翌朝――。

 僕が居間へ降りると、妻はキッチンで鼻歌を唄っていた。

 僕はカウンター越しに妻の背中に声をかけた。

「お早よう。ご機嫌だね」

 妻は振り返った。

「あら、ゆっくりだったのね。散歩は、お昼から?」

 僕は無言でうなずいた。

 昨夜はなかなか寝付かれなかったのだ。

 考えれば考えるほど、万年筆の魔力が気になった。その力にすがって書き記した物語こそが、僕の真の願いであったことが深く理解されていった。

 そして、同じ万年筆を握った妻が何を書いたかを、一刻も早く知りたかった。

 僕は、自然な口調に聞こえるように祈りながら尋ねた。

「で、何か書けたかい?」

 妻は穏やかに微笑んだ。

「ダメよ。決まってるじゃない」

 僕は、勢いをはぐらかされたように感じた。

「だめ……って? 何も書けなかったの?」

 妻は、カウンターに味噌汁の腕を置きながらうなずく。

「言ったでしょう、期待しないでって。やっぱりわたし、枯れちゃったみたい。文学的更年期障害……なんちゃってね」

 妻は、あくまでも明るく屈託がない。能天気だとののしりたくなるほどに。

 馬鹿な。

 あの万年筆には、心の奥に秘めた欲望を曝け出す力があるはずなんだ。そうでないなら、なぜ僕はあんな物語を――いや、自分の真の願いを文章に記すことができた?

 もしかしたら、あの万年筆は持ち主を選ぶのかも……。

 僕は、自分の声にわずかな棘を感じた。

「本当に書こうとしたのかい?」

 妻は湯気を起てるご飯を差しだす。

「一応は、ね」

 いらだちが高まった。

「一応って……。そんな、だらけた気持ちで?」

 妻は、我関せずといった風情で納豆の小鉢を並べた。

「あら、ずいぶん絡むのね。絶対に書きます――なんて約束していないわよ。これでも、2、3時間は原稿用紙に向かっていたんですから」

 それが事実なら、やはり妻は書けなくなっているに違いない。

 だが、僕は諦めきれなかった。

「でも……」

 妻は、僕の反論を打ち切ろうとするように言った。

「仕方ないじゃない。わたしの人生は18才で終わっているんだから。もちろん、文学的には、という意味ですけど」

 それは、これ以上心の平安を乱すなという命令に聞こえた。

 そんな馬鹿な……。

 妻が書いた物語が読めなくては、僕は……。

 不様にうろたえて食事に手を付けることも忘れた自分に、不意に気づいた。

 僕はなぜこんなに焦っている?

 妻は僕を見つめた。

「わたし……何か変なことを言った?」

 妻の文章が読めないからといって、何が変わる?

「あなた、なんだか変よ?」

 フェアでないことは確かだ。

 僕は、フェアであるべきだという自分の心の声に従った。同じように万年筆の力を与えなければ、妻の関係をどう〈調整〉すべきかは判断できないと確信していた。 

 だから、チャンスを提供した。

 チャンスをどう使うかは、妻の問題じゃないか。

 それ以上、僕に何ができるというんだ?

「ねえ、あなたったら!」

 僕は我に返った。

 カウンターから身を乗り出した妻が、じっと僕の顔を見つめている。

 その瞬間、妻の顔が他人のように――いや、むしろ厚い板の壁のように見えた。

 僕を閉じ込め、深い地中に埋められた、棺桶の壁――。

 僕は意を決して微笑んだ。

「なんだか、ボーとしてて……。昨日は、興奮してよく眠れなかったんだ」

 妻は微笑み返した。

「それもそうか。やっと書けたんだものね。今夜は、ぱーっとお祝いしようね」

 彼女の微笑みには全く陰りがなかった。自分が書けなくなったことを、まるで痛みには感じていない。

 そればかりではなく、僕が何を迷い、焦り、そして恐れているか、まるで感じていない。

 感じようともしていない。

 そこにいるのは、まさに良き妻を演じるだけの魂が抜けた操り人形だった。

 僕は思い知った。

 これが妻の真実の姿なのだ。

 やはりあの万年筆は、人の真の姿を暴き出すものだったのだ。

 妻は嘘は言っていない。才気あふれる文学少女は、まさに18才で死んだ。

 今ここにいる女は、その脱け殻にすぎない。だから彼女は、あの万年筆を握っても書くことができなかったのだ。

 書けない、のではない。

 書くべき心が空っぽで、もはや中には陳腐な日常茶飯事しか残されていないのだ。

 僕は、そんな女に自由を奪われていたのだ。

 長い間、ずっと……。

 これこそ、フェアとはいえない。

 僕は、彼女が今でも作家であると信じていたからこそ、万年筆を持たせた。彼女の主張にも耳を傾けるべく、チャンスを与えた。

 全ては無駄だった。

 どうやら僕には、彼女を殺す権利が与えられたようだ。

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