薬の力を借りた、長く深い眠りから目が覚める。

 深海から釣り上げられるシーラカンスの気分は、こんなものだろうか。

 ゆっくりと目を開ける。

 ベッドの脇に座っていたのは、妻だった。

 その瞬間、記憶が戻った。

 僕は叫んでいた。

「まさか! なんで君が⁉」

 見慣れた服を着た妻は、見慣れた微笑みを浮かべながら僕を見おろしていた。

「あなた……忘れっぽいのね。昔、溺れかけたあなたを救けた後、教えてあげたはずよ。わたし、海育ちだって」

 妻はベッドに横たわった僕の前髪に手をのばした。

 僕は身を捩った。

 が、身動きできない。

 両手両足が、細い縄でベッドの四隅に縛り付けられていた。

「君……一体、何を……?」

 妻は僕の髪を撫で付けながら、穏やかに微笑んだままだ。

「海育ちって言っても、ちょっと特殊でね。わたしが生まれたのは、海女の村なの。だからわたしも、小さい頃から海に潜って遊んでいた。息は、人の何倍も続くのよね……」

 ようやく妻が言わんとした事が理解できた。

「君は……息を止めて死んだふりをしていたのか?」

 屈託なくうなずく。

「馬鹿ね。ミステリーを書いているくせに、簡単に騙されちゃうんですもの」

「なぜ……なぜ、そんなことを……?」

「決まっているじゃない。あなたに自分の才能の限界を悟らせるためよ」

「限界……って?」

 妻は、僕の問いをはぐらかせるように続けた。

「あれは、わたしが賞を取ってデビューしたすぐ後のことだった。才能を競い合っていた先輩がいたの。でも彼女、突然自殺してしまって……」

 妻は一体、何を話そうとしている……?

 狂ったのか……?

 妻は僕の怯えを嘲笑うように、唇の端を歪めた。

「彼女、わたしに形見を残していたわ。一本の万年筆」

 血の気が失せた。

 妻はゆっくりとうなずいた。

「そう。送り主の分からない万年筆――あなたが使ったあの万年筆は、もともとわたしの持ち物だったの」

 分からない。どういうことだ……?

「あなたも気づいているんでしょう? あの万年筆は、人の心に潜んでいる欲望を暴く力があるようね。わたしは2作目を書いている最中に、そのことに気づいた。そして、より深い物語を書くために、万年筆の力に身を任せてしまった……。その時、なぜ先輩が自殺したかを悟ったの。このペンの力はとても強くて、感性が鋭い人間にとっては致命傷になるのよ」

 一体、何を言っている……?

「このまま書き続ければ、わたしは発狂する……そう確信したわたしは、気力を振り絞ってペンを捨てた。それ以来、わたしは自分で小説を書くことをやめた。書き続ければ、いつかは自分の心に潜む欲望に滅ぼされてしまうと分かったから。だから、あの万年筆はずっと机の引き出しの底にしまっておいたの」

 僕は、からからに渇いた喉から声を絞りだした。

「やっぱりあのペンは、化け物だったのか……」

「そう考えてもいいかもね。先輩は万年筆については何も教えてくれなかったから、なぜそんな力が備わったかは想像しようもないけれど。でも、彼女が万年筆の魔力に負けて命を奪われたことは間違いない。だから彼女は、最大のライバルだったわたしに万年筆を託して、道連れにしようとしたんでしょうね」

 僕は気づいた。

「そんな物騒なものを、なぜ僕に……?」

 妻は穏やかに微笑んだ。

「書けなくなられては困るから、よ」

 急に腹が立った。

「なんだと⁉ 僕をそんな危険にさらしてまで、君には収入が大事だったのか⁉」

 妻は、さもおかしそうに笑う。

「やっぱり、ね。あなたには、いつだって肝心なものが見えていないんだから」

「なんだと!」

 妻は、蔑むような視線で僕を見つめた。

「書けなくなって困るのは、収入が途絶えるからじゃない。そんなもの、世間体ばかり気にするあなたが欲しがったこの家を売り払ってしまえばどうにでもなるもの。わたしは、わたしのパソコンを失いたくなかっただけ」

 やはり狂っている。言っていることが支離滅裂だ。

「あら、なに、その目は? わたしの頭がおかしくなったと思っているの? 仕方ないわね……それじゃあ、噛み砕いて最初から説明してあげるわ」

 何を言っているんだ……?

「あの万年筆を使ってしまったわたしは、自分自身が恐ろしくなって何も書くことができなくなった。なのに、書きたい気持ちは消せない。アイデアも次々に浮かんでくる。それが、作家としての性だったのよね。だからわたしは、わたしに代わってわたしのアイデアを文章にしてくれる人物を探したの」

 パソコン……それはつまり、僕のこと――なのか?

「その通り。わたしがミステリー研究会に入ったのは、夫となってわたしの物語を書いてくれる男を見つけるためだったのよ」

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