(三)

 海岸地方コスタ最大の都市サンギナリアは、エスペクタドール川の下流域に入り込んだ大湖沼の入り江に位置する。バナナなどの果物の輸出港であり、背後に控える低湿地帯では綿花やカカオなどの植民地時代のプランテーションから発展した農業が盛んに行われる場所だ。

 船の停泊した漁村で、リマとカカオは朝食をとった。カワスズメの入った透明なスープと素揚げされた青バナナに野菜炒めという簡素な取り合わせだったが、不清潔な船内から解放されて吸う新鮮な空気もあいまって、ひどく胃にしみた。

 野菜炒めに入った塩サバのほぐし身をフォークでちまちまとよけるカカオを横目に、一足先に食事を終えたリマは机の敷布を手で撫でた。

 ギンガムチェックの布は、円の形になった白い線がたくさん残っていた。砂糖黍焼酎アグアルディエンテの滴が落ちて、その成分で色が抜けたのだ。


「このテーブルにも、よくいく酒場カンティーナにも、実家の食卓にまでこんな模様があって――たまに不思議に感じる。自分でない誰かがここで時間を過ごしたことや、そのテーブルのたどってきた歴史みたいなものに思いを馳せて」


 カカオはリマの話なぞ聞いてはいないようで、今度はスープに入ったカワスズメの骨を丹念に取り除いている。「川魚は食わないんじゃないのか?」と聞けば、「最近は健康のために食べるようにしている」と金歯を見せて律儀に答えた。


「長生きするつもりだからな」


 彼女の正面に置かれた炭酸飲料の瓶がきらきらと輝いて、まぶしい。開け放たれた窓からは目の焼けるような強い光が射し、そのむこうに広がる湖沼を深いエメラルド色に照らしていた。

 リマは指先で白い線をなぞった。


「……俺がいなくなったあとも俺がつけたしるしは残って、でもそれを見た人は、俺が端から見てどんなに滑稽でおかしなオカマ男だったかも知らずに、同じようにその上にグラスを置くんだ」


 浅瀬では痩せ細った漁師の子どもたちが貝か何かを取っていて、ぼろぼろの網を引きずりながら歩いている。肌は汚れなのか日焼けなのか煤色がかり、汚れた下穿きを一枚身につけているだけ。


「夫婦で旅行かい?」


 声の方向に視線をやれば、食事のために相席した老夫婦の姿があった。声をかけてきたのは夫のほうで、白髪交じりの髭をたっぷりとたくわえ、この暑気の中ジャガード織のスーツを着込んでいる。

 風が吹くと生臭いような磯の匂いが食堂のなかを満たす。じっとりと汗ばむ陽気のなか、頭上では絶えず扇風機のファンが回っていた。

 カカオはフォークを置くと、真鍮のピアスを揺らして横に顔を向けた。


「そうだよ。コンコルディアのほうからきて、コスタは初めてなんだ」


 笑顔で答える彼女のはす向かいで、リマは首まで汗をかきながら、ぎゅっと上着の裾を握りしめた。愛想よく対応するカカオと夫婦の会話に合わせて、黙って相づちを打つ。嘘がばれるのをおそれたのではなく、服装の不自然さを指摘されるのではないかと気が気でなかったのだ。


砂糖黍焼酎アグアルディエンテの話をしていただろう。ふつう八角で香りをつけるが、このサンギナリア・グランデで作られるものは地元のハーブを使っていてね。ぜひ試してみてくれよ」


 透明な蒸留酒を注いだグラスが回ってくる。リマは鷹揚にうなずいてそれを受け取った。夫婦のそれぞれ、カカオと乾杯を交わして、一息に呷る。八角の甘い香りとは異なる、しかし同じように癖のある風味だ――強いアルコールが喉を通り過ぎ、船酔いの不快感が残る胃のなかに落ちていった。


「これもうまいけれど、アグアルディエンテはやっぱり地元にものに限るな」


 リマの答えに老人は満足したように笑った。


「みんなそう言うよ。この国の外の人はどの県のものを飲んでもたいした違いがないと言うけれど、私たちにとってはそのわずかな差が大問題だからね」


 夫婦は代金とチップを机に置くと、「それじゃあ旅を楽しんで」と席を立った。それを見送ってから、リマは残された酒瓶を掴んで手元に引き寄せた。

 地元産というだけはあって、そのラベルには大湖沼とおぼしきものとバナナが描かれていた。


「くそまずいな、これ。草を飲まされた気分だよ」


 両足をテーブルに乗せたカカオを目で制して、「俺は嫌いじゃない」と答える。

「コスタ生まれだからかもしれない」と思い出したように付け足す。


「訛りからして高原のほうかと思ってたよ」

「どこかの漁村で肥溜めに捨てられてたんだ。あんまり大声で泣くから、通りがかった人が気付いて拾ったんだ」

「そりゃあよかったな。諦めずにでかい声で泣きわめいた甲斐もあるってもんだ。私だったら何があっても肥溜めから拾おうとは思わねえから、よっぽどお前が天使みたいに可愛かったか――お前を拾った奴が神様みたいなやつだったってわけだ」

「天国に住んでいる人だったよ」


 リマはそう言って剥がれかけたラベルを指でそっと押さえつけた。

 生ぬるい風が吹き、汗ばむ肌を撫でていった。



 カカオとはサンギナリア・グランデの保養地で後日合流する約束をして、小型船舶ランチの停泊場で別れた。リマは停泊場のベンチで、物売りから買った海岸地方の地図を上下左右にひっくり返し、矯めつ眇めつ観察した。しかしその地図が最近作られた新しいものだったためか、望んだ地名を見つけることはできなかった。やはり十年前の出来事は夢かまぼろしの一種だったのかと思いかけた矢先、港の片隅に積まれた木の箱が目に入った。

 サンギナリア・グランデは果物の、特にバナナの積出港だった。エル・ドラド、デメナル、マコンド……木箱の表面に記されているのは、出荷元である農園の名前だ。


 午睡シエスタののどかな時間を狙って、リマは日陰でカードゲームをしている若い船夫たちに質問した。しかし十年前の時点で廃業していたのもあり、誰も知らない。


「フルーツ・ユニオン社の農園じゃないか?」


 声をかけてきたのは、メスティソの年老いた船夫だった。


「合衆国の果物会社で、十年くらい前にマタラトン共和国からは撤退してしまってね。フルーツ・ユニオン社の農園といえば、ラカタラタのほうにあった。特徴的な名前なので覚えているよ。そのなかのひとつが――」


 フィン・デル・ムンド、と前歯の欠けた船夫が言った。


「労働者の虐殺事件があったところで、よく覚えているよ。あの頃、フルーツ・ユニオン社の農園では過酷な労働が強いられていてね。待遇改善のために労働者たちは反乱を起こしたが、みんなマシンガンで殺されちまった。保守党政権はユニオン社からでけえ金が流れ込んでたから、事件を黙認していたんだ……それを批難したのが、当時駆け出しの政治家だったサバスティアン・サパタだよ」



◇ ◇ ◇



 船夫の話では、フィン・デル・ムンドという名前は、共和国と隣国にまたがる巨大な滝から取られたそうだ。先住民の神話では、そこが世界の終わりと信じられており、フルーツ・ユニオン社が自社のバナナ農園の名前として採用した。由来を聞いてみれば何ということはなく、当然、過去の自分が望んだような世界の終わりでもなかった。

 サンギナリア・グランデから三十キロほど先にあり、サンギナリアが属する県都で、リマは安いサンダルと一枚の絵葉書を買った。ラカタラタ方面に向かう船を待ちながら、待合室でその絵を眺めた。

 青空のもと、霧のような白い水飛沫を噴き上げて流れる大瀑布が描かれている。この国の誰もが知る有名な観光地で、国外からもその滝を一目見ようと旅行客が集まる場所だ。リマは実際に足を運んだことこそなかったが、滝のむこうにはやはり別のくにが続いていることは容易に想像できた。

 くたびれた荷鞄のなかに絵葉書を仕舞いこみ、リマは定刻から遅れて到着した船に乗り込んだ。海岸地方コスタには鉄道網も整備されているが、地域間の移動には圧倒的に船に利がある。人口が集中する都市の大抵が海に面しているし、その背後に控える湿地帯には無数の川が流れているからだ。ちょうど雨季ということもあって川の水量も十分あり、旅には適している。

