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僕はつぶやいた。
「それが、僕だったのか……?」
「あら、やっぱりそう考えないとプライドが満たされないかしら? でも、ちょっと思い上がってるわね。あなたは、第2候補にすぎなかったのよ。最初に目をつけたのは杉山君。でも彼って、我が強すぎたから……」
杉山は、海で溺れ死んだ僕の親友だ……。
「他人の言いなりになるには才能がありすぎたのね。彼の文章なら、わたしも安心して物語を預けられたんだけど……」
だが、杉山は死に、僕が救けられた。
まさか……。
「君は……杉山を殺したのか……?」
妻は微笑みを絶やさない。
「ひどいことを言わないで。救けなかっただけ」
「だから僕の親友は死んだんだぞ!」
「酔っ払って海に入ったのはあなた方の勝手。どっちみち、わたし1人じゃ男2人は救けられない。他の部員たちは、テントで大いびきをかいていたんですから。あなた、杉山君の代わりに死にたかった?」
言葉が出なかった。
妻は続けた。
「あなたの文章をプロのレベルにまで洗練させるのは大仕事だったわ。手取り足取り指導して10年間……やっとここまで育てたのに……いまさらスランプだなんて、許せるわけがない」
育てた?
僕が妻に育てられた?
「あら、疑問の余地がない事実じゃなくて? 処女作のアイデアは、わたしがあげたのよ。編集者もわたしが口説き落として、やっとの思いでデビューさせたんじゃない。今だって、あなたが1人で書いたものは使い捨ての屑ばかり。プライドだけは高いから、自分がわたしに操られていたことを認めたくはないでしょうけど」
僕はうめいた。
「操る……だと? そんなにしてまで、君は……狂っている……」
妻は当然だとでもいいたげに肩をすくめた。
「作家なんて、みんなどこかが狂っているものよ。あなたのようなまがい物でなければ、ね。確かにわたしも、狂っているわよね」
本当に、狂っている……。
「でも、分かって。書きたいのに書けない。そんな苦しみは、地獄で石を積み続けるのと同じ。せめて書きたいものを世に残したかった……。たとえ作者の名が他人であっても、それでわたしの一部が歴史に残るんですから。無力なままでアイデアを埋もれさせるより、はるかに耐えやすい苦痛だわ。自分を殺すことなく作品を残すには、他の方法なんかなかったのよ」
「自分で書けばいいじゃないか!」
妻の言葉に、なぜか悲しみがにじむ。
「……一度あの万年筆を握ってしまったら、もう普通の言葉では満足できない。恐ろしいほどの魔力なの。でも、あの万年筆で書けば、わたしはわたしの物語から抜け出せなくなってしまう。どんどん深く自分の中に入り込んで、醜さや残酷さの全てを抉り出すまでは還ってこられない。しかも還ったときには、もう元の自分には戻れない。先輩のように、その先にはきっと死しか残されていないんだわ……。それが分かってて書き続けるのは、自殺と同じでしょう? わたし、クリスチャンだから、自殺は許されないの」
「何をいまさら、信仰だなんて……。僕という人間を操ることなら、神が許すのか⁉」
妻は、再び微笑んだ。
「人間? そうじゃないわ、あなたはわたしが作った、わたし専用のパソコン。神様は、道具には関心がない。最初から人間に使われるために生み出されたものなんですから。だめよね、機械が自由を望むなんて。故障した機械は、修理するしかないじゃない」
修理……だと?
