放課後うどんは赤く甘く
一初ゆずこ
放課後うどんは赤く甘く
失態に気づいたのは、教室を出る直前だった。
『帰宅は遅くなります。
もう居残りの必要はないことを、母親に伝え忘れていた。
冬の足音が聞こえる十一月末。期末テストを控えたクラスメイトたちは、大輔を教室に残して三々五々に散っていく。廊下を行き交う一年生は、イーゼルとキャンバスを抱えた者が多かった。これから油絵を仕上げに行くのだろう。
美術の授業で『高校の風景を自由に選んで描く』課題が始まったのは先月で、提出期限は今週末。来週からは別の課題に進むので、現在の課題の完成度を上げたい生徒たちが、放課後に居残りをする流れが出来ていた。
大輔も、昨日までは彼等の仲間だった。屋上にイーゼルを立てたことを全身全霊で後悔しながら、寒空の下で懸命に筆を動かして、何とか提出に漕ぎつけたのだ。
「自炊か、外で買うか……うーん」
廊下を歩きながら、大輔は思案する。突き当りの階段が見えてくると、通りすがりの女子生徒たちが「雪!」と華やいだ声を上げてはしゃいでいた。
本当なら初雪だが、正面の窓に近づいてもよく見えない。大輔は、何気ない気持ちで窓を開けた。
その瞬間を狙い撃ちにするように、強い冷風が廊下に吹き込んだ。例年より遅く色づいた落ち葉まで、顔面に向かって徒党を組んで襲い掛かる。
「うわ!」
大声を上げて仰け反ると、背後から小さな悲鳴が聞こえた。急いで窓を閉めて、溜息を吐く。夕飯の伝え忘れの件といい、今日は厄日かもしれない。短髪に絡んだ落ち葉を払い、窓から離れる段になって、大輔はようやく先ほどの悲鳴の主に気づいた。
階段の手前で、小柄な女子生徒がへたり込んでいた。さらさらの黒髪を、緩く二つに結っている。名前は、一目見ただけで分かった。
階段のそばにはイーゼルとキャンバスが倒れていて、油絵具も散乱している。この高校のマスコットのような少女も、油絵の課題で居残っていたのだ。
「ごめん、びっくりさせたよな。拾うの手伝うよ」
「うん……」
立ち上がった
「バスケ部の、
「俺のこと、知ってるの?」
「うん。背が高いから」
南羽衣子から見れば、誰でも背が高いだろう。大輔は気抜けしたが、床のキャンバスを改めて見下ろして、さっと青ざめる。
キャンバスには、廊下から階段の踊り場を見上げた風景が描かれていた。踊り場の窓から入る日差しが、校舎を
油絵の窓硝子や階段に、ビビッドな赤色が散っていなければ。
無残なキャンバスの隣には、絵筆とパレットも転がっていた。落ち着いたトーンの色彩へ
――大輔が、驚かせた所為だ。とんでもないことをしてしまった。
「ごめん!」
「大丈夫、制服には跳ねてないから」
「いや、そっちじゃなくて!」
羽衣子は、絵画に散った赤色をじっと見つめて、心なしか凛々しく表情を引き締めてから、「何とかする」と答えた。
「香西くんの所為じゃないから、気にしないで」
「でも……」
羽衣子が許してくれても、このままでは大輔の気が済まない。どうにもならないと知っていても、羽衣子に言わずにはいられなかった。
「俺に出来ることなら、何でもするから」
その一言で、羽衣子の様子が変わった。もじもじと上履きの爪先に視線を落としてから、上目遣いで大輔を見つめてくる。
「一つだけ、お願いしてもいい?」
*
昇降口から延びる長い舗道を直進し、校門を出て右側に歩いてすぐの場所に、目的地のコンビニはあった。六時間目の授業が終わった直後は学生たちで混み合うが、ピークが一段落した今は空いていた。
店内に入った羽衣子は、カップ麺売り場に直行して、赤いきつねのうどんを手に取った。大輔がお詫びに
大輔も赤いきつねのうどんを持ってレジに並んだが、パッケージの赤い色にさっきの過ちを責められているようで気が滅入った。会計を済ませると、羽衣子はカップ麺に粉末スープを入れたところだった。
「三分じゃなくて、五分なんだね」
