5
僕は努めてにこやかに言った。
「ねえ君、君も久しぶりに小説を書いてみないか?」
妻はテーブルのコーヒーの湯気越しに、異星人を見るような目で僕を見つめた。
「なによ、いきなり。わたしがここ15年ペンを取ってないこと、知ってるくせに」
「でも、一時は文壇の寵児だったじゃないか。才能は保証されている。意欲さえあれば、敗者復活戦は用意されているぜ」
「わたしは、敗者なんかじゃないわよ。今じゃ、ただのおばさん。それに才能は、枯れることもあるの」
「でも、僕の作品には貴重なアイデアを惜しみなく提供してくれている。君の才能は決して枯れていない」
妻はじっと僕を見つめ、うっとうしそうに溜め息をもらした。
「書けなくなった……って、言ったはずなのに」
僕はうなずいた。
「知っている。だから、このペンを使ってみたら?」
僕はポロシャツのポケットから抜いた万年筆を、妻の前に滑らせた。
妻の細い指が万年筆にそっと触れた。
「これ……今朝送られてきた万年筆? 何かの冗談? どんな道具を使ったって、書けないものは書けないわよ」
「そうとは限らない。僕は、その万年筆を握ったとたんに、短篇を仕上げた」
妻は目を丸くした。
「え? たった半日で?」
僕はうなずいた。
「相変わらず、パソコンでは何も書けない。なのにそのペンを握ると、すらすらと物語が溢れ出てくる。まるで魔術だ。自分でも信じられない」
なぜだろう。妻に嘘をつこうという気は全然起こらなかった。
やはり、フェアに生きたいと願っているからなのか?
妻が身を乗り出す。
「何枚?」
「52枚」
「ジャンルは?」
「ホラー……になるのかな」
「読みたい」
「僕も意見を聴きたい。でもその前に、君にも何か書いてほしいんだ」
妻の表情が曇った。
「なぜ……?」
「君が書いたものを読みたいから」
「だって、わたしのアイデアはみんな教えてあげているのに……」
「君の文章が読みたいんだ。君自身のアイデアを、君自身の言葉で書いた物語を、ね」
妻は顔を背けた。
「いまさら……」
「長いスランプだった……そう思えば『いまさら』とは言えない。僕は、ただのおばさんではない君を見たい」
「重荷よ」
「もう作家は夢ではなくなったのかい? 一緒に暮らし初めた頃は、書けない自分をあんなに責めていたのに」
「思い出したくない。なんで急にそんなことを……?」
「僕自身が、スランプを脱したから」
「わたしは、それだけで充分。元の暮らしに戻れるだけで」
元の暮らし――。
それこそが、僕の自由を奪った〈檻〉だ。
「でも僕は、読みたい。君を知りたい」
「15年も一緒に暮らしてきたのよ? これ以上、何を知りたいの?」
反射的に、答えが口を突いていた。
「本当の君を」
妻は、ぎょっとしたように僕を見つめた。しばらくしてから、小さくうなずく。
「分かったわ。やってはみます。ちょうど、漠然としたアイデアが浮かんでいたところだから」
僕は改めて万年筆を妻の前に押し出した。
「このペンを使うんだよ」
妻はじっと万年筆を見つめる。
「でも、これって、誰が置いていったんだろう……? あなた、気味悪くないの?」
僕は自信満々に微笑んだ。
「悪魔か神か……誰がくれたものでも、関係はない。僕は物語が書けるだけでいい」
妻は肩をすくめた。
「神とか悪魔だなんて、大げさすぎると思うけど……。とにかく、やってみるわ。でも、必ず1人にしてね」
妻はかつて僕に、1人にならなくては書けないタイプだと語ったことがある。
僕と結婚してから何度か書こうとした時も、必ず深夜に1人で部屋に閉じこもったものだ。
「『つう』のお願い……か。その言葉を聞いたの、何年ぶりだろう」
僕は『夕鶴』に引っ掛けて、彼女のクセをそう呼んでいたのだ。
10年以上昔の思い出だ。
妻は、喜びと困惑が入り交じったような複雑な微笑みを浮かべた。
「でも、期待しないでね。わたし、全然自信がないから……」
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