エピローグ(下)「変わらない、愛」(完)

「アルシュラおじょうちゃま」

「わぁぁぁん!」


 母親のリルルを目がけ、はずまりのようにんできた女の子。そんな彼女かのじょをフィルフィナは無駄むだのない動きで行く手をさえぎり、おなかで受けるようにしてめていた。


「だめではないですか。お母様かあさまは今朝、赤ちゃんをお産みになったばかり。とてもおつかれなのでそっとしておいて差し上げねばならないと、申し上げたはずでしょう?」

「だって――――!!」

「あらあら、アルシューったら」


 元気に手脚てあしがついているような長女がわめく様子に、リルルが複雑なみをかべる。まだ三さいになったばかりの、聞き分けがない割には行動的に過ぎる年頃としごろへの、難しい感情があった。


「みんな赤ちゃんばっかりかまって、アルシューかまってくんない! つまんない!」

今日きょうはネクスおぼっちゃまが誕生されて、みなさんはそれをお祝いに来られているのですよ。主役はおぼっちゃまですから、仕方ありません」

「つまんないー! おかあさま、あそんで! フィルもあそんで!」

「先ほど申し上げた通り、お母様かあさまはおつかれですし、わたしはお母様かあさまわねばなりません。アルシュラおじょうちゃま、我慢がまんをしてください」

「やだやぁだ!」

「ああ、やっぱりこちらにいらした!」


 もう一人ひとりの気配が寝室しんしつもう――として、開けられたとびらの前で急停止した。あわてるようにとびらかげかくれ、息をはずませる声で呼びかけてくる。


 リルルたちとは全くちがう、深い青に近いむらさきはだを持つ十さいに届くか届かないかという風貌ふうぼう――魔界まかいに住む魔族まぞくの少年だ。軍服の雰囲気ふんいきを持つ重々しい正装が可愛かわいさとの印象的な差違さいを生んで、かれをますます愛らしい姿に見せていた。


「す、すみません! アルシュラお嬢様じょうさま面倒めんどうを見るように言いつけられながら!」

「いいのよ、ティコ君。あなたのせいじゃないわ。あやまるのは、わたしの方」


 お気に入りの少年の登場に、リルルはやさしく微笑ほほえんだ。


「アルシュラがげちゃったみたいね。この子、すばしこくてげ方を知ってるんだから。小さい隙間すきまうようにして走るでしょ。だれつかまえられないのよ。さ、入ってて」

「し、失礼いたします……リルル様……」


 深いはだの色が変わるくらいにほほを染め、ティコと呼ばれた少年は全身を恐縮きょうしゅくさせながら、ずと足をれた。


「アルシュラお嬢様じょうさま、リルルお母様かあさま邪魔じゃまをしてはなりませんよ。このティコのお願いです。お庭にもどりましょう」

「やぁだ! おにわ、ひとがいっぱいであそべないもん! あそびたい!」

「アルシュー、わがままを言ってはダメよ。フィル、アルシューを」

「はい」


 なみだぐみながらくちびるとがらせるアルシュラをフィルフィナは放し、リルルの元に寄せる。ぶようにして寝台しんだいってきたアルシュラの小さな頭を、リルルは胸で受け止めた。


「おかあさま!」

「ごめんね、アルシュラ。お母様かあさまがあなたをかまってあげられなくて。さびしいのね」


 母のぬくもりを求めて体をしつけてくるむすめ、それをやわらかく包む母――フィルフィナもティコも、数年前では考えられもしなかったリルルの大人おとなびた雰囲気ふんいきを遠い目でながめ、遠い気持ちにひたった。


 人は変わる。変わっていく――確実に。


「でも、ティコ君を困らせるのはいけないわ。ティコ君はあなたがいなくなって、心配して、一生懸命いっしょうけんめい探してくれたのよ。アルシュラはさびしいって思うの、いやでしょう?」

「いやー!」

「でしょ。ティコ君が困るのも、あなたがさびしいって思うのと同じでいやなことなのよ」


 夫のかみと同じ色をしたかみでながら、リルルはささやつづけた。


「アルシュラ。ティコ君の気持ちをおもってあげて。あんまりおいたが過ぎると、ティコ君はあなたのことをきらいになってしまうかも知れないわ……」

「いや! いやいや! アルシュー、ティコくんすき! きらいになられるのいや!」

「なら、ティコ君の言うことを聞かなくっちゃ。ティコ君はとってもやさしい子。アルシュラが悪い子にならないよう、本当に考えてくれているの。アルシュラがいい子になったら、ティコ君はあなたのことをもっともっと好きになってくれるのよ」

