亜人社会

律華 須美寿

亜人社会

 思い返すまでもなく、私、平沢薙子の人生とは『なるべくしてそうなった』人生であった。


 親から幼稚園に入れられたときは園の先生たちの話を聞かず勝手にそこらをフラフラ放浪して回っていたし、小学校に入ってからは授業を受けることより図書室の本を読み漁ることに心血を注いできた。

 そんな生活が板についていたものだから、中学からの勉強には正直言って全くついていけなかった。どんどん落ちていく成績の数値にさすがの親も肝を冷やし、私を塾へぶち込んだ。しかし親には一つの重大な見落としがあった。それで勉強するよう生活が変化するのなら、端から勉強など一人で出来ていたはずなのである。当然私は塾など行かず、好き勝手に街を闊歩した。気が向いた店に入り、気に入ったものを買ったり食ったりした。すぐに貯金が尽きたが、それと同時期くらいに私は塾をやめさせられた。代わりに家庭教師にピッタリ勉強を管理された。

 そうこうやって何とか高校に進学してからも、私は人の話をあまり聞かないまま育っていった。高校は赤点ギリギリで一応卒業した。大学は何度か留年した。就活は失敗した。親からは勘当されかかった。

 仕方がなかったので、フリーターをしながら就職先を探すことにした。しかしこんな使いづらい女を受け容れてくれるような心の広いところなどそうあるわけもなく。私は生活の安定しないフワフワした人間としてフワフワと生活していくこととなった。

 そのときつくづく思ったものだ。人生とは、なるようにしかならないものなのだと。これまでの人生で積み重ねてきたものの中から生えてきて、勝手に咲いた花こそがその正体なのだと。

 しかし同時に、私は気づかされたのだった。

 花の種とは思いもよらないところから飛んでくるものなのだと。

 平沢薙子。二十七歳。

 職業、小説家。


 都内某所の、とあるファミレス。時刻は午後の一時を少し過ぎたころ。時間帯としてはまだ昼飯時だ。客の入りもそこそこ。ウェイターの早歩きもそこそこ。盛況なようで大変よろしい。

 そこのとある四人席に、私たち二人は向かい合って座っていた。

 若い男女の二人組だ。とはいえ私たちは別に付き合っている訳ではない。結婚など以ての外だ。単なる他人。他人が二人で、二人組。別にそれ以上の親密さはない。

 しかし本当に交流がないのかと言うのならそれはまた別の話であって。私たちはお互いの名前は知っているし、電話番号も知っているし、メールのアドレスも知っている。つまりは完全な他者同士ではないということだ。

「…………あのさぁ」

 そんな微妙な関係性で繋がった私たちを表すのに最も相応しい言葉は一つのみ。仕事仲間だ。この言葉は良い。相手が自分と同じ組織に関係し、また同じ目的を共有してはいるが、決して深い中にはないのだと強調することが出来る素晴らしい表現方法だ。この言葉を最初に考えたものを賞賛したい気分だ。

「……何でしょう」

 しかし、そんな浮かれた心の声とは裏腹に、私の表情は全く晴れない。原因はわかりきっている。目の前のこの男、私に専門でくっ付くことを命じられている、出版社の使いたるこの男のせいだ。

「いや、何でしょうって……ねぇ……」

 わずかに眉を歪ませながら、口の端を引きつらせる。

「何? 今日は。 ……私との打ち合わせはそんなにイヤかねぇ?」

 なぜこいつは、こんなに『キモチワルイ』のだろうか。

 いや、いつもは違う。もう少しマシだった。社会人経験の乏しさゆえのボンヤリとした頼りなさを前面に押し出しておいて、その奥から遊び人特有のチャラチャラしたウザったさを見え隠れさせているこの男のことは正直あまり好きではなかったが、今日のこいつの雰囲気と比べればまだマシだ。

 この違和感。不信感。

とてもじゃないが、同じ人間が纏う空気だとは認められない。

 しかし困ったことがもう一つ。

「いえ……? 別に、そんなことはないですが……?」

 こちらを見ながらわずかに首を傾けるその姿形からは、彼との相違点はほとんど感じられないのだ。私の記憶の中にある彼がそのままここにいる。間違いない。

 例えばあのリクルートスーツなどどうだ。就活に合わせて買った奴をそのまま使っているものだからどことなく使い込まれた雰囲気を醸し出している。決して昨日今日で用意したものではない。あのネクタイも見たことがある。正装したキャラクターのイラストなんかでありがちな赤いネクタイ。正直全く似合っていないのだが本人はどことなく誇らしげで、わざとらしく私の目の前で締まり具合を調節してきたこともあった。何も変わったことはない。いつも通りだ。

