6
翌朝――。
僕が居間へ降りると、妻はキッチンで鼻歌を唄っていた。
僕はカウンター越しに妻の背中に声をかけた。
「お早よう。ご機嫌だね」
妻は振り返った。
「あら、ゆっくりだったのね。散歩は、お昼から?」
僕は無言でうなずいた。
昨夜はなかなか寝付かれなかったのだ。
考えれば考えるほど、万年筆の魔力が気になった。その力にすがって書き記した物語こそが、僕の真の願いであったことが深く理解されていった。
そして、同じ万年筆を握った妻が何を書いたかを、一刻も早く知りたかった。
僕は、自然な口調に聞こえるように祈りながら尋ねた。
「で、何か書けたかい?」
妻は穏やかに微笑んだ。
「ダメよ。決まってるじゃない」
僕は、勢いをはぐらかされたように感じた。
「だめ……って? 何も書けなかったの?」
妻は、カウンターに味噌汁の腕を置きながらうなずく。
「言ったでしょう、期待しないでって。やっぱりわたし、枯れちゃったみたい。文学的更年期障害……なんちゃってね」
妻は、あくまでも明るく屈託がない。能天気だとののしりたくなるほどに。
馬鹿な。
あの万年筆には、心の奥に秘めた欲望を曝け出す力があるはずなんだ。そうでないなら、なぜ僕はあんな物語を――いや、自分の真の願いを文章に記すことができた?
もしかしたら、あの万年筆は持ち主を選ぶのかも……。
僕は、自分の声にわずかな棘を感じた。
「本当に書こうとしたのかい?」
妻は湯気を起てるご飯を差しだす。
「一応は、ね」
いらだちが高まった。
「一応って……。そんな、だらけた気持ちで?」
妻は、我関せずといった風情で納豆の小鉢を並べた。
「あら、ずいぶん絡むのね。絶対に書きます――なんて約束していないわよ。これでも、2、3時間は原稿用紙に向かっていたんですから」
それが事実なら、やはり妻は書けなくなっているに違いない。
だが、僕は諦めきれなかった。
「でも……」
妻は、僕の反論を打ち切ろうとするように言った。
「仕方ないじゃない。わたしの人生は18才で終わっているんだから。もちろん、文学的には、という意味ですけど」
それは、これ以上心の平安を乱すなという命令に聞こえた。
そんな馬鹿な……。
妻が書いた物語が読めなくては、僕は……。
不様にうろたえて食事に手を付けることも忘れた自分に、不意に気づいた。
僕はなぜこんなに焦っている?
妻は僕を見つめた。
「わたし……何か変なことを言った?」
妻の文章が読めないからといって、何が変わる?
「あなた、なんだか変よ?」
フェアでないことは確かだ。
僕は、フェアであるべきだという自分の心の声に従った。同じように万年筆の力を与えなければ、妻の関係をどう〈調整〉すべきかは判断できないと確信していた。
だから、チャンスを提供した。
チャンスをどう使うかは、妻の問題じゃないか。
それ以上、僕に何ができるというんだ?
「ねえ、あなたったら!」
僕は我に返った。
カウンターから身を乗り出した妻が、じっと僕の顔を見つめている。
その瞬間、妻の顔が他人のように――いや、むしろ厚い板の壁のように見えた。
僕を閉じ込め、深い地中に埋められた、棺桶の壁――。
僕は意を決して微笑んだ。
「なんだか、ボーとしてて……。昨日は、興奮してよく眠れなかったんだ」
妻は微笑み返した。
「それもそうか。やっと書けたんだものね。今夜は、ぱーっとお祝いしようね」
彼女の微笑みには全く陰りがなかった。自分が書けなくなったことを、まるで痛みには感じていない。
そればかりではなく、僕が何を迷い、焦り、そして恐れているか、まるで感じていない。
感じようともしていない。
そこにいるのは、まさに良き妻を演じるだけの魂が抜けた操り人形だった。
僕は思い知った。
これが妻の真実の姿なのだ。
やはりあの万年筆は、人の真の姿を暴き出すものだったのだ。
妻は嘘は言っていない。才気あふれる文学少女は、まさに18才で死んだ。
今ここにいる女は、その脱け殻にすぎない。だから彼女は、あの万年筆を握っても書くことができなかったのだ。
書けない、のではない。
書くべき心が空っぽで、もはや中には陳腐な日常茶飯事しか残されていないのだ。
僕は、そんな女に自由を奪われていたのだ。
長い間、ずっと……。
これこそ、フェアとはいえない。
僕は、彼女が今でも作家であると信じていたからこそ、万年筆を持たせた。彼女の主張にも耳を傾けるべく、チャンスを与えた。
全ては無駄だった。
どうやら僕には、彼女を殺す権利が与えられたようだ。
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