CHAPTER4 フエゴ・ヴェルデ

(一)

 むせるほどに濃い茉莉花ジャスミンの香りが、リマの意識を沼底からすくいとる。

 朦朧としながら誰かの名前を呟いた気がしたが、それが過去に出会った誰かの名前だったのか、実在しないまぼろしの名前を唱えただけだったのか、リマにはわからずじまいだった。気がつけば冷たい床に投げ出されて、目の前に力なく投げ出された自分の右手を眺めていた。

 器具によって潰された右手は骨が砕け、肉が露出し、もとの形を留めていなかった。


「もうどこへとでも行ってくれてかまわないよ」


 頭上から降ってわいた声に顔を上げる。ニエベスの姿があった。「必要なことは聞いたし、お前は無価値だから」やはり淡々と、抑揚のない調子で彼は続けた。


「サンセは……死んだのか?」


 何者だったのか? そう聞くつもりが、リマの口から漏れた別の言葉だった。


緑の火フエゴ・ヴェルデは人じゃない。ただの虫だ。人間と同じように喋って、感情を見せるけれども、脳機能は未熟で複雑な思考をそなえていない。人の形をとった幻想まぼろしにすぎないんだよ」


 ニエベスは壁に寄りかかり、吸いさしの煙草の火で新しい煙草に火をつける。燃えがらが床にこぼれ落ち、ほんの一瞬赤くなったかと思うと、長靴ちょうかの底ですり潰される。


「彼らはジャア=ツァンの山中に生まれ落ち、今に至るまで、何万、何億世代とまたがって放射能を帯びた特異な遺伝子を受け継いできた。緑に光る繭は、触れた者の細胞を内側から壊していく。繁殖のために一部を成体まで育てることはあっても、その寿命は一年くらいだ。卵を産んだら死ぬ儚い命だよ」


 そう言って、ニエベスは片方の手袋を外した。彼の左手は炭のように黒かった。


「その幻影にみせられて……あるいは蛹のまま茹でられ死んでゆく家蚕をあわれに思った奴がいた。家蚕は人の手によってのみ生かされるのに、愚かなことをしたものだ。そいつは殺されたけど、外にかえされたサンシェンの足取りはわからないままだった。『ホセ』の存在にはすぐに行き着いたけれど――まさか女装狂いになってるとは、父親も悲しむだろうね」


 「あいつは出来損ないだったんだ」その言葉に、リマは目を瞬いた。


「無精卵しか産めない。成体になる意味のないサンシェンだった」


 サンシェンは一種の記号のように扱われ、個体をあらわす名前ではないようだった。


「……懇切丁寧に教えてくれるんだな」


 ニエベスは「僕は親切なんだ」と肩を竦めてみせた。


「汚い女装男の言うことなんて、みんな狂言だと思うだけじゃないか。その図体で治安警察のところに行ったところで、オカマのお前が逮捕されて終わりだろう。それともここで殺されたかった?」


 リマは左腕を支えに、やっとの思いで身を起こした。


「……あいつは、俺のことが好きだと言った」


 息も切れ切れにそう呟いた瞬間、心腑しんぷが焼けるように痛んだ。


「でも、俺は自分より強い相手に認められることしか考えてなかったんだ」


 男は眉をひそめて、「虫に求愛されても不愉快なだけだろうね」と苦笑した。


「だけどね……サンシェンは、自分にふさわしい相手とつがいたがるんだ。瑕疵かしのないサンシェンの成体は優秀な人間に求愛しようとするし、その逆もしかり」


 その言葉に、リマは目を伏せた。頭の芯が冷えていくのがわかった。

 動揺をごまかすように、「こんな腕じゃ舞台に立てない」と呟く。


「両足があるじゃないか」


 つまらなそうにニエベスは答えた。



 ◇ ◇ ◇



 医者にかかった。男の膨れた乳房に目をつむる優秀な医者に。その見立てでは、右手はすっかりだめになってしまって、元通りにはならない。左手に頼る生活になるが、そちらに負荷をかけすぎてもいけない、という話だった。

 追い打ちをかけるようにコンコルディアでは夜間外出禁止令が出された。先日の治安警察による自由党市民の射殺事件が、市民の暴動にまで発展していたからだ。治安警察による監視の強化によって、劇場も夜の部を当分閉めざるを得なくなった。リマが自宅療養をはじめ、二週間が経過した頃の話だ。

 利き手を使えない生活は困難ではあったが、舞台で片腕を骨折した経験が活きて、そのうち慣れるだろうと楽観視することにした。それでも朝、ソファベッドの上で目を覚まし、包帯でぐるぐる巻きにされた右手を見るたび、夢の醒めるような気分になるのも事実だった。さらにはこの十年間、胸の奥に仕舞いつづけた過去がよみがえり、あの茉莉花の匂いをリマの意識の隅々にまで吹き込んでくるのだ。

 夜間外出禁止令が出て、カカオはすっかり仕事が無くなってしまった。そしてある日突然、何をするでもなくガラスパールのネックレスをいじっていたリマに対して、「出かけるぞ」と宣言した。


「出かける?」


 昼下がりのことで、窓からは爽やかな風が吹いていた。ラジオは音楽番組がかかりっぱなしで、それが情熱的なサルサを流しはじめたのに気付き、リマはスイッチを切った。

 カカオは家のなかをひっくり返し、小銭という小銭をかき集めながら言った。


「ここ最近の騒ぎで仕事はすぐにしょっぴかれるし、同居人はシケた顔して引きこもってるでまったく良いことがねえんだよ。海でも行かねえと気が晴れねえ。小旅行だ、小旅行」


 海――といえば、行き先は当然、海岸地方コスタだろう。

 コスタは一年を通して温暖な気候で知られている。観光客の集う保養地も多く、遊ぶのに適したビーチはいくらでもあった。リマはネックレスを首にかけ直しながら、断るつもりで口を開いた。どうせそんな金はないから、俺はやめておく――。

 思ったとおりの声は出てこなかった。代わりに、奥歯で鎮痛剤をかみ砕いたかのような淡い苦みがこみあげてくる。旅行をしたいという気持ちはすこしもない。あの美しい海と汽水湖の風景には、目をそらしたい過去や経験が堆積し、今となってはすっかり腐臭を放っているだろうから。

 しかし気が付いたときにはうなずいていた。カカオの指摘したとおり、家に引きこもってばかりなのは事実で、どこかで気持ちを切り替えたいという欲求があるのかもしれなかった。

 リマは自分自身にそう言い聞かせながら、水着を探さないと、と呟いた。


「上だけお前のを借りようかな」


 ふざけんなよとカカオが大きく舌打ちした。

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