(四)

 船を乗り継ぎ、白くこごった硝石が足裏に突き刺さる湖沿いに、途方もない距離を歩き続けた。旱天の下、黄色い太陽がじりじりと大地を焼いている。長い時間をかけ、赤錆びて朽ちかけた屋根の載った駅舎の前に辿りつく。記憶にあったような石碑は撤去され、荒涼とした風が砂埃を舞い上げていた。

 時刻は昼を過ぎたところで、あたりには午睡シエスタの緩慢な時間が流れていた。駅舎近くにぽつぽつとある売店はすべて閉められ、椰子の樹の下に吊ったハンモックでは人が揺られ、耐えがたい酷暑の時間をじっと耐え忍んでいる。チケット売り場も閑散として、受付の前に立って声をかけてはみるが、やはり駅員が出てくる様子はなかった。

 仕方なく近くのベンチに腰かけたところで、離れた場所に座る物売りの姿を見つけた。あまりにみすぼらしい格好をしているので、はじめは物乞いかと思ったほどだった。興味本位で近づいていって、穴だらけのむしろに並べられた石を見る。

「これは?」


 指差したのは、黒々とした母石に雲母状の結晶がついたものだ。結晶は透き通った黄緑色で、リマは浜辺に漂着したアメフラシの卵を連想した。


燐灰ウラン鉱オトゥーナイト


 物売りが答えた。この国でとれたものだ、と不自由な西語で説明をつけ加える。

 マタラトン共和国は鉱山が多く、特に良質なエメラルドや水晶の輸出によって外貨を獲得している。一方でそれらが産出する鉱山地域は未だに紛争がたえず、現政権の強硬な掃討作戦を持ってしてもその根絶には至っていないという話だ。

 高価なエメラルドと同じ色をしているが、たたき売りされるような粗末な石。懐から小銭を出し、その石を買った。乾いた日射しに照らされて輝く小指大の石を手のひらでもてあそびながら、緑の火フエゴ・ヴェルデとは――このようなものだろうか。リマはそんなことを考えた。


 シエスタの時間が過ぎ、切符を買ってさらに駅舎の中で待ち続け、ようやく汽車がやってくる頃には日暮れが近づいていた。古びた車両に乗り込むと、汽車は耳障りな金属音を立てながらゆっくりと動きはじめた。閑散としていて、薄汚い三等車に他の人の姿はなかった。

 回転窓をこじあければ、大量の埃とともに熱風が吹き込んだ。

 列車はこんもりと茂る樹幹の間を、古びた果樹園の柵と柵の間を進んでいく。山の中に点在する町の駅を経由しては、すくない人を乗せては降ろし、けっして長くはない距離をゆるやかに進んでゆく。ときおり駅のプラットフォームで待つ人が車掌に手紙を預けては、乗り込むことなくその場を去る。板張りの床には乾いた光と影とが交互にうつろい、それをぼんやりと眺めているうに、やがて終着駅へとたどり着いた。がらんとした駅舎に降り立ち、息を吸えばはっきりとわかるほどに濃い茉莉花の香りが、彼の肺を満たした。

 周囲には斜陽が射し、一面が透き通った赤に染まっていた。人家は見当たらず、鬱蒼と茂る木々が風にしなっているだけだ。リマは記憶を頼りに歩きはじめた。やがて藪にほとんど飲み込まれかけた有刺鉄線の柵を見つけた。赤錆びた棘にそっと指先で触れ、手のひらで生い茂るカトレアの根を押しのけると、その下に隠れた金属製の看板が目に入った。

 この世の終わりフィン・デル・ムンド――その名前をはっきりと読み取ったとき、リマの両肩には、十年前の出来事が夢やまぼろしではなかったという厳然たる事実が重くのしかかった。

 劣化して脆くなった柵を足で壊し、リマは古いバナナ農園に侵入した。フルーツ・ユニオン社が経営していた時分は周辺の生活を支えていたであろう青バナナの樹々は、もはや見当たらず――そこは密林ともいうような、奇妙なほどに別の生態系が繁栄する場所だった。

 地は苔むし、極彩色の百足が泥の上を這う。ナンキョクブナの樹幹には茸が寄生して瘤のように盛り上がり、あちこちで巴旦杏やカシューが実り、どこからかやってきた蜂鳥がそれらを啄もうと飛び回っている。ふと視界を横切ったのは、一匹の蛾だった。

