7
夜――。
妻は、ワインを飲んだ。僕が使っていた睡眠薬をたっぷり溶かし込んだワインを。
「なんだか、悪酔いしちゃったみたい……」
それが妻の最後の言葉だった。
テーブルに突っ伏していびきをかきはじめた妻は、軽かった。
僕は妻の身体を抱き上げ、浴室へ運んだ。浴槽にはすでに、たっぷりと湯が張ってある。
あの万年筆に〈書かされた〉物語では、夫は水を張った浴槽に妻の顔を沈めた。
だが僕は現実の世界に生きている。妻を殺す以上、罪に問われないための方策は打っておくべきだろう。
なにしろ、ミステリー作家なのだから。
妻は、裸にして沈めればいい。僕はその後で睡眠薬を飲み、いつものように寝室で眠る。
僕が眠っている最中に風呂に入った妻が、誤って溺死したことになるはずだ。
警察は、妻の胃からワインと睡眠薬を検出するかもしれない。
望むところだ。
『なんで酒を飲んだ上に睡眠薬なんか……。滅多に薬に頼ったことはないのに……』
そう嘆いてみせればいいだけだ。
なにしろ僕たちは、近所では仲のいい夫婦で通っている。生命保険も、とうてい殺人に見合う額ではない。
僕には、妻を殺す動機がない。
真実を知っているのは僕と、あの万年筆だけ。
僕の『夢』を刻み込んだ物語は、ほとぼりが醒めるまで屋根裏にでも隠しておけばすむ。
妻から開放されれば、檻は壊れる。
僕はスランプを抜け出せる。
真に自由になれるのだ。
脱衣所についた僕は、ぐったりとした妻の身体を床に横たえ、服を脱がせ始めた。
小柄で痩せた身体に、ふくよかな乳房。15年前から体型はほとんど変わっていない。一時は心から愛し、ずっと愛し続けていたと信じ切ってきた女だ。
だが彼女は、いつのまにか魂を失った。
その代わりに、空虚な身体に僕を閉じ込めた。
――もう、言い訳はよそう。
僕が自由を得るには、妻を殺さなければならない。
理由はそれで充分だ。
たとえ殺人が発覚して牢獄へつながれようとも、後戻りはできない。
僕は全裸にした妻を浴槽へ運び、湯の中に仰向けに降ろした。
そして、頭に両手をかけ、水中に押し込む。
妻は暴れなかった。
僕の物語のように、たった一回、口から気泡を吹き出させただけだった。
弾けた気泡の中からは『どうして……?』という問いさえも聞こえない。
そして、浴槽の中で折り曲げられた脚が、わずかに痙攣した。
僕は両手を湯に突っ込んだまま、待った。
妻は、死ななければならない。
そして僕の願いどおりに、彼女は痙攣を止めた。
浴槽に頭を沈めたまま――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます