(二)

 サンギナリア・グランデと呼ばれる大湖沼が、海岸地方コスタの玄関口だ。その巨大な汽水湖に向かうための小型船舶ランチは、時代遅れの幌馬車をコンコルディアから丸一日かけて乗り継いだ先にある川港から、定刻より半日遅れて出発した。

 船に乗り込む前に買った挽肉の包み揚げエンパナーダをかじりながら、リマは甲板から暗い空を眺めている。どこかの高校リセオの学生たちが集団で乗り込んでおり、騒がしい夜だった。

 船室はどれも満室だった。通路に行くとカカオがその隅に置かれた椅子に陣取って、退屈そうに煙草を吸いながら、片手でくたびれた聖書をめくっていた。天井から吊されたカンテラの青い光が、揺れ移ろいながらあたりをぼんやりと照らしている。リマはその隣に腰を下ろすと、後ろポケットから取り出した鎮痛剤を口の中に放り込んだ。


「お前、コスタに行ったことがあるのか」


 錠剤を奥歯で噛み砕いて、カカオにそう問いかけた。彼女は首をひねり、どうだったか、と答えた。


「生まれは山岳地方だよ。霧と雨しかないところだった。でも、ずっと船に乗っていた。行ったことがあると言えばあるかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 聖書を閉じて、その革張りの表紙の上に手を置いてカカオが答えた。「ババアに育てられたんだ。で、ババアがいないときにうっかり廊下の蝋燭を倒して、そのまま家を全部焼いちまった」肩をすくめ、明るい声で続ける。


「ババアはカンカンに怒って、私が消し炭にした家の金勘定をして、この借金を返すまでお前には稼いでもらう、って言った。以来、川船の安い船室を借り上げては客を取ってたわけだよ。ババアが飽きて、私を片田舎の農村に売り飛ばすまで――今思い返しても頭のおかしいババアだった」


 カカオの声はいつも通り溌剌はつらつとしていて、ただのお喋りと同じように、廊下中に鳴り渡るモーターの駆動音のなかへと吸い込まれていく。


「お前なら、ばあさんを殺すくらいのことはしそうなのに」


 包帯の巻かれた右手に視線を落として、リマは相づちを打つ。「そうだな、殺せばよかったのに、なぜか思いつかなかった」とカカオが呟いた。


「ほんとうに一族の家を焼いた自分が悪いと思ってたんだよ」


 ずっと移動ばかりしていて、疲労が溜まったのか。しだいに抗いがたい眠気がリマを襲いはじめた。夢とうつつの合間から、カカオの声が聞こえる。


「農村に売り飛ばされてからは、そこを支配する準武装組織パラミリタリーの構成員になった。最初は無線係で、そのうち身代金を要求するために、あちこちでいろんな女子どもを誘拐するようになった。女がいるとやりやすいんだ、みんな油断をするし。人質の面倒を見るのも女子どもの仕事で」


 夢のなかで、リマは姉の姿を見た。こてでゆるく巻いた黒髪、光を照り返すチョコレート色の肌――美しい姉を。市場で買った色鮮やかなカトレアの花束を抱えた彼女が、日射しを避けるように路地を歩いている。それを、どこからかやってきたカカオが誘い出す。

 踊り場ミロンガで相手を申し込むときのようにそつなく、優雅に。

 花束が地面に落ち、どこからか潮の匂いを含んだ風が吹いてくる。

 ふたりは手を取り合って、くるくると、ゆっくりと回り出す。姉のまとった赤いワンピースが、波に揉まれるイソギンチャクのようにゆったりと揺れる。姉はうれしそうに、甲高い声で笑い、どこからか情熱的なボレロの演奏が鳴りはじめる……。


 ――坊やにあげるわ。

 これをつけている間は、女の子になったつもりで、おとなしくしてちょうだいね。


 リマがふと目を覚ましたとき、隣にカカオの姿はなかった。通路は未だ暗く、波音が遠巻きに聞こえていた。彼は握りしめていたガラスパールのネックレスを首にかけ、シャツの下にそれを隠し、厚手の上着を羽織った。肌にじっとりとまとわりつく、湿っぽく饐えた空気が充満していた。外の空気を吸おうと思って、リマは歩き出した。

 船室に面した通路では、同じように部屋を取れず、共同広間からもあぶれた人々が椅子に、あるいは地面に直接陣取り、荷物を大事そうに抱えて船を漕いでいる。足音を立てないように注意を払いながら進んでいくと、片隅にムラートの少女が裸足で座り込んでいた。

 少女はリマを見上げてほほ笑んだ。その口には前歯がなく、暗い空洞が見えた。


「どうして前歯がないんだと思う?」


 澄んだ声で少女が問いかける。リマは首を横に振った。


「男の人のちんぽをくわえられるようにって、お祖母ちゃんがペンチで抜いたんだ」


 大きく口を開き、少女がいくらかの金額をとなえた。リマは曖昧に笑って、「興味ないんだ」と答えた。代わりに靴を脱いで彼女に手渡した。

 それを受け取りながら、リマの足を見つめて「ふふ」と少女が笑う。


「親指が曲がっているんだね」


 ああ、とリマはうなずいた。


「合う靴がなかなか無いんだ」

「この靴じゃだめ?」

「その靴じゃだめなんだ。もっとしっくりくる靴じゃないと」


 リマは大柄ではないが、それでも自分の足のサイズや骨格に合った女性靴を探すのにはいつも難儀していた。小さい靴に無理矢理足を押し込むことも珍しくないため、親指も変形しかけていた。


「じゃあ、これは私がもらうよ。私には大きいけれど、そのうちぴったりになると思うから」


 そうかい、とリマはうなずいた。どこからか生暖かく、花の匂いに満ちた風が吹いてきて、つられるように視線を通路の出口へと投げる。あたりは朝まだきの群青に染まっていた。再度正面に視線を向けたとき、少女の姿は忽然と消え失せていた。

 裸足で甲板に出ると、水の匂いが鼻を突いた。船はマングローブ林に達し、そのごつごつとした根にぶつかっては座礁を繰り返しながら、遅々とした歩みで川を下っているところだった。透き通った水面を見下ろせば、汽水に浸かる木々の根元で、小さな、そして無数のイソギンチャクが揺られているのが見える。


 驚いたような船員の声につられてさらに下流へと目を向ければ、そこに海牛マナティの姿があった。

 地面の藻を食んでいたマナティは水のなかをゆっくりと浮上し、小刻みに震える船体に沿って川をゆったりと遡行してゆく。白い水飛沫が上がり、人魚を思わせるその豊満な肉体が水の流れに揉まれながら、払暁の光に当てられてきらりと輝き、ふたたび潜水する。

 曙光が徐々にあたりを照らし始めた。マングローブ林は色を塗り替えられたように徐々に淡い青紫色に染まり、次第にオレンジ色に変わっていく。リマが前方を見れば、遠くに川の出口が――三角江が滲んでいた。水面はエメラルド色から水色へ、深い青色へと複雑なグラデーションを重ねながら遠くまで続いていく。


 大湖沼サンギナリア・グランデ――海岸地方の入り口だ。

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