 船室にふたつある寝台のうちひとつを陣取る。リマが切符を買った時点で船室はほとんど満員と聞いたが、相部屋となる人物はなかなか姿は現れなかった。


 船が動き出す段階になって、ひとりの少年が室内に駆け込んできた。


こんばんはブエナス ノチェス


 少年は礼儀正しく挨拶をした。リマは呆気にとられ、反応が遅れた。少年の荷物はほとんどなく、上下白のこざっぱりとした制服姿だけが身分を証明している。

 どこかしらの寄宿舎学校の生徒だろうとすぐに察せられた。


「……悪いけれど、包帯を巻くのを手伝ってくれないかな」


 強ばる顔にやっとの思いで笑みを貼りつけて、リマはそう頼んだ。「こればっかりは、ひとりだと難しくて」少年は快くそれを受け入れた。船旅にも、見知らぬ相手と同室になることも慣れている様子だった。

 荷鞄を開いて、無造作に放り込んだままだった包帯を掴んで取り出す。


「ひどい怪我。どうしてこんなことに?」

「アクシデトがあって、舞台下に落ちたんだ」

「普段は舞台に?」


 そう、とリマはうなずいた。「どんな?」――耳に懐かしい、コスタ訛りの声。

 壁越しに無数の人の話し声が聞こえた。頭上では扇風機のファンが絶えず回り、よどんだ空気をかき回している。

 リマは少し考えてから、喜劇コメディアだよ、と呟いた。


「喜劇?」

「そう」

「信じられない。サーカスの大男と船で一緒になったことがあるけど、お兄さんは全く違う」

「こう見えて、俺は世界で一番の笑われ者なんだ」


 水色の目をしばたいた少年に、ありがとう、と小さな声で囁いて、包帯を巻き終わった右手を引いた。「ハグしても?」そう問いかけてから、左腕を広げる。

 片腕でしっかりと抱擁する。汗と埃、そして潮風の匂いがした。まだおとなになりかけの骨張った背中に腕を回して、上半身を密着させた。少年はびっくりしたように目を見開いた。


「女の乳房がついているんだ」


 上着を脱げば、わずかではあるがはっきりとした膨らみ、そして先端にある乳首が白いシャツ越しに存在を主張する。面白がるかと思ったが、少年は一向に笑わなかった。表情を硬くしていた。

 そのとき自分の胸を占めた感情の根っこに、リマは過去の自分を見つけた気がした。

 汗ばんだ指が伸びて、リマの胸に触れようとして離れる。


「本当に喜劇役者なんだ」


 早口でまくし立て、少年は慌ただしく船室を出て行った。予想するに同郷の生徒たちと一緒にこの船に乗り込んでいて、学校に帰るか、地元に戻るかのいずれかなのだろう。

 同じように学生だった頃、リマも実家からエル・ノルテ校への行き来には船を使った。ずっとひとりぼっちで、水量が足りない乾期には何週間もかかるような船旅は苦痛だった。船室をとれたとしても大抵は相部屋で、隠れて絵を描くこともできなかった。

 包帯を鞄に仕舞い、サンダルを履いたままリマは狭い寝台で丸くなった。目を閉じると、より強く船の揺れを感じた。しばらくすぐ傍をぶんぶんと蠅が飛び回っていたが、やがてどこかへと消えていった。


 最初、地下劇場には裏方の従業員として雇われた。カカオの紹介だった。観客に酒や食事の給仕をしながら、女装をして舞台に立つ男がいるなんて、このご時世、とんでもない命知らずがいるものだと思った。実際、彼らは観客から世界で一番の嘲笑を買うこともあれば、道端でゴミや投げつけられたり、小便を引っかけられたりすることもあった。治安警察に逮捕されて矯正施設に送られる仲間もいたし、薬物中毒になって死んでいく者、自殺した者もいた。

 少年の時分以来、はじめて自発的に女装をしたときは、昼下がりの、まだ夜の部の出演者が出勤してきていない控え室で――同僚から勝手に借りた派手な花柄のワンピースと、やはり借り物のかつらをかぶっただけだった。鏡の前に立った自分を、エスメラルダが見ていて、何も言わずに新品のパンティストッキングを渡してきた。楽屋では煙草を吸うばかりでほとんど何も喋ることのない冷たい女だったから、リマは驚いた。カカオが劇場の仕事を斡旋してくれたのは、彼女と知り合いだったからで――しかしリマにとっては、それまで挨拶もろく交わしたことのない相手だった。


