刀神は説明をする。

「〈超越論的存在〉は知覚出来ない。が、〈神に酔える魔女〉は、偏在する……つまりあまねくどこにでも存在する……この世のすべてのモノにある〈現世を神へと繋ぐその入り口〉を感知することが出来るのごぜぇます。その〈神の御許へ繋がっている入り口〉の波動でプレコグ……即ち、予知能力……を行使するのでごぜぇます」

 一気にいろんなことを言われて、僕は目眩がしそうだ。

 持ってきたペットボトルのミネラルウォーターに口をつける。

 ぬるい。

 猫魔は言う。

「今、夜刀神が言ったことをおれなりの言葉で簡単にすると。珠総長のプレコグを術式として理解するなら、〈汎神論〉を応用した〈術式〉だ、と言えるってことさ。創造主は唯一だが、同時に世界中に〈満ちている〉という世界観から生まれる術式だ。世界を満たす神の波動の揺れ動きで、それを予知能力に応用しているんだ」

 そこにふゆり。

「その寂滅って奴を捕まえるなら、総長の能力が一番有効だった。でも、実際はそいつがステルス効果のある〈なにか〉で総長を絡め取って、拉致した。〈呪力痕跡〉がないんじゃ、そりゃ追うに追えないわ。将門の依り代にするなら、確かに〈器〉として総長は最適でしょうね。その強大な能力の所有者であることから。でも。じゃあ、どうするの?」


 僕はみんなのいる方を見渡した。

「んん?」

 それは〈隔離〉だった。

 みんなの姿がガラス越しで見ている風に知覚された。

 おかしい。

 と、思ったら動けなくなった。

 地面が消える。

 僕は逆さまになったり横になったり、地面がない故に、様々な方向に動く。

 重力は無視された。

 これはその法則とは〈違う法則〉の世界に、引きずり込まれたということだ。

 今までの経験でわかる。

 霧が、一点に集まり、凝固する。

 現れたのは、白ビキニの上に袈裟を着た尼僧、……昨日の深夜に現れた、あの暗闇坂寂滅、に違いなかった。

「ようこそ尼僧の〈時空〉へ。歓迎するでありんす」


 僕は、現実から〈隔離〉され、寂滅の〈時空〉の穴に落ちたらしい。

 笑えない話だった。

 僕の身体は今、通常の宇宙と違う法則の下にいる。

 もしかしたらこの時空では身体をキープできず〈思念体〉になっているかもしれなかった。

 感覚がない、または拡張しすぎてわからない、そんな感じだった。

 上、下、右、左、と。

 寂滅の薄ら笑いが全方位からランダムに聞こえてくる。

「僕をどうするつもりだ」

 ……その僕の声は、霧消した。

 ガラスの向こう側の猫魔たちと、僕は隔絶されて。







「不純物が多すぎたのでありんす、萩月山茶花。あなたの心身には。隔離せねば、あなたは〈危険〉でありんす」

 白いビキニの上に袈裟を羽織る雲水、暗闇坂寂滅が僕のいる〈領域〉そのものの中に語りかける。



「〈花にも月にも今ひとつの光色思い重ねず〉と、道元禅師は言っておられるでありんす」



 寂滅がこの〈時空〉内を言葉で満たした。

 すると、それを鼻で笑う人物の〈思念体〉が、ミスト状になりながら、補足する。

「『法華経』が言うところの〈諸法実相〉じゃな」

 その声は。

「珠総長! 無事でしたか!」

「なーに、ひとがまるで死んでしまったかのように言うのじゃ、山茶花よ。我が輩もここでは〈実体を保てない〉ものの、生きておるわい」

「〈神に酔える魔女〉。諸法実相を解しながら尼僧の考えとは反目する、と?」

 総長はその霧状の姿をくゆらしながら、寂滅と向かい合う。

「我が輩たちにわかるのは今、目の前にある状態だけ。〈本当はこれがなんなのかを知っている〉のは仏だけだ、と道元は言ったのじゃったな。わからないのだから〈今あるもの〉をしっかりと大事にしよう……それが諸法実相。花や月を見ても、そこに別の光や色を付け加えない。花も月も、その声をあるがままに聞くのみ、じゃ」

