4
玄関を出ようとする僕の背中に、妻がキッチンから声をかけた。
「あら、またお出かけ?」
僕は振り返らずに答えた。
「ちょっと、ね」
妻と顔を合わせるのが恐かった。
長年付き合った彼女なら、僕の顔色が普通ではないことに気づくだろうからだ。自分でも、血の気が失せていることを感じる。
妻は続けた。
「どっちに行くの? お買い物、頼める? 牛乳が切れちゃったの。コンビニに寄れるかしら?」
妻の口調は、退屈な日常、そのものだ。
日が暮れ、日が昇り、夫婦ともに年を取っていく。毎日同じ事を繰り返しながら。
それが、全うな人生というものだ。
目を見張るような激変や幸運は、滅多に起こるものではない。宝くじの賞金の使い道を語ることすら笑い話に近いというのに、人が魔法を手に入れられるはずがない。
普通なら……。
僕は不意に、怯えている自分が馬鹿らしくなった。
振り返る。
「コンビニって、原稿用紙は置いてあるかな?」
廊下に立った妻は、エプロンで拭いていた手を止めた。
「原稿用紙……? 今時? 文具屋さんならあるでしょうけど……パソコン、故障したの?」
僕は微笑んで見せた。
「ちょっとした気分転換さ。いつまでも怠けているわけにいかないからね」
妻は、心から安心したような微笑みを返した。
「良かったわ……やっと書けるようになったのね。正直いって、いいお話を何本も断っていたから、心配で……」
家計を預かる身であれば、当然のことだ。
中堅どころと目される作家であっても、コンスタントに作品が出せなければ収入は不足する。
特に、家の頭金に貯金を使い果たした後だ。妻が実家に先月分のローンの返済金を借りたことも、知らないわけではない。
妻は妻なりに心を傷め、僕にプレッシャーをかけまいとして努めて明るく振る舞っていたのかもしれない。
「心配かけたね」
妻は溜め息を漏らした。
「本当に。このままスランプが続いたら、家を手放すことも考えなくちゃと思っていたのよ。もしかして、今朝送られてきた万年筆のおかげかしら?」
妻は、気の効いた冗談でも言ったように微笑んでいる。
冗談ではすまされない。
心の中を見透かされたような気がして、背筋に寒気が走った。
ほんの30分前――。
パソコンを諦めてペンを取ったとたんに物語は再開されて、チラシは細かい文字で真っ黒に埋まってしまったからだ。
理不尽なことは分かっていても、僕はあの万年筆が特殊な力を持っていると信じないわけにいかない。
人が秘めている創作能力を引き出す、魔力を宿した万年筆……。
江戸時代の民衆は、身近な道具たちが100年を経ると妖怪に変身すると言い習わした。
むろん、その説を信じていたわけではない。何者かが僕に送り付けてきた万年筆は、それほど古いものでもない。
だが僕は、明らかに異様な力を感じた。自分の直感は信じないわけにいかない。
本当にあの万年筆に魔力が備わっているかどうかを確かめる方法は、1つだけしかない。
物語を終わらせるのだ。
たとえ〈もののけ〉の助けにすがろうとも、僕はスランプを脱したい。
物語を書きたい。
作家であり続けたい。
――――――――――――――――――――――――――――
そして私は、気を失っていた妻の頭を浴槽に沈めた。波打つ水面に、妻の髪が広がって揺らめく。
とたんに、妻は激しく身を捩った。肺に水を吸い込んで、意識を回復したのだ。
私は全身の体重をかけて妻の背中に覆いかぶさり、彼女の頭をさらに深く沈めた。
妻の口から、大量の気泡が吹き上がる。
私は弾ける気泡の中に、彼女の断末魔の言葉を聞いた。
「どうして……?」
妻の身体は酸素を絶たれ、激しく痙攣しはじめた。
私は答えなかった。
答えたところで、彼女に理解できるはずがないからだ。
結婚してからおよそ10年。幸せな生活を送ってきた。子供はできなかったが、その代わりは犬でも事足りた。私たちは愛し合い、分かち合い、信じ合っていた。
それが、私と妻の関係だった。
少なくとも、私も妻も、そう信じていた。周囲の人たちからも、仲睦まじい夫婦だと認められていたはずだ。
だが私は、自分が〈幸せな夫〉を装ってきただけだったことに気づいてしまった。
『アナタ・ノ・ユメ・ハ・ナンデスカ?』
不意に心の中から沸き上がってきた、そのたった一言のせいで。
私は反射的に答えていた。
自分の夢は、自由を得ることだ、と。
私は、檻の中で暮らしていたことに気づいてしまった。
命の恩人である彼女は裏切れない。
それはアンフェアにすぎる。
だから私は2人だけの暮らしから片時も逃れることができなかったのだ。
作家としての仕事も、彼女なしには存在できない。
だとしたら、真に私であると言い切れる自分が、今の私の一体どこにあるのか……?
