(五)
はじめて舞台に立った日のことを、リマは今でもよく覚えている。彼は十八歳になったばかりの青年に過ぎず、女装もまだまだ垢抜けなかった。年季の入った女装家が舞台で使う小道具をあれこれと運んだりしまったりするだけで、一言も喋らない役だった。それでも照明に光り輝く舞台に立ったときは胸が高鳴り、どうしようもない興奮を抱いたものだった。
なるべく踵の低い靴を選んだつもりが、履き慣れないハイヒールということもあって、リマは舞台裏に引っ込もうとした瞬間に派手にこけてしまった。それ自体はよくあるハプニングだったが、彼の場合は客席に向かって大股を開いてしまったので、余計に滑稽な笑いを誘うことになった。まるで狙ってやったみたいだった、と仕事仲間には後から言われたほどだった。
客席から聞こえる笑い声に、リマはなぜか涙が出るほど安堵したことを覚えている。どう振る舞おうとも所詮は笑われ者で、その事実を、生きていてはじめて自力で肯定できた気がした。
◇ ◇ ◇
小旅行から帰ってきてほどなくして、地下劇場は夜の部の営業を再開した。
リマもほどなく仕事に復帰することになった。右手は不自由なままだったが、何もしないでいるよりはずっと良いと思った。片手が不自由では、針子仕事も十分にできないからだ。
――昨晩は仕事が長引き、家に帰ってからは衣装の仕上げに取りかかっていた。眠りについたのは昼前のことで、目を覚ます頃にはすっかり日が暮れていた。慌てて出勤の準備をしはじめたところで、せっかく完成したはずの衣装が見当たらないことに気付いた。
「カカオ」
隣の部屋を覗くと、案の定そこにはカカオの姿があった。彼女はリマが仕立てた真珠色のドレスを着て、鏡の前でポーズを取っていた。
「似合うだろ?」
リマは顔をしかめて「俺の服を勝手に着るな」と溜め息をついた。
「俺とお前じゃ骨格が違うから、サマになる服も違うんだよ。あと、その服でそんな大股に歩かないでくれ。生地が裂けたらどうするんだ、これ一着縫うのにいくらかかってると思ってるんだ!」
「口うるせえやつだな、お前、人が着る服にまで文句つけんのかよ」
「文句もなにも、それはもともと俺の服だ」
ドレスの長い裾を引っ掴んで言えば、観念したようにカカオが肩を竦めた。
「わかったわかった、すぐに脱ぐから。まったく、せっかく人が針に糸を通してやったのに……」
「ここで脱ぐな」
彼女を突き放して、リマはリビングに戻った。遅れてドレスが床に放り投げられるのを見て、さらに文句を言おうかと思ったが、もう家を出るまで時間がなかった。
服やアクセサリーを鞄に詰め込んで背負うと、上着をきっちりと着込む。
外に出ると、爽やかな風が背中を撫でた。高原地方にも徐々に夏が近づいていた。
混雑する道に焦りながら、何とか劇場に到着したのはほとんど遅刻といっていい時刻だった。その日から新しい公演を始める予定だった。仲間の公演が始まる前に舞台裏の照明係をつかまえると、昨日のリハーサルからさらに思いついた細かな指示を出す。それから楽屋に駆け込むと、荷物をひっくり返し、奥で化粧を落とすエスメラルダに声をかけた。
「パンスト持ってないか?」
「私が今脱いだ臭いやつでいいならね」
舌打ちをすると、「俺が持ってる」と別の出演者がストッキングを貸してくれた。リマは鏡台の前に座り、タオルで顔の皮脂を拭った。
「手伝ったほうがいいか?」
「もう慣れたから大丈夫」
片手で髭のそり跡を隠す粉を塗り広げながら、リマは答えた。どうせ出番まで時間はあるし、リハーサルも昨日のうちに済ませている。客もすこしくらいは焦らしたほうがいい――そう考えて深呼吸すると、いつも通り時間をかけて支度をしていくことにする。ブロンドのかつらを
「ルピタ」
母親が仕事の間、支配人みずから孫の相手をしているのだ。黒髪の娘を抱え上げて、エスメラルダが「それじゃあお先に」と控え室を出て行く。
リマは遠くからも聞こえるルピタの笑い声に苦笑して、衣装の皺を伸ばした。パンストに足を通して、ハイヒールを履く。鏡の前に立って出来映えを確認した。ドレスの裾を掴んで持ち上げると、しずしずと歩いて控え室を出る。
舞台の中央に立つリマは、ペプロスのような白い長衣を身につけている。その表面にはチェーンステッチによって色鮮やかな花が無数に咲いていた。弦楽器を爪弾く穏やかな旋律に乗って、ゆったりとした足運びで旋回するたびに長い裾や袖がひらひらと揺れ、両手に持った巨大な羽の扇が水中を泳ぐ魚の尾ひれのよう宙をたゆたった。
次第に曲が変調をきたすと、舞台の左右から現れた男たちが、リマの体をつかまえ、その衣装をはいでいく。腰の青い紐がほどかれ、床に放られる。ペプロスは一枚の布となって、その足もとにひらりと落ちた。彼はその下にコルセットと一体化した女性用下着を身につけている。下着は隅々まで細かなビーズやスパンコールが縫いつけられ、雨のように降る白い照明のもと、その骨張った体はまばゆい光に覆われた。
今度はひょうきんに変わった音楽に合わせて、床に寝そべって足をばたつかせたり、転げ回りながら、コルセットの紐を徐々にほどいていく。
リマはすでに息が上がっていて、けれどもその顔からは笑顔を絶やさなかった。
ほとんど裸に近い状態になったとき、彼はおもむろに右腕を宙にかかげた。
包帯を左手で掴み、器用に外していく。
あらわになった傷口に照明の光を浴びせながら、彼は声を出して笑った。
そして今日もリマは舞台に立つ。
照明の光の下で、時に滑稽な笑いを浴びて。
――失われることのない情熱を燃やしながら。
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