「尼僧の使っている霧状になる、その術式を理解しているですね、〈魔女〉」

「もちろんじゃ」

「そのこころは?」

「〈心身脱落しんしんだつらく〉じゃ、な?」

「ご明察」

「自我の執着をなくし、没我してミスト状になるんじゃな? 逆を言えば、いったん心身脱落の境地に至ったおぬしはその白ビキニや、ありんす言葉、それに誘惑をして煩悩にまみれていないと自身の実体化が出来ぬのじゃろう?」


「〈現成公案〉でありんす。ひとは迷いをなくそうとやきもきする。悟りを得ようとやきもきする。ですがそれは間違いでありんす。迷いも悟りもない。あるのはただ〈心身脱落〉でありんす。自我を溶かし、悟りへと溶け込ませる。溶け込んだそこには迷いも悟りもないのでありんす。目の前に存在するのはあるがままの世界、即ち〈現成〉なのでありんす」


 東洋哲学問答が始まっているのを、僕の〈思念〉は見ている。

 僕はどう出れば問題を解決できるのだろう。

「魔女のプレコグと尼僧の術式は相性が良い。将門の依り代にするのも、ならばたやすい。勝手がわかるからでありんす。〈一切は衆生なり、悉有しゆうが仏性なり〉の通り。魔女、あなたのプレコグの〈本質〉の脆弱性を突くことが出来るでありんす。……苦しくなってきたでしょう、魔女。あなたは今、将門の魂魄に脳髄が浸食されつつある」

 ふふ、と白いビキニに袈裟を着た異形の雲水は笑む。

「〈一切は衆生なり、悉有が仏性なり〉とは、すべての存在、全世界は仏性であり、すべては仏の世界の中にいる、ということ。魔女、あなたの汎神論とベースが似ているでありんす。仏性を知りたいのであれば時節因縁……つまり、そのときそのときのあり方が仏性だと知らねばならないのでありんす。迷いも仏性であり、至るのも仏性、無も仏性。すべては仏性」

 寂滅の言うことに、

「ふむ」

 と頷き、珠総長が額の汗を拭う。

「我が輩の脳みそが限界まで浸食されてきおったわ。この時空から我が輩がこのまま解き放たれたとき、この国は〈厄災〉で消し飛ぶ、ということじゃな?」

 凝縮された熱いエネルギーの塊に、総長がなっていくのが僕にもわかる。

 時空のガラス越しに猫魔たちを見ると、鳥居の前でみんな倒れている。

「我が輩を浸食するその邪気が効果を及ぼしてきたようじゃな。邪気だけでうちの探偵結社メンバーたちが倒れるほどの呪力……か。我が輩がこの空間から飛び出たとき、まずは土浦九龍が崩壊する、……のじゃろうな。そして、そこが〈爆心地〉になって将門が我が輩と入れ替わるように実体化する、ということか。実体化したら、本当に終わりじゃなぁ」

 僕にも理解出来た。

 まずは〈東京追放〉を受けたひとたちの皆殺しを計るつもりだ。

 九龍が消し飛ぶ。

 東京追放されたひとたちを邪魔に思う方々のリクエストだろう。

 返す刀で東京も蹂躙。

 首都を潰すと、地方分権は微々たるこの中央集権的な日本は統治が機能不全となる。

 そんなことを考えている僕は、自身の身体を実体化できぬままにこの時空をうごめく。

「どうしろってんだ! クソ!」

 拳を握りしめたが、殴るにも感覚もなければ、僕自身がここにいながらここにいなかったのであった。

 こんな話ってあるかよッ!







「〈神経の秤に冥府のへそ〉……!」

 寂滅が言葉を発すると時空全体が揺らぐ。

「アントナン・アルトーか。『神の裁きと決別するため』とはよく言ったもんだね」

 ぐるぐるかき乱される感覚のなか、減らず口を叩く僕。

 だが、僕より限界に達しているのは珠総長だった。


 ふわああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!


 響く響く、パイプオルガンのように。

 器官おるがんが鳴らされているのだ、珠総長の。


 時空間が熱膨張し、それは現実の空間の方にも影響を与えはじめた。

 九龍の建物……違法建築群が倒壊をはじめたのだ。

 時空のガラス越しに僕は見る。

 床だった場所が破れ、穴が開き、壊れた建築資材とともに落下していく破魔矢式猫魔、小鳥遊ふゆり、夜刀神うわばみ姫の姿を!

