ソウル・マイニング

各務

ソウル・マイニング

 東京メトロ有楽町線麹町こうじまち駅の4番出口へと続く地下道の側溝、大きな灰色の綿ぼこりの隣に今朝からねずみの死骸が落ちている。

 地下のホームに電車が進入するたびに駅構内を駆け抜ける強風によって、綿ぼこりはくるくると地下道を転がり、せわしない往来の足と足の間を転がり回って、やがてそのうちの誰かの靴に踏まれてぺたんこになって動きを止めるか、隅の隅の側溝に入り込んで動かなくなる。ねずみの死骸ははじめから側溝の中で動かない。


 よくある綿ぼこりだと思ったらねずみの死骸だったので驚いた。驚いたといっても、いつもと同じようにローヒールのパンプスでせかせか歩きながら、歩調を緩めずに無表情のまま、うわっ、と思っただけだったけれど。

 地下鉄から吐き出されるうねりのような乗客たちの一員として、気は張っているけれど弛緩しているような奇妙な感じでいた心臓がぎゅっ、と縮まって朝から嫌な感じだった。それが今日一番の心の動き。

 あ、ねずみが死んでる。縮こまった心は素朴にそんなことを思う。道に落ちている大きな木の葉や手袋の片割れみたいなものを遠くから生き物だと見まがうことがあるけれど、本物の動物の死体は遠くから見ても木の葉や手袋とは全然違う。その決定的な違いは大きさでも造形でもなく、それが今まで生きていた気配の重量みたいなものだ。命の重量、とまでいったら陳腐だなと思う。

 地下鉄の駅の天井は息苦しいくらいに低い。低い天井に向かって生える見知らぬ後頭部の連なりを見ていたら、それはすなわちその後頭部一つ一つの命の連なりで、そこまで考えて途方もなくなり慌てて心の動きを止めた。


 麹町駅には全部で6つの出口がある。その中で4番出口が一番職場へ近いので、私は毎日利用している。新宿通り、日テレ通り、麹町駅はこの二つの大通りがちょうど交差する地下に位置しているわけだけど、4番出口だけはどの大通りからも微妙に遠い場所に出る。一番人の往来が少ないのがこの出口の唯一のいいところ。少しだけ深く息が吸えるのがいいところ。

 それとこれは豆知識的な情報だけど、4番出口の黄色い看板、出口を示す矢印に従わずにその手前で曲がって、よくわからない自動ドアを抜けると実は麹町クリスタルシティビルというオフィスビルに直結している。そして、そのビル構内の階段を上っていくと正規ルートより少しだけ少ない歩数で地上に出ることができる。麹町駅を毎日利用している人にとっては当然のことというか、何らの心の動きも必要ないいつもの通勤ルートなので、みんな当たり前に手前で曲がって出口とは違う方向へ吸い込まれてゆく。だから初めてここに降り立った人は、ん、とその様子に些細な一瞥をくれつつ、一瞥をくれるのみで正規ルートの階段を上っていく。そんな光景に私も一瞥をくれながら、手前で曲がってゆく。


 4番出口はひときわ人の往来が少ないので、昼間からスーツを着た若いカップルがいちゃついているのを目撃したこともある。思えばそれはその日一番の動揺、心の動きだった。

 階段を下りてきた私の姿に身を震わせたリクルートスーツの女は、相手が私のような同世代の女だと認めると若干相好を崩し、恥ずかしそうに、でもどこか誇らしそうにはにかんで彼氏のリクルートスーツに肩を寄せていた。往来の私を瞬時に無害と判断して、人来ちゃったね、みたいな顔をして。まあいっかこいつなら、という判断をして。

 ちくせう。こんなときに私が身長2メートルに迫る圧巻の大男だったら。だったらなんだというのだろう。なぜかこちらが萎縮しながら速足で通り過ぎるばかりだった。

 会社に言いつけるぞこら。非正規雇用労働者をなめんなよ。そんなことを心の中で早口にまくし立てながら。


 もしもし、こちら麹町。地上に出たら出たで高層ビルがにょきにょき建って、なんというかまあきれいなところですよ。新橋とかに比べたらとてもきれいで落ち着いたオフィス街です。私が非正規雇用労働者として雇われている会社も、その立ち並ぶ高層ビルのひとつの中にオフィスを構えています。


 午後五時の帰り道、ねずみの死骸は果たしてまだそこにあった。

 麹町から有楽町へ、まだ帰宅ラッシュにはぶつかっていない比較的穏やかな車内で、今朝方に見た夢のことをふと思い出した。

 嫌な夢を見た。怖い夢と嫌な夢は別だ。怖い夢は誰にとっても問答無用で怖い夢。嫌な夢は自分の根源的な部分をつつくためにデザインされた夢というか、私だけが嫌だと感じる夢。だから説明が難しいのだ。

 すっかり忘れたつもりでいることも頭や体のどこかが記憶している。ずっと前に去った家、玄関を開けたときの匂い、靴を脱いだときの土間の高さ、いつも同じチャンネルでつけっぱなしのテレビ、いつまで経っても生乾きのバスタオル、くしゃくしゃのまま干された洗濯物、どこからか入り込んだ小虫が数匹。

 寝覚めは案の定最悪で、朝の通勤時はいつにも増して不機嫌だった。今こうしてそれを反芻しているうちに夢そのものを思い出してまた気が滅入った。


 変わらない毎日で、やってもやらなくてもいいような仕事をして、朝から夕方までの時間を売って、そのおかげで夕方以降の時間を自由に過ごせて、そのお金でひとまずの衣食住には困らない生活が送れて、友達も彼氏もいないから仕事がない日はひっくり返って、平和でいいことだね、でも心が岩みたいに動かなくなる。そんな中で死んだねずみのように本当に動かないものを見つけてしまったとき、ふいに心が動く。動揺する。おかしなことだと思う。これも一つの心の動き。

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