 緑がかった白い翅を斜陽に透かしながら、それはひらひらと森の奥へと消えてゆく。誘われたかのようにリマはその蛾のあとを追った。片腕で藪や蔓をかき分け、汗みずくになって歩くうちに、次第に喧しいほどに聞こえていた鳥の鳴き声が遠ざかった。やがて無音の静寂がやってきたとき、ふと開けた場所に出た。

 リマの目の前に広がったのは、ひとつの巨大な竜舌蘭だった。

 竜舌蘭はサボテンの一種だ。肉厚のとがった葉を広げる様は、一輪の薔薇がほころんでいるようにも見える。その葉の中央からはまっすぐ、一本の太い茎が伸び―見上げなければ視界に入らないほど高い場所で、無数の黄色い花を咲かせている。

 生ぬるい風にしなり、花が揺れた。

 一般的に成長が遅く、花を咲かせることは滅多にない植物だ。大抵、数十年はかかる。いったいいつからこの場所に根付いたのだろうと考えながら、リマはしばらく花に見入った。そしてふたたびあの蛾がやってきたとき、彼の視線は竜舌蘭の根元まで誘導された。

 蛾は竜舌蘭の根が這う膨らみの上に留まり、触覚をそっと揺り動かした。それは黒い炭のような何らかの塊で、ところどころに雲母状の緑の結晶がこびりついていた。結晶は太陽を求めて伸びるひまわりのように、あるいは蛸の触手のように宙にむかって湾曲しながら細長く伸び、斜陽を受けてひっそりと輝いているのだった。

 リマはその場に膝をついた。

 片手で顔を覆い、うなだれた。

 そして声もなく囁いた。


 ――ずっとここにいたのか。


 ◇ ◇ ◇



 遠巻きに潮騒が聞こえるなか、リマは目を覚ました。

 右脚の脛に違和感があった。シーツに南京虫が隠れていたのか、寝ている間に刺された場所を掻きむしってしまったのだろう。薬を買いに行かないといけない、そんなことを考えながら、緩慢な動きで寝台から身を起こした。


「ようやくお目覚めか? 悪いけど煙草を買ってきてくれないか」


 するとソファに寝そべって雑誌を読むカカオに声をかけられた。

 すこしの間昼寝をするつもりが、いつのまにか日も暮れてしまっていたようだ。

 鞄をひっくり返し、ようやくくたびれた革の財布を発掘する。小銭を後ろポケットにねじ込んで、サンダルを足につっかける。中庭に面した扉を開くと、生ぬるい夜風が肌を撫でた。

 ――あの場所に長居することは耐えられなかった。

 リマは逃げるように農園をあとにして、夜明け頃には海岸地方の県都に戻るための船を停泊所で待っていた。さらに数日後、サンギナリア・グランデの保養所にある安宿でカカオと再会しても、夢の中にいるような感覚は消えなかった。長い間、眩惑にとらわれている気がした。

 宿の近くにある酒場で煙草を二箱買った。この時間に煙草を買えるのは酒場くらいしかなく、さらにいえばコンコルディアのような都市とは違い、より保守的な海岸地方では女性の立ち入りが規制されているのだ。

 リマは黒煙草の包みを左手で転がしながら、海沿いに、街灯さえない暗い道を歩いた。生温かな潮風が体にまとわりつき、服の下はびっしょりと汗をかいている。いっそ上着を脱いでしまおうかと思案しはじめたところで、ふと、どこからか銃声が聞こえた。

 すぐ近くではない。それでもはっきりと耳に届くほどの距離から、立て続けに、何発も打ち鳴らされた。その音が鼓膜を打った瞬間、全身がひどく痺れ、喉の奥がぎゅっと狭まった。

 頭を撃たれ、即死した父親。その背中がまなうらをよぎり、チカチカと明滅した。

 リマは背中を爪弾かれたかのようにその場から駆け出した。浜辺の重い砂にサンダルをとられ、何度となく両足をもつれ合わせながら――傍から見れば、それはひどく滑稽な光景に違いなかった。呼吸ができず、ひどく眩暈がした。銃声がもうまったく聞こえなくなって、穏やかな潮騒が戻ってきても、動悸はとまらず、リマの心臓は破裂しそうな勢いで拍動を打ち続けた。