〈将門〉は今いる時空から、舞い降りていく。

 まさに今、〈生み出されたように〉、この混沌の地が産土うぶすなだと言わんばかりに、〈東京追放〉の地に、平将門の魂魄を持つ百瀬珠〈だったモノ〉が。

 寂滅の亜空間を突き破り、吐き出されたその姿は半分以上〈怨霊化〉している。

 土浦九龍の倒壊しているその真上、将門は空中から舞い降りていく。

「畜生ッ! どうすりゃいいんだッッッ!」



「こうすりゃいいんだよ、…………山茶花少年」



 煙草のにおいがした。

 さらりと長い髪が僕の姿を認識して、言い返したのだった。

「え?」

 目を丸くする。

 メッシュのあるロングヘア。

 素足のまぶしいショートパンツのボタンは開けていて、少しだけ下着が見える。

 そのひとは、今日もくわえ煙草のままで。

 日本刀を片手で持って、

「うっしっし」

 と、露悪的に笑う。


「美弥子さん……? 更科、美弥子さん…………?」


「さて。まずは将門の魂魄の〈切除〉だ。観てな、少年」

 ウィンクする美弥子さん。

 まるで僕が〈ここにいる〉のを〈知っている〉かのようだ。

「それから今のあたしは更科美弥子じゃない」

 煙草をベニヤの壁でもみ消してから捨てて。


「今のあたしは元麻布呪術機構ヶ退魔士、夢野壊色ゆめのえじき。……行くよ」


 日本刀を右手で持って、左手で九字を切り、それから唱え出す。

「〈色・受・想・行・識〉。仏性を知らんと思わば、知るべし、時節因縁これなり。時節若至すれば、仏性、不至ふしなり。有事は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。仏性は動不動どうふどうによりて在不在ざいふざいし、識不識しきふしきによりて神不神じんふじんなり、知不知ちふち性不性しょうふしょうなるべきと邪執じゃしゅうせるは外道なり。…………知るべし、〈諸悪莫作しょあくまくさ〉と聞こゆる、これ仏性法なりッッッ」

 日本刀が脈動する。

 この日本刀は生きている。

 日本刀に魂がこもる。

「知るべし、仏心というは仏の眼睛がんせいなり、破木杓はもうしょうなり、諸法なり、三界なるが故に山海国土、日月星辰なり。仏教とは、万象森羅なり、と」


 美弥子さん……いや、夢野壊色は叫ぶ。

「喰らえ! 諸悪莫作ッッッ!!」



 快晴の空から落雷が起こり、壊色の日本刀に稲妻が宿った。

 壊色えじきがその日本刀を一閃すると、強烈な破壊音が轟いた。



 壊色が総長だったモノの身体を斬ると火花が火球となり、総長の身を包み、総長は全身が燃えたまま地面に落下していった。

 だが、御しきれないその一閃は、土浦九龍の建物群をも、真っ二つに引き裂いた。

 引き裂いたその切り口から発火し、そこら中で化学反応が起こって爆発が起こり、建物群全体が燃え上がりながら沈んでいった。



 壮絶だった。

 この中で生きている人間が、いるだろうか。

 それは、完全な破壊、〈滅却〉だった。


 呆然としていると、いつの間にか、僕がいる時空に、更科美弥子さんが……じゃなかった、夢野壊色が現れた。

 夢野壊色が、僕に投げキッスをする。

「さぁて、少年。仕事の調子はどうだい?」


 スペックが違いすぎる。

 確かにこれは、英雄そのものだ。

 僕は息をのんで、夢野壊色を、見た。

 でも、そこにいるのはどう見ても更科美弥子さんだった……。







「あたしは元麻布呪術機構ヶ退魔士、夢野壊色……。もう、半ば捨てたと思った名前だが、さ。来てやったよ。魔女んとこの部下の〈天狗少女〉がどうしても、って言うからさ。こんな役回り、あたしゃごめんだね。誰かに早く譲りたいよ、ったく」