「あなたにあの万年筆を渡したのは、ショックを与えたかったからよ。わたしにとっては致命的な結果になってしまったけれど、あなた程度の感受性しかないなら、活を入れることにしかならないだろうと思ったから」
僕はつぶやいた。
「もし僕が、君と同じように書けなくなったら、どうするつもりだったんだ……?」
「あなただったら、使えなくなったパソコンをどうする?」
狂っている……狂っている……。
「あら、そんなに気味悪そうな顔はしないで。わたしは何も心配していなかったもの。あの万年筆は、凡庸な人間には凡庸な働きしかしないと信じていたから。事実そうだったでしょう? あなたは、自分がわたしに自由を奪われていることに気づいた。でも、わたしの支えを失ったら、自分さえもが消えてなくなることまでは考えが至らなかった。それが、あなたの限界」
「嘘だ。君がいなくなったって、僕は僕だ」
「それは事実ね。わたしがいなくなったら、あなたは作家を気取るだけの無能な中年男。それがあなたの真の姿」
「そんなことはない! 僕には何万人もの読者がついている!」
妻は不意に表情を曇らせ、溜め息をもらした。
「彼らは、わたしの物語を待ち望んでいるのよ。あなたのふやけた文章ではなく、ね。やっぱりあなた、修理が必要だわ」
そして妻は、サイドテーブルに手をのばした。そこから果物ナイフを取り上げ、ゆっくりと僕の顔に近づけてくる。
僕はもがいた。だが、ナイフの先を避けることはできなかった。
「やめてくれ!」
妻は鼻の先で笑った。
「わたしを〈殺した〉あなたに、そんなことが言えて? フェアじゃないわよね」
「僕が悪かった!」
「謝ってすむこと?」
「殺さないでくれ!」
僕は堅く目を閉じた。
妻がナイフを振るう気配を感じる。
と、右の手首が自由になった。
妻は、縄を切ったのだ。
「誰が殺すなんて言ったかしら? わたしはあなたを修理したいだけ。二度と逆らわないように」
妻は、左腕の縄も切った。
僕は上体を起こして叫んだ。
「何が望みだ⁉」
妻は、足の縄を切りながら答えた。
「望みなんて大それたものはないわよ。今までどおり、あなたにわたしの物語を書いていてほしいだけ。わたしが生きた証を、わたしに代わってこの世に残してくれればいいだけ」
「つまり、この先ずっと君の奴隷になれと……?」
「まだ分からないの? 今までだってあなたは、わたしの一部にすぎなかったのよ。いまさら自由がほしいだなんて、笑わせないで」
だが、それでは、僕とは一体何なんだ……?
妻は、じっと僕を見つめた。
「あなたがあの万年筆で書いた物語は、わたしが預かったわ。わたしが死んだら『夢』は発表される。同封したわたしの口述データも、ね。あなたがわたしを溺れさせようとしたことを吹き込んであるの。法的にはなんの価値もないけれど、ワイドショーに渡ったら恐いわよ。当然、あなたは妻殺しの容疑者。作家どころか、きっと人間としてさえ扱われなくなる。うまくわたしから逃れることができても、あなた1人では評価に堪える作品を書くことは不可能。あなたはわたしのパソコンにすぎなかったんですから。その時こそ、妻のわたしが過去の作品をコントロールしていたことを全ての読者が思い知るでしょうね。この先一生『妻の盗作で稼いでいた偽作家』と陰口を言われながら暮らすことができて? あなたの自尊心が、そんな屈辱に耐えられて?」
ようやく、僕の中に反論のきっかけが芽生えた。
そうだ……僕にだって、誇りはある。
「僕が……自分で書いたら、どうする気なんだ?」
妻は小さくうなずいた。
「それこそが、これからわたしがやろうとしていること。あなたは今から、1人で小説を書くのよ。あの万年筆は燃やしてしまったから、もう魔力には頼れない。もちろん、わたしも絶対に手伝わない。そうすれば、いくら鈍感なあなたでも気づくはず。わたしがいなければ、自分が作家であり続けることができないという、単純な事実に。あなたの『夢』は、これからもずっと続くのよ。あなたにとっては、逃れようのない悪夢かもしれないけれど……」
その時僕は、初めて真の恐怖を知った。
僕に書けるか……?
本当に、書けるのか……?
妻を頼らずに、たった1人で……。
もし、何も書けなかったら……。
僕という存在は、一体どうなってしまうのか……?
自分が作家であったという自信が、波に洗われる砂の城のように崩れていく――。
僕にできるのは、全てが夢であるように祈ることだけだった。
それが僕の夢なのか、妻の夢なのか、あるいは〈もののけ〉と化した万年筆が見た夢なのか――
もはやそれすら問題ではなかった。
――全文終了
「夢」 岡 辰郎 @cathands
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