むろん、最初は妻を愛していた。
愛していた――と思う。
だが時間は、私を卑屈に変えた。
私は私自身さえ気づかぬうちに、彼女の付属物になり下がっていたのだ。
私は、私に戻りたかった。
真に、自由に。
そのためには、私の自由を拘束する存在を破壊するしか手段はない。
檻は、壊さなければならない。
妻は、死ななければならないのだ。
そして私の願いどおりに、彼女は痙攣を止めた。
冷たい水に頭を沈めたまま――。
――了
――――――――――――――――――――――――――――
およそ50枚の短篇が、いつのまにか書き上がっていた。
『了』の文字を書いた瞬間、詰めていた息がふぅーと漏れ出た。何物にも例えようのない満足感が、胸の中に沸き上がった。
書けた……。
僕は再び、作家に戻ることができたのだ……。
あまりの喜びに、不覚にも涙がにじむ。
同時にタイトルが頭に浮かんだ。
『夢』
創作に行き詰まった夫が精神に異常をきたし、ついには妻を殺す物語だ。
『シャイニング』のパクリか?
だが、書き直すつもりはない。
その必要もない。
僕自身の中から湧き上がった物語に間違いないのだから。
僕は、空けてあった原稿用紙の冒頭に、タイトルを書き込んだ。
そして導入部分に目が移る。
推敲が必要だ。スランプを乗り越えて脱皮した新たな自分を確かめて、誉めてやらなければならない。
僕は万年筆を置き、自分が書き終えたばかりの物語に目を通しはじめた。そして、まるで取りつかれたようにその物語の世界に引きずり込まれた。
信じられなかった。
僕は明らかに、その物語を〈初めて〉読んでいた。
推敲どころの話ではない。
自分が書いたはずの物語が、まるで見知らぬ作品だったのだ。
半ばまで読み進んだところで、僕の身体は硬直した。もはや、原稿用紙をめくる腕の他には身体を動かすことができない。
これは、夢だ……。
悪い夢なんだ……。
本当に、万年筆に魔力が備わることがあってたまるか……。
だが、最悪のスランプに陥っていた僕が〈見知らぬ物語〉を書いたという事実は、他に説明のしようがなかった。
怯えきった僕は、それでも物語を読み進めた。目が原稿用紙を埋めた文字に吸い寄せられ、離すことができなくなっていた。
文章を理解していたのではない。
まるでコンピュータが二進法に変換した記号を記録するように、機械的に文字だけを拾っていたのだ。だが、僕の脳の中にその文字の連なりが次々と積もり重なっていく実感は、確かにあった。
そして物語は、終わった。
『了』の文字を見たとたん、細胞の核に封じ込められたDNAのように折り重なっていた文字の固まりが、一瞬で解けた。
僕は物語の全てを理解した。
そして、息を止めた。
これは、僕自身だ……。
僕は心の底で、自由を求めていたのだ。
ずっと……。
僕は理解した。
妻との穏やかな結婚生活を演じながら、自分が常に真の自由を求め続けていたことを……。
僕にとっての妻は、僕の自由を容赦なく侵す存在であったことを……。
そして僕は、現実を認めた。
これは、僕の物語だ。
自由になるために妻を溺死させる作中の〈私〉は、僕そのものだ。
僕が求めていた自由とは、すなわち妻の死なのだ。
僕は、意識を集中して原稿用紙から視線を引き剥がし、万年筆を見つめた。
全てはここから始まった。
誰が、なぜ送ってきたのかも分からない1本の万年筆――。
それを握ったとたんに、僕は僕自身の無意識の世界で蠢いていた欲望を文字に変えた。文章に変えて初めて、自分が真に求めていたものの正体に気づいた。
今なら、スランプの理由が分かる。
自由を得られない焦燥感が日一日と膨れ上がり、僕から少しづつ創作意欲を削り取っていたのだ。無意識の領域で肥大化した渇望が、強い集中力を必要とする意識的な創作作業を妨げていたのだ。
そして、それが臨界に達したとき、僕はキーボードに触れることすらできなくなった――。
この万年筆は、無意識の領域に施された封印を解くための装置だったに違いない。何の変哲もない万年筆の形の中に、心の底に塗り込めた真実を明らかにさせる魔力が隠されていたのだ。
だが――。
僕が妻の死を願っているからといって、短絡的に彼女を殺すことは許されない。
自分の自由のために他人の自由を奪うことは、不等にすぎる。
そんな非道は、僕の倫理に反する。
ならば僕はどうすればいい……?
じっと万年筆を見つめるうちに、不意に笑いがこみあげてきた。
僕は、フェアに生きたい。
常にそう願って生きてきたのだから、妻の言い分も聞くべきなのだ。
少なくとも、殺す前に。
妻にも、この万年筆を持たせてみよう。
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