CHAPTER0
未来Ⅱ
タイル敷の床に、カーテンのレース模様をした影がうっすらと落ちている。私は煙草の匂いが染みついた部屋の中央に座り込んで、ジュエリーボックスの中身を物色していた。
「ねえ、母さん」
私の背後では、母がせっせと遺品整理を続けている。「なあに?」と彼女は振り返ることなく言った。その痩せた背中のむこうには、クローゼットから引っ張り出した服や靴の山。そのひとつひとつを、売れるもの、捨てるもの、残しておくものに手早く仕分けている。
「これもらっていい?」
私は手に持ったネックレスを見せた。「ああ」と母は疲労のにじむ声で答える。
「それはイミテーションじゃないの」
そう言いながら、母は私の首にガラスパールのネックレスを引っかける。
「でもあんたくらいの若い子にはちょうどいいかもね、ルピタ」
私は指先でそのネックレスをいじった。「友達の結婚式につけていくわ」と言えば、「それはもっといいものを貸してあげるから」とすかさず母が言う。母が舞台女優だったのはもうずいぶんと昔の話だし、コスタの日射しですっかり肌も髪も焼けてしまったけれども、彼女は今でも毎日丁寧に髪を梳って、神経質に靴を磨き、皺ひとつない服を着ることを好んだ。
「母さん」
「なあに」
「マリアおばさんが死んじゃって悲しい?」
二週間ほど前、母の友人は心臓麻痺であっけなく死んでしまった。朝私が起こしに行くと、そのときにはもうベッドの上で冷たくなっていた。その前の晩も一緒に食事を取り、他愛のないことでお喋りをしていた。突然の出来事で、悲しみより先に驚きがきたほどだ。
葬儀の間も、そして今になっても、私は彼女が死んだとはどうしても信じられないまま。
「穀潰しが消えてせいせいしたわ」母はいたずらっぽく笑った。
「いつかは誰でも平等にお迎えがくるものよ。いつ死ぬかはそんなに問題じゃないの。どれほどの熱量をもって生きるか、それだけ。お前のおばあちゃんが死んだときも、劇場がなくなったときも、こんなにつらいことはないと思った。もちろん、マリア・クララが死んだことだって。でも、どんなに悲しいことがあっても、たとえそれを乗り越えられずとも、この胸に情熱があるかぎりは、どうにか生きていこうとするものよ。生きて、燃やすための火が、私の足を動かすのだから……」
母は高らかに歌い始めた。
ここが舞台と寸分変わらぬ場所であるかのように。
風が室内を通り抜けると、どこからか茉莉花の匂いが漂ってくる。私はガラスパールのネックレスを指でもてあそびながら、レースのカーテンからこぼれる光に目を細めた。
外の木々の色を帯びて、室内は透き通った翡翠に染まっている。
緑の火 黒田八束 @yatsukami
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます