CHAPTER0

未来Ⅱ

 海岸地方コスタの鄙びた港町に、十歳くらいの頃だったか――私は母と、母の友人と一緒に移り住んだ。最初は親戚の家に間借りして、その後、古いバナナ農園の裏にある借家に引っ越した。狭いながらも椰子の樹の生えた心地よい中庭があって、窓辺からは茉莉花ジャスミンの匂いが漂ってくる家。いつもお金がなくて、入り用になるたび母は親戚や知り合いの家を駆けずり回って、あくせくと工面したものだ。特筆すべきは母の友人の存在で、それはムラートの女性だった。前歯がない代わりに金歯をしていて、全身に刺青があった。いつも孔雀色の裾の長いガウンを着て、男物の革靴を履いていた。母と母の友人の関係について、私の知るところではなかったけれど、彼女たちはよく椰子の樹の影でキスしていたものだ。


 タイル敷の床に、カーテンのレース模様をした影がうっすらと落ちている。私は煙草の匂いが染みついた部屋の中央に座り込んで、ジュエリーボックスの中身を物色していた。


「ねえ、母さん」


 私の背後では、母がせっせと遺品整理を続けている。「なあに?」と彼女は振り返ることなく言った。その痩せた背中のむこうには、クローゼットから引っ張り出した服や靴の山。そのひとつひとつを、売れるもの、捨てるもの、残しておくものに手早く仕分けている。


「これもらっていい?」


 私は手に持ったネックレスを見せた。「ああ」と母は疲労のにじむ声で答える。


「それはイミテーションじゃないの」


 そう言いながら、母は私の首にガラスパールのネックレスを引っかける。


「でもあんたくらいの若い子にはちょうどいいかもね、ルピタ」


 私は指先でそのネックレスをいじった。「友達の結婚式につけていくわ」と言えば、「それはもっといいものを貸してあげるから」とすかさず母が言う。母が舞台女優だったのはもうずいぶんと昔の話だし、コスタの日射しですっかり肌も髪も焼けてしまったけれども、彼女は今でも毎日丁寧に髪を梳って、神経質に靴を磨き、皺ひとつない服を着ることを好んだ。


「母さん」

「なあに」

「マリアおばさんが死んじゃって悲しい?」


 二週間ほど前、母の友人は心臓麻痺であっけなく死んでしまった。朝私が起こしに行くと、そのときにはもうベッドの上で冷たくなっていた。その前の晩も一緒に食事を取り、他愛のないことでお喋りをしていた。突然の出来事で、悲しみより先に驚きがきたほどだ。

 葬儀の間も、そして今になっても、私は彼女が死んだとはどうしても信じられないまま。

 「穀潰しが消えてせいせいしたわ」母はいたずらっぽく笑った。


「いつかは誰でも平等にお迎えがくるものよ。いつ死ぬかはそんなに問題じゃないの。どれほどの熱量をもって生きるか、それだけ。お前のおばあちゃんが死んだときも、劇場がなくなったときも、こんなにつらいことはないと思った。もちろん、マリア・クララが死んだことだって。でも、どんなに悲しいことがあっても、たとえそれを乗り越えられずとも、この胸に情熱があるかぎりは、どうにか生きていこうとするものよ。生きて、燃やすための火が、私の足を動かすのだから……」


 母は高らかに歌い始めた。

 ここが舞台と寸分変わらぬ場所であるかのように。

 風が室内を通り抜けると、どこからか茉莉花の匂いが漂ってくる。私はガラスパールのネックレスを指でもてあそびながら、レースのカーテンからこぼれる光に目を細めた。

 外の木々の色を帯びて、室内は透き通った翡翠に染まっている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

緑の火 黒田八束 @yatsukami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