「うう…………」

「おじょうちゃま、お母様かあさまのお体がよくなれば、このフィルも遊んで差しあげます」


 うやうやしく頭を下げ、フィルフィナは言った。


「アルシュラおじょうちゃまは、いつものあの遊びをなさりたいのでしょう」

「うん!」


 ぱっ、と明るくさせた顔をアルシュラが上げた。なみだつぶはどこかにいってしまっていた。


「フィルは、アルシューのあいぼー! ティコくんはわるものやく!」

「あああ……またボクは悪者役ですか……」

「えっ? アルシュラ、あなたは何の役をするの?」


 めていないリルルが、ぱちぱちと目をまばたかせる。

 そんな母親に。アルシュラは満面の笑顔えがおで言っていた。


「りろっと!」

「――――」


 激しい風に吹き付けられたかのように、リルルの心が一瞬いっしゅん、空白になった。


「かいけつれーじょー、りろっと! アルシュー、りろっとになるのすき! ね、りろっとごっこ、してくれるよね!?」

「もちろん。お約束いたします、アルシュラおじょうちゃま。このフィルをお信じください」


 固まっているリルルの横で、まるで冷静なフィルフィナが深々と頭を下げる。


「またボクはアルシュラお嬢様じょうさまに布のけんでボカボカとたたかれるんですね……」

「ぼかぼかたたくの、やめる。ぽかぽかにするから」

「ああ……お手柔てやわらかにお願いします……」

「リルルお母様かあさまがお元気になられましたら、またみんなでお風呂ふろに入りましょう。その時はティコ君、リルル様のお背中を流して差し上げてくださいね」

「は、は、はひ、はひ――――」


 ほおの赤さを顔いっぱいに広げ、頭から湯気を立てたティコが反射的に気をつけをする。


「……さ、さあ、アルシュラお嬢様じょうさま、このティコと一緒いっしょに屋台を回りましょう。美味おいしい食べ物がいっぱいありますよ。ちょっとずつ、色々食べましょう」

「いや! たくさんずつ、いろいろたべる!」


 ティコに手を引かれ――いや、ティコの手を引いてアルシュラはパタパタと寝室しんしつを出て行く。くるったあらしが去っていった寝室しんしつの中で、リルルは半ば茫然自失ぼうぜんじしつとしていた。


「……リロットごっこって?」

快傑かいけつ令嬢れいじょうリロットにふんする遊びですよ。お嬢様じょうさま現役げんえきころからあったでしょう」

「それをわたしの実のむすめがやってるってことが問題なのよぅ」

「血は争えないということですね」


 残酷ざんこく台詞セリフをフィルフィナはいとも簡単に口にした。


「そのうち、お嬢様じょうさまが本物のリロットであったということにも気がつかれるでしょう。これで新しい後継者こうけいしゃが確保できたということですね。おめでとうございます」

はじだわ……」

嬉々ききとしてやっておいて、今更いまさらでしょう?」


 ――快傑かいけつ令嬢れいじょうリロット。

 王都に巣くう悪をはらう、薄桃色うすももいろ一陣いちじんの風。

 可憐かれんなドレスに身を包み、正義のレイピアをるう美少女剣士けんし――。


「いいではないですか。アルシュラおじょうちゃまもオルシェおじょうちゃまも、ご自分でご自分のなりたいものを探されるでしょう。お嬢様じょうさまは口出しをなさらないのですよね?」

「ぐ」

「いいではないですか。自由に生きられるというのは」


 ――自由。

 人の心を、胸を焦がさせる言葉。


「それに、政略結婚けっこんなどは決して強制するおつもりもないのでしょう。貴族の、王族の身分でありながら、それだけでも相当に自由なものですよ。人生の伴侶はんりょを勝手に決められる、それでどれほどの人間が心を痛めたことか」

「そうね……」

「――それで。もう、お子様は五人で打ち止めということですか?」

「あとひとりはしいわ」

「あとひとり?」


 首を傾げて見せたフィルフィナに、リルルはうなずいた。


「あとひとり、男の子がしいの」

何故なぜ?」

「……むすめたちはそれこそ自由に生きるでしょう。当てはめられるもの、しばられるものがないものね。でも、三人の息子むすこたちの道は半ばわたしたちが決めてしまった。だから、ひとりくらいは、心のままに生きていく男の子の姿を見たいのよ」