 やっとの思いで宿の部屋に駆け込む。両膝が震えていた。

 カカオに何か声をかけられたが、ほとんど聴き取れなかった。リマはバスルームまで這いずっていき、そこで便器を抱えて吐いた。

 何度も吐いた。体のなかの膿や汚濁をすべてひり出したい一心で、吐いた。

 自分の吐瀉物を見つめているうちに、ふと、あの農園で見た光景が脳裏を過ぎった。

 少年時代から、もうまったく離れた場所に立っていると思っていた。

 けれども本当は、彼がずっとあそこにいたように、自分は当時と変わらぬ渦のなかに居続けているのかもしれないと思った。

 便器の前で嗚咽をこらえるリマの背後に、誰かが立った。


「煙草」


 そう突っ慳貪に言われ、のろのろと後ろポケットにしまった包みを投げ渡す。


「また懲りずにクラックでもやったんか?」


 振り返れば、カカオが仁王立ちしている。リマは無言でかぶりを振った。放っておいてくれという意図だったが、汲むつもりはないらしく、その場から動こうとしない。


「外で銃声が聞こえて……苦手なんだ、昔から。でも、普段はそこまでじゃ……」


 カカオはしゃがみこんで、リマにむかって手を伸ばした。とっさに腕でかばおうとしたリマの両耳を手でしっかりと塞ぐ。自分の体を巡る血の音だけが聞こえた。


「お前、ゲロくせえな。顔洗ってさっさと寝ろよ」


 手を離して、カカオは顔をしかめた。リマはシャツの裾で唇をぬぐいながらうなずく。

 カカオは慣れた手つきで刻み煙草を藁半紙で巻きながら、「あとで海に行こう」と言った。


「夜明け前なら人気もないだろ。船の明かりくらいは見えるかもしれねえけどな」

「ひとりで行けばいいだろ」

「私ひとりなら昼間にいくらでも行くけどよ」


 部屋に干した水着を指差したカカオに、リマは生返事をした。「決まりだろ」彼女が言った。


 カカオの宣言通り、夜明け前にリマは叩き起こされた。ようやく眠りについたところだったので、何て自分勝手な奴なんだと腹を立て口論にまで至ったが、なかば強制的に宿から連れ出された。

 太陽が昇る前、外は朝まだきの深い群青に染まっていた。じっとりと湿った熱気のなか、生臭い磯の匂いが蔓延している。


「ホテルの前の浜じゃだめなのか」

「あそこは開けてるからな。ちょっと歩いたところに汚くてちょうどいいビーチがあった」


 彼女はすでに水着姿で、その上から薄いガウンを羽織っていた。リマは水着すら持参せず、いつものように冬物のジャケットを着込んで、彼女のすこし後ろを歩いていた。

 ほとんど会話もせず、黙々と一キロほど歩いたところで、カカオが「ここだよ」と言った。リマはサンダルを脱いだ。ざらざらととがった砂が足の裏に食い込む。肌にまとわりつく蒸し暑さが鬱陶しく、汗に濡れた前髪を手で払いのけた。


「なあ……」


 隣にいるはずのカカオに声をかけようとして、彼女の姿が見当たらないことに気付いた。

 波の打ち寄せる音だけが、暗闇のなかをもの悲しく響いている。カカオの言っていたとおり、潮の流れの関係で塵芥ごみが多く流れ着く場所なのだろう。すこし歩けば足裏に木や金属の破片が引っかかり、常に生ごみの腐ったような匂いが漂っていた。浜を降りていき、海水に足の指の先を浸す。


 沖のほうから、おーい、と人の声が聞こえた。


「お前、あんまり深いところまで……」


 カカオかと思って発しかけた声を、途中で止めた。

 胃のむかつくような腐敗臭をかき分けて、一瞬、茉莉花ジャスミンが強烈に香った。

 リマを呼ぶ声は、暗闇のなかをこだましながら続いている。

 ジャケットを下のシャツごと脱ぎ捨てると、リマは海のなかに分け入った。ごつごつとした岩が手足を擦り、水中を漂う塵芥が体のあちこちに衝突する。最初は膝まで浸かるほどだった海水は、すぐにリマの肩のあたりまで迫ってきた。ゆらゆらと波に全身を揺さぶられながら、なおもその声の聞こえる方角にむかって腕を伸ばした。

 巨大な波が襲いかかって、リマの視界は完全な暗闇にとざされた。リマは無我夢中になって海面まで這い上がろうとする。頭上を見れば、澱んだ水のなかに、薄く朝日が射し込んでいる。緑に煌めくその光を掴もうと、リマは右手を伸ばす。

 自分が溺れていると認識したのはそのときのことだった。

 息ができず、目の前がほとんど見えなくなった。

 混濁する意識のなか、頭の奥から、立て続けに発砲音が聞こえた。

 群衆の熱気を一身に引き寄せ、雷鳴のようにとどろく父の声。

 やわらかな両腕で自分を抱擁する姉。その胸元から漂う淡い香水。

 暗闇のなか、自分の手を掴もうと伸ばされた、あの頼りない指先――あの手を掴んでいたならば、自分はより良い人間になれていたのだろうか? 父のように、姉のように……地獄にいる人間を蔑むことなく、分断することなく、余すことなく優しさを渡してやれたのだろうか。

 ホセはずっと彼らのようになりたくて、でも、なれなかった。

 自分のことにばかりかかずらって、その渦から抜け出せないままだ。

 腕を掴まれたのは次の瞬間だった。海面に引っ張り上げられると、顔を生温い風がなぶった。「お前、何してんだよ」背後から抱きしめられ、波の間をたゆたいながら、リマは深く息を吸った。

 何かを握りしめていた。

 ごみかと思って掌をひらけば、そこにはあの石が――小さな燐灰ウラン鉱)があった。

 夜明け前の紫外線を浴びて、石は燃えるようなグリーンイエローに蛍光する。

 浜辺まで引っ張られ、湿った砂の上で尻餅をついたリマは、濡れた手で顔を覆った。

 頭が混乱していた。


「……俺、ずっと誰かに認められたかったんだ」


 ――誘拐されたのが姉ではなく自分だったら。あの硝煙のなか、撃たれたのが父でなく自分だったら。


 過去を振り返るたび、リマはそんな想像をせずにはいられない。

 そうしたら、もっと世界は美しい形で回っていたかもしれない。

 家族は離散せず、父は大統領としてこの国をもっと良くしていたかもしれない。

 ないものねだりだと理解していても、そう思うからこそ、リマは自分を受け入れられなかった。いつも打ちのめされたような気持ちになって、自分から欠けたものばかり見つめていた。


「俺は普通からずれてるし、いつも間違った選択をしてしまう。すぐに人の機嫌を損ねるようなことを言ってしまうし、嫌われてしまう。どこにいてもなじめないし、なじんだところですぐに居心地を悪くしてしまう。でも、それでも……舞台の上にいるときだけは、自由だ。目に見えない力で、自分が守られていると感じる。あの場所にいるときだけ、自分と向かい合うことができる。いろんなしがらみをかきわけて、自分を責めることなく悲しみを見つめることができるんだ」


 カカオは持参したタオルで体を拭きながら、思い出したように「食堂コメドールに行こう」と呟いた。


「船着場の近くなら開いてるだろ。そこで砂糖黍焼酎アグアルディエンテを飲もう。サンギナリア産のな」

「くそまずいって言ってたくせに」

「草の味って何か体によさそうだろ」


 苦笑しようとして、顔に芯が残っていてうまくいかなかった。

 カカオの後を追って、リマはその場を立った。地面にくしゃくしゃになって落ちているシャツを拾う。むきだしの上半身を潮風が撫でた。

 振り返って、濡れた砂の上に点々と残るふたり分の足跡を見つめた。波にさらわれ、あっけなくその足跡はかき消されてしまう。最初から何もなかったみたいに。

 それを見て、ふと、自分の人生はなんて取るに足らないものなのか、と思った。

 サンセが必死になって産んだのが無精卵でしかなかったように、自分にはこれしかないと思うものは、きっと何の価値もないものなのだ。女装することも、舞台に立つことも、もしかして、生きることそのものも。

どんなに滑稽だと指差されても、失望されても、最初から取るに足らないものなのだ。

 死ねさえすれば、時とともに忘れ去られる。机の上に残る砂糖黍焼酎アグアルディエンテの痕跡のように、生きた証がどこかに残ることがあっても、誰も気にすることはない。

 それこそが、唯一の生きていられる希望なのだ。

 こみ上げる涙を、リマは泥にまみれたシャツでぬぐった。

 緑に光る石を握りしめる。冷たいはずなのに、燃えるように熱いと感じた。

 そしてふと、照明の光を浴びたいと思った。

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