僕は努めてにこやかに言った。

「ねえ君、君も久しぶりに小説を書いてみないか?」

 妻はテーブルのコーヒーの湯気越しに、異星人を見るような目で僕を見つめた。

「なによ、いきなり。わたしがここ15年ペンを取ってないこと、知ってるくせに」

「でも、一時は文壇の寵児だったじゃないか。才能は保証されている。意欲さえあれば、敗者復活戦は用意されているぜ」

「わたしは、敗者なんかじゃないわよ。今じゃ、ただのおばさん。それに才能は、枯れることもあるの」

「でも、僕の作品には貴重なアイデアを惜しみなく提供してくれている。君の才能は決して枯れていない」 

 妻はじっと僕を見つめ、うっとうしそうに溜め息をもらした。

「書けなくなった……って、言ったはずなのに」

 僕はうなずいた。

「知っている。だから、このペンを使ってみたら?」

 僕はポロシャツのポケットから抜いた万年筆を、妻の前に滑らせた。

 妻の細い指が万年筆にそっと触れた。

「これ……今朝送られてきた万年筆? 何かの冗談? どんな道具を使ったって、書けないものは書けないわよ」

「そうとは限らない。僕は、その万年筆を握ったとたんに、短篇を仕上げた」

 妻は目を丸くした。

「え? たった半日で?」

 僕はうなずいた。

「相変わらず、パソコンでは何も書けない。なのにそのペンを握ると、すらすらと物語が溢れ出てくる。まるで魔術だ。自分でも信じられない」

 なぜだろう。妻に嘘をつこうという気は全然起こらなかった。

 やはり、フェアに生きたいと願っているからなのか?

 妻が身を乗り出す。

「何枚?」

「52枚」

「ジャンルは?」

「ホラー……になるのかな」

「読みたい」

「僕も意見を聴きたい。でもその前に、君にも何か書いてほしいんだ」

 妻の表情が曇った。

「なぜ……?」

「君が書いたものを読みたいから」

「だって、わたしのアイデアはみんな教えてあげているのに……」

「君の文章が読みたいんだ。君自身のアイデアを、君自身の言葉で書いた物語を、ね」

 妻は顔を背けた。

「いまさら……」

「長いスランプだった……そう思えば『いまさら』とは言えない。僕は、ただのおばさんではない君を見たい」

「重荷よ」

「もう作家は夢ではなくなったのかい? 一緒に暮らし初めた頃は、書けない自分をあんなに責めていたのに」

「思い出したくない。なんで急にそんなことを……?」

「僕自身が、スランプを脱したから」

「わたしは、それだけで充分。元の暮らしに戻れるだけで」

 元の暮らし――。

 それこそが、僕の自由を奪った〈檻〉だ。

「でも僕は、読みたい。君を知りたい」

「15年も一緒に暮らしてきたのよ? これ以上、何を知りたいの?」

 反射的に、答えが口を突いていた。

「本当の君を」

 妻は、ぎょっとしたように僕を見つめた。しばらくしてから、小さくうなずく。

「分かったわ。やってはみます。ちょうど、漠然としたアイデアが浮かんでいたところだから」

 僕は改めて万年筆を妻の前に押し出した。

「このペンを使うんだよ」

 妻はじっと万年筆を見つめる。

「でも、これって、誰が置いていったんだろう……? あなた、気味悪くないの?」

 僕は自信満々に微笑んだ。

「悪魔か神か……誰がくれたものでも、関係はない。僕は物語が書けるだけでいい」

 妻は肩をすくめた。

「神とか悪魔だなんて、大げさすぎると思うけど……。とにかく、やってみるわ。でも、必ず1人にしてね」

 妻はかつて僕に、1人にならなくては書けないタイプだと語ったことがある。

 僕と結婚してから何度か書こうとした時も、必ず深夜に1人で部屋に閉じこもったものだ。

「『つう』のお願い……か。その言葉を聞いたの、何年ぶりだろう」 

 僕は『夕鶴』に引っ掛けて、彼女のクセをそう呼んでいたのだ。

 10年以上昔の思い出だ。

 妻は、喜びと困惑が入り交じったような複雑な微笑みを浮かべた。

「でも、期待しないでね。わたし、全然自信がないから……」

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