「エスメラルダ。笑わないのか?」


 エスメラルダは冷めたコーヒーを片手に失笑して、「笑われるのが怖いの?」と囁いた。

 ホセはあまりに臆病で内向きで、そして馬鹿げた発言をしてしまったことを羞じ入った。

 彼女から受け取ったストッキングを四苦八苦しながら履いた。薄く脆弱な生地に、毛さえ剃り落としていない足を通した。ワンピースを着てかつらをかぶっただけでは何も感じなかったのに、ストッキングを履く行為は好きだと思った。エスメラルダは吸い殻を灰皿に押しつけた。


「そうだ、私の靴も貸してあげる。私は足が大きいの。もしかしたら、あんたに合うのもあるかも」


 一瞬身構えたホセに対し、彼女は生き生きと言った。普段鏡台の下に何足も並べている靴を出してきて、どれがいい? と聞いてくる。すべてハイヒールだ。赤いエナメルのもの、ニシキヘビの革を貼ったもの、ぎらぎらと輝くエメラルドグリーンのもの……華奢な靴はどれもとても美しく見えたが、一番気に入ったのは真珠色のものだった。案の定、それはリマには小さすぎたけれども。


「化粧をしたことはない? あんた、どうやって髭跡を隠すか知ってる? 私、あいつらの化粧を横でずっと見ているからわかってるのよ。最初はオレンジの粉を使うの」


 作業机に化粧品を広げはじめたエスメラルダを眺めながら、リマはふと項垂れた。


「どうしたの?」

「煙が目に沁みて……」


 八角アニスの匂いが充満する小汚い楽屋の隅で、深く息を吸う。


「何が心配なの?」


 目頭を指先でぬぐって、かぶりを振る。


「おかしな話だけど、すこしほっとしたんだ」


 両肩から力を抜いて、ホセはぎこちなく笑みを作った。


「……お願いがあるんだけど」


 俺に名前をつけてよ、とホセは言った。「もう舞台に出るつもりなの?」エスメラルダは白い歯をみせて笑い、しばらくしてから、リマ、と言った。


「私、妊娠したのよね」


 エスメラルダが小さな声で囁いた。彼女が結婚したという話はついぞ聞かなかった、とリマはあとになって思い返すことになる。


「妊娠?」

「父親はどうでもいいのよ、この際。あんまりこの話をするとカカオが怒るから。それで、女の子だったら、リマかルピタがいいって、話し合って決めたのよ、わたしたち」


 長い爪の先で作業机の細かい溝をなぞりながら、エスメラルダがうなずく。

 リマ、とホセは呟いた。

 古い記憶が刺激された。

 ノートに隠れて描いていた絵のことが、ふわりと頭のなかに蘇ってきた。

 リマ。

 お前はそこにいたのか、とホセは思った。


 ――こんな近くに。


 「なぜ女装をするのか?」以前そんなことを仲間に問いかけた。答えは、ひとによって様々だった。「それが仕事だから」「別の自分になるために」「女に憧れるから」――ひとりひとりの答えをつぶさには覚えていない。明確な理由がない者もいた。そこにパンストがあったから。なりゆきで。リマも自信をもってこの道を選んだとはけっして言い切れない。陰気で臆病な彼は、いつだって自分の選択に自信を持ったことがなかったから。

 そして、自分を表現する上で、舞台ほど安全な場所はないと知った。そこに立つのはリマを装う自分であり、そうなりたいと願う自分だった。舞台の上でだけ、リマは楽に呼吸をすることができる。大抵の人が生まれたときから知っていて、自分だけが知らずにいたその方法で。


 寝台の上で目を覚ますと、隣の寝台では少年が眠りこけていた。リマは鞄を背負い、船室の外に出た。アグアルディエンテを食堂で一杯頼んで、隅の席に腰かけた。鞄から例の絵葉書を取り出し、短い鉛筆を左手で握る。綴る文字はいつも以上に線が乱れているが、もともとリマは筆記が不得意だった。発音記号はすぐに忘れるし、人がぎょっとするようなスペル間違いも多い。しかしたいした違いはなかろうと思えば、さして気にすることもなかった。

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