「ああ。学校に着く頃には食べられるよ」
「楽しみだね」
羽衣子は、嬉しそうにポットの前に立った。思ったよりも奥ゆかしい笑い方が、胸にくすぐったい温かさを拡げていく。南羽衣子のこういうところが、クラスメイトたちから可愛がられる
――カップ麺を食べるのに付き合ってほしい。それが、羽衣子の『お願い』だった。
床の油絵具を拾い集めて、廊下の落ち葉を二人で掃除しながら、羽衣子は恥ずかしそうに、次第に吹っ切れたのか、至って真面目な声で言ったのだ。
『
確かに大輔は、今日の羽衣子のように美術の課題で居残った際に、友人と連れ立ってコンビニに行き、湯を注いだカップ麺を学校に持ち帰ったことがある。
『あれを見た時に、羨ましくなって……私、絵を描くのが遅いから、いつも学校が閉まるぎりぎりまで残ってて。おうどんを食べたら、もう少しがんばれる気がする』
小さな両手をぎゅっと丸めて、羽衣子は気合を示した。その姿が不覚にも可愛くて、大輔は自分がおかしな表情をしていないか心配しながら、羽衣子の頼みを引き受けた。
『いいよ、俺で良かったら。ちょうど食べて帰ろうと思ってたし』
*
安請け合いしたものの、このミッションは意外にも難易度が高かった。
羽衣子が周囲から目を掛けられている理由は他にもあると、大輔は一緒に歩き始めて五秒で悟った。湯を注ぎたてのカップ麺を両手で捧げ持った羽衣子は、うどんのつゆを零さないことに全神経を集中させていて、ローファーの爪先を何度も舗道の凹凸に引っ掛けた。そのたびに当然ながらカップ麺も揺れるので、大輔はハラハラしっぱなしだ。つまり、放っておけないのだ。
羽衣子が
「自分で持つ」
きりっとした表情で言い張られては、決意を
「南さん、校門の段差に気をつけて」
「うん」
「南さん、前から人が」
「ありがとう」
「南さん、昇降口の階段がもうすぐ」
「大丈夫」
「南さん」
「香西くん、前。昇降口の扉、閉まってるよ」
「あっ」
大輔が昇降口の扉にダイブしかけるというハプニングを除けば、何とか順調に進んできた。最後の難関の階段を、二人で慎重に上がっていく。
手の中で熱を持つカップ麺は食べ頃で、目指したゴールもすぐそこだ。校舎は段々と暗くなり、蛍光灯が作る影が夜の色を帯び始める。ついにイーゼルのそばまで辿り着くと、一世一代の悪だくみを成し遂げたような達成感に包まれた。二人で笑い合う囁き声が、
「ねえ、教室で食べる?」
「いや、もう遅いから閉まってるだろうな」
「じゃあ、ここで」
階段に並んで座り、カップ麺の蓋を
「あ、雪が降ってる」
「え? ああ、本当だ」
今度は、大輔にも見えた。蛍光灯の光をぼんやり跳ね返す窓の向こうで、ちらちらと粉雪が舞っていた。己の失態を思い出して、ほろ苦い笑みが零れる。
「そういえば、雪を見ようとして窓を開けたんだった」
「窓……落ち葉。そっか。何とかできる」
カップ麺を階段に置いた羽衣子は、足元に一枚だけ残っていた落ち葉を拾い上げた。次に廊下の隅に寄せていたキャンバスに近寄ると、赤い絵の具が跳ねた油絵に、そっと落ち葉を重ねた。大輔も、意味を理解した。まだ胸の中に残っていた罪悪感を、うどんの温かさが溶かしていく。
「
「そっか。ああ、良かった……いや、俺が悪いことには変わりないよな。ごめん」
「ううん。前の絵よりも、今の絵のほうが好きになれる気がする」
羽衣子は階段に座り直すと、
「香西くんのおかげだね」
どきりと、心臓が弾んだ。自分がおかしな表情をしていないか、二度も心配になるとは思わなかった。
「あったかいね」
「うん、そうだな」
何故か頬に集中した熱をうどんの湯気の所為にして、油揚げに
今日は、とても良い一日かもしれない。
放課後うどんは赤く甘く 一初ゆずこ @yuzuko
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