「あ、そ。 ……それはそうと、さ」

 ただ一つ、違うところがあるとすれば。

「飲まないの? コーヒー」

 彼の手元に、白いカップに満たされた黒い液体が置かれていることだろうか。私の知る限り、彼はコーヒーなど飲まない。大体いつもウーロン茶かオレンジジュースを飲んでいる。ウキウキとメロンソーダを注いできたこともあった。これにアイスクリームを乗っけてメロンソーダ・フロートを作るのだと笑っていた。子供か。とは言わなかった。

 そんな彼がブラックコーヒー。

 思えば、おかしい。

「それを言うなら平沢さんもでしょう」

 私の視線から守ろうとするかのようにコーヒーをわずかに引き寄せつつ、一言。その目線は射るようにまっすぐに、しかし淀んだ湖のように沈んだ曖昧さで私の手元の皿に注がれていた。

「冷めますよ? ピザ」

 確かに。

 視線を下に向けるまでもない。私の手元には握られたままで数分間放置されたマルゲリータ・ピザのひとかけが存在している。細長い直線の辺を二つに、一つの短い弧を持つ変則的な三角形。いかにもな形状をしたイタリアの料理。正確にはそれを日本人向けにリメイクした食べ物。それがそのままで。皿の上にも残りが存在している。ちょうど口を広げた子供の横顔のような形の、いびつな円を形成するピザの残りが、そのまま。

 早い話が、このピザに私はほとんど口をつけていないのだ。注文するときまでは感じていた猛烈な食欲を今は感じていないから。

 原因は明白。注文してから料理が来るまで。そのわずかな間にこの男が纏う雰囲気が変化してしまったから。普段の気持ち悪さから、未知のキモチワルさへと、一瞬で。

 何がきっかけだったのだ?

 脳内の私に問いかけながら、握りっぱなしだったピザを喰らう。チーズが冷えて固まってきている。ソースが渇いてべたついてきている。あまりおいしくない。でも仕方ない。そのままもう一口。

「……んん……」

 三口目に取り掛かる。わからない。そうやすやすと答えなど帰ってくるはずがない。脳味噌への交信を諦めつつ、口の中身をごくりと飲みこむ。わかっていることは一つ。こいつの態度が変化した、そのタイミングについてのみ。

 たしかこいつは一度お手洗いに向かったはずだ。今朝から腹の調子が悪かったとかなんとか言いながら。私がいつも通りにピザを頼もうと店員を呼びつけたとき、彼は席を立ったのだ。狭い通路を店員と入れ違いになりながら消えていくこいつの背中を、私は確かに見送った。

 それからほんの数分でこいつは帰ってきた。帰って来るなりコーヒーを注文した。珍しいこともあるものだと目を丸くしたことも覚えている。

 あのときからだ。間違いない。こいつの態度が変化したのは、間違いなくそこからだ。つまりトイレで何かがあったのだ。こいつの在り方を変えてしまうような何かが。そのときに。

「…………」

 つまり今考えるべきは彼の身に起きた事件についてだ。そこまで行く頃にはすでに、手元の三角形はきれいに姿を消していた。もう一つ拾ってきて、がぶり。味は全く変わらない。

「……………………」

 仮にも立派な成人男性が、それ一つで心持すら変化させてしまうような重大事件とは何だ? それも起きた場所はファミレスのトイレの中。事件が起きるにはあまりに限定され過ぎた空間。ハタチを超えて用足しに失敗したか? 否、流石に思いつめすぎか。尤ももしその通りだったのだとしたら、それはそれで大問題ではあるが。

 であるのなら、他には何が。

「……ねえ、キミ。 ……え~と、何て言ったっけ」

「言ってません」

 おうそうかい。名前忘れて悪かったね。

「それならそれでいいや……あのさ、単なる興味本位で聞くだけだけどさ」

「何でしょう」

 ここで一息。頭に浮かんだ馬鹿げた言葉を繰り出すべく心の準備を。

「キミ……もしかして女より男が好きなタイプ?」

「…………はい?」

 帰ってきたのは間抜けた疑問符と、首を傾げた無表情の男の顔だけ。質問失敗。問題増加。何もかも間違えた。

「あ~……うん。 気にしないで、ホントに。 ちょっと気になっただけだから」

「……はぁ……」

 瞬き一つせず。彼は曖昧にうなずいた。

「…………」

 そしてそのまま、視線を手元のコーヒーへ。

 もう湯気も立たなくなった白磁のカップへ。

「…………」

 仕方がないので、私の視線もピザに戻る。

 しかし困った。これでは状況がまったく変化していない。この場に居座る違和感についてまるで何もわかっていないままだ。変化したのは私のモラルについての認識であり、判明したのは彼が同性愛者である可能性は低いという事実だけ。事件の真相と私への信頼は遠ざかるばかりである。

 これでは駄目だ。全くよろしい点がない。

 だからといってこのままという訳にもいかない。この先もおそらく、私はこの男と共に仕事をしていかなければならないのだ。どうやら私の担当編集の任に付ける人物とはこの男以外にはいないらしかった。妙な律義さと常識的観念と、ノリを重視するいい加減さを奇跡的なウザさで両立していられるこの男以外には、誰一人。

事実、私の下にはこいつの前にも数名の人物が担当としてやってきているが、私は彼ら彼女らの全てをものの見事に追い返してしまっていた。私が何かしたという自覚はまったくないのだが、どうにも私の隣の席とは居心地が悪くて仕方がないらしい。アクセルの吹かし方が悪かったのか、はたまたブレーキの踏み方が強すぎたのか。問いかけようにも当事者たちは二度と私の前に表れてはくれない。実家の住所までは知らないので、連絡も取れない。

では、私は一体どうすれば? こいつを振り落とさないためにはどうハンドルを切れば良い?

「…………」

 勝手に追いこまれ、勝手に窮地に立った私の視線が忙しなく揺れる。この場をじわじわと支配する不気味な静寂。そこに君臨するこの違和感の塊が放つ確かな重力に押しつぶされてしまいそうだ。

「あのさ……ホントにどうしたんだい。 何かあったの……?」

 堪えられなくなって、口が半ば勝手に動く。

「だから、何でそんなこと聞くんです」

「何でって……あのねぇ……」

 一度動き出してしまったらもう止まらない。心の中を満たしていた違和感への恐怖心と苛立ちが、堰を切ったように溢れ出してくる。

「こんなこと言たかないけどさ……。 なんか気持ち悪いんだよ今日の君。 特にトイレ行った後! いつもの君らしくない! 超キモい! ……大体なんだよそれ! 何でコーヒーなんて後生大事に抱えてんだよ!」

「…………」

 言いたいことは言ってやった。目の前の男はじっと黙り込む。周りの客が一斉にこちらを見るのが気配で分かった。数秒間だけこの場を包み込む静けさ。それがやがて崩れ、空いたニッチに騒がしさが収まり、またいつも通りの騒々しさが場を支配する。

 そこまできても、彼は。

「…………」

 頑なに頑なに。こちらを向いたまま押し黙っていた。動くことのない表情筋をぶら下げて、虚ろなのに力強い瞳で私の目玉を貫きながら。頑なに。

「……なんだよ」

 さすがに怒ったか。わずかに身を固くしながら問いかける。彼からしたらこの状況、私は勝手に騒ぎ出しただけの女でしかないのだろう。抗議の言葉の一つや二つ、心のうちに抱えていたって何らおかしなことではあるまい。

「……仮に、ですが」

 しかし、彼はしゃべりだした。

「もし仮に、今の私が『らしくなくて、気持ち悪い』のだとしましょうか」

 突如饒舌に。私の心配など無視するかの如き淡白さで。

「あなたはなぜ、そのように感じられたのでしょうか? ……私が普段注文しない飲み物を手にしているからですか? 普段と口調が違うからですか? それとも、普段のように能天気に笑わないからですか?」

「それは……」

 本気で言っているのか。胸の奥に帰還していた怒りが、再び肌の表面に出現する。そいつに操られるように、両の眉毛が真ん中に寄っていく。右手が髪の側頭部を掻き分け、頭皮を乱暴にかきむしる。

「何です」

 そこで初めて指にソースが付いたままだと気づいたが、そんなことを考えている場合ではない。目の前の男が答えを促してくる。やや前屈みになった姿勢で、相変わらずの無表情を接近させて。

 なので答えてやる。一切の忖度なしに。

「全部だよ、全部。 ……君がコーヒー飲んでるのなんて見たことないし。 ……全く別人だよ。 態度も表情も。 ……これが気持ち悪くない訳が……」

 そこまで言って、口を紡ぐ。

そういえば、私は彼の『何』にここまで追い詰められているのだろうか。確かに今のこいつは普段と比べて目立つ言動が多い。逆に普段のように強調された言動が姿を見せてこない。

しかしそれだけだ。思い返さなくても確実に、私はこいつから明白な敵意を向けられていない。確かな攻撃も受けていない。すべて私が自発的に考え、勝手にたどり着いた意見による不気味さなのだ。原因も結果も、すべて私。ただ目の前に、切っ掛けの一端があるだけ。

それだけのことで、私は。

私はこいつを糾弾するだけの権利があると言えるのだろうか?

「…………」

 こいつに対して、糾弾されるだけの行為をしたと判を押すことが出来るのだろうか?

「………………」

 もはや何も言えない私を尻目に、何を考えているのか彼はこちらに視線を向けたまま押し黙り続けている。黒目の中には何も映ってはいない。さながら昆虫の目だ。人間には理解できない思惑の渦巻いている瞳だ。

 とてもじゃないが、見つめていたい代物ではない。漠然とした恐怖心をあおる色の目だ。

「……………………」

 でも。なぜか。

「…………」

 私は視線をそらせない。

 こいつの目から、逃れられない。

「……お前」

 やがて自然に、本当に自然に。何の突っかかりもなく、するりと唇から言葉が滑り出てきた。

「誰だ……? お前は……。 『お前』。 ……私の知ってる『お前』じゃないな……?」

「…………」

 じっとりとした汗が頬を伝い、手の甲へ落ちる。ピクリと指先が跳ねる。指の関節が鳴る小さな呻きが聞こえた。

「誰か……ですか」

 ぽつり。とそいつは口を開く。周囲の喧騒に容易に溶け込むその声は、私にだけは確かにはっきりと聞こえた。私の耳が、一言も言葉を聞き逃すまいと集中していることが自分で分かる。

「名前は戸川隼。 生まれは1996年4月16日。 牡羊座。 血液型はB型」

 相変わらずの抑揚のない声が、モールス信号のように一定のリズムで押し出されてくる。その内容は今更疑うまでもない。こいつのプロフィールだ。私がかつて聞かされたはずの名前と生年月日。私が忘れてしまった、個人情報。

「趣味はゲームセンターへ通うこと。 好みは格ゲー。 好きな音楽はロック。 好きな漫画は少年誌のバトルもの。 王道的に熱い展開が多いほど好印象」

 続いて口に出すのは、私も一度も聞いたことがなかったこいつの趣向についてだ。仕事の上では何度も会っているし、食の好みくらいはいい加減把握していたが、こんなプライベートな内容については全く知らなかった。というか、知りたいと思わなかった。

 そんな私をあざ笑うかのように、こいつの独唱は続く。

「毎朝5時には起床し、朝食前にはストレッチを行う。 そうするとお通じが良くなって調子も良くなる。 朝食は菓子パン。 甘いパンは脳の養分をたくさん含んでいるから良い。 家を出るギリギリまで寝間着は着替えない。 スーツにしわが付くことが嫌いだから」

 いつまで続ける気だ? 額に次々と汗の玉が浮かんできては、流れて消えていく。それが見えているのかどうなのか。コーヒーを両手で握り締めたまま、こいつはじっとこちらを覗き見る。ぽつぽつと軽快に、抑揚なく、こいつの個人情報が開示されてゆく。

 他人事みたいに、事務的に。機械的に。

「通勤手段は電車。 満員電車はもう慣れたので何とも思わない。 時々女子高生のお尻に触れるのでむしろ幸せ。 仕事は憂鬱だが仕方がない。 社会的地位を失うことの方がもっと怖い。 定時を少し過ぎたあたりで頃合いを見て会社を出る。 家とは逆方向へ三つ駅を跨いだところに馴染みのゲーセンがある。 大学生時代から通っている。 名前は……」

「やめろ! もういい、やめろ!」

 もうたくさんだ。机に両手をついて立ち上がる。再びの私の大声には、もう周囲の人々はなんの反応も示さなかった。喧騒は、大河の如く途切れることを知らない。

「もういいよ、そんなもの! 違うよ! 私が知りたいのはそういうことじゃない!」

 同じく私の激情も途切れることを知らないようだった。話の通じないことに怒っているのか。はたまた声の無機質さに恐れをなしているのか。最早自分で自分の感情が分からなくなっていた。