 僕が閉じ込められた時空で、暗闇坂寂滅は息をのんで、美弥子さんの一挙手一投足を見ている。

「あの伝説の退魔士、夢野壊色では、こちらも勝ち目がないでありんす」

「ふーん、ビキニのおばちゃんさ、じゃあ、ここどいてくんないか?」

 美弥子さん……夢野壊色の声は〈圧力〉が凝縮している。

 寂滅はその〈圧〉だけで神経を削られているようだった。


「要するに、さ。山茶花少年。少年のこころとからだの〈リンクが切れている〉から、この時空間に封じ込まれたままなのさ。リンク切れを起こしているって寸法さ」

「どういうことですか」

「じゃあ、お姉さんが〈解呪〉してあげよう。なぁに、ロジックを発話したらそれと同時に効果は消えるさ。なぜならこれは〈理論の術式〉だから」

 理論……。そう、猫魔もそう言っていた。

 そこが突破口になる、ということか。

「〈いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり〉ってことな。解説しておこう。それが〈解呪〉になる。……時間というのは過去から現在、現在から未来へ、って流れていくものだと普通は考える。だが道元は、時間とは〈現在・現在・現在〉だ、と言っているのさ。〈時空〉、つまり時と空間。時間である〈現在〉と、空間にいる〈存在〉は、対応関係にある、とするんだよな。〈現在1〉には〈自己1〉が、〈現在2〉には〈自己2〉が、〈現在3〉には〈自己3〉が、それぞれ対応する。だが、例えば過去のことで悩むというのは、その対応関係がズレてしまっているということなのさ。それは〈自己1〉と〈現在2〉を対応させようとするようなもの。道元はそれを凡夫の思考法だ、と退けた。そのときそのときのあり方こそすべて。なぜならことごとくすべての存在が〈いま現在〉なのだから、ね。今の山茶花少年はその自己と存在の対応関係がズレて、かみ合わなくなっている。向こうの、現世うつしよにある肉体と存在精神がズレて、かみ合わず、リンクが切れている。いいかい、少年。こういうときは、ね」


 言うと日本刀を片手で構えて。

「タネがわかったなら話は早いのさ。〈解呪〉はすでになされている。あとはパワーでぶった斬って〈山茶花少年のいる現在〉への〈経路〉を、〈道〉を、拓いてやりゃぁ良いのさ。そして、一心に念じて肉体に戻れ、少年! 〈道〉ならあたしが拓いてやるからよ! ハッ!」


 切断。

 この時空ごと、その日本刀は斬った。

 一気に収縮していく時空から飛び出した僕は、肉体に戻ろうと一心に、思念体のまま駆け抜けた。

 僕は僕を見つける。

 僕は現在の僕の中に再び入り込む。


「戻った!」


 僕は叫んだ。

 接続が完了した。

〈みずからの精神の働きに関係ないものは一切実在ではない、という立場〉であった、夢野壊色の力で!

 思念と肉体のリンクが、繋がった!

 疲れて倒れそうだったけど、まだやることは残っている。

 僕はみんなの姿を探す。

 燃えさかる九龍の違法建築の中で。







 翌日。

 午前8時。

 百瀬探偵結社事務所にて。

 僕は干菓子であるところの落雁らくがんを食べていた。

「山茶花、ええなぁ。うちも食べたいんよ」

 もぐもぐさせる僕の口を見て、枢木くるるちゃんがふくれっ面をする。

 事務所のドアを開けてあくびをかみ殺しながら入室してくるのは破魔矢式猫魔だ。

「ふわぁぁ、……おはよう」

「猫魔。今日は起きるの早いじゃないか」

「昨日の今日で、興奮冷めやらぬよ、くっそ。……手も足も出なかったぜ」

「でも、暗闇坂寂滅の身柄は〈赤坂〉に引き渡したんだろ?」

「ああ。アメリカ大使館……というよりも在日CIAに、ね。日本の国内じゃ暗闇坂家の人間は、裁けないだろうからなぁ」

 僕は落雁を咀嚼して飲み込む。

 それからコップの水をグビッと流し込んだ。

 頭を冴えさせるには、糖分が一番。

 猫魔はやる気なさそうな声で、

「寂滅の諸法実相に魔女の汎神論。まあ、くるるのジャンルで言うならば、MIDI規格みたいなもんだったんだろうな」

「どこが?」

「互換性があったのかもしれないな、って。それで、我がことのようにその脆弱性を突くことが出来た。そう見るのが妥当さ。こんなこと言ったら本職のひとたちに怒られるけどね。この世はすべて神に包まれているのか、この世のすべては仏に包まれているのか。教義もなにも違うけど、その自分のフレームの中で、似たような考えが出てきたのは興味深い。実際、『正法眼蔵』って言えばフランスの哲学者、ドゥルーズの参考文献だぜ? 遡ればベルクソンに道元は参照されている」

 そこにくるるちゃん。

「MIDI規格は、各種の〈割り当て〉に互換性を持たせるようにつくられたんや。だから、音源によって、同じ規格でも、音の粒はまるで違うんやよ。ファイル形式としては同じで、違う環境でも鳴らすことが出来るけど、それはファイルを扱うときに互換性があるってだけの話なんよ。音は環境でそれぞれ、違うんやわ」

 僕はその説明にわかったようなわからないような、不思議な気持ちがした。

「まあ、教義もなにもかも違うから、相容れぬもののように普通は感じるけど、おれから見ると近似値を取って見えた、ってだけのことさ。たとえが悪かったかもしれないな。すまない」

「うーむ、わかるような、んん、いや、やっぱりわからない。でも、わからないのはそれだけじゃないよ。九龍の住民も、捜査に来た猫魔やふゆり、それから夜刀神も、みんなを舞鶴めるとが法術の大規模術式で〈仙境〉に飛ばしたって? で、ことが済んだら仙境から追い出して土浦の駅前に移動させてみんなを解放したって。どんな法術だよ! 今回、めるとがいればどうにかなったんじゃないか」

 ふぅ、と一呼吸おいてから病魔。

「いや、違うぞ、山茶花。〈仙境〉に避難させるために、〈冥幽界めいゆうかい〉のボス、〈道教〉の八仙のひとり、徐福じょふくのじいさんの許可を得たんだ。法力があっても、避難所がなかったんだ。おれは徐福のじいさんと前から知り合いだから許可が取れたんだが、それでも許可を得る段になってからもずーっと、徐福のじいさんに渋い顔されて小言をたくさんもらったって言うぜ。めるとの話では。九龍がダメになるのは総長がプレコグでわかっていたから先手を打てただけだし、な」

「今回もまた、暗躍してるひとが多かったね」

「だいたい、だ。事務所の入ってるこのビルは探偵結社の寮も兼ねているけど、山茶花の隣部屋の更科美弥子がそのビルの一室に住んでいるんだ。普通の人間ではなく〈こっち側〉の人間だって薄々感づいていただろうに」

「美弥子さんは美弥子さんだ」

「はいはい」

 肩をすくめる猫魔。

「珠総長は現・暗闇坂家当主、暗闇坂深雨に会いに行ってるし。〈魔女〉がいないところを見計らって、今日はオフの日にしようぜ」

「ふゆりも総長に随伴して〈元麻布呪術機構〉へ向かったんだよね」

「まあ、思うところがあるんだろう。ふゆりは謁見は出来ないにしても、元麻布呪術機構に顔を出すのは、探偵業をやってるなら有益だろうさ」

 僕らがしゃべっていると、総長のペットのオコジョ、ほっけみりんがくるるちゃんの足下を頬ですりすりしながら、

「はにゃはら、はにゃはら~」

 と、可愛くない鳴き声を出した。


 猫魔は言う。

「今回、土浦九龍と水戸アートタルタロスが紛争を起こしてるさなかの出来事だった、という解釈が妥当だ。すると、九龍の建築群が壊れたことでパワーバランスが崩れたし、タルタロスが今後、なんらかのアクションを起こしてくることも考慮しなきゃならない。やることは山積みだぜ。だから、今日は休もう」


 一時、休息か。

 僕も読みたい本がたまっていたし、部屋に引きこもろうかな。

 探偵・破魔矢式猫魔はあくびをしながら、言う。

「誰がなんと言おうと、やっぱりその自らの運命を正当に非難できる奴なんてどこにもいないぜ。かるまや十字架を背負って生きてくのが、おれたちに出来る唯一のことだろう」


 それを聞き流した僕は、考える。

 この闇の先にはなにが待ち構えているのか、を。

 常闇は深く、足下をすくわれそうになる。

 それを必死にこらえて、僕たちは進む。

 願わくば、我が運命よ。

 世界の果てまで僕を連れていってくれ。






〈了〉



参考文献

菊地成孔・大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー』

    

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