夜――。

 妻は、ワインを飲んだ。僕が使っていた睡眠薬をたっぷり溶かし込んだワインを。

「なんだか、悪酔いしちゃったみたい……」

 それが妻の最後の言葉だった。

 テーブルに突っ伏していびきをかきはじめた妻は、軽かった。 

 僕は妻の身体を抱き上げ、浴室へ運んだ。浴槽にはすでに、たっぷりと湯が張ってある。

 あの万年筆に〈書かされた〉物語では、夫は水を張った浴槽に妻の顔を沈めた。

 だが僕は現実の世界に生きている。妻を殺す以上、罪に問われないための方策は打っておくべきだろう。

 なにしろ、ミステリー作家なのだから。

 妻は、裸にして沈めればいい。僕はその後で睡眠薬を飲み、いつものように寝室で眠る。

 僕が眠っている最中に風呂に入った妻が、誤って溺死したことになるはずだ。

 警察は、妻の胃からワインと睡眠薬を検出するかもしれない。

 望むところだ。

『なんで酒を飲んだ上に睡眠薬なんか……。滅多に薬に頼ったことはないのに……』

 そう嘆いてみせればいいだけだ。

 なにしろ僕たちは、近所では仲のいい夫婦で通っている。生命保険も、とうてい殺人に見合う額ではない。

 僕には、妻を殺す動機がない。

 真実を知っているのは僕と、あの万年筆だけ。

 僕の『夢』を刻み込んだ物語は、ほとぼりが醒めるまで屋根裏にでも隠しておけばすむ。

 妻から開放されれば、檻は壊れる。

 僕はスランプを抜け出せる。

 真に自由になれるのだ。

 脱衣所についた僕は、ぐったりとした妻の身体を床に横たえ、服を脱がせ始めた。

 小柄で痩せた身体に、ふくよかな乳房。15年前から体型はほとんど変わっていない。一時は心から愛し、ずっと愛し続けていたと信じ切ってきた女だ。

 だが彼女は、いつのまにか魂を失った。

 その代わりに、空虚な身体に僕を閉じ込めた。

――もう、言い訳はよそう。

 僕が自由を得るには、妻を殺さなければならない。

 理由はそれで充分だ。

 たとえ殺人が発覚して牢獄へつながれようとも、後戻りはできない。

 僕は全裸にした妻を浴槽へ運び、湯の中に仰向けに降ろした。

 そして、頭に両手をかけ、水中に押し込む。

 妻は暴れなかった。

 僕の物語のように、たった一回、口から気泡を吹き出させただけだった。

 弾けた気泡の中からは『どうして……?』という問いさえも聞こえない。

 そして、浴槽の中で折り曲げられた脚が、わずかに痙攣した。

 僕は両手を湯に突っ込んだまま、待った。

 妻は、死ななければならない。

 そして僕の願いどおりに、彼女は痙攣を止めた。

 浴槽に頭を沈めたまま――。

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