 ほとんど唯一理解できたこと。それは絵空事めいた真実だけだった。

「違う……とは?」

「それは……! それはお前が……!」

 目の前のこいつは、仕事仲間の編集者、戸川隼ではない。

「……お前が『どこから出てきた化け物』なのかって! ……そういう話だよ……!」

 それどころか、人間ですらないという事実だけだった。

 日常的な個人情報をこれほど事務的に無感情に蓄えている。そしてそれを披露することになんの抵抗もない。何も恐れていないし、何の駆け引きも行おうとはしていない。

こんな人間がいてたまるか。

 これが化け物の所業でなくて、何だと言うのだ。

 目の前に佇む確かな異常性。私を包囲し追い詰めてきた違和感の確かな正体。予想外の事態に私の心は完全に平静さを失っていた。激しく波打ち荒れ狂う海のように。落雷の嘶く森林の只中のように。心の大地に平穏の地は全く残されていなかった。

 しかし。それでも。

「……個人の特徴と離れた行為を取れば、すぐさま見抜いて警戒する癖に……」

 目の前の『戸川の姿をした何か』は、一切の人間らしさを見せることはなかった。ただただ無機質に、しかし活き活きと。機械的反応を思わせる動きで、ぬるりと私に顔を近づける。

「……個人情報を正確に述べれば、さらに明確に嫌悪感を露にする……」

 立ち上がったこいつの背丈は、私の知る戸川と全く同じだった。

「人間は、どうやって他人を識別し、対応しているのだ?」

「…………」

 答えることなんて、できなかった。

 それは決して、答えを知らなかったからではなかった。

 それを許さぬ無形の気迫が、戸川の皮を被ったこいつから、放たれていたから。

「……お前……お前は……」

 それはこいつが初めて見せた感情。

 明確な苛立ちの感情が、私の目を射抜き、脳みそに食らいつき、心に侵食してきていたから。

「…………」

 なんの前触れもなく戸川が動き出した。通路に出て、そのままずんずん歩き出して、店の出口に近づいてゆく。

「あっ……お、おい!」

 思わず追いかけ、呼び止める。

「……」

 それすら予知していたとでも言わんばかりに、ぴたりと戸川の背が止まる。

「お前……つまり、お前……お前は……」

 つまりお前は、何なのだ。その質問が出てこない。問いかけても答えはないと、本能的に悟っていた。

 それで解決するなら、端からこんなことにはなっていない。

 それに。

「平沢さん」

 ぐるりと上半身だけをねじって振り返ったこいつの姿。それは。

「コーヒー代、お願いします」

 完璧に正確に、戸川隼その人だったのだから。


 どこまでも奇妙で不可思議な体験。押し付けられるだけの非日常を一方的に押し付けたてきたそれは、こちらの反応などお構いなしに、言うだけ言って文字通りさっさとこの場を立ち去っていってしまった。そしてテレビのチャンネルを変更するかのように唐突にすんなりと、私の眼前には平常な世界が帰還を果たした。トイレの中から『本物』と思しき戸川が現れたのだ。曰く、腹痛が全く収まらずなかなか出てこられなくなっていたのだと。出すものは出したのでもう平気だと能天気に笑いつつ、こいつはいつも通りにドリンクバーからメロンソーダを持ってきた。

 すべてがいつも通りに、滞りなく歩き出した。少なくとも見かけの上では。

 しかし私は思うのだ。あの『戸川のようななにか』が現れたこともまた、私の人生の上での『なるべくしてなった』現象の一つだったのではないのかと。私は出会うべくしてあいつに出会い、こいつはまた、そうなるべくしてあのときトイレに席を立ったのだと。

そして見事に入れ替わり、互いの姿を見ることなく時間を過ごした二人の戸川もまた、そうなることが定まっていたから互いに干渉しなかったのだ。少なくとも、目の前のこの能天気な戸川は自らのドッペルゲンガーの姿を知らない。

「そういえば平沢さん、こないだのアレは何だったんすか?」

「なにが」

「なにがって、そりゃあ……」

 そうでないと、私はとてもこの事実を受け容れることが出来そうになかった。

「出版社の近くでばったり会ったじゃないですか~。 二、三日くらい前に。 ……平沢さんも缶コーヒーとか飲むんだなーって思って、ちょっと意外だったから……。 一口も飲んでなかったみたいですし、正直、なんかちょっとキモチワルかったですよ。 あのときの平沢さん」

 この世界には、どうやら巧妙に潜んでいるらしいのだ。自分と同じ顔の他人が。人間のふりをして。

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