 リルルは背中の大きなまくらに背中をしずめ、天井てんじょうを見上げた。


「その男の子には、なんにも強制しない。家の名前もがなくていい。風にかれるように、雲が流れるように、自由に、自由に自分の生きる道を探してほしい。

 自分たちの、おもいのままに。

 ――決意と覚悟かくごを秘めて、この庭を旅立っていった、ねこさんの子どもたちの、ねこちゃんたちのように……」

「あ…………」


 フィルフィナの脳裏のうりに、十四年前の春、この庭から巣立っていった四ひきねこの姿が想起そうきされた。

 それはもう、ずっとかたぎたいほどの立派な後ろ姿だった――フィルフィナは熱をめて幼いリルルに語って聞かせたものだった。


 あの時、この庭をいで残っためすねこは、四年前に死んだ。十二さいを数えた長寿ちょうじゅだった。旅立っていった四ひきも、もう生きてはいまい。全部の兄弟が天の国に導かれただろう。


「あの旅立っていったねこちゃんたちがどんな最期を迎えたのか、知るすべもない……。でも、私は、私たちにはわかるわ。フィル、あなたもそうでしょう?」

「ええ、わかります。わたしは信じています」


 フィルフィナは言った。言い切った。


「あの猫たちは、たどり着いた新天地で懸命けんめいに生き、立派に死んだはずです。――誇り高くたっとい父親や、命懸いのちがけで自分たちを生んでくれた母親に少しも恥じないくらいに、見事なほどに……あの両親の血と魂を継いだのです。当然でしょう」

今頃いまごろみんな、天の国で遊んでいるのでしょうね……家族そろって……」

「きっと。わたしは信じます」

「――うん」


 リルルとフィルフィナは、少しの沈黙ちんもくはさんだ。天の国の様子をおもった。

 ふたりのおもいは一致いっちしている。天の国とは、このフォーチュネットの庭を再現した世界にちがいない。


 かつての子猫こねこたちは、この世ではえなかった父とめぐりい、母を加えた七ひきの家族で、永遠の喜びの中で暮らすのだ。この庭があの時、天の国そのものの世界だったように。


「あの猫の一族のように、己の心のままに生きる男の子、ですか……」

「もう、次にしい男の子の名前も決めてあるのよ。

 ――『ジュアー』」

「『ジュアー』……」

「永遠なる自由、という意味らしいわ。この名前、気に入ってるの」

「永遠なる、自由……ですか……」


 フィルフィナは口の中で微笑ほほえんだ。早くその名を、名付けられた男の子に呼びかけたいものだと思った。


「ですがおそらく、いえきっと、その前にもうひとり女の子を産むことになるでしょう」

「え……どうして?」

「今まで、男子、女子、男子、女子、男子と交互こうごだったではないですか。次は女子です」

「そんなものかしら」

「続くものですよ。女の子の名前も考えておいてあげてください」

「それについては、もう案があるんだけどね。ふふ……それはいいとして――」


 リルルの口から、ふぅ、と短い息がれた。


「じゃあ、もう二回はえるんだ……」


 いとおしげに記憶きおくをなぞる目が天井てんじょうを――天井てんじょうを屋根をかした空を見上げていた、


「昨夜も、いましたか」

ったわ。出産の前夜は、必ずいにてくれるもの。本当に律儀りちぎなんだから……。

 ――ねこさんは」


 リルルの顔が横に向けられる。うるんだひとみが、わきの小さなテーブルを見つめる。

 テーブルの上には、葉書大の写真立てが三枚、並べられていた。

 そのどれにも白い紙が納められている。線とかげで世界をなぞった素描スケッチえがかれている。


 五ひき子猫こねこと、リルルとフィルフィナが笑いながらたわむれている絵。

 父ねこと母ねこと、五ひき子猫こねこたちがうずを巻くようにしてねむっている絵。

 ――そして、あの、安楽椅子あんらくいすねむるリルルのひざで、体を丸めてねむる『ねこさん』の絵。


わたしが心配で、気遣きづかってくれて、その時だけ生き返ってくれるのね……ねこさん……」


 リルルが手をばし、それを察してフィルフィナが三枚目の写真立てを取り、わたす。

 おもの絵を軽くきしめ、リルルは、目の底に熱いなみだかべた。


「――その窓に」


 リルルの視線を追って、フィルフィナも視線を向けた。開け放たれ、心に染みる風を入れてくれる窓。フォーチュネットの庭を望む窓。


「子どもたちが生まれる前の夜……最初のアルスを生んだ時から、ねこさんはその一晩だけ生き返ってくれる。明日あした、おなかの子が生まれてくる、大丈夫だいじょうぶだろうか、この子は無事に生まれてくれるだろうか……不安になっている私のために……」

「…………」


 フィルフィナは、体験したことのないその不安に、目をくもらせた。

 出産が命懸いのちがけというのは、比喩ひゆではない。事実、リルルの母はリルルを産んだ時の肥立ひだちの悪さのためにくなった――ちょうど、今のリルルの年齢ねんれいで、だ。


 こうしてフィルフィナがリルルにっているのも、万が一を案じてのことなのだ。


「……そんなわたしの心に、ねこさんは気がついてくれるのよ。だから、心が乱れてねむれないわたしのために、天の国から下りてきて、一晩だけ生き返ってくれる……」

「はい……」


 それは、フィルフィナも幾度いくどとなく聞かされた話だった。


「ふっと気がつくと、いるの、ねこさんが。――昔、朝寝坊あさねぼうわたしを鳴いて起こしてくれた時のように、ねこさんがその窓のわくにしがみついて、顔だけを見せてくれていて……わたしのことを、じっと見つめてくれている……そして、ねこさんの声が聞こえてくるの……」


 なつかしさと喜びの色をしたなみだが、微笑ほほえむリルルのほおを流れ、落ちていた。


「――だいじょうぶだよ、心配ないよ。

 ぼくが見ているから。ぼくがついているから。ぼくが見守っているから。

 だから、安心して。リルル、元気な子を産んで。がんばって――って」

「…………」


 フィルフィナの心に、リルルの思いが再現される。そのまま見え、聞こえる。


「それで、気持ちがふわっと軽くなって……安らいで……気がついたらねむんでいて……朝になっている。おなかふくらんでなかったら、窓にるのに……ねこさんをきしめてあげたいのに、できない。いつも、できないの……」

「……あのねこは、お屋敷やしきの中には決して入りませんでしたから……きっと、もうとするとげてしまうのでしょうね……本当に、律儀りちぎねこでした……」

きしめさせてくれるだけでも、よかったのに……ふふふ……」


 なみだを、指ではらう。

 またいたい。めぐりいたい。

 愛するものに、いたい――。


「あのねこさんは、わたし守護霊獣しゅごれいじゅう。いつもわたしの側にいてくれる。わたしの心の中で生きている。……わたしが死んだら、天の国でえる……その日まで、生きるの。

 一生懸命いっしょうけんめいに、生きないといけないの。

 たくさんのしあわせをおみやげにして、ねこさんに、ねこさんたちにいに行くために。

 ねこさんや、ねこさんのおよめさんやねこちゃんたちが喜ぶくらいの、しあわせを……」


 きしめていた写真立てを胸からはなし、リルルは、完璧かんぺきに停止した時をふうめた素描スケッチに目を落とし、いとおしいものに笑いかけた。

 フィルフィナも、満たされた心で共に顔を寄せた――その世界を切り取った者として。


「ああ……」


 幼い少女が、あの時のリルルが、愛するねこひざにしてねむつづけていた。

 ――ずっと、ずっと、いつまでも、いつまでも。

 永遠という言葉の意味を音もなく歌い、音もなくささやくように。


 それは、決して解かれない魔法まほう

 記憶きおくという名の宝箱にしまわれた、大切な、おもという名の宝物を守るための――。


 そして、リルルはとなえる。唱えかける。唱え続ける。

 これから先、生きている間も、死んだ後でも永遠にうたうだろう、愛の言葉を。


「――ずっと、ずっと、いつまでも、いつまでも、大好きだよ……ねこさん……」

「にゃ」


 リルルとフィルフィナは、その声にいた。

 窓のわくに外から、一匹いっぴきねこがしがみついていた。

 灰色の毛をした、右の耳だけが真っ黒なねこが、こちらをのぞきこみ、見つめかけていた――。



番外編「リルルと、フィルと、ねこ」――完

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快傑令嬢 更科悠乃 @yunosukesarashina

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